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太平洋戦争中、“第二の国歌”といわれた軍歌「海行かば」に作曲家・信時潔のキリスト教信仰

原稿書きました。

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戦争経験者に聞く戦後70年(5):特攻兵器人間魚雷「回天」隊員からイエズス会士へ 大木章次郎神父の信仰と倫理と戦争

記事を書きました。

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練馬区立美術館「舟越保武彫刻展―まなざしの向こうに」を訪ねて 信仰と静謐な美

記事を書きました。この夏、本当にお勧めの展示です。

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戦争経験者に聞く戦後70年(2):北朝鮮伝道から敗戦、3人の子と逃避行 笠井政子さん(99歳)の「私の出エジプト記」と「100年の信仰」

戦後70年に当たり、戦争を経験した方々にインタビューしたシリーズの2本目です。

戦争経験者に聞く戦後70年(2)

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戦後70年 太平洋戦争とキリスト教を考える 執筆記事から 「海軍将校として戦艦「霧島」で戦い、戦後牧師に 後宮俊夫牧師の語るキリストの平和

戦後70年ということで、キリスト教と戦争についての記事を集中的に書いています。

 

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(取材ノート1)7月15日若松英輔氏講演 (ジュンク堂大阪本店) の書き起こし。

以下記事を書きました。残念ながら字数の限界がありましたので、以下、記事からこぼれてしまった全文テープからのおこしを添付します。(約1万1千字)

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今日ここに来る前に中ノ島の公会堂に行きました。昼間、法案が通りました。平和とは何かを考えたいと思ったからです。日常における平和とは何かを、内村鑑三から考えたい。内村は1919年1月17日に中島公会堂で講演し、2000人もの人が集まった。

内村はそこで再臨を語った。再臨とはキリストがまたそこに来るということ。

キリストが何らかの形で現れる、と内村鑑三が話したときそれだけの人が集まった。

 

そこで内村はこんなことを話した。

「キリストの再臨はただキリスト信者に関わる問題ではない。世界万民にかかわる問題である。国という国、人という人にして、この問題に対し深き興味をもたざる者としてではないはずである。戦争絶対廃止にかかわる問題である。さらに進んで人生のすべての悲哀、すべての苦痛、しかり、死そのものの廃止にかかわる問題である」

 

絶対的な戦争廃止と、人生のあらゆる苦しみと悲しみがなくなるということ、それがキリストの再臨ということとして話した。それが95年前、この地大阪だった。

1919年とは、どういう年か。1917年に第一次世界大戦にアメリカが参戦する。

内村は札幌農学校キリスト教になりました。同級生には新渡戸稲造や、日本で植物学をつくった宮部金吾などの大変な秀才が集まったところだった。内村は首席で断トツの秀才だった。しかし、一方では、

理性では理解できないような教祖的な人物でもあった。

 

彼が信仰を深めたのはアメリカだった。内村には当時のアメリカは絶対平和の国だった。あのアメリカが戦争をするなんてというのはものすごいショックだった。内村はもうこの世の中は終わりだ、戦いが始まるんだと思った。事実そうなった、それが100年後の今もつづき我々はその中を生きている。

 

内村はその中で、どうやったら戦いがなくなるだろうかと考えて再臨運動をする。

1年間で63回の講演を行い、中の島の講演がほぼ最後だった。

今日の我々からすると一見ほぼ無力で、愚かしくさえ思われる行動だった。

これだけ武器が売買されるなか、大真面目にキリストの再臨と絶対平和を訴える人がいた。

その意味をまじめに考えてみたい。

 

我々が今これが有効だという考えをすべて試みても今の政治状況は変わらないだろう。今日デモにいくという手もあるだろう。しかしおそらく大きな変化はない。

すると我々は我々が考えたこともない形で平和を実現させなければいけない。

そして「非戦」という言葉を今日持ち帰っていただきたい。

 

非戦とは「戦いに非ず」

今日本で問われているのは、どういう場合に戦争は許されるか?ということ。こういう場合には集団的自衛権が使われるのはしょうがいないという議論。

しかし内村は非戦、どんな理由があっても戦ってはならないという考え方、生き方、その非戦の力強さを考えたい。

非戦という言葉を最初に使ったのは痛切では内村とされるが、実は、幸徳秋水大逆事件で殺された人物。大逆事件は1910年に発生し、1911年に処刑された。

幸徳秋水は1900年に「非戦争主義」ということを言い始めた。内村はまだ非戦を唱えていない。

戦争は場合によっては起こりえるかもしれない、と書いている。日露がはじまろうという頃。1903年になって内村は、絶対戦争はだめだという立場になる。

 

幸徳秋水は「共産党宣言」を訳した人物であり、日本で最初の共産主義者であり社会主義者だった。その後に内村は非戦を唱えた。

日本における非戦は宗教から出たのではなく共産主義社会主義から出た。幸徳秋水は激しく批判された。「共産党宣言」もすぐに出版差し止めになった。

幸徳秋水の主著『帝国主義』に序文をよせているのが内村。

現在からみると唯物論キリスト教はぶつかりあうように思える。しかし内村の時代は違うし、内村という人が一番強く幸徳秋水を支えたという歴史的事実がある。

 

内村や幸徳秋水が我々に問いかけてくるのは一人で立って一人で考えるということ。内村も不敬事件でちょっと頭を下げなかったことで大変なことになった。日本中から叩きのめされた。暴力を振るわれたわけでないが、暴力を振るわれる以上のことを受けた。内村は二度死ぬことを考えたと書いている。

幸徳秋水大逆事件もそうだろう。事件はでっちあげだった。

しかしこれらは100年前で今日の我々と関係ないと考えてはいけない。

いつ我々に大逆事件がおきるかもしれない。

 

「今やミリタリズムの勢力盛んなる前古比なく、殆どその極に達せり。(中略)その原因と目的は、けだし防禦意外にあらざるべからず、保護意外にあらざるべからず。

然り、軍備拡張を促進する因由は、実に別にあるあり。他なし一種の狂熱のみ、虚誇の心のみ。好戦的愛国心のみ。」

 

これが110年前書かれた文章です。我々は進化したといえない。今、我々はまさに幸徳秋水が書いたような時代に生きている。今日通った法律(安保関連法制)の根拠は何か?幸徳秋水は、一種の熱狂と、ほとんど意味のない沽券、そして好戦的愛国心と書いている。

国を愛するというが、単に戦いたい者が

 

内村はこう書いている。

「君は基督信者ならざるも、世のいわゆる愛国心なるものを憎むこと甚し、君はかって自由国に遊びしことなきも真面目なる社会主義者なり、余は君の如き士を友として有つを名誉とし、ここに独創的著述を紹介するの栄誉に与かりしを謝す。」(『帝国主義』に序す)

そのように書いていた1917年にアメリカの参戦は、内村には大変なショックだっただろう。

 

考えるべきは秋水の先見性、そしてわれわれは先見性を持った人間を国で罪をでっちあげ叩き殺してきた。それを忘れてしまうぐらい歴史はおかしくなっている。共産主義幸徳秋水と、そばにいた内村も忘れられるのかもしれない。

その後1903年に、影響を受けて内村は「非戦論」を書く。それが20世紀初頭の歴史。

 

 

1904年に幸徳秋水は「共産党宣言」を翻訳する。

共産党は到るところにおいて、万国の民主的諸党派の団結と一致とのために努力する。共産党は、この主義政権を隠蔽することを恥とする。彼らは公然として宣言する。彼らの目的は、一切従来の社会組織を強力的に顛覆することによってのみ達せられる。支配階級をして共産主義革命の前に戦慄せしめよ。プロレタリアは、自分の鎖よりほかに失うべき何ものももたない。そして彼らは、獲得すべき全世界をもっている。

 万国のプロレタリア団結せよ!」 (1904年 幸徳秋水堺利彦訳『共産党宣言』)

 

これは「宣言」です。宣言はなんら法律的根拠を持たない。マルクスエンゲルスのただ二人が書いたもの。しかし20世紀は共産主義の時代だった。この「共産党宣言」はどの法律よりも力をもった。

日本はおそらく近く憲法に手をつけるだろう。しかし、それでも我々は宣言を出してそれを食い止めるという手段をもっている。憲法は変えられる。しかし憲法を押さえつける宣言という手段を我々は持っている。それを秋水はやった。

言論人は問われている。我々はなんらかの宣言をもって法律に対抗できるだろうか?

これから一年それを見て生きたい。私も書き手の一人だからひとごとではないが。

 

 

柳田国男は『遠野物語』でこう書いている。 

『思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならなん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。

願わくはこれを語り手平地人を戦慄せしめよ。』

戦慄せしめよ。これは柳田が幸徳秋水共産主義宣言を読んだことが間違いないことが分かる。柳田の民俗学が学問における革命であったことがわかる。事実、中野重治など左翼の人に愛され信頼されていた。中野は第二次大戦に従軍するとき家族に遺書を渡す。自分に何かあったときは柳田を頼るようにと書いている。

 

この二書は全く接点がないように思える。しかし接点がある。それは民衆。・

民衆にこそ英知がある。権力やお金ではない。民衆の心の中、日常にこそ我々を救う何かがあるということを書いている。それを聞いて、権力人を戦慄せしめよ、と。

それが1909年、翌年大逆事件がおきる。

 

柳田は元々役人です。日本中回って、自分の思っていることが役人の立場ではできない。明治政府が民衆を忘れ西洋化する中で、国力をつける不可避の道。

今も変わりません。

今も景気がよくなった。大企業はよくなったと。でも我々の生活はあまり変わらないじゃないですか。

だから今の一連の流れを見たときに大逆事件が今の日本で絶対におきないとはとうていいえない。

今と似ている。

おきている現象ときわめて似ている。

だから我々は自分を考えることを忘れてはいけない。

共産党宣言」が我々に教えてくれているのは、自分で考えろということです。人に与えられたことではなく自分の頭を使って自分で考えろということです。

僕は共産主義者ではありませんよ(笑)。生まれて40日で洗礼を受けたカトリックです。しかし共産主義を生きた人々の中にとても深い宗教性、宗教者よりも深い宗教性を感じる。

内村と幸徳秋水のつながりにもそれがあるのではないか。

だから内村は幸徳秋水が亡くなった後、1929年に彼の生き方を「確信ある無神論に自分はなんら反論する言葉を持たない」(『神に関する思想』)と書いている。

宗教の有無、思想の有無をいっている時代ではない。それを超えて実現するべきことが今日の我々にもあるのではないか。その時代1919年この大阪中の島で内村はその話をしたのです。

まさか安保関連法案が通った日になるとは思いませんでしたが。

 

花巻非戦論

1903年内村は『非戦論』を書く。

「余は日露戦争非開戦論者であるばかりではない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。」

内村の高弟に斉藤宗次郎という人の花巻非戦論事件というのがある。宮沢賢治の親友で『雨にも負けず』のモデルになった人物で内村の死に水を取った人。

斉藤は自分は税金を納めるのをやめる、税金が全て軍備になるから。徴兵されても絶対にいかないと国に向かって宣言する。内村はその手紙を受け取るとその日に電車に飛び乗り14時間かけて東北の斉藤に会いに行く。そして「やめろ」という。

「お前の家族はどうなる。お前はいいかもしれないけど家族も巻き添えになるのだぞ。お前はお前の言いたいことを通して気持ちいいかもしれない。しかし一番親しい人を苦しめるからやめろ」と言った。

世の中に伝わる花巻非戦論事件はそこまでしかあまり知られていない。自分では書いたが弟子は止めたと、いうことになっている。

しかし40年後、斉藤宗次郎自身が『花巻非戦論事件における内村先生の教訓』と言う薄い本で、ちょっと違うことを一言だけ書いている。

内村は14時間かけてへとへとになって行き、自分が不敬事件でひどい目にあい病気になって介抱してくれた妻を失って自分が生き残り『キリスト信徒の慰め』を書いている。大変に辛い目にあい、そのときの辛さを知っている。斉藤が同じ目にあうことを恐れて「やめろ」といった、という。

しかし夜通し弟子達がいる中で斉藤を説得した後、翌朝二人だけで散歩してまわりに誰もいないときに、ただ一言言ったという。

「もしお前が本当にお前の信念を曲げたくないならば、ただ一人立って一人でやれ」

斉藤はそれを聞いてわかりましたやめますと言った、と書いている。

 

本当に勇気がある人間は一人で立つ。内村鑑三も家族に類が及ばないようにし、それでも命を懸けるなら一人でやれと言った。

斉藤宗次郎は誰にもいわずに、40年後薄い本でわずかにそう書いている。

内村の非戦論は本物だったと思う。

弟子は殺されても文句は言えない時代だった。実際に1910年幸徳秋水は殺された。良心的兵役拒否などあまっちょろいものはない大罪だった。それでも一人でやれ、と。

平和を考えるとき、我々は一人であることを考えないとだめだ、と思う。たくさんの人が集まって声をあげることが無意味だというのではない。その前に、一人で考え、一人で立たないと勇気をもつことはできないのではないか。

平和を説くのはとても勇気がいる。自分だって戦々恐々としてやっている。でも何かやるならば一人立たなくてはならない。平和とはそういうものなのではないか。

 

ガンディーは非暴力といった。非暴力は一人でないとできない。暴力はみんなでできる。みんなで叩きののめすことはできる。でも打ち返さないということは自分で決めることだ。たとえ二人いてもそれは一と一。非暴力は常に一人でいることを強いる。とても勇気のいること。インドの独立運動は何度も、暴力と非暴力のあいだをいったりきたりして行われた。

非暴力を守ろうとしたとき、人は一万人いてもそこには一人ひとりがいる。烏合の衆にはなりえない。

 

内村の思想も同じだ。

今日、テレビに人がいっぱい映って大きな声を出している。我々も10万人集まってやろうとしている。

それはそれでいいのかもしれないが、でもそれはあまり効果がないのではないか。

一人の人間が本当に心から発する言葉はものすごい力をもつ。だから幸徳秋水を官憲は恐れ殺された。

バンコクのプロレタリアよ団結せよ」と。

団結とは烏合の衆になれということではない。

一人一人立ち、一人ひとりの責任で集まれということだ。

内村と幸徳秋水が強く結びついていたというのは面白いし必然なのだろう。

 

 

『キリスト信徒の慰め』

内村は1891年に妻を亡くす。1893年に『キリスト信徒の慰め』を出版した。

「これ難問題なり。余は余の愛するものの失せしより後、数月間、祈祷を廃したり。祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも、今は神なき人となり、恨をもって膳に向ひ、涙を以って寝床に就き、祈らぬ人となりおわれり。」

 

妻がなくなったあと祈ることをやめてしまった。祈らなければ何もしない人間が祈ることをやめ、神を呪詛したと書いている。

 

「ああ神よ、ゆるし給へ。なんじはなんじの子供を傷つけたり。彼は痛みの故になんじ近づくあたわざりしなり。なんじ彼が祈らざるが故に彼を捨てざりしなり。否、彼が祈りし時に勝りて、なんじは彼を恵みたり。彼れ祈り得る時は、なんじ特別の恵みと慰めとを要せず。彼れ祈る能はざる時、彼は爾の擁護を要する最も切なり。」

 

神は自分が祈ったときに自分の近くにいたのではない。自分が祈れないときこそ神がそばにいたのだ。今はそれがよくわかる。これが内村の回心。回心とは向きが変わるということ。キリスト教では人を改めさせてきた。しかしそうではない。「人生の向きを変えるということ」

内村は昔は神を熱心に祈っていたからこそ神はそばにいると思っていた。しかし絶望する出来事があって祈るのをやめ、神を呪いさえした。しかしそのときにこそ神は自分のそばに寄り添っていた。

もちろん人は祈っても救われるしかし祈らずとも救われることがわかった。人間が何かしたからこそご褒美をもらえるという考え方とは全く違う世界が開けている。

 

「ああ感謝す、ああ感謝す、なんじは余のこの大試練に堪うべきを知りたればこそ余の願いを聴き給わざりしなれ。余の熱心の足らざるが故にあらずして、かえって余の熱心(なんじの恵みによりて得し)の足るが故に、余はこの苦痛ありしなり。ああ余は幸福なるものならずや。」

 

この苦しみを通じてこそ見えてくるものがあると知っているからこそ、この苦しみを与えてくれたのだ。

あなたがこの苦しみを与えられたことによって内村は始めて人生にであったのだ。

悲しみや苦しみはこの前までは避けねばと思っていた。しかしそうではない。苦しみを通じてしか見えてこないものがある。これが内村の原点であり、一番最初の本でもある。

妻を失うという偶発的な出来事によって書いた、恵まれた本なのです。

 

第一章の終わりでこう書いている。

「-時にはほとんど神をも―失いたり。しかれども再び、これ回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と荘厳とを加え、神には一層近きを覚えたり。余の愛する者の肉体は失せて彼の心は余の心と合せり。何ぞ思わん、真正の合一は却って彼が失せし後にありしとは」

 

内村の使った「霊性」とは?

内村は『代表的日本人』で西郷隆盛日蓮を愛情をこめて書いている。内村は宣教師ではなく、親鸞日蓮法然によってキリスト教に目覚めたのだと書いている。

1893年内村は「霊性」と言う言葉を使っている。「霊性」と言う言葉を我々は鈴木大拙を思い出す。鈴木は1944年戦争末期に「日本的霊性」を書く。日本が負けたとき我々は何をよすがとして蘇ったらいいかを考えて書いた。その50年前に内村は「霊性」と言う言葉を使った。

内村が「霊性」という言葉をつかうとき、宗教を超えて、という意味で使った。

キリスト教、仏教など宗派・教義を超えた何かということを指した。

「霊性」とは人間の大いなるものに対する態度です。霊とは“魂の奥底にある何か”、そこへの態度。それにどう向き合うかが、我々がどう生きるかということに直結する。

だから内村は幸徳秋水を大事にできた。秋水は最後に『キリスト抹殺論』を書いた人です。本来ならタイトル見ただけで内村は破り捨てそうなもの。しかし内村はそれを引き受けて、「確信ある無神論」として幸徳秋水を高く評価した。

幸徳秋水が論じてるキリストは、キリスト教学がつくったキリストにすぎないそんなものは無くなってしまえばいいと言った。

我々が必要なのは、思想を同じくする人と手を結ぶことではない。それは戦争するのと変わらない。

考えが違う、思想が異なる人でも目的が同じならば手を結ばなければならない、ということを教えてくれている。二人とも大変辛い目にあった。我々も100年後に生きているのだから、内村と秋水の生き方から学びたい。

 

 

亡き人々と再臨運動

内村の二つ目の辛い出来事は1912年娘ルツ子を失ったこと、これも大きな体験だった。

1930年になくなるまで晩年の18年は娘の死とどう向き合うかだったといってもいい。

その中で再臨運動だったといえる。内村は再臨運動とは亡くなった人と自分がもう一度会えるということ、書いている。

1913年、内村が娘をなくした翌年、第二の故郷札幌に行く。親友が内村があまりに悲しんでいて、このままではだめになると思って呼び、連続講演を行った。私は内村の一番優れた講演だと思う。

 

「今夜色々話したき事がありますけれども死んだ人々のことを話したいと思います。こんなことはちょっと無益なように考えられます。キリスト教は生きて居る人を助けるものであって、死んで居る人はいかんともすることはできない。いかにもこれは無益の事のようであります。他の方面から見ても、あまりに感情に走る事のようで、ただ、わからぬ事を想像によりて語るものとしか考えられません。」

 

プロテスタント・チャーチではこの事〔死者に関すること〕にすこぶる冷淡であります。普通の教会では死者のために祈ることは禁ぜられております、死ぬる前においては盛んに祈りますが一旦死してしまえばその人のために祈る事はありません。この事はほとんど私どもには堪えられないことであります」

 

これは今もそうなんですよね。個人ではそうではない。キリスト教界は個人の信仰と公の信仰があって公の信仰で苦しめられる。教会に行く前のほうが元気だった人も多い。

教会で亡くなった人のことを話すと、そんなことをはなすなと冷淡にいわれる。そんなことは耐えられないと内村は書いている。

 

「もしも諸君が最も親しき者を失った時に、それが消えてしまったのだと考えるのはほとんど堪えられることでありましょう。死というものは永久に別れたのではありませぬ。一時、別れたのであります。否、さらに近しくなったものだと考えるべきであります。これが実に愛する者を失いし時に起る実際の至情であります。(中略)「キリストに依れる者は死しても尚死なないということはデモンスツレーテット、フワクト〔証明された事実〕である」

(「逝きにし人々」1913)

 

キリスト教問答』(1905)

「神、彼等の目の涙をことごとくぬぐいとなり、また死あらず、悲しみ、痛み、あることなし。そは前の事すでに過ぎ去ればなり。(黙示録第四章)

 

 

内村が語るときよすがにしているのは、理性ではなく感情です。内村はものすごい頭がいい人だった。考えに考え、生き抜いて一番大切にしたのは感情、心情、深い静かな自分の中で容易に否定できないもの、だった。それを「「キリスト教の教義にまさる」と書いている。

自分の心情の真実の出来事は世にいう教会に勝る。それを皆さんと一緒に考えたいと故郷で話始めた。

 

平和という問題を我々は理で考えてはだめなのではないか。理で語ると必ずやられ、ねじ伏せられ、説き伏せられる。感情をねじ伏せられることはできない。いやはいやだから。

そのとき我々はどれだけ深く感情と切り結ぶことができるか、を内村は示している。

 

我々はこの世で守らなければならないものを一番最初に感じるのは、理性ではなく感情、心情だと内村は教えてくれる。

ゆえに内村は、幸徳秋水を信じた。理ではなく心情で。理性だったらぶつかってしまう。片方はキリスト教、片方は無神論者。しかし感情からいったらこんなにいいやつはいない。なぜなら幸徳秋水はぎりぎりのときは絶対裏切らないから。

内村は不敬事件の時、ものすごく教会の人から苦しめられた。自分がかって信頼していると思った人から苦しめられる。幸徳秋水のように立場が違った人が彼を救った。

これは100年前の出来事ではない。我々もそうだ。一番信頼できる人間は必ずしも自分の思想信条を同じくするものばかりではない。

 

内村の文章は一回読んだらもう忘れることはできない。内村のような魂から魂へ飛び立つ言葉は現代では本当に稀有である。頭から頭、論理で考えてしまう。論理的だから正しいですよねと。人間が論理で生きていることなどわずかなことを我々は知っているからこそ論理でねじ伏せようとしてくる。

論理とは違うチャンネルで接しているんだということを内村は示している。

内村鑑三の文章は我々の理性ではなく、まったく違うところを揺さぶってくる。

揺さぶられた時、自分にもそういう場所があるなと気づく。抱きしめられたときここにいるなと分かるそれと一緒。別の感情・心情の深いところに訴えてくる。

それには一人で読まなければだめ。

そのために内村を読んでほしい。

 

内村の「クリスマスはいつ来るのか」という文章がある。

クリスマスは12月25日。しかしおそらくキリストが生まれたのは春。そうでないと凍え死んでしまう。福音書を読んで、馬小屋など一言も出てこない。

アラブの人の客間には馬がいる。暖房代わりに。馬はすごく大事にされた。日本人の感覚からすると客間。アラブ人が読むとそう読める、イエスはとても大切にされたとアラブ人の神学者は言う。

それを知らないイタリア人はイエスは貧しいところで生まれたと読んでしまう。

聖書そのようにないことを読まれてしまう。

クリスマスは12月25日という特定の日ではない。

 

「クリスマスはまた着たり。悲しくもあります。喜ばしくもあります。まず、悲しいことから申しましょう。過ぐる年のクリスマスに私どもと顔を合わせて共に志を語りし私どもの友人にして、今はこの世にその影をとどめないものは幾人もあります。(中略)

しかし世を去った友人はあきらめることができます。あきらめんと欲してあきらめることのできないものは、いまだに世に存するも、一時のわずかな誤解のためにわれらをそむき去った友人であります」

 

死んだ人より生きて仲たがいした人をクリスマスは思う。身が裂けるばかりに苦しいと言っている。

 

「平和の君が世に臨みたまいしというこの時に、私どもは旧怨はすべてこれを私どもの心より焼き払わんと努めまするが、さりとてまたこの世はやはり涙の谷でありまして、悲哀をまじえない歓喜とてはない所であると思いますれば、クリスマスの喜楽の中にも言い尽くされる悲歎があります。」

 

平和をもたらしたキリストが生まれたクリスマスを祝っているけど、自分にはまったく違うものがある、と書いている。これは内村の激しい言葉をあらわしている。同じ言葉遣いをするのが宮沢賢治です。

火のような激しい言葉を使っている。内村の高弟の斎藤宗次郎が宮沢賢治の親友だというのもわかる。

 

「これは悲哀の半面であります。しかし私どもの歓喜の半面を言いますならば、それは言い尽くされるものではありません。キリストの降世と生涯と死とによりまして、死とは私どもには無きものとなりました。死は私どもには「つらい、うれしい事」であります。(中略)

世はこの信仰を迷信であると言います。しかし、この「迷信」をいだく私どもは、世の人が死者についていだく断腸の念をいだきません。私どもの涙はイエスの奇跡力によって真珠と化せられました。私どもは死者について思うて涙をこぼしますが、しかしその涙は希望と感謝の涙であります。」

(『クリスマス述懐』1903)

 

内村は価値の逆転を言っている。価値を根本的に逆転することができる。クリスマスとはそういう日である。だから一番恨んでいるやつを許さないといけない。一番悲しいことが一番喜びに変わる日なのだ。

問題は我々はいつクリスマスを自分に呼び込むことができるのか?12月25日である必要は全くない。平和とはクリスマスが日々続くということなんです。だから内村のいうキリストの再臨とはそういうこと。キリストが再び生まれるということ。自分の心の中で大いなる許しがうまれるという奇跡がおきるということ。それは「平和」とは別の問題ではないと言っている。

自分が許せない人間が平和なんて実現しようがない。国家の問題は違う問題というのは嘘だ。

我々はそのような歴史を目の当たりにしてきた。

 

 

 

太宰治内村鑑三

太宰治は内村を読み込んでいた。内村は厳しい人で文学はだめだ、人を堕落させると悪口をいっていたので志賀直哉正宗白鳥も離れていった。太宰は最後に好きな女と心中したが内村鑑三が大好きだった。

