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佐藤優入門(その3) ソビエト連邦の宗教政策とNHKスペシャル「中国激動」中国のキリスト教政策

さて、佐藤優ソビエト連邦末期において、共産党イデオロギー部への接近を図っている。当時、ソ連における最大の問題は3つあった。いうまでもなく経済と、民族問題、そして宗教政策である。この後者2つを管理していたのが、共産党イデオロギー部である。民族問題の専門家に接近する様子も詳しいがここでは省略し、宗教政策に限る。

 

(P422)

 共産党守旧は官僚のロシア正教に関する関心は、単なる知的好奇心だけでは済まされない。それは政治権力基盤の強化と直結した問題だといえるだろう。共産党マルクス・レーニン主義イデオロギーに立脚している。そしてマルクス・レーニン主義は科学的無神論を基本原則にしている。科学的無神論を維持したまま、ロシア正教会と手を握ることはできない。この捻れを解消するためには、イデオロギー的な操作をする必要がある。それを行うのは共産党中央委員会のイデオロギー担当官僚だ。この人物を割り出し、懇意になる必要がある。さて、どの切り口からアプローチしたらいいだろうか。

(怪P37)モスクワ大学哲学部には、共産党官僚や政治家を志望する学生が多かった。ソ連では政治学は“ブルジョワ学問”であると位置づけられていたので、大学に政治学科はなかた。もちろんソ連にも政治はある。それを担当するのは、モスクワ大学の場合、哲学部科学的共産主義学科であった。共産党官僚になったり最高会議(国会)代議員になるためには、マルクス・レーニン主義の知識を身に着けることが不可欠だ。特に弁証法の訓練で、「黒を白」「白を黒」と言いくるめる技法を身につける。(中略)さらに科学的共産主義学科では宣伝(プロパガンダ)と扇動(アジタチア)について系統的に訓練を受ける。

 

(付記)

さてこのくだりがはっと思い出されたのが、昨年放送されたNHKスペシャル「中国激動 さまよえる人民のこころ」である。

この番組では、それまで実態がよくわからなかった中国国内のキリスト教の実態がカメラで映し出され、かなりの反響を呼んだ。

 NHKスペシャル 中国激動「さまよえる人民のこころ」

(リンク)

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1013/

(動画) ※FC2動画への登録は各自の判断で 

http://video.fc2.com/content/20131022SXGgE2Yc/

 

たまたま知人が知り合いだったので聞いたが、放送に当たっては、中国当局から直前まで注文が入ったらしい。(※上記の公式HPでもキリスト教の文字は一切入っていないことからもそれはわかる)
番組は半分(30分)が儒教系の宗教、もう半分が国内のキリスト教会を取り上げている。
(推測だが)これは、半分の時間を割いて国家公認(主導)の儒教系宗教団体をアピールさせることとバーターで、キリスト教パートの紹介を許すメリットがあるという判断と思われる。

キリスト教パートの地下教会の生々しい(潜入取材的な)迫力に比べ、
儒学パートの映像の迫力のなさはまた対照的である。ほとんど政府プロパガンダ映像にしか見えない。
(私がクリスチャンであるというバイアスを差し引いても)

驚いたのはよくぞこの取材と放送を許したなということだ。
①家庭教会(地下教会=当局に届けをだしていない非公認の教会とナレーションでは説明)の礼拝の様子
②現役治安関係者、警察、軍人、共産党幹部(がキリスト教の洗礼を受ける様子

③牧師が「私たちの活動が国に管理されるのはよくないと思う」とカメラに向かってしゃべっていること
カトリック教会において、ベネディクト16世(取材当時と思われる)の巨大な写真パネルを掲げている様子
(中国政府は、国内のカトリック神父の叙任権を握っており、ローマバチカンの介入を認めていない)
⑤上記の共産党幹部の家で、神父が聖水によるお祓いをしている。そして入信をすることをカメラに
⑥上記の神父が「この地方ではイエス様への信頼は共産党と同じぐらい強いものなのです」と発言。


などを撮影、放送していること。

また政府公認の教会の牧師(上記③の牧師)が、地下教会の信徒、教職者を集め学習会をしている様子もある。
この牧師(陳牧師)が極めて雄弁で身振り手振り、話し方、すべてにおいて非常に力強い。あまりにも能弁で見事な話っぷり、そして宗教政策について国家批判をカメラの前で可能であることからおそらくこの牧師が、政府によるなんらかのプロパガンダ専門教育を受けている人物であるというにおいは濃厚にする。そうでなければ、このような取材も撮影も不可能だろう。