箱根で療養しているときに、あるエッセイでこう書いている。

内村鑑三の随筆集だけは、一週間ぐらい私の枕もとから消えずにいた。私は、その随筆集から二三の言葉を引用しなようと思ったが、だめであった。全部を引用しなければいけないような気がするのだ。これは、「自然」と同じぐらいに、おそろしい本である。

私はこの本にひきずり廻されたことを告白する。ひとつには、「トルストイの聖書」への反感も手伝って、いよいよ、この内村の信仰の書にまいってしまった。今の私には、虫のような沈黙があるだけだ。私は信仰の世界に一歩、足を踏みいれているようだ。これだけの男なんだ。これ以上うつくしくもなければ、これ以下に卑劣でもない。ああ、言葉のむなしさ。饒舌への困惑。いちいち、君のいうとおりだ。だまっていておくれ。そうとも、天の配慮を信じているのだ。御国のこらむことを。(嘘から出たまこと。やけくそから出た信仰。)」(『碧眼托鉢』1936年太宰治

 

もし一人の小説家にこれだけの言葉を書かせたなら、内村はこれだけでよしとされるような激しい賛美ですね。

自分は信仰の世界に足を踏み入れた、自分は内村鑑三の本を読んで、火の洗礼を受けた、と書いている。

太宰と聖書という本はたくさんでているが、内村鑑三抜きにしては読めない。

内村鑑三の文章と思想は実は、全部太宰治に流れ込んでいる。

 

司馬遼太郎は太宰のことを「東北の巨人たち」(『司馬遼太郎全講演3』)という講演録で書いている。

昭和23年に太宰が死んだとき、私はなりたての新聞記者でした。太宰治という字が読めなくて、「ダザイジ」と呼んでいたぐらいで、それほど無知でした。太宰を読むようになったのは50半ばからです。(中略)得た結論は「太宰は破滅型でも、自堕落でもないということでした。太宰治の精神、文学がもっているたった一つの長所を挙げよといわれれば、聖なるものへのあこがれという一語に尽きるわけです。

あの人は『聖書』が好きでした。クリスチャンではありません。ただ座右の書として置いていた。素朴に清らかなものとしてとらえていた。『聖書』の文体が好きでした。(中略)破滅型な作品でさえ、破滅して行く主人公の心には、実に聖なるものへのあこがれがあらわれています。」

 

これは私が今まで読んだ太宰論の中で最高の批評です。太宰論は山ほどあるが、これほどのものはない。

批評家、司馬遼太郎のすさまじさを示している。

それは内村鑑三の聖性と、太宰治の聖性とは非常に近いものだったということが我々にとって誇り高い先人の証なのではないか。

 

最後に、「自分の魂を揺り動かすものは自分で書くしかない。いい文章に感動するだけではだめ。

だからみなさんも自分で書いてください。」

 

 

 

 

線遠近法・逆遠近法・中世絵画の見方を通してのJ・ナダルの方法論と黙想と祈り

 

 

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

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イコンの記号学―中世の絵を読むために

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神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)

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観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

 

 

 

秋学期購読した英語論文を読解に際しては、西洋美術史における遠近法のインパクトと、それ以前の中世絵画の意味論の理解が必要であることが痛感させられた。そこで、この論稿においては、まず(1)パノフスキーの遠近法研究を踏まえたうえで、(2)ボリス・ウスペンスキーによるイコンを中心とした中世西洋絵画の記号論的考察を紹介する。その意味論を信仰論としてみるために(3)クザーヌスの著作を概観する。またナダルの絵画を読み解く意味論がカメラ・オブスキュラという器具によってどのように肉体から切り離され終焉したかを(4)J・クローリーの論稿によってみる。 
そして最後に(5)ナダルの絵画が、祈りや黙想においてどのように機能したのかを考察する。

(1)遠近法の両義性 パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』(ちくま 2009)より
 本論文における前提条件が遠近法に潜む両義性である。その議論についてはイコノロジーの創始者であるパノフスキーの論稿を基礎としている。そこでパノフスキーの遠近法についての論稿をまず概観する。同書においてパノフスキーは、西洋の中世以降の遠近法の登場を解説しながら、実はその初期形態として古代ギリシャの舞台美術において遠近法が使われていたことに触れ以下のように記述している。

(同著P38)特定の芸術的諸問題に向けられた労苦が一定限度まで推し進められ、―かつて採択された諸前提から出発するのでは-それ以上同じ方向に進んでみてももう不毛だと思われるところまでくると、通常大きな逆転ないし-もっと適切な言い方をしてみれば-方向転換が起こる。(中略)
つまり、見たところ「もっと単純(プリミティブ)な」表現形式に逆戻りすることによって、古い建造物の廃材が新しい建造物の構築のために利用される可能性が生じることになる、―つまり、まさしくある距離を置くことによって、以前すでに着手されたことのある諸問題の創造的な採りなおしが準備されることになるのだ。」

これは遠近法という技法についての記述ではあるが、ナダルが、既に確立していた線遠近法を用いながら、異時同図の技法を合わせて用いていること自体にも当てはめることができるだろう。

 さて、パノフスキーはわずか80P程度の本書において、西洋美術における遠近法の登場について詳細に説明しているが、その遠近法がもたらしたインパクトにおいて結論部で明確に記述している。

(P70)遠近法はまた、芸術的な現われを確固たる規則、のみならず数学的に見て精密や規則にまでもたらしもするが、しかしそれはまた他方で、この現われを人間に、のみならず個々人に従属させもする。というのも、上の規則は、視覚印象の精神的物理的諸条件に関係しているのだし、この規則が働く様式は、自由に選択することのできる主観的「視点」の位置によって規定されているからだ。こうして遠近法は人間の権力志向の勝利だともとらえられるし、外界を確定し体系化するものだとも、自我領域の拡張だともとらえられるのである。それゆえ、遠近法の歴史は、この両価的方法がいかなる意味で利用されるべきかという問題の前に、芸術的思考を繰り返し立たせずにはおかなかった。
(中略)
 これらすべての問いのうちには、現代の用語を使うなら、主観的なものの野望に対する対象的なものの「権利主張」がひそんでいる。なぜなら、対象は(まさにある「客観的なもの」として)観賞者から距離をとり、おのれ自身の形の上での合法則性、たとえば対照的であるとか正面をむいているとかから生ずる形のうえでの合法則性を妨害なしに発揮しようとし、(中略)
 どちらかといえば観賞者の想念のうちにあるような座標系によって規定されたりすることは望まないからだ。

パノフスキーは遠近法が持つ両義性を指摘する。遠近法によって鑑賞者の主観的な「視点」から、キャンパスの中の座標軸に規定されて描かれることになる。しかしながら、描かれる対象はそのように規定されることを望まない。通常の絵画においてそうであるならば、ましてや神や信仰を描いた聖画においてはなおさらそれは深刻な問題となりうるだろう。そしてそれを描く画家にとっても、そのジレンマは甚大なものとなることは容易に想定できる。
 しかしながらパノフスキーは続けて宗教画や聖画においても両義性が存在すると結論付けている。

(P76)遠近法的な空間観が二つのまったく異なった側面から論難される可能性があったことも明らかになる。つまり、遠近法が遠慮がちに出発した時点ですでにプラトンが、遠近法は事物の「真の大きさ」をゆがめ、現実や規範のかわりに主観的な仮象や恣意を持ち出すという理由でそれに有罪判決を下したとすれば、もっとも現代的な芸術観は、まったく逆に、遠近法は制限された、また制限を設ける合理主義の道具だという批判をそれにあびせたのだ。(中略)
遠近法的な見方は、それが主として理性と客観主義の方向に利用され解釈されようと、主として偶然性と客観主義の方向に利用され解釈されようと、絵画空間を(たとえ精神生理学的「与件」を大幅に捨象した上であろうと)原理的に諸要素から、経験的視空間の図式に従って構築しようとする意志に基礎を置いている。つまり、遠近法はこの視空間を数学化するのではあるが、しかしそれが数学化しているのは、やはりまさしく視空間なのだ。また、遠近法は一つの秩序づけではるが、しかしそれは視覚的現れの秩序づけなのだ。(中略)
このように芸術的な対象性を特有な仕方で現象的なものの領域に移し入れることによって、遠近法的な見方は宗教芸術に、そこにおいてこそ芸術作品が奇蹟を生み出し予告することになる教義的-象徴的なものの領域を閉ざしてしまうのだ。だが、遠近法は宗教芸術に、あるまったく新たなものとして幻想的(ヴィジオネール)なものの領域を開いてやるのであり、この領域においてこそ、超自然的な出来事がいわば鑑賞者自身の、一見したところ自然な視空間に押し入り、まさしくそうすることによって鑑賞者にその出来事の超自然性を本当の意味で、「内的」に悟らせることになるので、その奇蹟が鑑賞者の直接的な体験となるのだ。また、遠近法は宗教芸術にもっとも高度な意味での心理的なものの領域を開いてやるのであり、そこではもはや奇蹟は、その芸術作品のうちに描かれている人間の心のなかでのみ起こるのである。

 ここでしるされている宗教芸術における“象徴的なものの領域を閉ざす”については、ウスペンスキーの論稿が詳説しているので後に考察する。いずれにしろパノフスキーは、遠近法が以前の宗教絵画に存在した教義的な象徴的なものの領域が閉ざされるのと引き換えに、超自然的な出来事が、一見自然な視空間の中に介入してくることで、その出来事の超自然性を、鑑賞者に「内的」に悟らせ、直接的な体験とさせるという意味を持っていると説明する。

(P78)遠近法的な空間観は、実態(ウーシア)を現象(フェノメノン)に変えることによって、神的なものを単なる人間の意識内容に切り縮めたように見えるが、しかしその見返りに逆に、人間の意識を神的なものの容器にまで広げもするからである。それゆえに、こうした遠近法的な空間観が芸術の発展のこれまでの過程で二度にわたってゆるぎない地歩を占めたのも偶然ではない。その一度は、古代神権政治(テオクラティ)が崩壊したときにその終焉のしるしとしてであったし、もう一度は、近代の人間の政治(アントロポクラティー)が台頭したときにその出発のしるしとしてであった。

 そしてそれは、神的なものを人間的意識内容に切り詰めると同時に、人間の意識を神的なものにまで広げるものとなり、それこそが、人間が自立した意識によって神や世界を認識するという「近代(モダン)」の出発のしるしであったと意義付けるのである。
 本論文において繰り返し立ち現れる、遠近法をめぐるパラドックス、両義性は上記のパノフスキーの考察をベースにしているといえよう。


(2)中世絵画の意味論 ウスペンスキー『イコンの記号学』より
ナダルの絵画においては遠近法と中世の異時同図が同じ絵画の中で描かれている。しかし現代に生きる私がこの絵画を見るとき、まず中世絵画の技法と意味論を理解せねばならない。これを主としてイコンの方法論を分析しながら解説しているのが、ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学 中世の絵を見るために』(新時代社1983)である。
 同書においてウスペンスキーは線遠近法とイコンにおける逆遠近法の意味論を対比させている。そして、逆遠近法が、線遠近法の前段階にある原始的な技法などではなく、独自の完結した方法と意味論をもっていることを詳説する。この中には「枠組み」「主観の偶発性」「視点の断片化」「視覚印象の収斂(纏め上げ)作用」など、ナダルの絵画を理解する上での重要な要素が含まれているため、以下多くを引用しながら考察する。

① 線遠近法=視点の固定、逆遠近法=視点の移動という性質の違い

(P86)このように、線遠近法と逆遠近法との対立は、何よりもまず、視点〔視線〕が固定されていて不動であるという特徴と、視座が移動しうるという特徴との対立に、関連づけることができます。(この対立は、すでに世界観における一定の対立・相違と関連づけられます)。このことから、とりわけ中世絵画(たとえばイコン)の中の図像の、不動性という特徴も出てくるといえるのです。なぜなら、このような場合、図像そのものが“動き”の相を見せる必要がないからです。動くのは観る者の方だからです。(もっとも、機能的には双方とも同じです)。このような〔中世絵画〕の場合と、観る者はじっと動かないということを前提とした、ルネッサンス以降の芸術(つまり線遠近法システムの芸術)、とりわけ、それらの芸術に特有の、〔絵の中で〕動き・転回を伝えようとする極端な短縮・・・

(P89)そこで、やや大まかにいえば、逆遠近法のシステムの枠内にある場合には、描かれるべき対象が現実にどのようなものとして存在しているかという点が本質的なことであるが、線遠近法のシステムの枠内にある場合には描かれるべき対象がどう見えているか、いいかえると、対象が描く者の目に〔所与の単一・不動の視点から、しかもある特定の一時点において〕どう映っているかという点が本質的なことである、というふうに言えます。(したがって、芸術の進化の様相と、哲学思想の進化の様相とを結びつけて考えることも難しいことではありません、とりわけ、中世の世界観の絶対主義的な傾向と、近代〔の世界観〕に特徴的な主観〔相対〕主義とを対照させてみるならば)


②中世絵画=全体性、遠近法=断片化が可能
 ウスペンスキーは続けて、絵画の中の一部分を切り出すことができるかという問いを元に、中世絵画と、遠近法以降の絵画の違いを説明する。遠近法の絵画においては絵画の一部分をそのまま切り出してみることが可能である。(例えば人物、テーブル、テーブルの上のもの)しかし中世絵画は、絵画の中に描かれた個々の人物と者は、絵画全体の中で、全体との間の関係において指示対象となり呼応している、とする。

(P92)中世絵画における表現は、なんらかの現実の個別対象を、〔全体から〕個々ばらばらに切り離してコピーするというよりは(なぜなら、なんらかの類似〔現実の対象と描いた対象との間の類似〕を意図してさえいないといえる場合が、しばしばあります)、むしろ、個々の対象(部分)は、これを(それをとりまいている)描かれるべき世界〔全体〕の中に置いて、その中で、当の対象(部分)が占める位置を、象徴的に指定しようとするものです。
(中略)
(逆遠近法のシステムの中では)、絵の全体が、描かれるべき現実(全体)の記号となり、他方、絵の個々の部分は、(その現実の側の)指示対象と、直接に(媒介するものなしに)呼応するのではなく、
個々の部分(個々の図像)が(絵)全体との間にとりむすんでいる関係を介して(間接的に)、(現実の)指示対象と呼応している、というふうに言えるでしょう。
(中略)
おそらく、中世芸術のシステムは、なんらかの己れの(個人的な)図式を描かるべき世界にかぶせてゆくということではなく、現実に在るもの(「存在のかけら」)を、それらが在るがままに受け入れ、在るがままに捉えるということと結びついていると言ってよいでしょう。


③「枠組み」について説明される。
 中世絵画、イコンが、絵全体との関係において成り立ち、その視点が絵画の中に存在する以上、そもそも「枠組み」を必要としない。「枠組み」自体は、絵画に対して、その外側にある世界から美術作品の内側の世界へと移ってゆく際の境界であり、「枠組み」自体は絵の外側に属している、という指摘は重要である。

(P105)しかし、中世絵画の作品には、内なる観察者の視点と並んで、表現の外側に立つ始点も(つまり、絵を見るかもしれない潜在的な観賞者の視点と一致する視点も)存在するといえます。これは何よりもまず絵画作品の枠組みにかかわることです。ここで「枠組み」という用語で理解しているのは、描かれる現実の境界を示すために役立つ約定的な技法や形態です。それらの境界は、直接表示された絵の(あるいは一般に美術作品の)境目(たとえば、特別に描かれた線とか、窓枠、開かれた戸口、開かれた戸口、引き開けられたカーテンなどといったたぐいの境目。絵の実際の物理的な枠(額)とか、イコンの聖物箱なども、結局はこれらの一つといえるでしょう)であることもあれば、表現の周縁部に示される、特別な構図上の形式であることもあります。
枠組みは、〔描かれる現実の境目を示すということによって〕、(表現に対して)その外にある世界から、美術作品の内側の世界へと移ってゆく際の境界を示すことになります。その際、枠組みそのものは、表現(作品)のうちに示される、想像されるべき三次元の世界にでなく、〔絵の〕外に立ってこれを見る物の空間に属しているものです。したがって、(絵を観る者、つまり)外側の観察者を念頭において示されている特殊な形式も、絵画作品の枠組みを示すことができます、

(P106)イコンは、さらにまた一般に古い絵画表現は、枠組み(額縁)を特に必要としないのです。「外側の」視点に由来する図像そのものが、表現(作品)のごく自然な枠組みとなるからです、ところが、近代芸術の場合は、表現の境目を示すなんらかの仮の枠組みが不可欠です。枠組みこそが、〔全体としての〕表現を組織するからです。表現に記号としての意義を与えるのも、枠組みだからです。

④視覚表現の収斂における2種類の原理
(さらにウスペンスキーは、中世絵画において視覚印象の収斂(纏め上げ)を二種類の原理に区別する。A画工自身が複数の視覚印象を一つに収斂する場合
空間・時間的に複数の違った位置を、ひとつに纏め上げようとする(アッシリアの五本足の牛、中世ロシアの三本の手の聖母像など)
B〔収斂以前の〕視覚印象そのものをじかに伝えようとし、それらの印象を収斂し纏め上げるのは、われわれ観る者の方にゆだねられている場合。
(たとえば洗礼者ヨハネを構図として、切られる前と切られた後の頭部が、同じ画面に二度描かれる場合など)
ウスペンスキーはAにおいては(対象の上をすべらせてゆくような)視線の移動が生じる。Bでは連続しない個々ばらばらな視線の投げかけが行なわれるとして、その譬えとして、投光器(照明ライト)が、なにかの表面を映し出すときにA順序を追って対象の上を滑ってゆく場合B違ったライトがそれぞれフラッシュのように瞬間的に(スポットライトのように)照らし出す場合に例えている。そして、特にBの技法を映画におけるモンタージュ技法との類似していると指摘している。(モンタージュにおいても、フィルム上の個々ばらばらな構成要素をひとつに総合し収斂しているのは、観客であるから)
ウスペンスキーはこの舞台における役者の動きのたとえを、何度か使っており、非常に分かり易い。

(P162) 意味論的な統辞法
 描かれるべき対象の、意味上重要な部分は、観る者のほうに向けられる。他方、意味上重要でない部分は、遠近法による変形を受け、(それら両種の部分からなる)対象(全体)の、空間における実際に位置(在り方)を示す。そのことによって、当の対象(全体)を三次元の空間の裡に置き直すための、いわば、鍵とでもいうべきものとなる。中世絵画の裡にきわめて頻繁に現れる、図像の、あらゆる種類のずれ(デフォルマシオン)や割れも、このように(“鍵”として)扱うことができる。
(なお、著者はここで、重要な部分が観る者のほうに向いていることを芝居との対比で説明する。芝居においては、それぞれのシーンを臙脂ながら、俳優の顔はつねに観客の方にむけている。)


⑤イコンにおける人物像の構図と礼拝における祈り
 さらにウスペンスキーはイコンが礼拝において使用されるものであり、その絵が枯れ方が祈りにおいて極めてアクチュアルな問題であることを説明する。

(P174)ここで指摘しておく必要があることは、描かれる人物像を、それが記号としてもつ重要度(価値)に応じて、構図の中で区別(して配置)するという問題が、イコンにとっては、とくにアクチュアルな問題であり、イコンの特性やイコンと世俗絵画との相違を大きく規定している点でもあるということです。事実、重要な(礼拝されうる)像と、重要ではない像、つまり、礼拝されることはないが、象徴的に示される主題を考慮して絵の中に配される像という、この二種類の像を区別しなければならない必要に、非常にはっきりとした形で直面するのが、特殊な用いられ方をする〔単に観られるだけではなく礼拝されもする〕イコンの場合です。
(中略)
 この点に関連して興味深いのは、ロシアの若干の宗派が、ひとりの礼拝されるべき人物とその人に直接関係した付属品とを描いたイコンだけを認めて、なんらかの〔礼拝には〕無関係な人物なり事物なりが描かれているイコンに対しては、礼拝を拒む(たとえば、イコンに、十字架にかける側の兵士たちが描かれているなら、磔を描いたイコンも礼拝することを拒む)という場合です。
(中略)
一般的にいえば、このような分別の必要も、そのために使われる具体的な技法も(とりわけ、正面をむかせる技法)、元来は、イコンと礼拝する者との接触という課題によって決定されていたものだということは、改めて言うまでもないことです。なんらかのこうした接触を妨げる可能性のあるものは、すべて取り除いてしまおうとする努力も、同様に説明できます。


末尾は正教の礼拝においてはしばしば十字架やイコンにキスをする。そのようなことを意味していると思われるが、いずれにしろイコンと言うものが徹頭徹尾、祈るために製作されておりそもそもそのために存在しているということを改めて認識させられる。


⑥絵画における偶発性の意味合い

(P178)ルネッサンス以降の芸術の場合は、〔図像を組織する〕原理そのものが(なによりもまず、線遠近法の原理が)、原則的に偶発的な契機を拠りどころとしている度合、大きいということがあります。実際のところ、画家が選ぶ空間上の〔特定の〕位置も時間上の〔特定の〕位置も、偶然的なものにならざるをえないからです。なぜなら、画家も観る者と同様、描かれるべき世界の中に直接身を置いてはいないからです。(中略)
 映画の用語でいいかえるなら、絵の「ショット」の中に入るものの境界そのものも偶発的です。しかも示唆にとんでいることは、そうした偶発的な境界(線)が、しばしば、人物なりの図像そのものの上に直接引かれているという点です。そこで、表現されるものが、いわば、人為的に切断され、絵の枠組みが、それぞれの図像を、いわば、切り離してしまうということにもなります。
 (中略)
一般には、ここでは(近代のイデオロギーの中では)、表現が偶然性をもっていることこそが、その表現の真実らしさ(リアリティ)を保証するものである、というふうに受け取られています。事実、表現が真実らしさをたもつための、近代(ルネッサンス以後)の基準によれば、作者(画家・小説家など)の、あれこれの主観的な位置(視座)を、したがって、そのために避けがたく偶発的でもある位置を、拠りどころとしなければならないとされております。そこから、作者の認識が、原理的に限定されたものにならざるをえないという特性も、出てくるわけです。つまり作者は何か知らないことが許されるということです。しかも、そうした限定は、だまし絵的な真実らしさを実現するために、作者が、自分自身の認識に、意識的に加える限定であるという場合が、多いのです。こうした限定に加えられているということによって、はじめて、作者の認識の源となっているものは何かという問題も、したがって、結局のところ、作者の認識が信頼しうるかどうかという問題も、論理的に正当なものになるわけです。

(P180)他方、中世やそれ以前の時代の絵画においては、この種の問題は、まったく想起しえない問題です(つまり、われわれが検討してきたシステムの範囲内では、正当化できない問題です)。なぜなら、すでに指摘したように、逆遠近法のシステムの中では、対象の像は、個々人の意識を通して示されるのではなく、対象の所与のままの在り方に従って示されるからです。〔中世の〕画工は、長方形の対象を描く際にも、(線遠近法のきまりによって指示されているように)〔手前から奥の方へ遠ざかるにつれて〕次第に小さくなるように描こうとはしません。なぜなら、そのように見えるのは、単に、ある特定の時点に、ある特定の視座をとった場合だけだからです。近代の基準とは違って、ここでは、非偶発性(合法則性)こそが、表現を、真実らしくするものとみなされているのです。こうした、中世の絵画に一般的に言えることが、とくにはっきりと現れているのが、中世のイコンの場合です。


 ウスペンスキーは絵画における偶発性(contigency)を取りあげる。線遠近法は常に偶発性を包含している。(聖画のあるシーンを描く場合においても、そのシーンをどの場所から、どの瞬間に、どの視点から描くか、考えてみれば全てが製作者の主観的な位置(視座)による偶発性を含んでいるのだ)。そしてその偶発性こそが表現のリアリティと、批評における作家性、作者の意図の分析の源となっている。しかし中世絵画やイコンは、対象の所与のままのあり方によって示されたものをそのまま描くゆえに偶発性は存在しない。(ゆえに特にイコンにおいて、多くの場合製作者が誰であるかすら知られることがないといえるのかもしれない。)
 引用してきたようにウスペンスキーは逆遠近法における意味論を線遠近法絵画と対照させながらし見事に説明している。(ただし、イコンと中世絵画を分類することなく一体として論じている点においてのみやや疑問が残るのだが・・・)
その考察に基づき、ジェロームナダルの中心に遠近法によって描かれ、その周辺に異時同図が配置された絵画がなぜ描かれたかを理解することができる。

(3)神の(視点の)偏在性 クザーヌス『神を観ることについて』
 本論文においてクザーヌスが引用されているが、クザーヌスは『神を観ることについて』の冒頭で、人間に可能な方法で神的な事柄に向けて導こうとする場合に、「万物を観ている人物像」と呼ばれる絵画以上にふさわしいものを見出せないとし、それを「神のイコン」と名づけている。
 この絵画は、鑑賞者が東西南北のどの方向から見ても、鑑賞者を見つめているように見える。また東西南北のそれぞれの鑑賞者が同時に見つめられているように感ずる。この像の眼差しは動かずに居ながら動くようにしか見えない。つまりその眼差しは全ての人を配慮しているのであり、つまり誰をも見捨てることがない。クザーヌスはそこに神の遍在性の証しを見ているのである。いわばクザーヌスの文章からはウスペンスキーが考察した中世絵画における視点の内在性が、繰り返し論じられる中で、信仰論として練り上げられているということができるだろう。

(P34)
主よ、私の神よ、私があなたのお顔を長く見つめていればいるほど、あなたが私に対してその鋭い眼差しをいっそう鋭く投げかけていて下さることが、ますます明らかになります。

(P51)
あなたの眼差しは目であり、つまり生命ある鏡ですから、自己のうちに万物を観るのです。なぜならば、それはあらゆる見られうるものの原因であるがゆえに、全てのものをそれらの原因にして根拠のうちに、すなわり自己自身のうちに、包含しており観ていることになるからです。主よ、あなたの眼は屈折することなく万物に到達します。ところがわれわれの眼は、対象に向かって自己を屈折させるのです。その理由は、われわれの眼差しが一定の角度をもって見るということにあります。

(P52)
主よ、あなたは、今私が眺めている図像がそうであるように、全体と個々のものとを同時に見つめておられるのですが、いかにしてあなたの視力において〔このような〕普遍的なものが個別に合致しているのか、私は驚かされています。しかし、私は以下のことには気付くことができます。すなわち、あなたの〈観〉を探求する際に、私は自分を視力をもってせざるをえないがゆえに、これ〔この合致〕がどうして成立するのかを、私の想像力は捉えることがないのだということを。あなたの〈観〉は、私のそれのように感覚器官に縮限されることがありませんから、私は判断する際に欺かれてしまうのです。

(P71)
あなたご自身があなたご自身の〔観ること〕の対象であるならば、あなたは同時に、観る主体であり、観られる客体であり、観ることそのものであるのですから、その場合に、どうしてあなたがあなた以外のものを創造することがあるでしょうか。

(P90)
すなわち、あなたを見つめる者があなたに形相を与えるのではなく、むしろ、彼は、自分が現に存在しているということをあなたから受け取っているのですから、自分があなたのうちで見つめられているのです。同様に、あなたが(あなたを)見つめているものから受け取っているように見えるという事実は、〔実は〕あなたが与えているものなのです-あなたが、あたかも諸々の形相の形相としての永遠性の生命ある鏡であるかのようにして。誰かがこの鏡のなかを見つめるならば、鏡という諸々の形相の形相のうちに自分自身の形相を観ることになり、この鏡のうちに見る形相を、自分の形相の像であると判断することになります-なぜならば、磨かれた物質としての鏡ではこのとおりですから。
 しかし、真実はこの反対なのです。すなわち、彼がこの永遠の鏡のなかに観るものは像ではなく真理であり、それを観ている者の法がそれの像なのです。それゆえに、私の神よ、あなたのうちなる像は現に存在し、存在可能である一切のものと個々のものの真理であり原像なのです。

(P130)
 イエスよ、それゆえにあなたは、人間の眼をもって眼に見える偶有的なものを見るとともに、神の絶対的な眼差しをもってものの実体を観たのです。肉のうちに配備された人間であって、実体あるいはものの何性を観たことのある者は、あなた以外にはおりません。
 (中略)
 人間においては知性的な能力が動物的視力に合一しているので、人間は単に動物として見るだけではなく、人間として識別し判断もするのですが、イエスよ、あなたにおいては、これと同様な構造で、絶対的眼差しが、動物的視力において働く識別力としての人間の知性的能力に合一しているのです。

(まとめ=神との親密性?)
 クザーヌスにおいては「神のイコン」をきっかけにして神の偏在性、全視点性を確信する。そしてそこから、人間が神を見るとき、それができること自体が神の働きかけであるとする。鏡を覗き込むとき、それは像を覗いているのではなく、覗いているものが像であり像が真理を覗き込んでいるという逆説的な譬えとして、クザーヌスの信仰につながる。
 そして人間が偶有性によって限界づけられているのに対して、イエスだけは肉の眼でみながら絶対的な眼差しで実体を見ることができるとする。
 しかしながら、クザーヌスの記述において特徴的に感じられるのは、神と人とは絶対的な違いがありながら同時に、そこに不思議な親密性と相互作用(インターアクション)を帯びているように思われる。それが、神秘主義と呼ばれるものなのだろうか?
 あるいは、この「親密性」がポイントなのとも思われる。


(4)カメラ・オブスキュラの登場による一つの終焉

 しかしながら、ナダルの絵画におけるような模索の時代はその後、終焉を迎える。J・クレーリー『観察者の系譜 視覚のモダニティ』において、視覚の“近代”におけるカメラ・オブスキュラの登場の意義を、単にカメラという器具の原初形態以上の意味をもつ、極めて重大なものとして詳説している。

(P68)「まず第一に、カメラ・オブスキュラは個体化という働きを遂行する。つまり、カメラ・オブスキュラは観察者というものを、必然的に、その暗い領域の内部にあって他者から切り離され、囲い込まれた、自立的な存在として定義=限定しているのである(中略)それと同時に、この第一のことと関連してはいるが同じくらい重要なこの暗室(カメラ)の機能は、見るという行為を観察者の肉体としての身体から切り離すこと、視覚を非肉体化することであった。

(P71)観察者は、一方ではこの仕組みの働きそのものからは切り離され、機械的・超越的なかたちで世界の客観性を再-現した像に対する、非身体的化された目撃者として存在している。しかし他方では、暗室の中に彼または彼女が居るということは、人間の主観性=主体性と客観的=客体的な装置との時間的及び空間的な同時存在性を意味してもいる。かくして観客は、〔遠近法絵画を眺めるときと比較すれば〕再現=表象化の仕掛けからより独立した、周縁的で補足的な存在として、暗闇のなかにあって自由に浮遊する存在となるのである。(中略)カメラ・オブスキュラは観察者が自分の位置を表象の一部に繰り込まれたものとして見ることを、アプリオリに妨げる。

(P82)
「絶対的な特権を有する視点が消失し、「可視性が偶有的(コンティンジェント)な事実となった」世界の内部」にたった一つの開口部を通して客観的な世界観の上に人間の知を基礎付けようとする、ことが可能になったのである。


カメラ・オブスキュラの登場によって、暗室の中に空いた光を通す一つの穴だけに、視覚の「枠組み」は完全に限定され、固定されることで徹底される。さらに、鑑賞者は、遠近法絵画を眺める際に生ずる「再現=表象化(representation)」から切り離され、暗闇の中で、非肉体化され、自由に浮遊する存在となる。
 カメラ・オブスキュラの登場によって、視覚体験は永久に変革されたのだと言えよう。
しかし、クレーリーはそれを「自由に浮遊する存在となる」と書くが、それは同時に、肉体を離れた視覚の圧倒的な優位、支配性と、際限のない偶有性の分裂をも意味する。
 そこからはビデオカメラ、マルチカメラ、マルチスクリーンによる鑑賞体験など、現代において私達が普通のこととして感じている圧倒的に多様な視覚体験を思い起こさせる。
 今一つは、カメラオブスキュラの登場により、観察者が再現=表象化から切り離されたことは、同時に圧倒的な器具、器具の設置者(写真・映像なら製作者)の主観・偶有性が優位を占めたことをも意味する。器械を通しての視覚は、原則として覗きこむ万人にとって同じものとして認識される。それは、絵画を見て、再現=表象化を行ない鑑賞する際の、鑑賞者による多様性とは比較にもならない。
 いわば観察者は、器具と製作者の支配下に置かれる。(そして、それを脱するために、また絵画・写真・映画が多様な表現形式を考案し、創作し続けようとしているのでもあろう)


 (5)J・ナダルの方法論
 『霊操』の翻訳者、門脇佳吉はロヨラの文章の守護は常に人間であり、人間中心であり、これまでキリスト教修行方法の中で、これほど人間の自由と選択の自由と自己決定を中心課題においた霊性は存在しなかった。それが『霊操』の現代性であり、「ルネサンスの最初のヒューマスト」ロヨラが目指した「神的ヒューマニズム」なのである、と論じている。
 『霊操』を読むと(独学では理解が困難だが)、その方法論として徹底的に具体的な方法によっていることはすぐに気付く。そしてその最終目標は、「神との合一」ではなく「神が何を求められているか」を知ることにある。この点において、クザーヌスと決定的な違いがある。
 ナダルの絵画においては、中心に遠近法で重要なテーマがかかれ、周縁に様々な異時同図が配置され、下部には数字と共にその説明が書かれている。これは、霊操において段階的に行を行ないながら、その方法論は徹底的に具体的で、ステップを踏んで進められていくスタイルをそのまま表しているといえる。
 私が興味があるのは、その中に線遠近法と、異時同図が画中画として並立しているところにある。
ウスペンスキーが詳説したように、中世絵画は、描かれた内容を断片化することなく、あるがままの全体として描いた。ゆえにそこには安定性があり、絵画の中に視点があるがゆえに観察者は描かれた絵画の中の神性との親密さ(クザーヌスの記述に感じられるように)がある。しかしながらそこには、個人としての主体性というものは存在しない。一方で線遠近法は、そこに観察者、製作者の主観性と偶有性を持ち込んだ。同時に、もはや中世絵画に見られる全体としての安定性は失われた。
 ナダルの方法論は。近代によって確立された主体性と、神を中心とした全体性・安定性を両立させようとする試みとして見ることができるだろう。
その現代的意味については、今後考察したい。


(参考文献)
クザーヌス『神を観ることについて』(岩波 2001)
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜 視覚空間のモダニティ』(十月社 1997)
E・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』 (ちくま学芸文庫 2009)
ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学』 (新時代社 1983)
ロヨラ『霊操』(岩波 1995)

エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』から


 

 

人生は廻る輪のように (角川文庫)

人生は廻る輪のように (角川文庫)

 

 

                     


本書はキューブラー・ロスが71歳のときに出版した、初の自伝である。
本書を読むと、ロスの人生に2つの重要な要素が感じられる。
(1)時代背景としての20世紀現代史
一つは彼女の生きた生涯全体が20世紀の欧米の現代史そのものであると感じられる点である。
ロスは第二次世界大戦の戦前期のスイスに生まれ、大戦の難民の看護を経験し大戦後は国際平和義勇軍としてポーランドなどの大戦の傷跡を自らの足と眼で見て廻る。その後スイスの医学校に入学し、スイス人のC・G・ユングから大きな影響を受ける。その後、大戦後の繁栄を享受する現代物質文明の中心、アメリカ合衆国に渡りマンハッタンで勤務、精神科医として『死の瞬間』を執筆、終末期医療に大きな問題提起を投げかける。その後次第にチャネリング、宇宙意識体験など、ニューエイジ(?)的な神秘体験を経て、晩年はエイズ患者の支援施設を設立する。
 20世紀の臨床心理学、精神医学が、フロイトユングから始まり、第二次大戦のショアーをどう思想的に受け止めるか格闘し、現代物質文明の一面性に対する批判として提起され、またアメリカ的プラグマティズムの中で実証的に構築されてきた歴史を振り返るとき、彼女はそのほとんどを渦中に身を置き実際に体験してきたのだといえる。本書を通して、彼女の生涯と思想のネガとして20世紀の現代史が見えてくるといえるだろう。

(2)ロスの個人的な生育環境
二つ目はロス個人の成育環境も見逃せない。三つ子として生まれ、「子ども時代のすべての時間が「自分はだれか」を素人する試みに費やされ」「わたしはいつも、人の10倍の努力をして人より10倍も価値が・・・なにかの価値・・・生きる価値があることを示さなければ、と感じていた」幼年期。生き方を押し付けようとしてくる家父長的な父に自分の生き方を認めさせようとした青年期。女性が医師になることへの偏見と闘った医学校時代。そして外国人医師としてアメリカで働く医師時代、さらに死への偏見と恐怖を抱く医師達に死の準備教育の意味を認めさせようとした時代。さらにエイズ患者の治療施設をめぐっての地域住民の偏見との戦い。
 彼女の人生は一貫して「戦い」としての人生だったように思える。本書を読んでいると、一人の女性がよくぞこれだけ戦い通したものだと畏怖の念すら湧いてくる。一体何が、そこまで戦い通した彼女を生涯支えたのだろうか。

(3)蝶の謎
 その答えはロス自身が10章で「蝶の謎」として、アウシュビッツ絶滅工場の一つマイダネックを訪ねたときのことを記述している。ロスはこの章の冒頭こう記している。「人に愛と慈悲を語るわたしがいのちの意味にかんして最大の教訓を学んだのは、人間性にたいする最悪の暴虐がおこなわれたある場所をおとずれたときのことだった。」
 ロスはそこで、絶滅収容所を生き残ったゴルダという若い女性と出会い、サンドイッチを分け合い会話を交わす。ロスはそのときの気持ちを「議論する気はなかった、ただ理解したかった。」と書き、なぜあれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだのかと聞いた。ゴダルは答えた。
「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人をアイと慈悲に生きる人に変えることができたら、わたしも生き残った甲斐があるというものよ」
 その言葉を聞いてロスは書いている。「わたしは了解し、別人になってマイダネックをあとにした。人生を最初から生きなおすような気分だった。」

 ロスは、ゴダルを始め、人生で何度か「死」をごく間近に経験した人、「死」と日々向き合っている人々と出会い対話をおこなっている。そしてそこから大きな力を得ている。
 ロスを生涯支えたものはそれなのではないかと思える。

(4)キリスト教教育と関連して
では本書を通して、私達はキリスト教教育と関連して何を学ぶことができるのか。その生涯はあまりに波乱に富んでおり、戦いに貫かれており、とても平凡な生涯を送る私達にまねができるものではない。しかし、そこから確かに学ぶことはあるように思える。キューブラー・ロスという人物の生涯から学ぶべきことは、まず第一に、その「死の五段階説」だろう。死につつある人々の内面を理解するために、彼女の段階説は今でも有益であると思える。
 しかし、本書を読み終えたとき、学ぶべきものとして私は特に以下の2点を挙げたい。
① 死につつある人々と向き合うとき、全てのリソースを使い全面的に奉仕するという姿勢
②共同体的アプローチ、相互の信頼
③人は死の瞬間まで成長し続けることができる。そのための援助を行なうという姿勢

①については、ロスの生き方自身がそれを示している。当初、現場の看護から始まり医師となり精神科医となり、「死の五段階説」、さらに神秘主義を経て、エイズ支援を始める。
ロスは本書において何度も「神」について語っている。しかしそれはいわゆるキリスト教の教義的神学とはほど遠いものである。また本書後半においては、チャネリング、宇宙意識体験、臨死体験などいわゆる“神秘体験”についての記述が多く書かれている。正直、私はそこにはついていけないとまではいかずとも、記述の論旨を理解することが困難だったし、どう受け取っていいのかよくわからなかった。特に後年のロスにとって大事な存在だった“守護霊”に関する記述は、あまりに個人的な事柄ゆえ、記その思いは強かった。自伝において個人的な神秘体験を詳細に記述することの「リスク」をロスは当然承知していたはずだ。精神医学の立場から見れば、それはもはや転向や逸脱であり、すでに科学的合理主義を踏み越えた神秘主義者と批判されてしまうだろう。
 しかしロス自身はその歩みを偶然ではなく必然であり必要なものであると確信している。死にゆく人々とかかわる中で、彼女の認識とアプローチは常に変化していく。ロスは自身が変化すること、医師として受けた職業教育や理論を越えていく(批判者からすれば逸脱していく)ことへの躊躇や恐れがない。
 キリスト教の職業的宗教者として、「死」を間近にした人と向き合うとき、「五段階説」を知識として学ぶことはできるとしても、徹底的に「相手」優位で、そのために逸脱を恐れない、という姿勢は、果して普通の人間に担保できるのだろうか。ともすれば職業的宗教者として、自身が教育を受けその中で生きてきた「ドグマ的神学」の範囲の中で、患者を理解し、接し、向き合おうとしてしまうことはないだろうか。しかし、こと「死」に援助者として向き合うとき、必要なのは、実は最も重要なのは、援助者自身が変化をすることを恐れずに全面的に奉仕するという姿勢なのではないか。ロスの生涯を貫いているのはその姿勢であり、もし学ぶことができるとしたら、その姿勢そのものにあるように思える。

② ロスの生涯を辿るとき、そこには精神医学、「死の5段階説」神秘主義とアプローチは変えながら、
そこには共同体的アプローチが常にあることが感じられる。例えば患者を主役として、医療者、宗教者と共に行なうワークショップ。エイズ患者と共に生活を行なうヒーリングセンター。
それは現代において死とは、病院の面会謝絶の部屋の中で一人で肉体的、心理的に孤立した中で迎える末期患者たちを多く見てきたロスの抗議であるように思える。
 またそこには、カウンセリングルームの中で、援助者と被援助者が1対1で向き合うという形式によって行なわれてきた(若き日にロス自身が大きな影響を受けたと語っている)精神分析的なアプローチへの限界も関係していたのかもしれない。
 そのような孤立した中での死を迎える風潮への抗議と、また次に述べる、「人間は死ぬ瞬間まで成長し続ける、何かの役に立つことができる」ということを追及した結果がこの共同体的なアプローチであるように思える。
 本来、キリスト教の教会、あるいは宗教施設(寺)などは、年齢を超えた人々が定期的に集い出生(幼少洗礼、名づけ)、から死まで全てをつかさどる場所であり共同体だった。その中で若い人間は老いや死に触れる場所でもあった。しかし教会の外と代わらず、今や死は病院にある。葬儀ぐらいしか行なわれない。
日本で上智大学が死生学、ブリーフケアの研究の先鞭をつけて依頼、近年は死生学、スピリチュアリティをテーマにした講座は時々見かけるようになった。しかし、多くの場合、そこに招かれるのは著名は精神科医、医師、宗教者達だ。偉い先生の講演が行なわれ、聴衆は熱心にそれに耳を傾け、ノートをとり、質問を行なう。でもそれだけだ。それ自体に意味がないとは言わない。そしてロスのような当事者を向かえ、その声を聴くというスタイルをすぐにできないのかもしれない。しかし、ロス自身が願ったのは、一般社会から見捨てられた「死に行く者」当事者自身の体験に意味があり、そこから私達は学ばされるものがありその機会をつくる、ということだった。そしてそのためには、参加者の親密で信頼できる関係性が必要であると考え、時を重ねるにつれコミュニティ、場をつくることに力を注ぐようになっていったのではないかと推測される。
 教会の共同体性をいかに取り戻すか。生と共に死をも共有できてこそ真の共同体性があるといえる。
それをどのように構築するか、すぐには答えは見つからないが、ロス自身の生涯は確かにそれを問いかけているように思えて成らない。

③ロスは本書において繰り返し「人は死の瞬間まで成長することができる」「全ては必然である」と協調している。
その原体験は、若き日にマイダネックを尋ねたときの疑問にあるように思える。
ロスは絶滅収容所の壁に、蝶がいくつも描かれているのを発見する。そして「なぜ蝶なの?」という疑問をもつ。ロスはそれから25年間、その問いを問い続けたと書いている。
終章近くになり、ロスはその意味を理解し、はっきりと書いている。
 「学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じ込めている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり・・・美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく・・・そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす」

 マイダネックに描かれた「蝶」は、過酷な肉体状況の中で死を前にし、肉体から解き放たれることへの希望と予感を直感した収容者たちによって描かれたものだったと、ロスは気付く。
 なぜロスにとって「さなぎ」「蝶」はそれほどまでに重要なイメージなのか。それは、蝶が生体として飛び立つとき、それが一つの完成であるということだろう。幼虫、さなぎ、閉じ込められた状態はそのための準備にすぎない。そしてもう一つは、完成した蝶が自由に、美しく飛ぶイメージ。そこへの憧れ、希望というものもこめられているに違いない。
 死が「蝶」として完成した状態ならば、そこに何を恐れることがあろうか?そうロスは言いたかったのかもしれない。

 死を間近にした人への対人援助において、決定的に重要なのは、患者自身にいかに自己有用感を抱かせるか、にあるように思える。個人的な体験だが、昨年夏ある病院で臨床実習を一週間受ける中で、ホスピスの患者さんと連日対面した。4日間の最後、私とその人はとても充足し何かを成し遂げたような気持ちで分かれることができた。(と私は思っている。その人にとってもそうであったと願っている)
 もし、その面接がうまくいったとすれば、それは私自身がとにかく必死だったからだと思う。知識や神学や教義は伝わらなくても、必死さだけは人に伝わる。なんだかよくわからないキリスト教を勉強している若い学生が、毎日ここに来ている。牧師になるらしい。(違うと何度もいったのだが)。だとしたら自分が話をすること、経験を伝えること、こうして合うことも、「キリスト教教育」とやらの何かの役に立つかもしれない。このようわからない若者のこれからの人生に、何か意味をもつかもしれない。
 おそらくその人は、そうして連日接してくれていたのだと思う。もはや、死を待つだけの自分という存在が、ただ私がいるだけで「若者に何かを学ばせる教師」となったのだ。
 今思い出すとその4日間、なにか具体的な知識や経験を教えられた覚えはまったくない。しかしそれは確かに教育だったと思う。そして、それがわずか4日とはいえ、私とその人の間で成し遂げられたからこそ、私達は最後、とても満ち足りた気持ちで分かれることができたのだと、今でも思う。

 繰り返すが、人が自らの生きる意味を感じるのは、「自己有用感」である。自分はまだ何かの役に立つ。誰かに何かを与えられる。誰かの役に立つ。それが人に最後のモチベーションを与える。
 ならば、いかにして、そのような場をつくるか、しかけるか、設定するかの設営が対人援助者にとっての課題となるだろう。
 振り返るとき、ロスの生涯はそのような「しかけ」「場」「設定」をいかに社会に理解させ認知させるかのために戦った人生のようにも思える。そしてそれを成し遂げるためには①でのべた全面的な奉仕、と②共同体性、信頼がベースとなるのだろう。

(5)ロスの最期とまとめ
 本書では記述されていないが、この後ロスは病状が悪化する中で、さらに著作を続けている。そして死期にある自身の様子を録画し公開したという。そこでは、看護師と戦い、死とも戦い続け、死に脅える様子があからさまに現れており、多くの人に衝撃を与えたという。(私自身はそれを未見であるが)
 死の五段階説を提唱し、現代医学において誰よりも多く死を看取ってきたロスの最期がそうであることがショックだったのかもしれない。
 しかし、私はそれこそが「死」の当人にとっての独自性・一回性を表しているように思えて成らない。自身の死を体験するとき、ロスは初めて援助者ではなく、自ら死に行く者となることができたのだ。
ロス自身が、死に行く者に対するとき、そこには全面的な奉仕という姿勢が貫かれている。つまり、死に行く者には無条件で、そうするべき意味があるという確信である。
 だとすると、自身が死を迎えたとき、ロスは自分が無条件で尊重されるべき意味があると、改めて確信したに違いない。しかし、ロスのように死に行く者に全面的な奉仕をできる人物はめったに存在しない。それがロスの死をそのように、ショッキングなものに見せたのかもしれない。
 ともあれ、繰り返すがロスは、生涯闘い、変化を恐れない人物だった。その死においてすら、それは貫かれており、それがロス自身の完成だったのかもしれない。

 

色川武大「男の花道」


色川武大を読んでいる。そういえば、去年のこの時期もそうだった。

 文庫本のちくま日本文学全集版。十数編の短編が収められている。

 

色川武大 (ちくま日本文学 30)

色川武大 (ちくま日本文学 30)

 

 

 


色川が、交流のあった棋士芹沢博文将棋九段への弔辞ともいうべき「男の花道」がよい。

芹沢は奨励会の頃から天才少年として、将来の名人候補とされながら、飲む、打つ、買うの無頼派棋士だったようだ。故藤澤秀行とも気が合ったらしい。
しかし、中原、米長と後輩が頭角を現していく中、次第に追い抜かれて生き、無冠のまま51歳で亡くなった。晩年は、様々なトラブルを起こしたらしい。
親しかった色川がその一面を彼らしい彼にしかかけぬ筆致で描き出している。

 

(引用)
好き放題に生きている。
 いや、私流にいうと、この際、好きなことはなんでもやっておこう、という生き方。

(引用)
どうせ呑むならシャブリだ、といって朝からもう二本くらいあけてしまう。
「ワインは身体にいいんですよ。栄養もあるし。ワインを呑んでいれば大丈夫」
「そうかなァ――」
と私は弱々しく笑う。なにがいいことがあるものか。ワインこそもっとも肝臓にわるい。そんなことは、芹さん、百も承知だ。

(引用)

私はこの図柄を笑わない。ただ、哀しいばかりなのだ。

 


若かりし頃、ばくち打ちとして生きた色川は、将棋という勝負の世界で生きる人間を畏敬、畏怖の念をもって交流していたようだ。そして、芹沢の死を知らされたときの気持ちをこう書いている。

(引用)
まだ、51歳。
哀しい、惜しい、淋しい、いろいろな感情に先駆けて、男の死に方だなァ、という思いが胸に満ちた。しかし、その実感を具体的に説明することがむずかしい。
 私は、芹さんの悪遊びの仲間の一人に誰からも思われている。実際またそのとおりでもあったが、私の内心としては、遊び友だちのつもりではなかった。芹さんは、そんなことを一言も漏らすような人でなかったが、胸の中の深いところで、なにかを決意してしまったようなところがあり、私はそれを漠然と感じていて、しかし、男が深く深く決意してしまったようなことを翻意させる手だてがみつからず、ただただ眺めているきりだった。自分が芹さんであっても、誰の説得も通じない。そんな塊りを手をつかねて見守る。
 その塊りが何だったか、私に断定する術はない。私たちはその話題を一度も口にのせなかった。かりに、死にたい、死ぬ、ということだったとする。それでも私は、見守っているほかはない。片刻も眼を離さずに。
 それしか仕方がない。私は芹さんと、そんなふうな内心を隠し持って、つきあっていた。芹さんはそこいらを感じてくれただろうか。
 その明け方、四時半に訃報をきいた。私はとうとう、一度も、一言も、芹さんの観念的自殺を喰い止める術を得なかった。

 

色川は最後、テレビの取材で感想を問われたときのことを記してこう終る。

「男の死に方だなァ、と思いました」
私はそれだけいった。

 

 

 

そうそうそういうこと。それを言いたかった。

読み手が日々の中、もやもやしているところを、見事に掘り下げ、整頓し、開陳してくれる。色川の文章を読むたびに、その手練手管にうならされる。

彼以外に、このような語り口でかける作家を他にしらない。

それができるからこそ文学者なのだろう。

 

 

色川は優しい人、人に慕われた人と語られる。
たとえばこの文庫では、イラストレーターの和田誠がその交流を語っている。
「どんな話もできて、優しい人だったから、友達はとても多かった。年齢も職業の範囲もやたら幅が広い。色川さんは誰の悪口も言わなかったし、色川さんを悪く言う人もまったくいない。それに若いものが甘えるのを許してくれた」

今まで読んだ限り、ほとんど誰もがこの調子なのだ。逆に怖い。

 

色川のような存在がいたら、彼女も逝かずにすんだのかもしれない。

 

ひどく孤独な人は、決まって三月に逝く。

夏は闇が深く、秋は感傷に過ぎる。冬はさすがにしんどい。

春、この季節が一番ふさわしいのかもしれない。

山田かん「長崎・詩と詩人たち 反原爆表現の系譜」(汐文社) を読む

 

長崎・詩と詩人たち―反原爆表現の系譜 (1984年)

長崎・詩と詩人たち―反原爆表現の系譜 (1984年)

 

 

 

山田かん(1930~2003)は永井隆のいわゆる「浦上燔祭説」を初めて批判し議論を提起したことで知られている。また、長崎県では、戦後を代表する詩人でもある。そして彼の名がかたられるとき、常につきまとったのが「原爆詩人」と言う言葉でもあった。山田かんも1945年8月9日に長崎で被爆し、その後妹を亡くしている。

山田かんが生涯問い続けたのは以下の文章に全てが言い表されている。 

 

『記憶の固執』山田かん 「長崎の原爆記録をめぐって

 (P221) 

詩精神は、どう扱おうとそれは自由なのだから。だがカッコつきの「長崎」に落ちた原爆をうたう場合に長崎に対するそのあいも変わらぬ、エキゾチックな美意識が問題なのだ。だからモチイフは原爆そのものを純正な詩人の魂として、悲しみ怒り追求するのにあるのではなくてあく迄「長崎」にあるように思えてくる。長崎という日本の一つの地点に落ちた原爆が、詩人の魂にある作用を喚起するとき、それは必ず天使とか聖灰とか十字架、マリア像、天国というふうなコトバとのからみあいの中でしか原爆の問題が取りだされず、長崎の郷土性と思われているこれらのコトバとのからみあいの中でしか原爆の問題が取りだされず、長崎の郷土性と思われているこれらのコトバを詩語として抽象し、詩のなかに象嵌することで詩自体としての追及も中途でやめてしまっているといえる。要は詩を美しく、詩は美しかるべきものとしてだけ書く姿勢にある。西欧のキリスト教的伝統が自己内部のものとしてあるわけではなく、原爆をあつかう場合に限って付け焼刃的な原罪意識が出てくるというのは、つまりどういうことなのだろう。さきに引例した詩らしき詩とはその技法において比較すべくもないものではあるが、内部の論理化されない思考の未分化からでてくる政治意識のなさにおいては全く同断であり、長崎ものの流行歌謡でうたわれるような「長崎」のなかに、原爆にのたうった長崎のもつイメージはこの詩集のなかで無抵抗に同化され中和されてしまっている。これは作者の懐旧的な叙情の質に原因する。

(中略)

原爆にも傷つくことなく、それに向って立ち上がることをなし得ないような、感受性の鈍い強固さ、これら惰弱なものを形成させてきた長崎の根強い閉鎖性、東洋的カトリック宗教観の混淆がもたらした奇妙な思考型態は、戦うこと以外に脱却し克服する方法がないのだ。

それは単に個人的なものとしてではなく、闘いとしての文学運動こそが、これらを否定し、新しい文学を長崎に育てる手だてとなるだろう。

 

 

記憶の固執―山田かん詩集・エッセイ集 (1969年)

記憶の固執―山田かん詩集・エッセイ集 (1969年)

 

 

 山田が1984年に出版したのが「長崎・詩と詩人たち 反原爆表現の系譜」である。

私はこの本を、長崎の原爆を考える上で最も重要な著作の一つだと考えている。

そしてそれは長崎とキリスト教、あるいは太平洋戦争と日本のキリスト教を考えるうえで最も重要なテキストの一つでもある。(山田自身は、聖公会の熱心なクリスチャンホームに生まれ幼児洗礼を受けている)

 

「怒りの広島、祈りの長崎」と言う言葉で言い表されるように、広島と長崎における原爆を巡る戦後の、言説・表象は異なる形によって形成されてきた。それは何故なのか?