これは、おそらく政府が、すべての地下教会を把握するのではなく、国家管理の教会を通して管理するという二重構造があると思われる。
また、このような放送を海外の大メディアで放送を許すということ自体が、中国政府がキリスト教をかなり把握しているという自負と、カトリック教会との関係回復のアピールと推測することも可能ではないだろうか。さらに、伝統的な儒学によるイデオロギーで、資本主義による内面のひずみを統合していくという意思を感じることも可能だろう。

さらに興味深いのは13:00前後。中国では憲法で外国勢力による宗教の布教を禁じてきた。しかし2007年の第17回共産党大会での宗教政策の転換として紹介される映像がでてくる。
胡錦トウが「宗教界の人々にも経済、社会発展させる役割を果たしてもらう」と発言している様子。

これは中国共産党イデオロギー政策の転換を示している。

 

宗教を黙認し二重構造において支配し、国家統合のためにイデオロギーとして宗教を利用しようとする。この二点において佐藤がソ連で見たものは、まさに今中国で試みつつあることなのである。(そしてそこまで強烈ではないが、安倍政権によって日本でも)


最近、中国国内のキリスト教徒は2億人にせまり、”世界最大のキリスト教徒を抱える国となる”と
報じられた。

http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=87116


おそらく中国の行く末を握る、最大の要素がキリスト教なのであり、
それを読み解く際に、佐藤優の見たソビエト連邦におけるキリスト教政策
は一つの前例としてヒントになるのだと思う。

 

 

 

・・・いいかげん書くのに飽きてきたが、ここまで書いたのでもう少し書く

その4、鈴木宗男イスラエルロビーと佐藤優につづく

 


 

佐藤優入門(2)ソ連におけるキリスト教の実態

 

 

 

自壊する帝国 (新潮文庫)

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甦る怪物(リヴィアタン)―私のマルクス ロシア篇

甦る怪物(リヴィアタン)―私のマルクス ロシア篇

 

 (以下引用は「自壊する帝国」が壊、甦る怪物私のマルクスロシア篇が怪と略す)

①     モスクワ大学哲学部科学的無神論学科

(付記)

佐藤は1985年外務省専門官(ノンキャリア)として外務省に入省。研修を追え1987年モスクワに赴任する。ソ連末期、ゴルバチョフは西側とのデタントをすすめるが西側の政治家、企業家、などエリートと交流するにあたり、西欧キリスト教的な教養、知識背景を持っている人物もその教育をできる人材もいない。アメリカ人宣教師が講義を担当していたが、ファンダメンタリズム根本主義)神学で、西欧の知的神学の伝統と断絶されている。

そこで、同志社大学で組織神学を学んだノンキャリア官僚である佐藤にモスクワ大学で講師をして欲しいという依頼がきて、佐藤は「モスクワ国立大学客員講師」の肩書きで教えることになる。西側外交官がモスクワ大学の講師として教えることは極めて異例であった。モスクワ大学の講師という肩書きは、日本大使館の三等所期官という肩書きをはるかに超えて人脈をひろげていった。当時西側の外交官は主にゴルバチョフの改革派との交流を主としていた。しかし将来のクレムリンのエリート官僚となる、学生やそこから保守派の共産党幹部にも人脈が出来、これが佐藤の外交活動の幅を広げていくことになる。

いずれにしろ、彼の記述には、公式では「宗教は阿片だ」とする共産主義国家の中にも、キリスト教信仰は根強く生き残っていた生々しい証言に満ちている。

 

(壊P53

言うまでもなく、ソ連社会主義国家であり、科学的無神論を国是としていた。マルクスが「宗教は人民の阿片である」と言っている以上、大学で宗教のようなくらだらないことを研究するわけにはいかない。しかし、人間社会には宗教現象は存在するので、最高学府であるモスクワ大学でもそれを批判的に研究する必要がある。そこでソ連当局は哲学部に「科学的無神論学科」を設けたのだ。宗教でなく無神論を研究するという建前で、実際は神学や宗教学を研究していたのである。