山田は、長崎においてそれを最も真摯に切実に執拗に考え発現を続けてきた人物である。

その問題意識は以下の三つの文章に全てが言い表されている。

 

(P130 )

 十三年の間を戦争の惨虐の極点として位置しつづけてきた建造物の廃墟を(注:浦上天主堂)「適切にあらず」として抹消するという思想は国を焦土化した責任を探索せずに済ましてしまうというまことに日本的な「責任所在の行方不明」である。

 

 

(P247)

 「被爆」が表現されなければならぬということは詩人にとってもことばにとってもその作品にとっても不幸なことなのである。

 

(P251)

 しかしながらなおかついいたいことは、「原爆」についてうたわれるときにおいても「長崎」となる時、その「長崎的情緒」といわれるものが、何故につきまといつづけるのであろうか?情緒的幻想がそのように創作主体を操作するのであろうか。 

 

 

本書において山田は、何度となく問いかける。

峠三吉原民喜、大田洋子、栗原貞子、多くの原爆に対する怒りを文によりて戦い続けてきた広島に対し、長崎ではなぜ、それが広がりをもって生まれなかったのか?その問題意識が山田が、戦後タブーだった永井隆批判へと駆り立てた。

 そして同時に本書で試みられているのは、広島の詩人ほどに全国的な知名度はなくても、確かに長崎で発せられた反原爆の詩と詩人たちの系譜を丹念に広い集め、体系付けるという、行為である。それをたった一人で、思索し、まとめたのが「詩人・評論者」としての山田かんだったということができるだろう。

 

私はこの本全てを論じるには、あまりに詩的感性にうとく、また山田かん自体を論じるには準備が足りない。

よって、本書からいくつかの詩を引用し、わずかに補足を加えるにとどめる。

 

(P99)

 影のひとびと 塚越 健 (S28・8・9)

 

ぼくは見る 坂の多い凸凹の道を

きょうもとぼとぼ歩いてゆく

かず知れないひとびとの列を

 

ぼくは聴く 空身ひとつの

重さをやっと支えている

そのくるしみのうめき声を

 

かぜが吹けばその影は消え

その声も散ってしまうのだが

 

目をこらせば あちらにも

こんなに身近な足下の小径にも

耳をすませば どこからともなく

 

居るのだ

通り過ぎることが出来ずに

ゆき着く場所もないままに

それぞれがただ

おのれひとりの重さに耐えて

 

春から夏 秋から冬と

もう八年ものあいだ

とぼとぼと歩みつづけているのだ

 

人がこの世に在るかぎり

 

そして地球が亡びぬかぎり

とぼとぼと当てもなく

 

影のひとびとは歩み続けるに違いない

 

 

 

 

(P132)

平和記念像 高木登 (S30・12)

 

君はどうだい 

 僕はあの顔が嫌いだ

或る時は

 くすぐったそうな顔に見えないか

或る時は

 居眠りしている顔に見えないか

或る時は

 名物にされて苦笑している顔に見えないか

それは記念している顔にはどうしても見えない

 その存在の意義が極めて薄いからなのか

この像が何故ここに居らねばならぬのか

君はもう一度

 数千万円を喰った

満ち足りた顔をみてこいよ

前から見ろよ

みくろ菩薩が今にもおどり出しそうな

 グロテスクな格好だよ

横から見ろよ

 それはどう見てもゴジラだよ 

 

(注)長崎は昭和33年に被爆した浦上天主堂は解体された。一部で保存運動はあったが、大勢は当時の市長、田川務の言葉に代表されていた。「原爆の悲惨さを物語る資料としては適切ではないし、平和を守るために存置する必要はない」

 その代わりに数千万円の予算を投じ立てられたのが、彫刻家北村西望の平和の像であった。

山田は、また福田須磨子(1922-1974)の「ひとりごと」という詩を引用している。

 

何もかも いやになりました

原子野にきつ立する 巨大な平和像

それはいい それはいいけど

そのお金で 何とかならなかったのかしら

“石の像”は食えぬし 腹の足しにならぬ

さもしいと いってくださいますな

原爆の後十年を ぎりぎりに生きる

被災者の 偽らぬ 心境です

 

 被爆し生活保護数千円で生活する福田と、文化功労賞を受賞し、戦中は軍のため多くの彫像を作った、日本を代表する彫刻家北村西望の平和の像の間にある落差を山田は鋭く指摘している。

平和祈念像 - Wikipedia

 

(P309)

 童女へ  福田須磨子

 

つぶらな眼を精一ぱい見ひらき

まじまじと見つめる童女よ

 

お前の眼には

私がお化けのように映るのだろうね

 

私がお化けのようにならされた

そんな過程を

いくら説明したって

 

お前にはわかりはしない

だが お前の金色に光った生毛の

ブルブルッとしたその肌に

放射能がふりかかったとき

そのなめらかな肌は醜くひきつるのだ

 

いやその時は何となくても

五年後 十年後 二十年後

いつの日か くさりくさって

私と同じような化物になるのだ

 

そう思うと

お化けのような顔をしていても

どんなに疲れきっていても

原水爆禁止の話をしなけりゃと思うのだ

つぶらな眼を精一ぱいみひらき

まじまじと見つめる童女よ

 

(P332)

ひとびとについて 上滝望観

 

象がいるので

街ではひとしきりざわめき

 

とか なんとか

女の児は着飾って

綿菓子はひとしおふくらみ

 

あそこでもここでも

田舎から 年寄りが出てきて

ひとつ ゆっくりするか

 

原爆のほかは

なんでもええわ

気前よくやらんか

 

きらり

きらり

波はうたい

 

きょう

船が売られていったのは

アフリカのリベリアげな

港をでるとき

サーカスの小屋が揺れたげな

 

ひとびとは

ほう ほうと感心しながら

ひとまわりすると

ここにきてながい鼻にさわりたくなり

しかして慎重にして快楽

 

ひとびとは

やわらかくじぶんを てのひらにつつんで

たもとをしのばせ

それからやっと それらしいあしどりである

 

そして

ひとびとのわずかな隙間に

いつか夕闇がまぎれこんで

いよいよ象の出番となるらしい

 

 

(P267)

菊とナガサキ 被爆挑戦人の遺骨は黙したまま  石牟礼道子 1968・8・11

 

「いわしば焼くごと」

 

原爆のおっちゃけたあと

一番最後まで 死骸の残ったのは朝鮮人だったとよ

日本人はたくさん生き残ったが挑戦人はちっとしか生き残らんじゃったけん どがんもこがんもできん

死体の寄っとる場所で朝鮮人とわかるとさ

生きとるときに寄せられとったけん

牢屋に入れたごとして 仕事だけ這いも立ちもならんしこさせて・・・

三菱兵器にも長崎製鋼にも三菱電機にも朝鮮人は来とったとよ

中国人も連れられて来とったとよ

原爆がおっちゃけたあと

地だが焼けとるけん 誰もなかなか長崎には来つけんじゃった

だが カラスは空から一番さきに飛んできた

うんと来たばい それからハエも・・・

それで一番最後まで残った朝鮮人たちの死骸の目ン玉ば

カラスがきて食うとよ

(略)

十六、七の娘の子たちが

遠い朝鮮から連れてこられて

ひとりも助かった娘はおらんじゃろ

一万人あまりの朝鮮人が ジューッと

一ぺんにやけ死んだやろ あの収容所の下で

六千度の熱で

今から、どげんして調べるとやろか

一番うらみの深か者はぜんぶ死んでしもたナ

 

(注)石牟礼が長崎に来て、朝鮮人労働者から聞き語りをして書いた詩とある。長崎方言を使った詩はやはり圧倒的な迫力がある。山田かんは多くの詩を残しているが、長崎方言を使った詩はほとんどない。そこが山田かんという人物を読み解くひとつの鍵な気がしている。

 山田は、多くの詩を引用し長崎の反原爆の系譜を辿りながら、以下のように記している。

 

(P349)

 そのような不可知の部分ともいえる長崎の内面を見届けようとする詩人は、あるいは長崎よりも域外に在る詩人において書きつがれているような気がしてならない。

 被爆地に於てはすでに見えなくなっている事物を通してというよりも、自身の構築する詩的造形によって長崎を見続けようとする営為である。

 それは非常に困難な観念の操作をともなうものであろうが、なおかつそれをした彼方にある

長崎を直観しようとする鋭い視線は時の経過による古びた皮膜をはぎとったところにこそ存在する

この被爆の土地の意味を、さらに新たに教示しているということができる

それは或いはこの土地にある詩人たちの慣れ合った果ての鈍い反応に対する刺突でもあるのかもしれない。

 

(P381)

 むしろ、作品としての実質を持つものは長崎以外の土地で長崎を冷たく見すえるところから産みだされているように思われる。

 

 

(付記)

 長崎に生まれ長崎に生きた人物の、これほどに厳しい、言葉を、私は他にしらない。

最後に、そのように書いた山田自身の詩を紹介してとりあえず本稿を終える。

 

 

山田かん全詩集

山田かん全詩集

 

 

「切支丹史」 山田かん

 

沿道には見物が例の如く堵を為して「あら切支丹も人間よ目もあれば鼻もあり

口もある」等と互いに言い罵るも腹立たしい(浦上切支丹史)

 

炎天下社会党 炎天下核武装 炎天下中蘇論

炎天下共産党 炎天下原水協 炎天下不可知

炎天下総評系 炎天下核戦争 炎天下県原水

炎天下中立系 炎天下社青同 炎天下原水禁

炎天下市原水 炎天下日青協 炎天下核兵器

炎天下組合旗 炎天下三見連 炎天下地婦連

炎天下被災協 炎天下細分裂 炎天下活動家

炎天下統社同 炎天下社革同 炎天下再統一

 

炎天下のまひるはおし展げられ

凌辱のように紅にそまって倒れていた

あるいは倒れてなんかいなかった

サリイのように身体に旗を巻きつけて

変なデザインの金属片を楯にして目をいからせ

ヘイワ へいわ 崩れぬ塀は と

さがし求めていたのだ

 

炎天下

帰りは長距離バスのなか

帰りは遊覧バスのなか

折詰弁当ぱくついて空折は窓外に舞い

風にのって宙返り沿道に降りつもる

へいわのためなのだ

そして皆はチリチリになって去っていく

 

焦ることには意味がある

集ることは激しい主張なのだ

 だが

ほの燃える魂のような炬火を捧げて

夜のなか 静かに歩み続けることも

より激しい身振りではないのか

聖母の祈りをとなえながら

足をひきずる老婆を俺はみている

吹き消えた炬火に気づかず

 めでたし聖寵みちみてるマリア

 主は御身のうちにやどらせ給う

低く獣のように呻きながら

涙をながしている老婆にそって

流配される切支丹をはじめて見るように

俺は沿道を少しずつ移動する

大弾圧浦上四番崩れ

そして浦上原爆崩れのなかにも

なお生き残った老婆と

この数百人の一人一人のもつ炬火の流れは噴きあげる

炎の蛇のように

道にあふれ夏の九日の夜気に揺れ

死に絶えた切支丹の夜のように静かだ

小さい児は年上の児に小突かれて歩み

手には炬火

すこし調子外れのソプラノでアベマリアを唱い

火が映っている瞳で沿道を不思議に見る

崩れ去った部落は

夜のなかだけで精気をとりもどし

四方の谷 谷からより添い

共同体のように唱和をつづけながら

悲しみの老婆をささえ

悲しみの男をささえ

悲しみの女を 兄弟をささえ

二十年前の焦熱を身に湧きかえさせ

白衣の神父 白衣の修道尼を前列に

十字架をかかげ

八月九日の夜をとぎれることなく

歩んでいくのだ

目も口もある切支丹たちは叫ぶことなく

聖壇のまえに近づき今は静かに展開しつつある

鼻の先に接した広場には

陽気な盆踊りに浴衣の男女が汗ばんでいる

レコードがこだまする

白い神父の声がその合間にとぎれる

今日は祭でなく叫びでなく祈りの日です

貴方たちがここにあるかぎり世界に大事な

メッセージを送るのです 平和は聖なる

言葉です そして平和は一人を残すことなく愛することです

 

浦上に夜は更けていく

もうあらゆる言葉は消え去った

鈴懸をそよがせて風だけが動きはじめた

長距離のバスは未だ走りつづけているか

蛍光灯の窓をボンボリのよう連ねて-

求めているものは祈りのように同じなのに

炎天下炎天下

そしてこの夜も明日も

ほんとうに苦しい日日だ

 

長崎のキリスト教を知るための入門書20冊と長崎を知るための入門書20冊

日本のキリスト教史を考えるうえで長崎を避けて通ることはできない。

というわけで、ながさきのキリスト教、そして長崎をしるための小説、本等をそれぞれ約20冊

上げてみた。一部未読を含む。

これだけ読めば、長崎初級ぐらいにはなれる、と思う、たぶん・・・。

 

 

①『日本の教会をたずねて(別冊太陽) 八木谷涼子

 

キリスト教界の鬼才八木谷涼子さんが取材した日本の教会のムック。特に長崎市周辺、五島列島カトリック教会も美しい写真入で紹介されていて読んでるだけでしゃーわせ。

なお長崎の教会群は世界遺産申請をおこなっているので、もしかしたらもしかするかもしれない。そしたらぜひ復刊してほしい・・・。

日本の教会をたずねて (別冊太陽―日本のこころ)

日本の教会をたずねて (別冊太陽―日本のこころ)

 

 

② 同2

 

日本の教会をたずねて2 (別冊太陽 日本のこころ)

日本の教会をたずねて2 (別冊太陽 日本のこころ)

 

 ③「浦上四番崩れ 明治政府のキリシタン弾圧」 片岡弥吉 ちくま文庫

  片岡弥吉(1908~1980)は長崎出身でカトリックの純心大学教授として、長崎の歴史、特にキリシタン研究で知られ、著作は多数。長崎のキリスト教を知るならまずはここらから。

浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧 (ちくま文庫)

浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧 (ちくま文庫)

 

 ④「かくれキリシタン 歴史と民俗」 片岡弥吉 NHK出版

 

かくれキリシタン―歴史と民俗 (NHKブックス (56))

かくれキリシタン―歴史と民俗 (NHKブックス (56))

 

 

⑤「ある明治の福祉像 ド・ロ神父の生涯」片岡弥吉 NHK出版

  ド・ロ神父はフランス出身。長崎市内や外海地方などで、明治期の福祉創世期に大きな足跡を残した。

ある明治の福祉像―ド・ロ神父の生涯 (NHKブックス (276))

ある明治の福祉像―ド・ロ神父の生涯 (NHKブックス (276))

 

 

 ⑥「カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容」 宮崎賢太郎 吉川弘文館

 宮崎(1950~)は純心大学教授。現存する中ではカクレキリシタン研究者の第一人者といっていいと思う。

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

 

 

 

⑦「沈黙』 遠藤周作 新潮社

  キリシタン弾圧を描いた、いわずとしれた名著。遠藤はこの作品でノーベル文学賞候補になったが、そのキリスト教解釈の独自性ゆえに西洋人から評価されず受賞を逃がしたという説もある。「この国は沼地だ。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる」

はあまりにも有名。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 ⑧「女の一生」 遠藤周作 新潮社

  明治維新後のプチジャン神父による再布教、浦上信徒の再発見の次代を背景にした時代小説。沈黙ほど有名ではないが、名作

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

 

 ⑨「聖水」 青来有一

  2001年芥川賞受賞作品。長崎を舞台に作品を書き続ける青来は、長崎市の職員でもある。2005年に市平和推進室長に就任。

聖水 (文春文庫)

聖水 (文春文庫)

 

 ⑩「爆心」 青来有一

  同上。2007年伊藤整文学賞谷崎潤一郎賞受賞。青来がキリスト教徒であるかは私は知らないのだがその作品には色濃く、キリスト教が根強く土着した長崎の風土を匂わせている。

爆心 (文春文庫)

爆心 (文春文庫)

 

 ⑪「この子を残して」 永井隆 アルバ文庫

  原爆で被爆し、長崎大学医学部医師として被爆者救護活動に関わったカトリック信徒の永井隆の著作。映画化、歌にもなりある程度以上の年配の方でその名を知らない人はいない。同時に彼の原爆のキリスト教的解釈は「浦上燔祭説』としてその後現在に至るまで長崎を根強く支配することになった。浦上燔祭論については、以前書いたこのあたり参照

http://dolores.hatenablog.com/entry/2014/07/20/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%A8%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B_%EF%BC%8D%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%A8%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E7%87%94

この子を残して (アルバ文庫)

この子を残して (アルバ文庫)

 

 ⑫「長崎の鐘」 永井隆 アルバ文庫

 

長崎の鐘 (アルバ文庫)

長崎の鐘 (アルバ文庫)

 

 ⑬長崎原爆論集 山田かん 本多企画

  荒野の聖人とされ、戦後長崎において永井隆批判はながらくタブーだった。はじめてその先鞭をつけたのが諫早在住の詩人山田かん(1930~2003)だった。1972年に発表した「招かざる代弁者 永井隆」を納めた論集。

長崎原爆・論集

長崎原爆・論集

 

 

そうえいば2011に出た「コレクション 戦争×文学 ヒロシマナガサキ」にも山田かんの「浦上へ」が収録されていて驚いた。

 

 

ヒロシマ・ナガサキ (コレクション 戦争×文学)

ヒロシマ・ナガサキ (コレクション 戦争×文学)

 

 

⑭「長崎にあって哲学する」 高橋眞司 北樹出版

  長崎大学文学部教授として哲学者の側から、永井隆の思想を「浦上燔祭説」と名づけ、批判したのが高橋真司である。長崎に住んでキリスト教を考える上で避けては通れない一冊。本書によると高橋自身もキリスト教徒のようだ。

長崎にあって哲学する―核時代の死と生

長崎にあって哲学する―核時代の死と生

 

 ⑮「続・長崎にあって哲学する」 同

 

 

続・長崎にあって哲学する―原爆死から平和責任へ

続・長崎にあって哲学する―原爆死から平和責任へ

 

 

 

 

⑯渡辺千尋(1944~2009)は、長崎出身の版画家・ノンフィクション作家。本作は2001年の小学館ノンフィクション賞優秀賞受賞。1597年に有家で制作された銅版画に隠された二十六聖人殉教との関わりの謎を解き明かす。著者はそのために京都から長崎西坂まで800キロの殉教者の道を実際に歩き、復刻を目指した。大変な力作

 

殉教(マルチル)の刻印

殉教(マルチル)の刻印

 

 ⑯「ゆるす思想(こころ)ゆるさぬ思想(こころ) 若い世代と語る平和・原爆・いま・未来」

 本島仁 こうち書房 (未読)

 

  昭和天皇の戦争責任発言をし、1990年に右翼から銃撃された元長崎市長の著作。本島はカクレキリシタンの子孫で、カトリック信徒でもある。なお、本島の後任の伊藤一長市長は、2007年に銃撃され死亡した。2代続けて首長が銃撃された事件は世界でも他にあるのだろうか・・・。 

ゆるす思想(こころ) ゆるさぬ思想(こころ)―若い世代と語る平和・原爆・いま・未来

ゆるす思想(こころ) ゆるさぬ思想(こころ)―若い世代と語る平和・原爆・いま・未来

 

 

 

 

⑰「日本二十六聖人殉教記」 ルイス・フロイス 聖母文庫 (未読)

  長崎駅から徒歩5分の岡の上にあるのが二十六聖人殉教地。豊臣秀吉によって、京都から800キロを引き回されここで処刑された。

 

日本二十六聖人殉教記 (聖母文庫)

日本二十六聖人殉教記 (聖母文庫)

 

 ⑱「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄 」 岩波文庫 (未読)

  1549年に鹿児島に渡来したイエズス会フランシスコ・ザビエルは1550年から平戸に入り宣教活動を行った。

 

 

 

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 (岩波文庫 青 818-1)

聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻 (岩波文庫 青 818-1)

 

 (2)長崎を知るための入門書

①「目で見る長崎市の100年」 越中哲也 郷土出版

  越中哲也(1921~)は、長崎の郷土史家の第一人者。長崎ぶらぶら節の古賀十二郎の孫弟子にあたる。テレビの長崎くんち精霊流しになると必ず解説者で呼ばれる。

 彼の名前を知らない長崎人はもぐりといっていい(笑)

目で見る長崎市の100年 (目で見る長崎県の100年シリーズ)

目で見る長崎市の100年 (目で見る長崎県の100年シリーズ)

 

 ②「長崎乱楽坂」 吉田修一 

  吉田修一長崎県出身。昭和の市内の地方侠客の家の没落を淡々と描いた、日本版アッシャー家の崩壊、長崎の鬼龍院華子の一生、とでもいうべき大傑作。

 

映画化されないかすら

 

 

長崎乱楽坂 (新潮文庫)

長崎乱楽坂 (新潮文庫)

 

 

③「横道世之介」 吉田修一

  長崎から上京し、東京の大学に入学した男の子の青春小説。個人的には21世紀最高の、平成の三四郎とでもいうべき大傑作。大村に上陸したボートピープルベトナム人のエピソードなど、昭和の長崎の青春を感じさせる。

「世之助は長崎を舞台にした映画を何本も見てきた。でもそのたびに、それは現実とはどこか違っているように思える」

 

横道世之介 (文春文庫)

横道世之介 (文春文庫)

 

 ④「悪人」 吉田修一

  映画化もされた朝日新聞掲載の新聞小説。平成の「冷血」とでもいうべき傑作。現代の地方都市(長崎)に住む若者(映画はツマブキ君)のどこにもいけない閉塞感が超リアル。映画も、深津エリ、きききりん、江本明、満島ひかる、と演技派が脇を固めていてすごいよかった。

悪人(上) (朝日文庫)

悪人(上) (朝日文庫)

 

 

 

④「紫の履歴書」 三輪明宏

 三輪は、長崎の歓楽地、思案橋の丸山の遊郭置屋の息子。そして載ってる少年時代の写真は、男が見てもぞっとするほどの美青年。恋人の三島由紀夫に「聖なる怪物」と称された彼の原点がここにある。 

紫の履歴書

紫の履歴書

 

 

⑤「戦艦武蔵」 吉村昭

  長崎港にあった三菱造船所で、船中秘かに作られていた戦艦武蔵の建造の時代を、膨大な史料を元におった力作。長崎は戦中、日本で最も重要な軍事都市だったという過去もある。

 

戦艦武蔵 (新潮文庫)

戦艦武蔵 (新潮文庫)

 

 

 

⑥「軍艦島

  大正時代、炭鉱の島として開発され1974年の閉山まで栄えた島、端島通称軍艦島。最近は、10年ほど前までは渡航は禁止されていて、釣船ぐらいでしかいくことはできなかったが、最近は観光名所と整備され上陸も可能となった。写真集も多数出ているが、往時の姿を偲ぶことができるこの写真集がおススメ。

あの頃の軍艦島

あの頃の軍艦島

 

 