(P64

  科学的無神論学科はソ連の二重構造が集約されているような場所だった。(中略)宗教という虚偽のイデオロギーからソ連国民が離れていくことを促進するためには「科学的な知識」を広めていけばよいというのが共産党の基本方針だった。だから、ソ連憲法では信教の自由とともに無神論宣伝の自由が保障されていた。モスクワ大学哲学部科学的無神論学科は、無神論研究の最高権威で、卒業生のほとんどは共産党イデオロギー要員や大学教員になった。ここでは聖書を読むことも自由にできたし、また一般では読むことのできない欧米の神学書や宗教学研究書(中略)も読むことができた。

 

(P76)

「いったいどうなってるんだ」

「どうもこうもないよ。宗教をまともに勉強できるのはここくらいさ。だからここに来る学生はほとんど隠れ信者だ。教授も半分は信者だ」

私は彼らの話に混乱し、わけがわからなくなったl。

 

(怪物P26

 ソ連共産党は、表面的には科学的無神論を掲げながらも、宗教研究を重視していた。そこで最高学府のモスクワ大学でも神学や宗教史、宗教事情に関する研究がなされていた。後に知るのだが、学生のほとんどは、ロシア正教の「隠れ信者」で、教師たちもそれを黙認していた。

十一階の哲学部掲示板を見ていると科学的無神論学科の講義カリキュラムが貼ってあった。

 

(P30

ソ連時代に欧米の哲学を研究するためには「科学的共産主義の立場からの批判」という粉飾が不可欠だった。逆説的だが、ヴィトゲンシュタイン、ラッセル、ホワイトヘッドなどの分析哲学系については、現代数学や論理学の枠組みでそのまま紹介することが容易にできたが、ホルクハイマー、アドルノハーバーマスなどのフランクフルト学派については、マルクス主義の影響があるためにかえって紹介が難しかった。モスクワ大学哲学部には「現代ブルジョア哲学批判学科」という不思議な名称の学科があり、そこでフランクフルト学派デリダフーコーなどのポスト・モダン系の哲学を扱っていた。

 

(神学部とは何か?P 126)

 この人たちの所属は、現代ブルジョア哲学批判学科という学科であった。そこで使用される専門書は独特の構成をしている。

 まずは序文で、ソ連共産党大会の決定をもってくる。そして共産党の意向に沿った形でテーマを設定する。

「まさにこれは、レーニンが言っていた時の情勢に近い」といって「レーニン全集」からレーニンの言葉を引用する。そして次に、「こういう状況の中で腐敗しきったブルジョア社会においては、このようなけしから議論が出ている。このことをわれわれは正確にしっておかなければならない」ということを前書きで書いておいて、本編ではできるだけ正確にフーコーなり、ハーバーマスまりの言説を紹介するのである。

 そして最後の結論のところで、「以上、述べてきたことから明らかなように、このような退廃したブルジョア的学問に将来はない」と結ぶのである。

 このような、はじめから結論ありきの著作構成には、まったく説得力がない。しかし、こういったものが非常に良い学術書とされる。もちろんソ連の学者たちはわざとこういう書き方をしているのだ。研究者はみんな、序文とあとがきは飛ばして、真ん中のところだけを読んで、西側でどのような新しい学問の流れが出ているかを知るのである。学術書をチェックする検閲官ももちろんモスクワ大学哲学部の出身者なので、執筆者も編集者も、みんなそのことを知っていて、完全にグルなのだ。

 

(怪物P32)

 「モスクワ大学のみならずロシアの高等教育機関にはプロテスタント神学を体系的に学んだ専門家が一人もいないんだ。だから宗教哲学の感覚はわかるんだけど、神学になると勘所が捕らえられないんだ。そこでマサルにたのみたい」

(P34)

モスクワ大学の客員講師をつとめている」ということを伝えると、日本大使館の三等書記官という肩書きでは面会に躊躇していた有力国会議員や各省庁の閣僚や次官、更にクレムリン要人が簡単に会ってくれた。しかも、ソ連時代の無神論政策に対する反動から、宗教事情に通暁しているということにロシアの政治エリートは畏敬の念をもっていたので、「モスクワ大学客員講師」の肩書きは、私の本業を大いに助けてくれた。

 

 ②アフガニスタン帰還兵アルベルト

(付記)佐藤が当時モスクワ大学で教えた学生たちの中には、エリートの他にアフガニスタン帰還兵なども含まれていた。

 

(P59

「佐藤先生、今日は僕のアフガニスタンでの体験について話したいのです。話を聞いてもらえますか」と言った。私は「喜んで」と答えた。その後、アルベルトはアフガニスタンでの経験について具体的に話し始めた。

「僕の戦友が装甲車に乗って舗装されていない山道を走っていると、道にものが落ちていました。よく見ると動いている。そこで、戦友は装甲車を降りて近づいて見ると、人間の赤ん坊が、布にくるまれて放置されていたんです。このままでは死んでしまうと思い、友達は赤ん坊を抱いて、近所のアフガン人の村に連れて行ったそうです」

「それは村人に感謝されただろう」

「佐藤先生、そうじゃないんですよ。これはドゥシュマン(アフガンゲリラ)の工作なんです」

「どういうことだい」

「赤ん坊は餌にしてソ連兵を呼び込むんです。それでソ連兵を捕まえて裸にしてまず急所を切り取る。それから、耳と鼻を切り、肘のところで両腕を切り、膝のところで両脚を切る。それで、道に放り投げておくんです。あえて目は抉らない。恐怖がいつまでも見えるようにするためです」

「・・・・・」

「佐藤先生、人間の生命力というのは、案外強いんで、それでも生きている人もいるんですよ。芋虫のようになって。しかし、死んでしまう戦友も多い。僕たちは弔い合戦で、アフガン人の集落を襲撃し、下手人を見つけて殺しました。最も下手人は逃げているので、捕まらないことがほとんどです。そういうときは『疑わしきは罰する』で、敵性分子は皆殺しにします。こんな戦闘を、二、三回経験すれば、人を殺すことなんて何とも思わなくなりますよ」

(中略)

「それからは、道に赤ん坊が置かれていても、誰も助けはせずに、装甲車で轢いていくんです」

(中略)

ソ連兵の乗った装甲車や兵員輸送車がアフガンゲリラに捕らえられてしまうことがあります。捕虜になった将兵は文字通り身体を切り刻まれて惨殺される。あるいは石打ちにします。大きな石を当てるとすぐに死んでしまうので、握り拳大の石をたくさん集めてきて、できるだけ苦しみを長引かせて、殺すんです。生きて還ることは絶対にできない。それだから、このようなリンチの現場を見つけるとソ連軍の武装ヘリが機関銃やミサイルを撃ち込んで、戦友たちを早く楽にしてあげるのです」

「・・・・」

「ヘリコプターの操縦手は泣きながら撃つんですよ。それが戦友たちを楽にしてあげることができる現実的な唯一の方策だから」

「・・・・」

「だから、これは愛なんです。そのことを民主派の連中はわかっていない」

「君の部隊でもそういうことがあったか」

「ありましたよ。僕は歩兵だったからヘリコプターに乗ったことはないけれど、友軍の手で楽にされた兵士はいましたよ。それから、両腕、両足と舌を切られ、耳、鼻を削がれた兵士も安楽死させられる場合が多かった。本国に送還されても厄介者とされ、社会復帰できる可能性が皆無だからです」

「そういうことがあった後は、アフガン人の集落に対して報復攻撃をするのか」

「はじめの頃は報復攻撃をしました。村を焼き払い、手当たり次第に住民を殺した。しかし、そういうことが何度もあると報復も面倒になる。佐藤先生、アフガニスタンでは時間の流れが違うんですよ。うまく説明できないけれど、すべてが静止しているんです。地獄があるとすれば、アフガニスタンなのでしょうが、それが現地にいるとそう思えないのですよ。戦場だということも感じない」

(中略)

アフガニスタンでは、紙幣は単なる紙切れとしての意味しかありません。石鹸、マッチ、潮、砂糖などの生活必需品が不足している。特に砂糖は貴重品です。砂糖二キロを渡せば、身体を開く娘は多い。だから女には不自由しないんです」

「佐藤先生、僕は軍からモスクワ大学への推薦枠をもらってほんとうに幸運でした。大学生になってから、時間が普通に流れるようになりました。ただ、ときどきアフガニスタン時代の夢を見るのです。そうすると一日憂鬱です。そして、一度、夢を見ると、その夢が翌日も、翌々日も続くのです。戦場に引き戻されたようになって、気が滅入ってくるのです。佐藤先生夢を見ないですむようにする方法があったら教えて欲しいのです」