⑦「遠い町並みの日々」 カズオ・イシグロ

  現代英米文学を代表する作家、いまやノーベル文学賞候補の声もあるカズオイシグロは、長崎市に生まれ5歳までを過ごした。石黒が戦後の長崎市内を舞台にして書いた名作。

山に囲まれた陰影の深い、あの町の雰囲気が翻訳越しにもよく伝わってくる。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

 

 

⑧「とんちんかん人形」 

  「マルチルの刻印」の著者、版画家渡辺千尋が、長崎市内に伝わる、頓珍漢人形の歴史を追ったノンフィクション。蓮如賞受賞作品。渡辺の文章には、ノンフィクション作家やジャーナリストにありがちなレトリックのためのレトリックにおぼれない手触りがある。それはやはり、版画家という実際に肉体を使う芸術家の手がつむぎだす文章だからなのだろうか。65歳の死去はまだまだ作品を書いて欲しかったと思うと、とても残念だ・

ざくろの空―頓珍漢人形伝

ざくろの空―頓珍漢人形伝

 

 

⑨「切羽へ」 井上荒野 (未読)

 井上光晴の娘、芥川賞作家の井上荒野も、長崎の元炭鉱の町を舞台にした恋愛小説がいくつかある。でも読んだことないっす・・・

  

切羽へ (新潮文庫)

切羽へ (新潮文庫)

 

 

⑩ 井上光晴

 井上光晴(1926~1992)は、元共産党活動家で、70年代にさせ許に「文学伝道所」を開き、後進の育成に力を注いだ。炭鉱や戦争や差別をテーマにした作品も多い。長崎の代表的な文学者の一人。でも読んだことないのでどれがお勧めか分かりませぬ。誰か教えてください。

 ちなみに「ゆきゆきて神軍」の原一男監督の「全身小説家」の主人公。こちらも未見ですが・・・。

明日―1945年8日8日・長崎 (集英社文庫)

明日―1945年8日8日・長崎 (集英社文庫)

 

 

 

 

⑪「長崎ぶらぶら節」 なかにし礼 新潮社

  長崎市一の繁華街、思案橋近くにかってあった丸山遊郭街を舞台に、郷土史家古賀十二郎と、愛八の人生を描いた小説。映画にもなりましたね

長崎ぶらぶら節 (新潮文庫)

長崎ぶらぶら節 (新潮文庫)

 

 

さだまさし

  長崎では毎年8月頭に、稲佐山の麓で、「さだまさしコンサート」が、20年以上も開かれている。8月、せっかくの夏休みなのに原爆や戦争のことばかり聞かされる子供のために、何か楽しい思い出をつくってあげたい、と。さだまさしが始めたコンサートに数万人が集う。入場料もなにもかもただ、結構ゴージャスなゲスト(今年は加山勇三、山崎まさよし、らしい)も、そんなさだの熱意に応えて、ただでやってくる。(毎年数千万は私費を投じているらしい)、8月の長崎の風物詩の一つとなっている。

  歴史、家族、愛、戦争、人生、そして長崎を歌う、さだまさしは、だから長崎人にとってスターなのだ(たぶん)

 

 ⑬街道をゆく 肥前の諸街道

 司馬は生前、各地の郷土史家の下を訪ね、話を聞き、史料を見ながら歴史小説を書いた。てっとりばやく長崎を知るには、やはりはずせない。

 

街道をゆく 11 肥前の諸街道 (朝日文庫)

街道をゆく 11 肥前の諸街道 (朝日文庫)

 

 

 ⑭

 

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)

 

 ⑮「普賢なりやまず」 鐘ヶ江管一

1990年の噴火で、91年に火砕流で20人近い方がなくなった、島原市長の手記。

実は未読。

 

 

 

普賢、鳴りやまず―ヒゲ市長の防災実記763日

普賢、鳴りやまず―ヒゲ市長の防災実記763日

 

 

さだまさしと並ぶ長崎がうんだスターが福山雅治。なんか長崎のことかいてあると思う。未読・

 

別冊カドカワ 総力特集 福山雅治 (カドカワムック 311)

別冊カドカワ 総力特集 福山雅治 (カドカワムック 311)

 

 

⑰「蝶々さん 上」 市川森一 講談社

  長崎が生んだ国民的脚本家、市川森一が、長崎を舞台に、アメリカ人士官とと没落氏族礼状の蝶々さんの悲恋を小説化した作品。いうまでもなく原作はプッチーニのオペラ、マダム・バタフライである。未読。

蝶々さん 上

蝶々さん 上

 

 

 ⑱ 『死の同心円 長崎被爆医師の記録」 秋月辰一郎

長崎大学医学部出身で、被爆者治療や反核運動に取り組んだ秋月辰一郎の著作。長崎の原爆を考える上で最も重要な史料の一つ。

死の同心円―長崎被爆医師の記録 (長崎文献社名著復刻シリーズ 2)

死の同心円―長崎被爆医師の記録 (長崎文献社名著復刻シリーズ 2)

 

 ⑲ 「花いちもんめ」 谷川史子

 個人的に25年来のファンである長崎出身の、漫画家谷川史子さんのデビュー作。長崎の八百屋の息子の高校生の恋愛を描いた表題作ほか、長崎を舞台にした作品がいくつか。

 中高6年間男子校の私はね、妹の読むりぼんをこっそり読んで、その満面の笑顔と、つねに走る少女たちのファンになってから、学ランで本屋にこっそり買いにいって、いつも赤面しながらコミックをかってたわけですよ、ほんとにもう・・・(汗)。まさかこんなに長いこと書き続ける漫画家になるとは思わなかった。

 

 

 

花いちもんめ (りぼんマスコットコミックス)

花いちもんめ (りぼんマスコットコミックス)

 

 

神学部に行きたい奇特な人のための0からの院試対策あるいは神学入門の入門書

神学校や神学部に行きたいという奇特な人がいたとする。しかし、どんな本を読んだらいいのかわからない。そんな人に参考として基本文献をあげみる。想定としては、社会人入学で神学部を目指す人か、学部で1,2年程度神学をかじって、大学院入学を考えている人のための基礎知識の整理ぐらいを対象とする。(プロテスタント神学部)私の場合は、神学部に行こうと思い始めてから半年程度、週末土日にここにマクグラスシリーズは一通り読んだ程度で、社会人入試は合格し、なんと奨学金をいただいた。

 

 (1)キリスト教超入門

まずははじめに無条件にお勧めなのが、マクグラスの「キリスト教総説」、

アリスターマクグラスはイギリス聖公会、オックスフォードの神学者。様々な入門書、概説書を書いており、また元々は分子生物学で博士号を取った後に神学に転じたので、「科学とキリスト教」や、「神は妄想か?」などの著作がある宗教否定派のノーベル賞学者リチャード・ドーキンスとの対論なども出版している。いずれの著作も非常に評判はいい。

現代における、神学入門書には最適というか、日本語だとまずはほとんどマクグラス一択となる。(佐藤優もそう書いていた)

この本では、キリスト教の歴史、教義の基礎、典礼、生活など非常にわかりやすく書いてあり

キリスト教を何も知らない人から、ある程度の知識がある人まで、キリスト教とはなんぞや?ということをきちんと整理できる点で非常にお勧めだと思う。まずはこの一冊。(ただし絶版でアマゾンマーケットプレイスでは2万のプレミア価格。市立図書館レベルならたぶんあると思うので借りるのがお勧めかも)

総説キリスト教―はじめての人のためのキリスト教ガイド

総説キリスト教―はじめての人のためのキリスト教ガイド

 

 

神学とは何ぞや?と思い始めたらこれ、まあ3時間もあれば読み終わる。字でかいし。

とりあえず神学は大きくわけて4つあることを知ろう。

①聖書神学 いうまでもなく聖書。新約(ギリシャ語)、旧約(ヘブライ語)必須、あとラテン語

        そして2000年蓄積された聖書の解釈の蓄積を学ぶ。

②歴史神学 教会史、キリスト教史、日本キリスト教史など。歴史的な面からの研究

    

③組織神学 わかりにくいがシステマティックセオロジー、つまり体系神学。西洋哲学や

        現代神学と交差する。

④実践神学 教会をどう運営するか、信徒や他者とどう接するか、礼拝の形式などなど

         臨床心理、カウンセリング、精神医学、福祉、介護などと交差する。

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

 

ついでに この2冊も読むと20世紀を代表する神学者カール・バルトの意義と背景、あとは神学ってのは小兪考え方するのね、ぐらいは少しだけ見えてくる。2冊あわせて8時間ぐらい?

 

 

はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学 (NHK出版新書 336)

はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学 (NHK出版新書 336)

 

 

(2)神学入門のための入門書

佐藤優はあくまで読書レベルなので、 学問レベルの入門書を読む前に最適なのがこれ。

神学の重要テーマについて、非常に懇切丁寧に書かれている。同じくマクグラスの「キリスト教神学入門」への足慣らしとしては最適。著者が同じため、スムーズに入っていけると思う。

 私が始めて読んだ神学入門書はこれだった。電車の中で読んでいて、神を「信じる」とはただ無条件に妄信することではなく、「信頼」を含むのだ。という文章になぜか泣けるほど感動した。今思うとなぜかもう忘れたが(笑) 

 

神学のよろこび―はじめての人のための「キリスト教神学」ガイド

神学のよろこび―はじめての人のための「キリスト教神学」ガイド

 

 

(3)やっと神学入門

 ほんで、これ。ぶっちゃけ、この本をすべて理解して、頭の中で整理されていれば、日本のプロテスタント神学部ならまあ受かると思う。しかし、歴史、聖書、組織、少し実践と800Pに相当つまっているので、読破するだけでもそう楽ではない。ちなみに、佐藤優は入学前に英語版

読んどけと書いていたが、私にはとても無理だった・・・。

キリスト教神学入門

キリスト教神学入門

 

 (4)プロテスタントの歴史を学ぶ

 

キリスト教神学入門」よりは読みやすいのが、以下の2冊。

プロテスタント思想文化史」は、ルターにはじまり、プロテスタントの歴史を概観し、さらにペンテコステ福音派、もはや白人の宗教ではなく、アジア・アフリカの第三世界の信徒が多い現代のプロテスタント信仰をも一望する。非常に読みやすく、かつ内容は濃い。

プロテスタント思想文化史―16世紀から21世紀まで

プロテスタント思想文化史―16世紀から21世紀まで

 

 

 マクグラスの歴史神学の入門書。こちらも「神学入門」よりは読みやすい。

ちなみに、彼の著作は結構同じ内容を使いまわしているが、そこは復習になってありがたいなぁと思って読もう(笑)

 

キリスト教思想史入門―歴史神学概説

キリスト教思想史入門―歴史神学概説

 

 

(5)キリスト教

キリスト教史についての著作はやわものから専門書までそれなりにあるが、内容の広さ、読みやすさ、面白さで現状最もお勧めなのが、フスト・ゴンザレスの「キリスト教史」 。ゴンザレスはキューバ出身のプロテスタント教会史が専門。この本はとにかく物語のようにすらすらと読めるのに、内容は非常に深い。また特に、上巻の後半の南米のキリスト教について非常に詳しい。世界史においては、コンキスタドールによる南米征服の共犯者として、あるいはせいぜいラスカサスによる原住民保護が語られる程度では、ないだろうか。私もそうだった。しかしこの本で、実は南米では、ドミニコ会イエズス会が世界宣教を巡り争っており、特に多くのイエズス会士が、原住民保護を訴え、ポルトガル商人から抵抗を受け犠牲者を出していたことなど初めて知る事実が多かった。また原住民保護に一生を捧げ、聖人とされた、クラヴェルに関する記述などは圧巻の筆致である。ただし、現代に入ると、ゴンザレスの専門であるエキュメニカル運動にページが多く割かれ、やや薄いのが残念。

 

 

 

キリスト教史 (上巻)

キリスト教史 (上巻)

  • 作者: フスト・ゴンサレス,石田学
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キリスト教史 (下巻)

キリスト教史 (下巻)

  • 作者: フスト・ゴンサレス,石田学,岩橋常久
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ユダヤ人の歴史)

キリスト教を学ぶということはある意味、ユダヤ人のことを学ぶことでもある。なにせイエスも旧約の登場人物たちも全部ユダヤ人なのだから。

そのユダヤ人の旧約から現代のイスラエルまでを、ざっと押さえるのに最適なのは、ポール・ジョンソンの「ユダヤ人の歴史」3冊。とにかく物語のようにすらすら読める。そして、キリスト教成立以来、中世、近世、近代、現代とずっとユダヤ人が迫害されてきて、それがナチスホロコーストにつながることが見えてくる。

ただし、ジョンソンは他の著作もそうだが、研究者ではなく、ジャーナリストなので、根拠や引用を示さず結構乱暴な結論を下す。なので、まあまずは入門のための「物語」として読むべきだと思う。

 

ユダヤ人の歴史 古代・中世篇―選民の誕生と苦難の始まり (徳間文庫)

ユダヤ人の歴史 古代・中世篇―選民の誕生と苦難の始まり (徳間文庫)

 

 

 (20世紀の神学)

おすすめはツァールントの「20世紀のプロテスタント神学」。ツァールントは神学校で学んだが、神学者ではなく、メディアで働いていたらしいので、とにかくわかりやすい。

私もまだ上巻を読んでいるだけなのだけれども、カール・バルト、エミール・ブルンナー、モルトマン、ゴーガルデン、ボンヘッファー、ブルトマン、ティリッヒ、とWW2前後のビッグネームの思想、議論がばっちり抑えられる。

 まぢでおすすめである。

20世紀のプロテスタント神学 上

20世紀のプロテスタント神学 上

 

 

  ただい上記の本は、1960年代に書かれたので、その後がない。そこを知りたかったら

これ。黒人神学、フェミニスト神学、解放の神学、ポストモダン神学、プロセス神学etc1960年以降一気に裾野が広がった現代神学の世界を一望できる。

 

現代神学の最前線(フロント)―「バルト以後」の半世紀を読む

現代神学の最前線(フロント)―「バルト以後」の半世紀を読む

 

 ただし、現代神学を押さえるには必然的に哲学、現代思想をある程度知っていないとさっぱりわからない。ので、とりあえずこれ。まあ現代思想については他にもいい入門書はあると思うので、よくわからないけども。

現代思想入門 グローバル時代の「思想地図」はこうなっている!

現代思想入門 グローバル時代の「思想地図」はこうなっている!

 

 

 (7)聖書学

 新約聖書学の一冊めにはこれがわかりやすい。

新約聖書概説

新約聖書概説

 

 んで、あとはボルンカムぐらいよんどけばいいのではと。

 

新約聖書 (現代神学の焦点 6)

新約聖書 (現代神学の焦点 6)

  • 作者: ギュンター・ボルンカム,佐竹明
  • 出版社/メーカー: 新教出版社
  • 発売日: 1972/08
  • メディア: 単行本
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 (8)旧約聖書

旧約聖書学はこれ一冊でというのがない。新約よりはるかにテキストの量、歴史の範囲がひろいから。まずはこのあたりで旧約の時代をおさえよう。

聖書時代史―旧約篇 (岩波現代文庫)

聖書時代史―旧約篇 (岩波現代文庫)

 

 

 最近でたこれもあわせて読めばなおよし。

聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書)

聖書考古学 - 遺跡が語る史実 (中公新書)

 

 

 (9)日本キリスト教

 日本キリスト教史ももちろん本はやまほどあるが、院試レベルだとそんなに細かいことはでない。とりあえず3時間で読めるこれあたりで。著者の鈴木範久は立教大学教授で、内村鑑三が専門。非常に読みやすい。

日本キリスト教史物語

日本キリスト教史物語

 

 

 (10)キリスト教辞典

 とりあえず辞典を一冊買っておきたいならこれ。研究者や院生ですら、「岩波キリスト教辞典はけっこう間違いが多い」などとのたまうが、7000円ぐらいで買えて、情報が新しいのはこれしかないので仕方がない。もっててもちろん損はない。

 

岩波キリスト教辞典

岩波キリスト教辞典

 

 

 (まとめ)

と、結構いろいろ挙げたが、まずは上記のマクグラスをしっかり読めば、神学部の編入(3年)、か院試の社会人ならまあなんとかなるのではないかと思う。

 語学は・・・、がんばって勉強してください。

ちなみに責任はとりませんけどね。

神学部にいきたいなどという奇特な人なのだから、信頼できる牧師先生にいろいろ教えてもらってください。

最後に、とにかくなにせ、神学書なんて日本では全くうれないから高い。上記を買ってそろえればたちまち10万は超えると思う。神学部に入れば、とても買えない高い本が図書館でいくらでも借りて読める。それだけでも行く価値はある!かも・・・しれない。

(終)

内村の『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読む -武田清子の土着論を通して

宗教学特殊講義                        

 

論題:『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読み比べる -武田清子の土着論を通して

 

 

 

 

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

 

 

0 はじめに

 本学期にこの授業では内村鑑三の『代表的日本人』を通読してきた。その中で私が感じたのは、現代の視点からこの著作を読むとき、時折経ち現れる「わからなさ」「ずれ」である。しかし、その「ずれ」こそが、逆に明治時代、西欧列強に伍して富国強兵を進める非キリスト教国の日本を、プロテスタントキリスト者としてなんとか説明、弁証しようとした内村の意識や思想を感じさせられて興味深く、読むものに様々なことを考えさせる。

 文芸評論家の若松英輔は『内村鑑三を読む』(岩波ブックレット)の中で、こう記述する。

 

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

 

 「未だに私たちはこの得意な人物を、宗教、キリスト教あるいは近代日本といった柵の向こうに眺めてはいないだろうか。格子の中にいるのは内村ではない。私たちの方である」

 著作を読むときの「ずれ」が、逆に現代を生きる私の歴史観、信仰観を逆照射し、問いかけてくるような思いに時に捉われることがしばしばあった。

 あるいはこの「ずれ」は、現代から内村の特に『代表的日本人』を読む際二重のフレームを通していることとも関係があると思われる。それは①明治との100年以上のギャップ②この著作が英語で海外に向けて出版されたものを日本語に再翻訳して読んでいる、ということである。

 いずれにしろ私はこの「ずれ」をどう捉えるかが、内村を読む鍵であり、最も興味を感じるところなのである。

本論では、武田清子の日本のキリスト教土着論を踏まえたうえで、『代表的日本人』と並び、明治期に日本人が海外に向けて英語で著述し、現代でも日本人論の原点として読まれ続けている、新渡戸稲造の『武士道』を通して読み、比較することで、その特徴を探ることを目的とする。なおこの両書の比較に関しては、既に多くの研究があると思われるが、本論では私自身が両書を読んで感じたことを率直に論じていきたい。

 

Ⅰ、『代表的日本人』と『武士道』の経緯・反響

 戦前、日本人がその文化、思想を英語で海外に紹介した書籍としては、内村の『代表的日本人』(『Representative Men of Japan』1908)、新渡戸の『武士道』(『BUSHIDO』 1900)、さらに岡倉天心の『茶の本』(『The Book of Tea』 1906)の三冊が代表的なものとして挙げられる。『代表的日本人』は1894年に出版された『Japan and the Japanese(日本及日本人)』の改版である。鈴木範久の解説によると、原著が日清戦争の最中に書かれていたのに対し、改版時は日露戦争の後であり、「絶対非戦論」の立場を明確にしていた内村は思想的に変化しており、原版の収録文の取捨選択や序文にその変化が見られるとされている。英語の他ドイツ語、デンマーク語、また鈴木によると1925年の日記にフランス首相クレマンソーが本書を読み日本に行き内村と話したい、と語ったことを伝えられ嬉しく思った、という記述があることからフランス版も存在したようだ。

 一方『武士道』は新渡戸全集解説によると1900年にフィラデルフィアの出版社から出版された。その後、NYの出版社で増訂され、ドイツ語、ポーランド語、ノルウェー語、スペイン語、ロシア語、イタリア語、ボヘミア語、他欧州の主要言語、中国語さらにはインドのマラティ語にも翻訳されという。反響として代表的なのは、同著が当時日露戦争の講和の仲介に乗り出していたアメリカ大統領セオドアルーズベルトへの影響である。

 特使としてアメリカに送られた貴族院議員金子堅太郎は、ハーバード大学留学時にルーズベルトと同窓であり知友であったが、金子はその際、日本を知ってもらうために『武士道』を送ったという。金子が外相小村寿太郎に打電した資料が外交資料として残されているという。

「食事中大統領語ッテ曰ク 先般拝受セシ書籍中「武士道」トスル書ハ、尤モ克ク日本人民ノ精神ヲ写シ得タリ。予ハ此書ヲ読ミテ、始メテ日本国民ノ徳性ヲ知悉スルコトヲ得タレバ、直二ー書肆ニ命ジ三十部ヲ購入シ、之ヲ知友に頒布シテ閲読セシメタリ。」(b)

引用であり原資料に当たってはいないが、事実とすれば、日本史に影響を及ぼすほどの影響を与えた著作といえ、「代表的日本人」よりは、大きな影響力を持っていたといえる。

 いずれにしろ、日露戦争前後に書かれた両書は、列強と戦争を始めた極東の小国と思われていた日本に、世界の注目が集まり始めた時期であり、この時期に英文著作が、海外で出版され、翻訳されたという点で、重要な著作ということができる。

 時期的には『代表的日本人』が6年早く、二人の親交をみれば、当然新渡戸はそれを読んでいたと思われるし、大きな影響を受けているだろう。その点からの研究も存在するが、今回は

土着と背教―伝統的エトスとプロテスタント (1967年)

土着と背教―伝統的エトスとプロテスタント (1967年)

 

 

 

そこには触れずに、むしろ読んだときに感じたことを直接に考えていきたいと思う。Ⅱ、武田清子『土着と背教』の土着論からみた内村鑑三新渡戸稲造

 内村鑑三と新渡戸について札幌農学校時代の同級生であり、共にキリスト教の洗礼を受けたことはよく知られており、詳しくは省略する。

武田清子は『土着と背教』(1967)の中で、日本のキリスト教需要、土着の形態を㊀埋没型(妥協の埋没)㊁孤立型(非妥協)㊂対決型㊃接木型あるいは土着型(対決を底にひそめつつ融合的に定着)㊄背教型の5つに分類している。

 その中で内村鑑三に関しては、不敬事件などから対決型であるとしながらも、同時に著書『代表的日本人』の中に第四の「接木型」をも見いだしている。

 

(同著P11)たとえば、内村鑑三の『代表的日本人』に「接木型」を追及するアプローチのひとつの原型が見られる。内村はこの本のドイツ語版に次のようなことを書いている。

 「この諸派、現在の世を示すものではない。これは現在基督信徒たる余自身の接木せられている砧木の幹を示すものである。」(引用終)

 

一方で武田は新渡戸を接木型の一典型であると考え、特に内村と同窓で生涯の親友でありながら、「内村と新渡戸とは、その人柄、信仰のあり方などすべてにおいて非常に対照的である。」としてその違いを以下のように説明している。

 

(同著P27)内村はきびしい預言者的迫力にみちた人物である。キリスト教信仰の述べ伝え方も無価値の変革を迫るものがあり、対決的である。ところが新渡戸は母のような暖かい愛にみちた情の人であり、その態度は受容的、抱擁的である。教師としても、内村は弟子を厳選し、少数の限定された人たちを己が弟子としてきびしく教育したのであり、自分の考え方とくいちがうことがあると、容赦なく波紋した。ある場合は、内村のこうした「狭さ」に堪えられず、弟子の側から去ったものもの多かった。他方、教師としての新渡戸は、来るをこばまず、種々雑多な人々をあたたかく受け入れ、自分の考えを押し付けるよりというよりも、彼ら弟子たちのそれぞれよいところを愛し、それぞれに新しい生命の火をともだしたのであり、また心をつくして世話をやいた。そして弟子に恩を仇で返されてもそれを悔いない寛容の人であった。

(中略)

 しかも、二人は相反発する人間関係にあったのではなくて、新渡戸は信仰に関しては、あるところまでゆくと、「このあとは内村の指導を受けてくれ」と自分の弟子たちの多数を内村門下におくりこんだのであった(中略)

 矢内原忠雄氏は一高時代、内村鑑三の信仰との違いを新渡戸稲造校長にたずねておられる。

「(中略)その時先生はこういう風にお答えになりました。

『僕のは正門ではない。横の門から入ったんだ。して、横の門というのは悲しみという事である。』(中略)正門と言われたのは贖罪の信仰の事ではあるまいか。之は内村鑑三先生の信仰の中心でありました。新渡戸先生ご自身が贖罪の思想をもっていられたかどうかということを私は詳しく知りませんけれども、先生の信仰生活の主な点は贖罪よりも悲しみという事である。そういう意味で言われたのではあるまいかと思うんです」(引用終)

 

 武田はさらに、新渡戸の信仰の特徴として、クエーカー信徒としての黙思、黙想を尊ぶ神秘主義的傾向からも詳しく説明している。この二人の違いは著作の中ではどう現れてくるか次に考える。

 

Ⅲ、『代表的日本人』と『武士道』を読む

(1)構成と全体を通しての印象

 『代表的日本人』は、西郷隆盛(新日本の創設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖者)、中江藤樹(村の先生)、日蓮上人(仏僧)の五人を上げ、その生涯業績を通して日本人の精神を説明しようとする。

 一方『武士道』では、武士道が日本の魂であるとして、義・勇気・仁(惻隠の心)、礼儀、誠実、名誉、忠義、克己、切腹などを説明しながらその歴史背景を通して日本人の精神を説明しようとする。両書は構成は異なっているが、内容においては通底する志向がある。

 両書を通読しての第一印象としては、共に近代化を進めるアジアの小国として見られていた日本と日本人の精神を、キリスト者として西欧に対し紹介弁証しようとすることを目的としている点においては共通している。内村の文章に比べると、新渡戸の方が教養においては聖書外にも広いことを感じさせられる。武士道をマルクス資本論を引用し、切腹の説明でシーぇクスピアを引用し、欧州の騎士道の歴史をマグナカルタまで遡り論じ比較する。あるいは当時の社会進化論、ニーチェの民族論、古代ギリシャからゲーテヘーゲル、婦人の地位について説明するときにはカトリックの聖女の生涯まで、当時の西洋思想や歴史を自在に引用し、武士道と比較するその手際は見事であり、すでにしてこれは比較文化論となりえている、といえる。

この辺りは、渡米時アマースト大学で2年学んだ後は基本的に独学で学んだ内村に対し、ジョンホプキンス大学で2年半、さらにドイツで2年、経済、歴史、行政、農業、自然科学を深く学んだ新渡戸との違いを考えざるを得ない。(当時としては内村も大変な学識はありあくまで比較した場合だが)

 

例えば新渡戸は冒頭武士道を以下のように説明する。(引用1章『道徳体系としての武士道』

「私は日本語の武士道を、大雑把に英語でシヴァリー(chivalry)と訳したが、その言語においては騎士道(Horsemanship)というよりも、もっと深い意味がある。すなわち、武士道は文字通り武人あるいは騎士の道であり、武士がその職分を尽くすときでも、日常生活の言行においても、守らなければならない道であって、言いかえれば、武士の掟であり、武士階級の身分に伴う義務なのである。(原文は下部)

In a word, the “Precept of Knighthood,” the nobles oblige of the warrior class.(引用終)

 

武士の掟を、ノブレス・オブリュージュと定義する手際は見事であり、現代でもこれ以上適切な用語で、西洋に武士道の概念を説明する言葉を私は思いつかない。

内村はこのような明晰な定義をなしえてはいない。しかし『代表的日本人』を通読したとき全体を通して見えてくるものは、まさに同じものなのである。新渡戸が武士道の本質を西洋の文化、歴史を引用しながら明晰に定義していったのに対し、内村は人物論として4人(日蓮は武士ではないので)の具体的な生涯・エピソードを通してこれを説明しようとした。

 両書は、互いに補完しあっているといえる。

両書を合わせて読むことで、当時のプロテスタントキリスト者が、日本の精神にキリスト教をどう接木しようとしていたのかが、よりくっきりと見えてくるのである。

次節以下では、具体的に何点か引用し考察していきたい。

 

(2)内容から

 以下4点ほどあげて両書を比較する。

①  陽明学キリスト教との比較

(内村)1章西郷隆盛は「天の義」「誠」を生きた人物であり原点が陽明学であると説明する。

 

(引用P18)「陽明学は、中国思想のなかでは、同じアジアに起源を有する最も聖なる宗教と、きわめて似たところがあります。それは、崇高な良心を教え、恵み深くありながら、きびしい「天」の法を説く点です。」

陽明学キリスト教の類似性については、これまでにも何度か指摘されました。(中略)「これは陽明学にそっくりだ。帝国の崩壊を引き起こすものだ」。こう叫んだのは維新革命で名をはせた長州の戦略家、高杉新作であります。(注によると原典は蒲生重章『近世偉人伝』(1878)         

(新渡戸)『武士道』では、第二章「武士道の淵源」で武士道は単なる知識ではなく行動を重視した、として王陽明を説明する。さらにはそこから新約との類似を説明している。

(引用)

西洋の読者は、王陽明の著書の中に、『新約聖書』とよく似ている言葉の数々を、容易に見出すことであろう。それぞれに固有な用語の相違にもかかわらず「まず神の国と神の義を求めよ。そうすればすべてこれらのものは、汝らに加えられるであろう」という言葉は、王陽明の書の中に終始見出される思想である。

 王陽命を師とあおぐ日本人は(注 三輪執斎)「転地正々の主宰、人に宿りて心となる。ゆえに心は活物にして、常に照々たり」と言い、また「その本体の霊明は常に照々たり、その霊明人意に渡らず、自然より発現して、よくその善悪を照らすを良知という、かの天神の光明なり」

と言っている。この言葉は、アイザック・ぺニントンなどの神秘主義の哲学者たちの言葉ときわめて似た響きではないか!