(中略)

その日は閉店の午後十一時まで、アルベルトの話を聞いた。アルベルトの心の中で、相談したい事柄が明確に定まっているわけではなく、誰かに胸の中につかえている話を聞いて欲しかったのであろう。その日は帰宅後もなかなか寝付くことができず、私は何か重い荷物を得負ったような気持ちになった。

 

(P230

「フィリオクエをとるのと、とらないので、政治的にどのような違いがでてくるか、説明してもらえないだろうか」

これは神学上の大難問だ。「よくわからない」といって逃げてしまおうかとも思ったが、セリョージャのまなざしが真剣なので、答えることにした。

(中略)

聖霊は救済の根拠である。フィリオクエを採用すると、聖霊とはイエス・キリストを通してのみ接触できることになる。イエス・キリストの死後は、教会を通してのみ接触可能になる。従って、救済の権威を独占する教会の司令に従うことが、救済のための条件になる」

「要するに教会は世界の中心にあるので、そこから政治司令塔として機能することになるということか」

「その通りだ。これに対してフィリオクエを採用しないと、信者の一人一人が、神から直接性例を受けることが可能になる。救済を担保する教会の機能が弱くなる。更に、国家や組織に依存しなくても人間は救済されるという考え方なので、宗教的には神秘主義、政治的にはアナーキズムと親和的になる」

「ということは、最近の宗教復興で、ユニア教会が台頭する地域では、政治の組織化が進むのに対し、盛況が復興する地域では、アナーキーな傾向が強まるということか」

「神学倫理的にはそうなる」

「マサル、ありがとう。ガリツィアでユニア教会が果たす役割がだいぶ見えてきた」

 

 

ソ連国内の分離派修道院、プロテスタント教会

ソ連かくれキリシタンという章では、ソ連国内の分離派の修道院を訪ねた記述がある。

(p208)

分離派とは17世紀にロシアで宗教改革が行われたときに、それにしたがわなかったグループである。ロシア皇帝とロシア正教会指導者は分離はに徹底的な弾圧を加え、指導者の司祭アバークムは火あぶりにされた。その後、分離派の信者は「この世の終わりが近い」「ロシアを西欧化するピョートル大帝は悪魔の手先の反キリストだ」との信念を抱き、シベリア、中央アジア、沿バルト地方などに逃げていった。終末論的な信念に基づいて昇進自殺をした信者も多い。

 ドストエフスキーが、『罪と罰』で高利貸しの老婆を殺す主人公をラスコーリニコフとしたのも、「ラスコーリニキ」すなわち「分離派」に引っ掛けてのことだ。

(中略)

 車で二十分程は知った市の郊外に白壁で囲まれた多きな修道院があった。修道院といっても独身の修道士、修道女が住んでいるのではなく、この世の終わりが近い将来にやってくると信じている信者たちが祈りを中心に共同生活をしているである。

 修道院の中に礼拝所があり、正面に聖画像(イコン)がたくさんかかった壁(イコノスタス)がある。(中略)ここには伝記が全く引かれていない。その代わり、燭台に数え切れないほどの数の蝋燭が灯されており、礼拝所全体が橙色の温かい光に包まれている。

 礼拝所の真ん中についたてが立てられ、左側に男性、右側に女性が集まるように区分されている。主流派のロシア正教会は男女が混在して立っているので、この点も分離派の特徴なのだろう。

(中略)

 宗教指導者と信者が一緒になった独特の節回しで祈祷書を読んでいる。ときどきみんなで従事を切るが、右手の親指と人差し指を軽く合わせ、大きな身ぶりでお辞儀をしながら胸の右から左に右手を動かし、引き続いて、眉間から腹にかけて右手を動かす。

 従事の切る順序は主流派のロシア正教会と同じであるが、指の合わせ方が違う。主流派のロシア正教会では、父・子・聖霊の象徴であるとして親指、人差し指、中指をひとつにあわせる。分離派信者たちは、文字通り、命を懸けて親指と人差し指の日本指で十字を切るというロシア古来の伝統を三百五十年も守り続けているのだ。

 アバークムは処刑される炎の中で、「いいか皆の衆よ。たとえこの世の命を失っても、十字は二本指で切るんじゃ。三本指で切ってはならないぞ」と叫んだという伝説が残っている。

(中略)

スターリン自身が中退だけれども神学教育を受けているので、宗教の強さをよくわかっている。だから、弾圧すれば徹底的に抵抗する面倒な分離派には手をつけなかったんだ」

(P291

 ロシア正教会では司祭(神父)をキャリア組とノンキャリア組に分ける。独身性を誓い、黒い儀式服を着る修道司祭はキャリア組で、黒司祭と呼ばれ、修道院長や府主教、総主教になる。これに対し、結婚し、家庭を設け、民衆の中で生活する在俗司祭の儀式服は白いので、白司祭と呼ばれる、正教会では白司祭におけるトップの地位と黒司祭の最下位職が同じレベルというキャリア制度を敷いている。

 信者の家庭的な悩み事の相談に応じるためには、家庭をもっている神父の方が現実感覚がある。一方、教会の上層部や神学者は、生活に煩わされず、教会政治、研究活動に専心することができる。このように正教会は司祭を二分することで、組織機能を最大限に活用することができる合理的な制度を作り上げたのである。

 

(P301キルギス共和国に赴任した神父との会話

「信者は老人ばかりだ。教会の金回りもよくない。ただし、キルギス人がときどき子供を連れて洗礼を授けてくれと夜中に訪ねてくる。このときそこそこカネを包んでくる」

キルギス人はムスリムだろう。秘かにキリスト教に改宗しようとしているのか」

「そうじゃない。キルギス人も公称はイスラームに従っているが、本質はアニミズム(自然崇拝)だよ。キリスト教徒が強いのは、洗礼を受けて、自然の魔力を身に付けているからだと思っている。だから自分の子供が元気に育つためにロシア正教で洗礼をうけさせるんだ」

「おいおい、そんないい加減な理由で洗礼をうけさせてよいのか」

「その辺は神父一人一人の判断に委ねられている。僕は洗礼を授けた」

「それは滅茶苦茶だ。正教会では洗礼は秘蹟なので、本人が信仰を受け入れるという意思を表明するか、あるいは子供ならば親が立派なキリスト教徒に育ているとい前提でしか受けられないのではないか」

「神学的にはそうだ。しかし神学なんかクソ食らえた。ムスリムであろうが仏教徒であろうが、偉大なロシアの大地に生まれた者は全て正教徒だ。だから洗礼を授けても全く問題はない。ソ連当局の摘発によって、洗礼を受けたものが特定され、不利益を被る恐れがあるので、教会は授洗者名簿や教会員名簿をあえて作っていない。洗礼を何度も受けに来るキルギス人もいる」

(P304

「マサル、ロシア人は迷信深い。モスクワ大学前のレーニン丘に教会があるだろう。期末試験前になると学生たちが試験にうかるようにと蝋燭を捧げる。大学当局もそれを止めない。この蝋燭は修道院の工場で賃金なしで作っているので言い収入になる。」

 (中略)

私が顔を出していた哲学部無科学的無神論学科の学生も試験に合格するように神様にお願いしているのかと尋ねると、「そうだ」といわれたので、なんだか無性におかしくなった。

「まるで、漫画じゃないか」

「神さまは当然、科学的無神論を嫌っているので、学生たちは他の科目より念を入れて蝋燭を二本捧げるんだ」

 

(神学部とは何かP128

 モスクワにも一箇所だけプロテスタント教会があった。その教会は全連邦福音主義キリスト教徒・バプテスト教徒同盟教会という名前だった。同じ今日教会に全ソ・セブンスデー・アドベンチスト教会というア看板もかかっている。アメリカでもヨーロッパでも、アジアでさえもありえない二者のとりあわせである。あれだけ広いモスクワにプロテスタント教会が一つしかないというのも驚きだ。非正教、非カトリックの教会は、全部一緒ということで、一つの教会に全ての教派があつまっているわけだ。土曜日は、セブンスデー・アドベンチスト教会の人たちが礼拝をして、日曜と水曜は、他のプロテスタント諸派の人たちが使っていた。10時と、3時と、夜の7時、3回にわけて礼拝をしていた。いつも立錐の余地もないくらいの信者が集まってきて、みんなでお祈りをするわけである。特にバプテストの信者は、どちらかというとアメリカのファンダメンタリストに近い熱烈なところがあるので、必ず、礼拝の最中に聖霊が降りてきて誰かが失神したり、異言を話したりするわけである。そうするといつも大体同じ人が横に出て来てその異言の解き明かしをするのだ。そのキーワードはいつも「神は愛です」ということだ。いつも決まりきった形の儀式だった。私もそういった教派の礼拝は初めて見たので、驚いた。そういう不思議な環境の中で生活していて、毎日が驚きの連続だった。