 

(まとめ)内村の文章だけでは、陽明学キリスト教の類似が私にはいまいち理解が難しかったのだが、新渡戸の説明とあわせて読むことで、「天の義(正義)」が人に宿り行動に移すこと(知名合一)が、キリスト教の受肉論、あるいはロゴスキリスト論と共通するものがあると認  

識されていたことを理解できるのである。

 

②  義理

(内村)内村の著作において重要な概念が、「正義」「義」である。例えば「西郷にとり「正義」ほど天下に大事なものはありません」

 

(新渡戸)新渡戸は6章で「義または正義 Rectitude or Justice」として詳細に説明する。特に興味深く感じられるのは「義理」の説明である。

(引用P60)「義理は義(Rectitude)から出て、はじめはその元の意味から、わずかしか離れていなかったが、次第に離れていって、ついには俗世間で誤り用いられるようになり。本来の意味は曲げられてしまった。義理という言葉は、もともと「正義の道理(Right reason)」という意味であったが、時代を経るにしたがい、漠然とした義務の観念を意味するようになって、世論が人々に対し、これを守り行うことを期待する言葉となってしまった。(中略)

 義理は、正しい道理から遠ざかって誤用されるようになると、あらゆる種類の詭弁と偽善の隠れみのとなってしまった。それ故に、武士道においても、もし正しい勇気の信念と、敢為堅忍の精神がなかったならば、義理は一片して、卑怯者の巣と化してしまったであろう。

 

(まとめ)

 武士道の原点として義と義理を挙げている点では共通しているが、新渡戸にはそこから踏み込んだシビアな視点が見られる。

 

③経済観

(内村)『代表的日本人』の中で、上杉鷹山の行政・産業改革や二宮尊徳公共事業一般として、経済を論じている。そこから感じられるのは比較的素朴な農本主義的思想であり、質素倹約を尊ぶ傾向が強い。

 

(西郷の「生財」の引用 P47)「『左伝』にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである(後略)」

 

(引用 P67)「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であるます。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。」

 

(新渡戸)新渡戸も農本主義的なものを原点としている。また、武士が金銭をいやしんだことをシェークスピアの戯曲等を引用して詳しく説明し、節約が教えられたのは経済上の理由ではなく、自分の欲望をおさえる克己の訓練のためであったとして高く評価している。またモンテスキューが貴族に商業を禁じたのは、権力に富を集中させることを防止した社会政策であり、古代ローマで貴族が商業に従事したことが、少数の元老階級に富と権力の独占が生じたことが国家の衰退につながったと述べている。

しかしそこにとどまるだけでなく、「封建時代における日本の商業は、自由な状況であれば到達していたはずの段階までは発達しなかった」として近代産業がなぜ日本に根付かなかったかについても考察する。

 最大の原因としては、武士と商人階級が分かれており、武士階級の誠実さに対して、商人階級にはそれが欠けていたからだとする。維新後の「武士の商法」のほとんどが失敗したことを悲劇として描いている。一方で、以下の一文は注目に値する。

(引用)「封建時代のわが国の商人でも彼らの間には道徳の規範があって、それがなければ同業組合、銀行、取引所、保険、手形、為替などの基本的な制度を発展させることはできなかった。」

 

 そして、維新後20年の間に、日本の承認もじょじょに近代的商業道徳をわきまえてきたとといている。

(まとめ)現代においては、江戸時代の日本が農本社会でありながら、同時に商取引制度においては、大阪に米の先物取引相場が存在したことなど実は近代資本主義の土台が存在し、それが日本の近代化の基盤となったことは定説となっており素朴ながら新渡戸にはその認識がある。

そこからは新渡戸が出版直後の1901年から後藤新平の下、台湾総督府に勤務し台湾糖業の振興政策に関わるなど政府の実務官僚として経済に当たったことを思い起こさせる。

 札幌農学校で同じスタートを切りながら、生涯在野の思想家(宗教家)として生きた内村と、そこから政府の実務官僚として生きることになった新渡戸の生涯の対比を感じさせる。

 

④  武士の克己

(内村)『代表的日本人』の中で内村は、5人の人格的な面を繰り返し説明する。それは西

郷の無私に見られる言葉少なく謙譲な人となりである。

 

(新渡戸)新渡戸は日本人が人前で感情を表に出さないことを以下のように説明する。

(引用)

「十戒の(神の名をみだりにとなえてはならないという)第三の戒めを破ることにつながる。日本人の耳には、烏合の衆に向って、最も神聖な言葉や、最も秘めやかな心の体験が語られるのを聞くのはまことに耳ざわりなのである。」

本人が逆境にあって心を乱され、苦しみと悲しみのうちにひしがれたとき、しばし笑うのは、その心の平静を保とうとする努力を、人前で隠そうとするためであって、笑いは、悲しみやあるいは怒りのバランスをとるためのものであった」

「克己の理想とするところは、わが国の表現で言えば、デモクリトスが至高善と呼んだエウテミアの状態に到達することである。」

 

そして感情の安全弁として簡潔な詩歌をあらわしたのだと記述する。死んだ子のことを思い出し、生きていたころのように蜻蛉つりにでかけていると想像してやるせない悲しみを読んだ加賀の千代女の歌を引用する。

 

「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」

How far to-day in chase, I wonder, Has gone my hunter of the dragon-fly!

 

 (まとめ)新渡戸の聖書を用いての説明は明晰であり、現代でも通用しえる。また引用された歌は、矢内原のいう「悲しみの人としての新渡戸」を色濃く表しているといえよう。

 

⑤  女性観

両書において特徴的なのが女性観や社会の中の女性の役割である。

(内村)内村の著書では女性に関する記述はあまりない。唯一4章中江藤樹を論じる中で

その母親崇拝と、妻との関係について論述している程度である。

藤樹が母親のそばにあって暮らすために、藩主の元を去ったときのことを詳しく説明し、藤樹の手紙を引用している。

 (P119)

 二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当てを出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼るものがないのでございます。(引用終わり)

 

 鈴木範久は『内村鑑三の生涯』の26節「母の死」で、内村と母ヤソとの関係について考察し、ヤソが入信しながら棄教したことや、発病後施設に預けたことを巡り兄弟と骨肉の争いが生じたことなどが、彼の「母なるもの」を行き詰らせ、他者への厳しい態度の理由となり、そのこだわりが特にこの藤樹の母親崇拝への記述にあらわれている、と記述しており興味深い。

 また母に対する「孝」以外では、藤樹の『女訓』の以下の部分を引用する程度で単純なものである。 

(引用P130)

 男の女に対する関係は、天の地に対する関係と同じである。天は力(virtus)であり、万物は天より生じる。地は受ける側であり、天の生むものを受け、これを育てる。ここに夫と妻の和もある。前者は生み、後者は成す。云々

 私は、キリスト教は、このような女性観に異を唱えるものではないと信じます。

 

(新渡戸)一方新渡戸は、14章で「婦人の教育と地位」と1章を割いて論じている。

前半では女性も武芸を教育され、襲われた場合戦い、自分の胸を指すこともあったことを論じ、これを純潔と敬虔を守るため自殺した、聖者ペラギアとドミニナアや貞女コルネリアを引用し共通するものであるとして説明する。

より興味深いのは、当時のアメリカにおける女権拡張論に文化論として弁証をしていることである。

(引用 P242)

「(男女)両性の相対的地位を計る尺度は複合的な性質をもつものでなければならない。(中略)武士道は独自の基準を持っており、それは二項方程式の基準であった。女子の価値を、戦場とそして家庭との二つにおいて計れば、前者においては女子の価値ははなはだ軽いが、後者においては完全であった。(中略)すなわち、社会的あるいは政治的な単位としては高くなかったけれども、妻あるいは母としては最も高い尊敬と最も深い愛情を払われた。」(引用終)

あるいは聖書が「男と女は合して一体となるべし」としているのに、西洋人は夫と妻が二人の人格であると考え、権利を争いばかばかしいほどの相愛の言葉や無意味なへつらいの言葉をつくし(原文ママ)ているのは、自分の半身をほめていることにあり、日本人からすれば悪趣味であると論じている。

このあたりは、少し極端な記述であると思えるが、西洋的な女性擁護論をそのまま受けれいるのではなく、文化論としてこれをきちんと批判している点は、例えば現代のイスラムの女性のスカーフ着用や女性差別への西洋圏からの批判と、それは社会における女性保護のであるというイスラム側からの反論を思い起こさせるものであり、現代性を持ちえているともいえる。

(まとめ)

 以上の比較からすると女性観において内村は素朴なものがある。日本のキリスト教土着を研究しているマーク・マリンズは『メイドイン・ジャパンのキリスト教』の中で、無教会主義の集いにおいては当初から現代まで男性優位的な傾向が強く、女性の側からの批判があるという。そこには内村がそれほど「女性の権利」を意識していなかったことが今でも影響しているともいえる。一方で、東京女子大学学長を務めるなど女性教育にも携わった新渡戸に方が時代的限界があるとはいえ、社会・文化の中の女性の役割についての認識は深かったと言えるだろう。

 

⑥  その他

 その他、共通点として重要点なのは、両者がプロテスタントキリスト者として著述しながら、当時のアメリカの宣教師の伝道方法を厳しく批判している点は注目してよい。あくまで日本精神にキリスト教接木しようとした両者にとって、西洋の思考・文化を押し付けようとするやり方は我慢ならなかったのであろう。

 

切腹について

『武士道』で特記すべき点として12章で新渡戸は「切腹および方敵討ち」と題して、西洋文明からすると奇怪に思えるこの行動を説明しようとする。

シェイクスピアのジュリアスシーザーに「汝(カエサル)の霊魂があらわれ、我が剣を逆さまにして、わが腹を刺さしめる」という記述があることや多くの西洋画において高貴な人物の腹部に刃物が突き刺さった光景がモチーフとなっていることを共通点としてあげる。そして

「最も醜い死の形式が、最も崇高なものとなり、新しい生命の象徴とさえなるのである。そうでなければ、コンスタンティヌス大帝がみた徴(十字架)が世界を征服することはなかったであろう!」として、十字架の象徴性から論じる。

さらに腹を切ることについて旧約の「ヨセフはその弟のために、はらわたがやけるがととくいたむ(創世紀43-30)」」や、ダビデが「神がそのはらわたをわすれざらんこと」を祈り(詩篇26-6)、他にもイザヤ、エレミヤなど「はらわたがなる」とか「はらわたがいたむ」を引用、「これらのことは腹に霊魂が宿っているものとした日本人の信仰を是認するものではなかろうか。」と説明し、さらに西洋におけるソクラテスの最期を引用する。

 実に適切な引用と説明であり、現代でもこれ以上適格に、切腹のもつ文化的意味を対外的に説明するロジックを私は思いつかない。しかしまた、そこに逆に説明が洗練されすぎて見事であるがゆえの危うさをも感じるのである。

 

⑧  武士道の限界・批判

しかし新渡戸は切腹や武士道を無条件に賛美しているわけではない。

(P202)「切腹を名誉としたことは、おのずからその乱用を生んだ(中略)最も悲しむべきことは、名誉には常にプレミアムがついたことである。それも正当の価値に対してではなく、不当に水増しあれた価値に対してである」

「死を軽んずるのは勇気である。しかし、生が死よりも恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である」

 

切腹に対して一定の留保を付してもいるしまた武士道の欠点も記述している。

(P276)

「しかし公平を期するために、日本人の性格の欠点や短所もまた、武士道が大いに責任があるということも、認めなければならない。我が国民が、深遠な哲学に欠ける原因は(中略)それは武士道の教育制度において、形而上の学問の訓練をおろそかにしてきた故である。(中略)「自負尊大」が、もし我が国民の生活であるとすれば、それは名誉心の病的な行きすぎにほかならない。」

「また、若者の多くは、「忠君愛国の権化」であり、(中略)このような彼らの長所と短所のすべてもまた、武士道の最期の断片であろう。」

 

(まとめ)内村の『武士道』において内村は、時に無防備と思えるほど賞賛しているのが目に付く。しかし新渡戸はその限界についても明晰に指摘しているということができる。

 

⑨  両書の巻末の比較

(内村)内村は同著の最終章「日蓮」を以下のように締めくくる。

(P176)

 これでわかるように、受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でありました。-むろん、日蓮は、自分自身の意志を有していましたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかし、そういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです。これに反して、愛想よさ、従順、受容、依頼上手とかいわれるものは、たいてい国の恥にしかなりません。改宗業者たちが、母国への報告に「改宗者」数の水増しをするためにだけ役立つものであります。

 闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教であります(引用終)

 

(新渡戸)最終章は「武士道の未来」と題され、武士道は滅びてしまうかもしれないが、その思想は桜の花の香気のように人類を祝福するであろうとして、クエーカーの詩人の詩を引用している。

 いずこよりかは知らねど 近き香りに

   旅人はしばしやすらい 歩をとめて

   ゆたかなる その香りをなつかしみ

   高き御空の いのりをぞ聞く

 

(まとめ)巻末にあって、両者の特徴が特に色濃くあらわれる。内村が最終章で宗教者日蓮を取り上げ、国家との対決したその生涯を詳述して、終っているのは、「対決型」であろう。

 一方新渡戸は、はかなさと祈りを感じさせる詩の引用でしめくくる。そこには接木型であり、矢内原が語った、受容・悲しみとしての新渡戸を感じさせるのである。

 

Ⅳ、『代表的日本人』と『武士道』その現代的意義

以上、多岐の引用を行いながら通読してきたので、その現代的意義を考えることでしめくくりたい。

内村は、政府に使えた期間もあるが、一貫して在野にありジャーナリスト、そして説教者として非キリスト教国である日本の中でプロテスタントを弁証しようとした思想家・説教者であった。一方、新渡戸は一高校長、台湾の植民地省、国際連盟次長など国家の要職を務めた。実務家であり、教育者でもあった。

 出発点を同じとしながら立場は全く異なった人生を送ったことになる。

 両書を読み比べるとき、2014年を生きる私からみると、やはり内村の著作からは、「ズレ」を時々感じる。ペリーと「両者のうちに宿る魂が同じであることを認めます」とする記述や、

上杉鷹山の章で、郷村頭取と郡奉行とは、「一種の巡回説教のような役であります」としたり、五人組とは「使徒の教会」ともいえる。と記述する。このような感覚は私には“いまいちよくわからない”しかし、同時に、明治期の日本人が西洋キリスト教国家に向かって、日本精神を説明しようとするとき、それは考え抜いた末の必死の記述であったということを感じる。

 一方で新渡戸の『武士道』には、「ズレ」を感じることは余り無い。時代的制約はあるとはいえ、女性観、経済学、あるいは文化論として、それは現代でも通ずる説得力を持ちえている。

 しかし、それによって『武士道』の方が優れている、と言い切ることに躊躇を覚える。それはあまりにも、洗練され、説得力があるゆえに、“ズレ”“ひっかかるところ”がなく日本人としての私の心情や情緒にすぅっと沁み込んでくるのだ。そこにわずかな危うさを感じるのだ。

逆に内村の文章からは、“ズレ”からこそ、現代日本でキリスト者として自明として考えていることを再考させるきっかけが与えられるように思う。冒頭引用した若松英輔の「未だに私たちはこの得意な人物を、宗教、キリスト教あるいは近代日本といった柵の向こうに眺めてはいないだろうか。格子の中にいるのは内村ではない。私たちの方である」

という言葉はゆえに至言であると私は思える。

 

武田清子は『土着と背教』の2章「伝統的エトスの近代化」でこの感覚に類似したことを記述している。

(P59)

 「ただ、新渡戸の『修養』『世渡りの道』その他の著書が、さきにもふれた修養団その他の修養グループの思想と時をほとんど同じくし、また、一見、その表現をも同じくして出されたことは、それらのもろもろも修養グループとの区別をあいまいにさせる結果となった面でもあるであろう」

「新渡戸はこの厚い広い層(注:前段の庶民の層を意味する)に手をとどかせることの出来た和少ない思想家であったのであるが、他の修養グループとは異質でありながらも、それを明確にすることをせず、その社会的意識とは異質な近代的市民、ないし組織労働者としての社会意識に目覚めさせるような旗色の鮮明さは持たなかった。そして意図せずして他の修養グループと同様、権力支持の保守的役割をになわしめられてしまった側面もあったかもしれないのである。」

 私の感じるわずかなあやうさもこの意識に通ずるものだと考える。あまりに洗練され、明晰であるがゆえに『武士道』には、読んだものを納得させるが、変化させ変容させるきっかけがない。不思議なことに、『代表的日本人』をはじめとする内村の文書にはその力がある。

それが時代によって変化するべき教育・実務家として生きた新渡戸と、宗教者・思想家として生きた内村の違いというべきものなのかもしれない。あるいは政府の実務官僚として、その対象を西洋キリスト教国とした国際人新渡戸に対し、非キリスト教国である国内でもっぱらそれを行った内村が接木型と同時に対決型を取らざるを得なかったともいえる。

 

しかしながら新渡戸は当然にして自らの限界と危うさを認識していたのでもあろう。門下生に有る段階を超えたら、内村の下へいくように勧めたのはそれゆえなのであろう。

 

 いずれにしろこの二冊の著作は、明治と変わらず非キリスト教国であり、1%以下でしかないマイノリティとして社会を生きる中で、その原点を確かめる上で読み返される価値があるし、二人が生涯の親友であったように、相互補完しながらこれからも読み続けられるのだろう。

 

最後に矢内原の『余の尊敬する人物』での記述を持って本論を終りたい。

内村鑑三新渡戸稲造とは私の二人の恩師で、内村先生よりは魂を、新渡戸先生よりは人を学びました。両先生は明治初年札幌農学校で同級の親友でありましたら、その意味で私も札幌の子であります」

                                      (以上)

 

 

(参考・引用文献)

『国際人 新渡戸稲造 武士道とキリスト教』(花井等 広池学園出版部1994)

内村鑑三の生涯』(鈴木範久 PHP 1992)

『日英対訳 武士道 BUSHIDO』(訳 須知徳平 講談社インターナショナル1998)

『日英対訳 代表的日本人 Representeative Men of japan』

                               (監訳 稲盛和夫 講談社インターナショナル 1999)

『土着と背教』(武田清子 新教出版 1967)

『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・R・マリンズ トランスビュー 2005)

 

キリスト教と戦争を考える -長崎の原爆と浦上燔祭論を通して

 歴史神学特殊講義             

 

課題:キリスト教と戦争を考える -長崎の原爆・浦上燔祭説を中心に

 

(1)はじめに

春学期、この授業では、「初期から中世にかけてのキリスト教が戦争をどうみなしていたか」という視点から資料を読んできた。キリスト教史において、戦争や政治との関わりを考える上で決定的なのは、コンスタンティヌスキリスト教国教化であると私は考える。そして、個別にどのように弁証しようとしても世界史の中で、その名の下に最も多くの血を流してきたのがキリスト教であることは、否定できない。思想として考えてもでも20世紀の共産主義思想に次ぐ、あるいは並ぶものと云えよう。(例えばトマス・アクイナスの正戦論が影響を与えた十字軍の実体を、アミン・マアルーフは『アラブから見た十字軍』(筑摩学芸文庫 2001)の中で他宗教・文化に寛容で安定した平和な社会への“フランク人の侵略と虐殺”として生々しく描きだしている。)

 

 

アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)

アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)

 

 

しかしながら、同時に歴史のその時、その時において暴力の惨禍に遭う者たちの側にキリスト者がいたことも確かである。コンキスタドールに始まる南米征服の中にラス・カサスは原住民保護にあたった。キューバ出身のフスト・ゴンザレスは『キリスト教史』の中で原住民保護にあたったイエズス会の活動や、修道士ペドロ・クラヴェルについて記述している。17世紀初頭のコロンビアにおいて「黒人奴隷はキリストにあって兄弟であり平等だ」と主張し奴隷やハンセン病患者救済にあたったクラヴェルは、白人社会や教会組織の中で批判を受け続けた。晩年病に倒れた彼は、奴隷に粗雑に扱われ、汚物にまみれたまま死んだ。ゴンザレスはその最期をこう記述している。

(P421)

「同僚は彼の世話を一人の奴隷にゆだねた。この奴隷は彼を粗雑に扱い、汚物にまみれたまま放置し、その他あらゆる方法で彼を不当に取り扱った。こうして彼は、白人が黒人に対して加えたあらゆる悪行を彼自身の肉体で体験し、奴隷が船の中で味わった拷問を病の床で受けることとなった(中略)彼がカトリック教会の聖人に列せられたのは、それから二百年以上もたった後のことである」

 

キリスト教史 (上巻)

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ナチスドイツ時代、教会がドイツキリスト者運動を進める中で、ボンヘッファーや無名の無数の牧師・神父はナチスに抗し、ユダヤ人保護に当たった。アパルトヘイトベルギーの改革派教会が是認したとき、それに抗したのもキリスト教徒だった。

世界史の中、私達は加害と被害の両側にキリスト者があったことを見出す。

この中で、私は近現代史の中、特に日本の太平洋戦争において、キリスト教と戦争を考える上で象徴的な事例として、原爆投下と長崎燔祭論を巡る議論について調べることで、それを考える事例としたい。

 

(2)キリスト教と戦争戦争と従軍チャプレン

石川明人(北大准教授)は、『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版 2013)の中で、①アメリカ軍の従軍チャプレン②自衛隊の内の伝道組織コルネリオ会③内村の軍人観④クリスチャン特攻兵士林市造⑤「戦艦大和の最期」著者吉田満の信仰、などを論じながら宗教と戦争について考察している。

 

戦場の宗教、軍人の信仰

戦場の宗教、軍人の信仰

 

 

 

人はなぜ平和を祈りながら戦うのか? (私たちの戦争と宗教)

人はなぜ平和を祈りながら戦うのか? (私たちの戦争と宗教)

 

 

石川によると、「チャプレン」という呼称は、4世紀のある異教徒ローマ兵に由来するという。あ

る冬の晩、寒さに震えている物乞いに出会い、哀れにおもって自分の着ている外套を半分に裂き与えたところ、その番、彼は自分が与えた外套を着たキリストの夢を見た。それがきっかけとなり、彼はキリスト教徒となる決心をし。後に軍を除隊して教会に身を捧げた。

これがトゥールのマルティヌスという人物で、現在でもフランスの守護聖人としてよく知られているという。彼の外套(cappa)は神の現前を示す旗として、後にも戦いの場で用いられ。この聖遺物を管理する司祭はcappellanusと呼ばれ、やがて軍隊に関わる聖職者がcapellaniあるいはchapelainと呼ばれるようになり、ここにチャプレン(chaplain)の後が由来する。現在学校や病院月の聖職者を指す言葉だが、元来は軍隊のなかの聖職者を指す言葉だったという。(同著P13)

第二次世界大戦時、米軍は合計約1万2千人ものチャプレンを従軍させていた、また湾岸戦争ではアジア南西部に派遣された陸軍所属のチャプレンだけでも560名にのぼったという(a)。

日本社会において、キリスト教徒とは、(おそらく)柔和で平和を志向する人々と思われているだろう。ゆえに従軍チャプレンという言葉に異様さを感じる。しかし、そこにはキリスト教信仰や歴史的背景をもつ長い歴史がある。

 また、従軍チャプレンの業務が、①戦地における過酷さの中の戦意高揚②戦死者の葬儀、慰霊、という2点において考えれば、それは宗教者の行う最も原初的な行為と言うこともできるだろう。実は、そこに違和感を感じる日本人の意識自体が、世界から見れば例外であり、また平和憲法の下にあるこの約70年程度の中における感覚でしかないのかもしれない。

 また、太平洋戦争において、米軍では過酷な戦場において、精神が追い込まれたときには聖書の何ページの聖句を読めという手引き書も配布されていたという。

 一方日本軍においては、制度的な従軍宗教者制度は存在しなかったし(太平洋戦争の個人従軍記などによると僧侶の資格を持つ兵士が個人的に行うことはあったようだ)

そもそも戦没者の大半が餓死者を占め、食糧の兵站すら全く不完全な日本軍において兵士のメンタルケアの制度はほとんど省みられることがなかった。どちらが軍隊組織として、より人間に配慮をしていたか?応えはおのずと明らかであろう。

 米軍の従軍チャプレン制度を、軍隊の宗教の政治利用とみるか、あるいは戦地におけるせめてものメンタルケアとみるか、あるいは兵士の士気を高め、戦場において高いパフォーマンスを引き出すためのプラクティカルな処置と見るかは、これを受け取る人間の倫理観、信仰観、思考により様々な受け止め方がありえるだろう。一概に、戦争とキリスト教(宗教)を論じることなど不可能と私は考える。応えは人間の数だけあるだろう。

 

(3)原爆投下とキリスト教

 石川の著作の中では、陸軍第509混成飛行隊の所属するテニアン基地を原爆を搭載したB29エノラ・ゲイが8月6日に広島に向かって離陸する直前に、プロテスタントの従軍チャプレン、ウィリアム・ダウニー大尉が礼拝を行い、以下の祈りを唱えたことが記されている。

 「全能の父なる神よ。あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。彼らも、わたしたちお同じく、あたなのお力を知りますように。そしてあなたのお力をまとい、彼らが戦争を早く終らせることができますように。戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。わたしたちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。イエス・キリストの御名によって、アーメン。」(b)

 この原爆が8月9日にこの投下されたのが、日本最大のキリシタンの集落浦上の中心部だった。約一万二千人の信徒のうち8千人が死亡したといわれている。

(付記注:ただし、長崎に原爆を投下したのはエノラゲイではなく、同部隊所属の戦闘機ボックス・カーである。8月9日、ボックス・カーは当初小倉を投下目標にしていたが、曇天のため第二目標の長崎の変更された。当日天候観測機を努めていたのが8月6日に広島に原爆を投下したエノラゲイであり、ボックスカーには、8月6日投下事の搭乗員も搭乗していた)

 長崎は1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌1550年に平戸にセミナリオを設立、キリスト教の布教が始まった。その後、豊臣秀吉により宣教師が追放され京都から流罪になった信徒26人が市内の西坂で処刑される(26聖人殉教)。鎖国が終わり1865年にプチジャン神父がキリシタンを再発見、1867年~1873年にかけては「浦上四番崩れ」の弾圧がおき配流された600名以上が獄死している。江戸幕府の禁令以降実に350年近いキリスト教の歴史をもつ土地である。当時、原爆投下地のすぐ近くにあった浦上天主堂は東洋一の壮麗さを誇ったといわれる。まさに日本で最もキリスト教が盛んな町だった。(現在でも長崎県内のクリスチャン人口は約6%とされ、日本全体の平均の10倍近くに及ぶ)

そこに牧師によって祝福された原爆が投下したのである。日本においてキリスト教と戦争を考える上で私はどうしてもこの事例を考えずにはいられない。

 

(4)長崎の原爆と永井隆の長崎燔祭論

 原爆が投下されて、浦上を中心に信徒1万2千人のうち8千500人が死亡したとされる。その中にあって被爆し、カトリック信徒で長崎医科大学の医師として救護活動に当たり後に作家

として著名になったのが永井隆である。

 

 

この子を残して (アルバ文庫)

この子を残して (アルバ文庫)

 

 

 

壊滅的な打撃を受けた浦上信徒に対して永井は、「原子爆弾が長崎に落ちたのは大きな御摂理であり、神の恵みである。浦上は神に感謝をささげなければならない」と主張することで、生きる勇気を与えた。1945年11月23日の浦上信徒合同追悼祭りで、天主公教浦上信徒代表として読み上げた「原子爆弾合同葬弔辞」には、その思想が如実に現れている。

 (以下一部引用)

 主戦と浦上壊滅の間に深い関係がありはしないか。世界大戦という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られた燃やされるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?

 (中略)

 あの日あの時この家で、なぜ一緒に死ななかったのでしょうか。なぜ私らのみかような悲惨な生活をせねばならぬのでしょうか。私らは罪人だからでした。今こそしみじみ己が罪の深さを知らされます。私は償いを果していなかったから残されたのです。あまりにも罪の汚れの多き者のみが神の祭壇に供えられる四角なしとして選び遺されたのであります。(引用終)

 

(5)長崎燔祭論を巡る議論の経緯と山田かん

 ①永井隆の評価を巡る系譜

永井隆は1951年に没するが、その後荒野の聖人として称えられ、批判することは長崎においては長らくタブーであった。しかし、関西大学の岡本洋之(2009)の論文(b)、長崎「かみあわぬ「浦上燔祭説」評価論争」によると、その後、永井隆の評価は半世紀の間、様々に議論されたことがわかる。

(参考)

岡本洋之 「永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?」,教育科学セミナリー第42号,関西大学教育学会,2011.

http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/4865/1/KU-1100-20110300-01%282%29.pdf

 

永井の後輩である長崎大学の医師、秋月辰一郎は「ついていけない」という心情を吐露した。さらに諫早市在住の詩人(土門注:聖公会信徒)、山田かんは1972年に月刊誌「潮」に、「聖者・招かざる代弁者(編集部により掲載時は「偽善者・永井隆への告発」と改題)を掲載し、長崎在住者としては初めて本格的に永井を批判した。(後述)

 

長崎原爆・論集

長崎原爆・論集

 

 

さらに90年代には、長崎大学文学部教授の高橋眞司が、永井の言説を「浦上燔祭説」として名づけ、東西冷戦や戦後政治のより大きな社会的文脈の中に置くとき、その歴史的意義は戦争責任と原爆投下責任の二重の責任を免除するところにある。否、そればかりでなく、原爆投下の是認、ひいては原子爆弾そのものの肯定に道をひらく」と、批判を展開した。

 

長崎にあって哲学する―核時代の死と生

長崎にあって哲学する―核時代の死と生

 

 

これに対し、永井を擁護したのは、カトリック長崎純心大学学長の片岡千鶴子が「被爆直後、終戦直後のあの時代に、しかも信徒の励ましに心を砕いている永井に、戦争責任や原爆投下責任の免罪などということを考える余地があっただろうか。こうした批判は非現実的だ」とした。またカトリック信徒の元長崎市長本島等は、カトリックが四番崩れ以降、極貧の生活の中、スパイや非国民と罵られ、神社に行かず外国の宗教を信じたゆえの原爆は天罰である、と言われ絶望の中にあった信徒に、永井は激励し、希望を与えるものであったと擁護している。

 1990年代を中心に、長崎では上記、山田・片岡・高橋・本島などが議論が続いたという。

 また近年では、国家宗教的慰霊を研究する西村明氏(東京大学准教授・宗教学)が国家慰霊の観点から、前記の関西大学の岡林洋之氏は浦上キリシタンへの差別という、けがれ意識の点から考察をふかめた論文を発表している。2013年には現長崎大研究員の四篠知恵氏が、占領期における原爆の語りを、当時の新聞や被爆した孝高の刊行物を分析する中で、長崎燔祭説がカトリック信仰や、その後の長崎の原爆の語りにどのように影響していったかを実証的に研究した博士論文を発表している。(c)

(参考)

『祈りの長崎-永井隆と原爆死者』(西村明 2002)

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001506972

『浦上の原爆の語り -永井隆からローマ教皇へ-』 (四條 知恵 2012年)

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009480518

いずれもCiNiiarticles でPDFで閲覧可能

 

 

諫早市の詩人・山田かん(1931~2003)の永井隆批判

 上記中、1972年に長崎でも初めて永井隆批判の文章を発表した山田かんを私は、2001年10月に訪問しお話を伺ったことがある。

(参考)

『我れ重層する歳月を経たり 父山田かんの軌跡』

http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2003/kikaku/kikaku6/01.html

以下子息で長崎新聞社記者の山田貴己の記事によると(e)山田かんは14歳のとき妹と共に長崎市内で被爆。祖父以来3代目で、幼児洗礼を受けたプロテスタント聖公会)信徒だった。幼い頃は牧師か絵描きが夢だったという。戦中派、敵性宗教の信者として「耶蘇!耶蘇!」と差別され、教師から「天皇陛下とキリストはどっちが偉いか」などと陰湿な質問を何度も浴びせられた。カトリック信者もプロテスタント信者も周囲から厳しい目で見られる状態にあったが、信仰は父のよりどころだった。

(中略)

 しかし終戦後、ふと訪ねた牧師間で、アメリカ給与のジャムとバターと白パンが並ぶ好計を見て、聖職者と庶民の格差を垣間見た。さらに後年、被爆した妹が失踪し自死したさい、自殺を理由に協会は争議を拒否したという。「おれが牧師の代わりに聖書を読み、自宅で執行した。屈辱だった。教会とは何かということであ。貧乏人が苦しんで死んで・・・。許せないと思った。ますます教会から遠ざかった」

 それゆえに「父山田かんは七十二年、雑誌に掲載された「聖者・招かざる代弁者」で、永井博士の言説について「『原爆の内質としてある反人類的な原理をおおい隠すべき加担にほかならなく、民衆の癒しがたい怨恨をそらし慰撫する、アメリカの政治的発想を補強し支えるデマゴギー』などと厳しく指摘。批判の姿勢を崩すことはなかった。

 山田かんは、1974年に浦上で足元の地層に原爆犠牲者の大量の骨を感じながら、次のような詩を書いた。

 

 この地に

信ずる神と共に在りつづけた人々の

生は

虐殺

異教徒でなく

同じ信ずる者たちの手にかかり絶える苦しみは

消えたであろうか           

(「小峰町交差点にて」に収録。)

 

  キリスト教国との戦争の中で、キリスト教によって祝福された原爆を投下されながら生きたキリスト信徒。その中で生きる希望を与えた言説の中に潜む過ちを別の立場から付いたキリスト者、それが山田かんの生涯だったと私達は知るのである。

 

(6)浦上燔祭説の現代的意義

浦上燔祭説が宗教と戦争を考える上で重要なのは、それが宗教における慰霊と殉教の性質を巡る議論であり、それは現代でも再び形を変えて経ち現れるからである。

 

福島第一原子力発電所事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーを務めた山下俊一長崎大学福島県立医科大学副学長はその著作『放射線リスクコミュニケーション』に「原子力の問題が出たときには、昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています。(中略)原子力という科学の光、力を利用してより良い世界を作っていくべきだ、ということを彼はその当時既に書いているのです」と書き、『原子力文化』2012年1月号の作家森福都との対談では、それを「わが国は敗れた。すべてが灰燼に帰した。しかし、この禍を転じてわが国は原子力の平和利用によって、亡くなった方々に対し罪をあがなわなくてはいけない。その結果、わが国はきっと復興する」と言い換えている。

 (参考)

wikipedia 浦上燔祭説

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E7%87%94%E7%A5%AD%E8%AA%AC

 

西村明(上記)は、長崎燔祭論について以下のようにまとめている。

永井は原爆死者を神への燔祭として、平和日本再建の礎として、また科学のための犠牲として捉えた。つまり、供犠として捉えたということである。しかしながら、(中略)「燔祭」あるいは供犠として原爆死者を捉える思想には、繰り返される戦争を今回限りとする歯止めの契機が欠けている。永井は実際のところ、各時代の戦争が最終戦争となってしまう可能性を察知し、平和を願っていたのであろう。

 しかしその真情とは裏腹に、原爆死者を供犠として捉えることによって、戦争の反復を否定して恒久平和を希求する方向ではなく、むしろ冷戦構造のもとでの「戦後」という暫定的な平和を享受し、「平和の礎」に対してその恩恵を感謝するといったような消極的な平和主義を生み出す結果につながった。(36)永井の願いもむなしく、現在も戦争は繰り返されている。われわれは暫定的な平和を享受してきた結果、暴力への感覚が麻痺しているように思われてならない。(e)

 

(まとめ)私自身はキリスト教問わず、宗教の原初からの目的が、「死者の慰霊」を伴う以上、戦争とキリスト教もまた切り離せないと考えている。あるいは、圧倒的な暴力にさらされた無力な人間が、生きる希望を取り戻すために、キリスト教ならば聖書の聖句や思想をにすがることをなんら否定しない。個人の行為としてはそれは必然的なものであろう。

 しかし、いざ戦争に宗教のロジックをもちこむとき、そこには戦争を遂行する主体である国家が必ず関与してくる。そして慰霊・殉教という象徴性を帯びた言説や行事が立ち現れる。その過程に他者が触れるときそこには情緒的な反応を帯、戦争の記憶の美化、肯定が行われる。そのこと自体が問題だと考えている。

 例えば東京大学教授の哲学者高橋哲哉はこのテーマから研究を続けている。

 

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

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靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

 
国家と犠牲 (NHKブックス)

国家と犠牲 (NHKブックス)

 
記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ (岩波人文書セレクション)

記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ (岩波人文書セレクション)

 

 

 個人としての慰霊・信仰と国家・組織による慰霊・言説化は区別して考えなければならないが、それは外部や後世から見ると極めて困難になるのである。しかし、それはなされなければならない作業である。

 現在、私は修士論文として「特攻兵士における慰霊と記憶の美化」をテーマに研究を行っている。浅学にして非才ではあるが、ささやかな試みとしてそれをまとめていきたいと考えている。

 

(7)付記:私達は「戦争」を知っているのか?

 最後に、キリスト教と戦争を論じようとするとき、私達はその両者を当然に知っているかのように思っている。しかしそうなのだろうか。前者についてはひとまず置く。しかし、戦争について私達はどれほどのことを知っているのだろうか。戦争とキリスト教について、クリスチャンとして戦地にあった者の生の声を語るものとして山本七平の『静かなる細き声』(文藝春秋 1993)を引用する。同著は最晩年「信徒の友」に連載されたエッセイをまとめたものであり、ほかの本とは違い、彼が自身の生い立ちや信仰について、静な筆致で綴られている。

 

 

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

 

 

本書によると山本は、両親はキリスト教、生まれながらのクリスチャンだった。幼少時は新聞を読むなら聖書を読め、雑誌やラジオも聴いたことのなかったが、太平洋戦争が始まり、彼は、青山学院の学生時代に学徒動員で、いきなり軍隊に放り込まれることになる。山本は、入営前、軍隊経験のある恩師の下に挨拶にいったとき、こんな言葉を送られたという。

「軍隊にいくと、いわゆるインテリというものが、いかに少数・例外者かが、本当によくわかります。山本君のような家庭に育った人は、統計や理屈ではそれがわかっても、それがどういうことなのか、本当はよくわかっていないものです。まして、そのインテリの中のクリスチャンが、どれほどの少数者・例外者かを身をもって実感できるのが軍隊です。これは得がたい経験ですから、その実態をできる限り正確にみていらっしゃい」

そして、それは山本にとって、想像を絶する経験だった。それは会話すら成立しない世界、コミュニケーションの隔絶した世界だった、と彼は書いている。

「しばしば不思議がられることだが、私にはいわゆる「戦友」はいない。(中略)同じ釜の飯を食おうと、「生死を共に」しようと、周囲の人はすべて別世界の住人だった。(中略)部下や周囲の人にできる限りの親切はしたかもしれない。人の命を助けたこともあったのかもしれない。しかし、誰に対して も、完全に心を許したことはなかった。どこかで絶えず、何かを用心し、相手との間に、常に一線を画していた」

ちなみに、山本は平穏な軍隊生活をすごしたわけではない。「怒りをおさえし者 「評伝 山本七平」」(稲垣武 1997)によると、彼は、フィリピンレイテの激戦地に送り込まれ、部隊が全滅し、ただ数人生き残るという経験をしている。いわば太平洋戦争中におけるもっとも過酷な戦場を生き延びておりその時のことも記述している。

 

(引用 P57~59)

人間にはみな先入観がありまた人間観・社会観がある。そして、どこかで、「自分の観」という枠外にいる人間はいないと信じ込んでいる。そういう人に本当のことを言うと、相手はそれを頭から嘘だと信じ込む。いまの問題は小さな問題だが、もっと大きな問題もある。

たとえば「現代人には神の存在など信じている人間がいるはずがない」と堅く信じている人がいる。この人の前で、「私は神を信ずる」といえば、それはその人にとっては嘘であり、何と言おうと「嘘に決まっている」ということとなる。

 私が「引っ込み思案」とか「積極性に欠ける」とか言われたのも、おそらくは、自己の周囲のクリスチャンの小世界の外に、それとは全く異質の大きな世界があることを子供心にもうすうす知っていて、それに触れるのが怖かったからだと思う。

 一歩そこへ踏み出せば、こちらが本当のことを言っても、頭から「そんなはずはない」「・・・はずはない」「・・・はずはない」が連発され、すべてが否定されてしまいそうな気がしたからだと思う。私はその社会と接触するのはいやだった。そしてできることなら、そういった社会にタッチしないでいたかった。だが私に時代には軍隊があり、否応なくそこへ入れられる。それはおそらく全く異質の世界であり、私の真実などはすべて笑殺されそうなことは、なんとなく予感できた。

 そしてそれは、まさに予想通りの世界だった。日本軍についてはすでに多くのことが書かれているが、私の戸惑いはおそらく、多くのひととは別だったのであろう。そしてこれは幹部候補生になり見習い士官になり将校になっても同じだった。

 第一、冗談もシャレもわからなかった。献酬という酒席の作法も知らなかった。酒は飲んだことがない、麻雀・花札は知らない、競馬は言ったことがない、芸者と口をきいたことはない、遊郭にいったことはない等々・・・。

そしてそれらの人びとの応答は結局、「そんな人間がいるはずはない」ということであった。まことに不思議といえば不思議だ。

その人間がいま目の前にいるのに、人はそういう人間がいることを信じないのである。

 そして信じないがゆえに、さまざまな解釈が生まれ、その解釈が一つの断定となり、その断定で相手を定義し、その定義によって理解し得たと信じようとする。

 「オイ山本、変にカタブツぶるな。カタブツぶって楽な経理室にまわしてもらおってんだろう。フン、酒は飲みません、花札は知りません、芸者と口を利いたこともありませんか、見えすいたゴマすりをならべやがって・・・」

といったことになる。そうなった場合、いつも私は、それに対してどう応答してよいかわからなかった。もっとも、人にどう思われようと一向にかまわない、ということは言える。しかし、「そう思いたいやつには思わしておけ」では、伝道はおろか、日常のコミュニケーションさえ成り立たなくなる。

 ではどうすればよいのか。いくら考えても方法はなかった。私は内心でつぶやいた。

 「こりゃ、奇跡でも起こらにゃ不可能だな」

 その瞬間思わずハッとした。奇跡という言葉が否応なく福音書の奇跡を思い出させたからである。

 それまで私は、奇跡を本気で考えたことはなかった。いや、なぜ福音書にこんな奇跡の記述があるのかも、考えたことはなかった。それはなんとなく触れたくない問題であり、まことに無責任にも「奇跡物語がなければ、聖書理解も伝道もずっと簡単だろうな」といったことまで考えていた。だが、人は、私という平凡な一人間が目の前にいるのに、それをそのままに見るこさえできない。そしてどう考えても「そのままに見ること」は不可能で、それを可能にするには奇跡しかないと、いま、私自身がそう信じていたのである。

 では目の前にイエスがおられたら、私に見えるであろうか。そのままを見ればよいと言っても、それはおそらく奇跡なくしては不可能である。いや福音書を読んでイエスが見えるであろうか。いままでのような読み方をやめて、奇跡によってイエスを見た人とともにそれを体験しているという読み方をすれば、本当にイエスが見えてくるかもしれない。同時に奇跡とは何かがわかるかもしれない。私はそう思った。

これが軍隊時代に与えられた最大の賜物であった。

 

あるいは山本は、死線をさまよう中迎えた終戦時のことを以下のように記述している。

 

(同著 「平和をもたらすもの」 P66~P69 )

その人の名は知らない。また生涯二度とその人に会うこともないであろう。またその人がどういう人なのか、簡単に言えば善人なのか悪人なのか私は知らない。

 しかしその人のその瞬間の顔を私は終生忘れ得ない。だがそれを聞いたらその人は驚くかもしれない。というのは、その人は、そのときのことをもう忘れているかもしれないからである。

 それは昭和20年8月28日であった。当時私は、ルソン島北端から50キロほど南へ下がった地点の、東海岸の断崖絶壁の近くにいた。敗北に敗北を重ね、追われ追われて逃げ場のない人跡未踏のジャングルに追い詰められていた。背後は海、そこまで歩いて二日の距離であった。食料はすでになく、マラリア、栄養失調、アメーバ赤痢、負傷が重なり、生き残った32名のうち、歩けるものは十数人。付近のジャングルは腐乱死体の山であった。

 8月15日の終戦はもちろん知らない。ただジャングルの前端に迫っていたアメリカ軍の動きがなんとなく鈍くなったことになにやら事態の変化が感じられていた、といってもフィリピン人ゲリラのわれわれに対する討伐は少しも衰えていなかった。

8月27日は、アメリカ軍将校に付き添われた旅団副官が前哨に来て、停戦命令がでたから、所在のアメリカ軍に連絡してその指示をうけよと言い日時・場所を指示して立ち去った。

多少とも英語がわかるのは私だけであった。そこで私が連絡に行くことになった。

ジャングルの前端からこの部落までは1千メートルぐらいである。私は自分の生涯において、この千メートルを歩いたときぐらい、強い恐怖を感じたことはない。名目的には平和になった、しかし自分の生命の安全は保障されていないという状態。こういう状態ほど不気味な状態はない。(中略)

いつどこから弾丸が飛んできて射殺されるかわからない。といって、戦闘隊形をとるわけにもいかないという、非常に奇妙な状態に置かれるからである。

私は軍刀を背に負い、手榴弾二発を帯皮に下げ、銃を持ち、阿部という上等兵を一人つれて、ジャングルを出た。そして異常な緊張状態の中をやっと、ダラヤの村長の家についた。

 米軍の将校は来ていなかった。村全体が険悪な雰囲気。「まてよ、ワナじゃないのか。呼び出してなぶり殺しにするつもりではないのか」そんな疑念がわく。そしてそう思うと、全てがそう見えてくる。

 私は村長を人質にし、阿部上等兵にいざというときはどう応戦すべきかを指示して、待った。どれだけ待っていたのかわからない。案外短い時間だったのかもしれない。だが異常な緊張は、一分を一時間にも感じさせる。

やがてアメリカ軍の将校が来た。彼は完璧な丸腰で、たった一人で、フィリピン人からもらった水牛の角笛を楽しそうに吹きながらやってきた。まどからその姿が見えた瞬間、今度は、どう対応したらいいのか戸惑った。「こんにちは」と言うわけにもいかず、おじぎも、握手も

奇妙である。何しろ、今の今まで撃ち合っていた相手である。その相手が、勝者としてどういう態度に出てくるのか、皆目わからないから・・・。

 彼はつかつかと入ってきた。二人は向き合った。彼は私の方をまっすぐに見て、きわめて簡単に言った。

「私は軍医だ。歩けない重病人は何人いるか。それを無事に収容するには、われわれはどうすればよいか」-

 その瞬間、全身の力が抜けた。一瞬にしてすべてが平和になった。二人はきわめて事務的に、日本軍による病人担送終結地点と、終結日時と、その地点に進出するアメリカ軍兵員輸送車の数と日時を打ち合わせた。終わると彼は、きわめて事務的にもう一度念を押して去った。それだけであった。だがこの短い時間に、私の方に大きな心的転回があった。すべてが

平和になったのである。

イエスは「さいわいなるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称えられん」と言われた。この言葉はこの言葉の通りに受け取るべきであろう。

イエスは「平和ならしむる者」と言われたのであって、「平和、平和と大声で叫ぶ者」と言われたのでない。平和という単語を口にするかしないかは、「平和ならしむる」ことに無関係である。

 その軍医は「歩けない重病人は何人いるか。それを無事に収容するには、われわれはどうすればよいか」といっただけで、「平和」という単語を口にしたわけではない。

 だがその言葉が出た瞬間、そこに平和は訪れ、その人は「平和ならしむる者」となった。そしてその瞬間を人は忘れない。

(中略)

 それは非常に具体的な言葉であり、すぐに行動を要請する言葉であった。だが、その言葉によって、人の心の中に平和が訪れ、平和が来たのである。

 昨日までの敵に、「歩けない重病人は・・・」と言ったこの言葉、この言葉こそ「生ける言葉」であり、それは百万言の平和論にまさる平和をもたらす。そして余計なことを言わず、それだけを口にできる人が、「平和ならしむるもの」なのであろう。」(引用終)

 

 私はキリスト教徒が戦地でどのようなことを考えていたのか、これ以上に生々しい文章を読んだことがない。そして、おそらく戦後の山本七平の思索の全ては、このクリスチャンとして戦争を経験したことが原点となっているといえるだろうと思われるのである。

 戦争とキリスト教の一つの生々しい証言として同著は貴重であり長々と引用した。

 

(8)最後に

 1976年生まれの私はもちろん戦争をしらない。それはあくまで二次創作物を通してのものである。しかしながら、仕事で(NHKの戦争ドキュメンタリーの資料リサーチャーを4年ほど努めた)、多くの従軍兵士の手記を読み、何人かの方の話を直接聞いた。その中で、少しだけ戦争とはどのようなものなのか知ることができたように思う。共通するのは、それは「異常な状態であり、平常時の人間には理解ができないものである」ということだった。善悪も倫理も通常の信仰も超えている。当事者の生の声を聴き読むことでかろうじてそのリアリティを想像することがかろうじて可能になる。しかしそれですら、後世ゆえに知ることのできる多くの情報を知った上で、それを判断している。

 もし私達が戦争とキリスト教について学ぼうとするならば、それはキリスト教とその歴史を学ぶのと同等の努力が、戦争とは何か、について割かれなければならない。それなしの議論は、ただの書斎の机上から歴史を裁くことになるのではないだろうか。

 そのような自戒と共に、修士論文に取り組みたい。

                                       

 

  1. (石川)『戦場の宗教、軍人の信仰』P2、P13
  2. 上記著P38。引用元資料は.『ドキュメント原爆投下 下 エノラ・ゲイ』(G・トマス、M・M・ウィッツ 松田銑訳 TBSブリタニカ 1980)
  3. 永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?』(岡林洋之 2009年)P2より
  4. 『浦上の原爆の語り -永井隆からローマ教皇へ-』 (四條 知恵 2012年)

e 『我れ重層する歳月を経たり 父山田かんの軌跡』

長崎新聞社記者 山田貴己 長崎新聞2003年7月30日インターネットにて再録)

 

 

(参考・引用文献)

『戦場の宗教、軍人の信仰』(石川明人 八千代出版 2013)

『人はなぜ平和を祈りながら闘うのか?私たちの戦争と宗教』

(石川明人、星川啓慈 並木書房 2014)

『祈りの長崎-永井隆と原爆死者』(西村明 2002)

永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?』(岡林洋之 2009年)

『浦上の原爆の語り -永井隆からローマ教皇へ-』 (四條 知恵 2012年)

ナガサキの思想と永井隆没後50年目の夏に』(長崎新聞2000年8月1日掲載ネット再録)

『我れ重層する歳月を経たり 父山田かんの軌跡』

長崎新聞社記者 山田貴己 長崎新聞2003年7月30日ネット再録)

『静かなる細き声』(山本七平 文藝春秋社)

『怒りを抑えし者 【評伝】山本七平』 (稲垣武 PHP 1997)

 

 

 

特攻兵士の心情とはどのようなものなのか?