 

 

 

 他にも、正教会共産党のかかわり、外交の実体など非常に面白いが、あくまでキリスト教との関わりとして興味深いところだけを引用した。ソビエト連邦という国家を語るとき、「宗教はアヘンであり、キリスト教は弾圧された」として片付けてしまいがちだ。しかしそこには、しぶとく根強く狡猾に、キリスト教も生き残っていた。

 佐藤の文章からは、その知られざる実体を垣間見ることができるという意味で貴重だと私は思う。

 

また、単に過去のものとなった「ソ連」の宗教政策という歴史資料としてでなく、彼の書いた共産主義国家における宗教政策の実態は、現代的な意味がある、と私は思う。

それは、同じく公式には「共産主義」を標榜する、中国のキリスト教管理政策とその実体を考えるときのヒントとしてである。その(3)では、それについてわたしが考えていることを簡単に述べてみたい。

(3)に続く。

 

佐藤優入門 (その1) その神学的背景と信仰を概観する

 

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

神学部とは何か (シリーズ神学への船出)

 

 

 

私のマルクス (文春文庫)

私のマルクス (文春文庫)

 

 

 

最近はさすがに影響力が落ちたようにみえるが(?)2004年に「国家の罠」を出して以来の佐藤優は論壇の寵児だった。週刊金曜日から諸君、桜チャンネルまで。左から右まで横断して活動する書き手はやはりほかに類がない。

そのインパクトを誰だかがどこかでこう書いていたのを覚えている。

「一匹の妖怪が日本の論壇を徘徊している。佐藤優という名の妖怪が」

 

佐藤優の論壇における独自性)

佐藤優という人物が、これだけのポジションを築いた理由としては私は3点が挙げられると考えている。①キリスト神学的素養②外務官僚としての実務と、③日本の思想界が知りえなかったソ連におけるキリスト教信仰の現場の経験者。としてである。

①については、佐藤一人が傑出しているわけではない。日本の神学部、あるいは哲学、現代思想の研究者ならば、このレベルの知識・教養を持っている知識人はおそらく数千人レベルで存在するだろう。しかし、同時に②外交それもソ連における第一線で活動した情報官としての実務の経験をあわせ持つ人物となると、ほとんど類がない。なにせ神学部を卒業して外務省に入省した人物はほとんどいないからだ。そして、キリスト教、ローマ法、ギリシャ哲学の三位一体が知的エリートの基礎である西洋圏の外交の第一線において、その神学的素養が現実に極めて役に立ったということが、他にない彼の独自性をうんでいる。

③についても同様である。共産主義ソ連において、宗教は弾圧され公式に語ることはできなかった。しかし、ロシア正教はロシア人の精神風土に深く根ざしたものであり、社会においては、強く根を張っていた。ましてやソ連社会におけるプロテスタント信仰に、日本のキリスト教界が接触するルートは殆どあり得なかった。その中で、外交官としてそこに直に触れることができたという経験、これもまた他にない彼の独自性を与えている。このこれについては、その(2)で触れる。

この3点を併せ持った経験が彼を他にない唯一の書き手たらしめているのだと思う。

 

そして個人的に、私もこの人の本と出合わなければクリスチャンになることはなかったように思う。そして神学部に入るまで(牧師を除き)クリスチャンの友人が一人もいなかった私にとって、キリスト教的、神学的思考を教えてくれる唯一の対話者が彼の著作だった。その意味でとても大きな影響を受けている。

日本の教会で(特に関東)佐藤優の名前を出しても、同志社大学神学部卒ということで、すぐにいやな顔をされる。読んでいる人も少ない。あるいは読んでいても、その神学的背景を知っている人はさらに少ない。というわけで、少しそれをまとめてみようと思う。

そして自分が学ぶパッションをとりもどすために、原点を確認したいのだ。

 

佐藤優理解のうえで)