 

 

戦場の宗教、軍人の信仰

戦場の宗教、軍人の信仰

 

 

修羅の翼―零戦特攻隊員の真情 (光人社NF文庫)

修羅の翼―零戦特攻隊員の真情 (光人社NF文庫)

 

 

 

私が興味を持っているのは、戦場における信仰、より絞るならば特攻作戦という極限状況において、「人を殺してはならない」「自死は許されない」クリスチャンがどのような死生観・信仰観を持って最期に臨んだのかということにある。

日本において、キリスト教の戦争協力については既に多くの研究がある。また、日本基督教団の戦争責任協力に関する反省など、このテーマは繰り返し論じられてきた。

日本のキリスト教組織が戦争協力をしたことは事実であり、そこに一片の弁解の余地もない。

(以下参照)

『殉教と靖国と信仰 死者をたたえるのは誰のためか』(高橋哲哉・菱木政晴・森一弘白澤社)(P13)

日本キリスト教新報1944年4月11日

「殉国即殉教」

もし殉教の意味を、聖書本来の意味に解すれば、それは現在この大戦の真っ只中において、切実に求められているものと言わねばならない。聖書に従えば殉教とは、生命を賭して福音を立証することである。それはただ宗教闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。今は国民総武装の時である。我々一億国民は、皆悠久の大義に生き、私利私欲を捨てて、ひたすら国難に殉ずることを求められている。しかるにこの国難に殉ずるところにこそ、福音への立証があり、殉教がある。これは殉国の精神を要する時である。全国民をして、この精神にみたしめよ。

 

私が興味があるのは、そのような国家、教会ですらも死ぬことを連呼していた中、特攻という極限状態の兵士達が自らの信仰をどう自己に納得させたかということにある。

この点に関して、近年研究を積み上げているのが、北海道大学の石川明人氏である。

 

(1)現代人が特攻隊員の心情を理解することは果たして可能なのか?

石川明人氏(北大准教授)は、2013年『戦場の宗教、軍人の信仰』(2013 八千代出版)を執筆し、米軍の従軍チャプレン、自衛隊におけるキリスト教徒組織コルネリオ会などを取り上げ、「戦場のキリスト教」についてこれまでにない新しい光を当てている。第四章では一章を割き、「特攻の死と信仰 クリスチャンの特攻隊員(林市造の手記を読む)」を書いている。この中で京都大学経済学部から学徒出陣により徴兵され、海軍第十四飛行予備学生として神風特別攻撃隊第2七生隊のパイロットとして戦死した林市造の手記と手紙の原資料を精査し、そのキリスト教信仰を描き出そうとしている。

 母や家族に出した手紙、日記には胸を打つものがある。しかし、我々はこれを読むとき、戦地から送られた兵士の手紙には、常に投函前に検閲が行われていたこを見落としてはならない。確かにそれは確実な死を前にした、悲痛で切実な叫びが聞こえるが、しかしそれでもそこには兵士達が感じていた心のすべてが現れているわけではないことは決して忘れてはならないポイントである。

 またそれを読む現代の我々が、そこにどれだけ胸を打たれようとも、我々には特攻隊パイロットの心情を理解することはできない。なぜなら、それは平和な現在の一般常識とかけ離れた余りに過酷な状況があるのであり、そこでは一般の常識によって判断することすら許されない現実があったからである。もし、現代を生きる人間が特攻を理解するためには、まずは虚心坦懐に、当時の特攻隊員の状況を、その当事者の語りによって理解しようとしなければならない。

特攻を語るとき、それがどれだけ心揺さぶられるものであっても、我々は「情緒」だけでそれを語り捉えてはならない、それは現代を生きる生者の傲慢である、と私は思う。

 

その上で、特攻作戦を考える上で、まず抑えておくべきが角田和男氏の著書「修羅の翼 特攻隊員の真情」である。

 

(2)角田和男氏とその意義

①角田和男(1918-2013 海軍中尉)は、千葉県に生まれ6歳のときに父が亡くなり貧しい家庭で育った。1934年、16歳で海軍予科練5期を受験、横須賀航空隊に入り1937年卒業、戦闘機操縦訓練を受け、1938年空母蒼龍に配属。1939年12空に転属、中国漢口に零戦操縦士として赴任、成都爆撃など実践に参加。

1942年からは、ラバウル基地で、迎撃戦、ガダルカナル上陸援護、ソロモン海戦などに参加。1944年米軍のフィリピンレイテ上陸に伴い、マバラカット基地に転属。(同10月25日始めての神風特別攻撃が行われる)、11月6日201空の特攻隊に配属。終戦まで特攻隊の「直掩任務」に加わる。戦争中の単独撃墜は13機、共同撃墜数は100機以上に登る。2013年に95歳で亡くなる。

 角田氏は、1944年10月25日(結成は23日未明)にフィリピンマバラカット基地で始まった神風特別攻撃隊の創設時から、作戦に加わり生き延びた。また特攻作戦が始まった当時、既にベテランパイロットとの経験を持っていた。また戦後、茨城に戻り開拓農民として生きる中、戦死した部下、戦友の遺族の下を訪ね歩き、その最期を報告し、慰霊して廻った。戦中、戦後を通して特攻作戦の現場を最もよくしる人物である。私は幸いにして2010年9月に茨城のお宅を訪ね、二日間で約10時間ほどお話を聞く機会があった。

現代を生きる我々が、特攻作戦が行われていた極限状態を知るためには、角田氏の『修羅の翼 特攻隊員の真情』を読む必要がある。

 

②「修羅の翼 特攻隊員の真情」の出版の経緯

 角田氏は戦後、全く世に出ることはなく、遺族の行脚を除き、自らの体験を外部に語ることはなかった。1983年頃から、戦史家秦邦彦氏や、戸髙一成氏(現呉大和ミュージアム館長)などのすすめをうけ5年間かけて執筆した。またメディアの取材も一切受けなかったが、晩年2010年ごろからNHKなどの戦争ドキュメンタリーの取材を受け、自らの体験を語るようになった。(2011年には戦争証言プロジェクト「兵士たちの証言」でインタビューに応じている。

この著書の特長は、戦場における特攻兵士の生活、真情を実に赤裸々に書き出していることにある。以下それを引用する。

なお角田和男氏のインタビューはNHKホームページの戦争証言プロジェクトで視聴が可能である。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100784_00000

 

 

(同著から)

従軍慰安婦の記述(P196~)

(B24の急襲があった)

私は、慰安所にもある防空壕に入ろうと彼女を誘ったところが、

「私は行きません、兵隊さんどうぞ入ってください」

と言う。「どうしたんだ、危ないぞ」と言うと、「防空壕に入ったんではいつまでも戦死できませんから」と言う。不思議に思い色々事情を尋ねると、ここラバウルに今いる海軍下士官兵用の慰安婦は、ほとんどが元山付近の北朝鮮出身者が多いのだが・・

(中略)

船に乗せられてトラック島に向かう途中で初めて慰安婦の仕事を説明され、驚いたが既に遅かった。船の中では、毎日これも天皇陛下のためであると教育され、トラックを経由、ラバウルに着いたときは大部分の者があきらめ、しばらくの間は四、五名の者がいうことを聞かなかったが、今では故郷に許婚者が待っているという一人だけが頑張って何と言われても聞かず、仲間の洗濯、炊事などをしているということであった。

「私は天皇陛下のために兵隊さんの奥さんの代わりを勤めようと決心しました。仲間内には日本語の話せない子もいますが、私は京城の高等女学校を卒業し内地人の生活もだいたい知っているので、なるべく内地の奥様らしく務めるよう努力しているのです」と、初めて会ったときの挨拶も、この子にできる精一杯の忠義心であったのだ。

 しかし、このようなことは故郷には知らせられない。家には横浜局気付で元気に工場で働いている、詳しいことは軍機で書けない、といつも簡単にはがきを出している。お金はたくさんもらえるが、使い用がない。家に十円以上は送れないと言う。それ以上の大金が女の子にかせげる訳がないから監督者は金をためて、横浜辺りで将来は料理店でも開いたらどうかということで、だいたいみなその積もりで故郷へは帰らない決心でいるのだと言う。

 「監督の説明では、もし万一ここで戦死するようなことがあれば、身分を一階級進めて特志看護婦として公報され、靖国神社に祭ってもらえるとのことです。私は店を開くより靖国神社に祭ってもらい、立派に軍属として父母に公報を届けてもらった方が良いのです。防空壕に入っては戦死できませんから」と言う。

 戦争とはいえ何と不幸な人たちのいることか。人性を完全に狂わされてしまったのだ。ときどき心ない兵隊のからかいに、彼女たちは、「何を言うか、天皇陛下一つ、朝鮮朝鮮パカにするな」の叫び声は毎夜のようにどこかで聞かれた。それに自分も一日一日を死と対面する空戦を続けているが、まだ自分から進んで死のうとは思っていない。国のために全力で戦うが、また自分でも死にたくない、落とされたくないから精一杯戦っているのだ。

 死を決している少女の言葉にウソは無いと信じた。そうと聞いて一人逃れる訳にはいかない。

「チラッ」と妻の顔が浮かんだが、天皇陛下のためにとこの道を選んだ少女がいるなら陛下に代わってお詫びの印に、私も一緒に万一の場合は死んでやろう、と決心した。

 若丸は飛び上がらんばかりに喜んだ。

「本当に一緒に死んでくれますか、前に聞いたことですが、もし爆弾が当たって二人一緒に戦死すれば、海軍では一夜でも妻は妻、一緒に海軍葬をしてくれるそうです。私は飛行士官の妻として靖国神社に祭ってもらえるかも知れませんね」と言う。

 私は服装を整えて静かに横になっていた。終夜続いた間断的な盲爆の一発で、三十キロくらいの爆弾が慰安所の庭に落ちた。バリ、バリッという屋根に破片の落ちる音と共に二階から人声がする。誰か他にもいる。飛び起きて見に行った若丸が、しばらくして眼を輝かして帰ってきた。

「今夜も防空壕に入らない者が七人ばかりいる。でも皆一人で寝ている。ちょうど上の部屋の子が足に破片を受けて今病院に運ばれて行った。あの子は可哀相だった」と、

 しかし、嬉しそうに「今日は爆弾が当たる、当たる」と歌うように口ずさみ、私の横に寄り添って胸に顔を埋め、真剣に、

 「神様仏様、どうか今夜は爆弾が命中しますように」と、小声で祈っていた。本当に可愛い子だった。

 私は、この子の運命が何とかならないものかと考えつつ、申し訳ないが私は心の中で、

「当たれば仕方ないが、なるべく爆弾は当たりませんように」と祈っていた。

 

(P398)出発直前の特攻隊員たち

 昼飯には少し早かったが、配られた弁当の缶詰を、機上では面倒だから食って行こうという者があり、さっそく整備員に手伝ってもらって缶を開いたところ、この缶詰のまずいこと、ぼそぼそで味も何もあったものではない。

 私はそっと若い隊員たちを見回した。ところが、彼らは実に旨そうにまるで遠足に行った小学生のように嬉々として立ち喰いしている。しかし、約半数の者はサイダーだけ飲んで、あとは、

「おい、俺はとても喉を通らないぞ」と見送りの整備員にいたずらっぽく渡していた。、

 この時、私の顔色はどうだったろう。特務少尉ともあろう者がこの期に及んで弁当も喰い残したとあっては恥だと考え、傍らに転がっていた丸太に腰を下ろして、サイダーを飲みながら形だけは悠々と全部平らげた。まったく砂を噛む想いとはこのことだろう。あの半数の若者たちには、遠く及ばない、と感じた。

(P399 )

 距離約3万メートルとなって、突撃を下令する。爆装機は編隊を解き、全力接敵を開始した。幸い上空に直衛機はいない。私の視力はこの天候なら三万メートル以上で敵機を発見できる。隊員の表情は分からなかったが、全力で突入する気魄はまったく差異は認められない。なぜか防御砲火もなかった。訓練した型通りの降爆に入る。角度も良く敵進攻方向に合わせて六十度。

 中型空母に向かった一番機は、その前甲板に見事命中、大きな爆炎が上がった。二番機は戦艦の中央煙突の後ろ十メートルばかりに突入。この頃になってようやく防御砲火が猛烈となり。一番機の開けた穴を狙った三番機は、1500メートルくらいまで突っ込んだ時、突然炎を吐いた。 

 やられたか、と瞬間胸が締め付けられたが、完全に大きな火の玉となりながら、確実に急降下を続け、一条の尾を引きながら空母甲板の中央に命中し、黒煙の中にさらに大きく爆発の火炎を上げた。

 実に人間技とは思えない凄い気力である。緒戦時、被弾して着陸した操縦者がすでに何分か前に死んでいたはずだった、というような話を聞いたことがあり(これは、私の同期生、中瀬正幸一飛曹だったことを戦後知った)これはだいぶ誇張された話だと思っていたが、この時、私は初めて真実に精神力の物凄さを見せ付けられた。米空母の乗員はどんなに感じただろう。(中略)

 この合計八名の戦果は、ただちに艦隊司令部に報告され、改めて神風特別攻撃隊葉桜隊と命名されたのだった。

 

(ラジオ番組のインタビューで、私(D)は、角田氏に聞いた。「目の前で戦友が敵艦に突っ込んでいくのを見るとき、一体どんなお気持ちでしたか?」と。どうしても聞きたい質問だったのだ。角田氏はその時思ったことを本書P182以下の部分のことを思い出しながら語った。1942年11月まだ特攻作戦が開始される前、ラバウル基地でソロモン付近の作戦に関わっていた頃、日本軍の輸送船団の護衛任務についていたとき、8機零戦で20数機のグラマンに襲われたときのことを書いている。

(P180)

 この雷撃隊だけは絶対に阻止しなければならない。魚雷一発くえば艦も船も轟沈まちがいなしだ。どうする、どうする?

 せわしく自分で自分に問いかける。答えは一つ、体当たりしかない。全身の血がカアッと頭に上って、目がくらみそうになる。胸がぎゅっとしめつけられてくる。それでも手足は確実に操縦をつづけ、頭の中の他の一部分は最も有効な方法を考える。

 敵の一番機、おそらく魚雷は胴体の中に抱いているだろう。前上方や側方では駄目だ、真正面から同高度でぶつかろう。うまくすれば、魚雷の誘爆を起こせるかも知れない。そうだ、飛行機ではない、魚雷だ、あの中の魚雷に体当たりするのだ。そうすれば、少なくとも第一編隊の九機くらいは道連れにすることができるだろう。敵の第一編隊が木端みじんになれば、おそらく第二、第三編隊は算を乱して避退に移るだろう。

 

(P182)

緊張と不安に固くなっていた胸がふぁーっと暖く膨らんで瞼がにじむ。形容し難い嬉しさ、もしこの時死んでいたら極楽往生は間違い無かったろうに。

ラジオ深夜便インタビューP57)

そのときは命中してよかったなぁ、と思いましたね。今でこそ思い出すたびに涙が出ますけれど、当時としては、命令された任務を遂行するのが第一でした。(中略)

 私を撃ってくれと。空戦しながら輸送船を攻撃することはできませんから、私の零戦を狙ってくれれば輸送船が助かります。

 そのときは、つらかった・・・。俺を撃ってくれーっていう気持ちと、輸送船が狙われたらどうしようと、胸を締めつけられるというのはああいう感じです。零戦だと気づいたら、相手はみんな撃ってきてくれました。それがうれしかったですね。涙も浮かんできました。

「ああよかった。こいつらの爆弾全部俺がもらった。これで輸送船は安全だ」と。・・・あのとき死んでいれば、私は極楽往生間違いなかったと思います。そういう経験があるものですから、葉桜隊が突っ込んだときも似たような気持ちで見ていました。みんな、うまくぶつかるかどうか心配して、硬くなって突っ込んでいくだろうと。「ようし、これでぶつかる」とわかったとき、おそらく胸をふくらませたんじゃないかな、と思って。みんな満足して死んでくれたんだなと思ってました。

 

(なお直接の談話では、以下のように話していた)

「私は寺に行きますが、そんなに神さまのことなんて考えたことはなかった。でもこのときは仏も神もアメリカのキリストもイスラムアッラーも全部が私の中に入ったような気がした。もし私はあそこで死んでいれば極楽往生間違いなかったと思います。と語っていた。」

角田氏がキリストについて唯一語っていたのがここであり、とても印象に残っている。「アメリカのキリスト」ってのはちょっと違うんでは、と頭の片隅で思いながら)

 

 

(P402)出撃前夜の特攻隊パイロット達

その入り口に近づいた時、突然、右手の暗闇から飛び出して来た者に大手を広げて止められた。

「ここは士官のくるところではありません」と押し返してくる。

(中略)

「何だ、倉田じゃないか、どうしたんだ」私の声に彼も気がついた。

「あっ分隊士ですか、分隊士なら良いんですが、士官が見えたら止めるように恃まれ、番をしていたものですから」と、変なことをいう。不審に思ってわけを聞いてみると

「搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです。特に飛行長には見られたくないので、交代で立番をしているのです。飛行長がみえた時は中の者にすぐ知らせるのです。しかし、分隊士なら宜しいですから見てください」

そう言われてドアを開けた。そこは電灯もなく、缶詰の空缶に廃油を灯したのが三、四個置かれていた。薄暗い部屋の正面にポツンと十人ばかりが飛行服のままあぐらをかいている。そして、無表情のままじろっとこちらを見つめた眼がぎらぎらと異様に輝き、ふと鬼気迫る、といった感じを覚えた。

 左隅には十数人が一団となって、ひそひそ話している。ああ、ここも私たちの寝床ではない、と直感して扉を閉めた。

(中略)

 「どうしたんだ、今日俺たちと一緒に行った搭乗員たちは、みな明るく、喜び勇んでいたように見えたんだがなあ」

 「そうなんです。ですが、彼らも昨夜はやはりこうしていました。眼をつむるのが恐いんだそうです。色々と雑念が出て来て、それで本当に眠くなるまでああして起きているのです。毎晩十二時頃には寝ますので、一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは、ああして起きて待っているのです。しかし、こんな姿は士官には見せたくない、特に飛行長には、絶対にみんな喜んで死んで行く、と信じていてもらいたいのです。だから、朝起きて飛行場に行く時は、みんな明るく朗らかになりますよ。今日の特攻隊員と少しも変わらなくなりますよ」

 私は驚いた。今日のあの悠々たる態度、嬉々とした笑顔、あれが作られたものであったとすれば、彼らはいかなる名優にも劣らない。しかし、また、昼の顔も夜の顔もどちらも本心であったかも知れない。何でこのようにまでして飛行長に義理立てするのか、立てつづけの私の追及に、倉田は

「それは、特攻隊編成の際、隊長の人選が長官の思い通りに行かず、新任で新妻のある関大尉(D註:最初の特攻攻撃を行った関行男大尉)を選出したことで長官の怒りに触れ、他の飛行隊長は全部搭乗配置を取り上げられたという噂があるのです。それで201空の下士官は、自分たちだけでも喜んで死んでやらなければ、間に立たされた司令や副長が可哀相だと思っているらしいのです」とのことであった。

 割り切れない気持ちを残して、私たちはまたトボトボと坂道を明るい士官室へと引き返していった。

 

(P438)

誉田参謀が、先ほど参謀長に届けた書類を見ながら、

「角田君、この手紙の内容は知っているんだろうな」

「いいえ、知りません」

「そうか、これには、最初は君が誘導直掩で列機を突っ込ませ、成功した後は君は単独で突っ込ませてくれと書いてあるが、聞かなかったのかな」

「ききませんでしたが、それではやります」

 

 

(P497)終戦、国に帰る

 帰宅して妻に相談すると農家育ちの妻は喜んで、「働く土地があるならやりましょう。今まではお父さん一人で働いてくれたから、今度は私が働いて、開墾でも何でもしてお父さん一人くらい養ってみせますよ」と心強い返事が返って来た。

 こうして現在地に入植することになったのである。先人も見離していた富士火山灰の酸性土壌との二十年近い苦闘が続き、曲がりなりにも人の住家らしきものに入ることができたのは、世の中も経済成長期に入った昭和三十九年暮れのことであった。

 

(P499)終戦後、戦友の遺族を訪ねる

以来、時間の許す限りご遺族を訪ねて、個人をおまいりさせていただく慰霊の旅が始まった。(中略)

しかし、正確な名簿があるわけでなく、全軍布告された特攻隊員でさえ遺族の不明な方も少なくなかった。(中略 昭和52年7月24日)

「こちらは昔、神風特別攻撃隊で戦死された出津正平さんのお宅でしょうか」と尋ねると、きょとんと、している。

「失礼ですが、出津源一様という方をご存知ないでしょうか」と再び尋ねると、不思議そうに、

「源一は私ですが、何の用でしょう」というので、

「私は特別攻撃隊で戦死されました正平さんの戦友ふぇすが、このたびフィリピンの現地に慰霊祭りに行くことになりましたので、その前に一度遺族にお会いしてお墓参りさせて戴きたいと思って参りました」

 と言ったが、まだ腑に落ちない様子で、

「人違いではないでしょうか。正平は確かに私の弟ですが、特攻隊員だということは聞いたことがありません。確かに飛行機乗りにはなっていましたが、どこでどうなったのか、音信不通のままで、戦死の公報もなく、十年近く経っても帰って来ないので、どこかで死んでしまったのだろうと思い、死亡認定をしてお墓も立てましたが・・・」となかなか信用してもらえなかった。

(中略)

私は、当時のこのことを、厚生省の担当課長に訴えたが、

「今さら、そのようなことを申し立てても、遺族を迷わすだけだから止めてもらいたい」

との一言で、一顧もされず一蹴されてしまった。

(中略)

「今頃になって戦死していたとは、どういうことなのだ。貴方が責任を取ってくれるとでも言うのか」と詰問されてしまった。しかし、私にはどうすることもできないのであった。

 

(P524 再刊にあたって)

 平成13年9月11日、ニューヨークに航空機による同時多発テロがあり、テレビは実況放送を続けていた。私は涙を押さえながら見ていた。あの斜めになってビルに体当たりする旅客機の凄まじさ、場所も目的もまったく違ってはいたが、私は同じような場面を前に一度、ただ一人で大きく眼を開けて瞬きもせず見つめていた。葉桜隊の体当たり。

 飛行長中島正中佐より「爆装隊員は沈着に判断行動せよ。敵を発見したならばまず一番機は一番大きな空母のリフトにぶつかって穴を開けろ。二、三番機はその結果を見て沈まないと思ったら二番機は一番機の開けた穴に突っ込め。それでも沈まなかったら三番機も同じ穴に突っ込め。目標を散らしては戦果が薄れる。千巻の場合は煙突の穴に突っ込め。直掩機隊はこの間、敵の攻撃を受けても反撃は一切ならぬ。爆装隊の盾となり、全弾身に受けて爆装隊を進めよ。制空隊は敵の上空直掩機を圏外に誘い出し、攻撃の終るまで空戦を続け、全機投入を確認したならば帰投して宜しいが、確認できずまた離脱困難の場合は最後まで戦え」

 

(註)

 2011年の東日本大震災福島第一原発事故では、自衛隊のヘリが放水シートに水をくるみ、原発上空からの放水作戦が行われた。それは「現実的には効果はないのに、日本が必死で本気で取れうる手段をすべて取ったということをアメリカに示す」という点で、特攻作戦そのものだった。

知人のディレクターから聞いたが、角田氏はやはりそれを涙を流しながらテレビを見ていたという。

 

(P512)

 国民総中流意識の時代は過ぎて、貧富の差は次第に大きく開きつつあり、田園は今、荒れなんとしています。誤った歴史を再び繰り返してはならないのです。先人の誤った轍を踏んではならないと思います。昭和六十三年 中秋 角田和男

(P526)

 たとえ平和のためであっても、戦さはしてはならない、二度と遺族をつくってはならない。

 

 

(まとめ)

特攻を語るとき、まず押さえておくべきことは、それが、人を必ず死ぬ作戦に従事させるがゆえに、あまりに異常な状態にあり、現在の私たちが普通のレベルでは理解できない心理にあるということである。このことは、当事者の語りに触れることによってしか気づくことすらできない。

 その点において、角田氏の著書は極めて貴重な歴史的価値を持っているのだと思う。