佐藤優を理解するうえで重要なポイントは5点あると私は思う。①沖縄戦で生き延びた母、②キリスト教組織神学(特にヨゼフ・フローマトカ)、③外交官としてのソ連勤務、④鈴木宗男事件とイスラエルシンパ(エージェント?)、⑤米原万里(ロシア語同時通訳者)・斉藤勉(元産経新聞社モスクワ支局長)・魚住昭(元共同通信社、ノンフィクション作家)との交流、である。

以下、著作を引用しながらそれをおっていく。彼の著作はすでに数十冊に及ぶ。私は半分程度は目を通しているが、重要なのは初期の数冊である。

 

(リスト)

国家の罠』   新潮社   2005 (以下略称 罠)

『私のマルクス』 文藝春秋  2007  (マ)

『自壊する帝国』 新潮社   2006  (帝)

『神学部とは何か』新教出版  2009  (神)

『私のマルクスロシア篇 甦る怪物』 文藝春秋 2009 (怪)

『はじめての宗教論』(左巻・右巻) NHK出版 2009、2011 (左・右)

同志社大学神学部』 光人社 2012  (同)

ユリイカ 特集米原万里』 2009 青土社 (ユ)

『神学の履歴書』      2014 新教出版 (履)

 

これ以外にも重要な対談も数冊あるが、それ以外は上記の本のねたを使いまわしているところが多い(笑)

あとは『獄中記』、魚住昭、斉藤勉、中村うさぎとの対談(2冊)も面白いし、また『福音と世界』に連載していた『神学の履歴書』も今年(2014)に出版されて興味深いがまだ未読である。

近年は自分の生い立ちについて書いた「私と先生」などもあるが未読である。「宗教改革の物語」も“最も力を入れた”と語るように重要な著作であるが、これも未読である。ことをお断りしておく。

 

⓪ 佐藤優とは何者か?

 ノンキャリアの外務省専門官として入局、ソ連勤務を勤める。その中でキリスト教組織神学の知識を通してモスクワ大学の講師として(おそらく西側外交官としてはじめて)教える中で、ゴルバチョフの改革派、共産党保守派の両派に人脈を広げた異能の外交官だった。特に特記されるのは、1991年の共産党保守派によるクーデターでゴルバチョフが軟禁された際、共産党幹部から直に情報を取ることで、西側外交官の中でいち早くゴルバチョフ生存の情報を掴んだことは有名。その後、鈴木宗男外相のブレーンとしてイスラエルロビーを通しての北方領土交渉に関わり、その後の小泉・田中(真)と鈴木の政争の中で、鈴木と共に逮捕される。2005年に『国家の罠』を出版。その後、いちやく論壇の寵児となった。(詳しくはWIK参照)

 

 

①     沖縄戦を生き残った母

佐藤の精神形成上で沖縄戦を生き延びた母の影響はことのほか強い。『久米島から日本を読み解く』などの沖縄に関する著書や、基地問題での言説なども、この「沖縄の血」としてのルーツからであることを繰り返し言及している。沖縄戦で死のすぐ淵を経験した母がキリスト教の洗礼を受けたことが、彼のキリスト教信仰の源泉となっていることは間違いないと思われる。また多くの著作のあとがきで母について触れていることから、彼と母親の絆は極めて強いことが感じられる。

 

 

(マ P33

 私の母は、1930年に南海の孤島、沖縄県北大東島で生まれたが、戦後すぐに沖縄本島の西にある祖父母の故郷の久米島に移った。(中略)沖縄戦では「石部隊」の軍属として、電話交換や秘書業務に従事し、軍と行動を共にして、沖縄本島南端の摩文仁までやってきた。1945年6月23日、第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将が自決し、日本軍の組織的抵抗は終わるが、母は摩文仁の丘で、その後、数週間、降伏せずに抵抗を続けた。最後に米兵が壕の前に来たとき、母は手榴弾の安全ピンを抜いて自決の準備をしたが、どうしても起爆栓を叩きつけて作動させることができなかった。そうしているうちに隣にいるひげ面の伍長が手を上げて降伏したので命拾\\いをした。

 戦争体験を経て、母親は戦後、キリスト教の洗礼を受けた。それと同時に反戦平和の強い信念をもつ熱心な社会党支持者になった。(後略)

 

(自 P523あとがき)

 『国家の罠』出版後に私の身辺で起きた変化について記しておく。実は母が癌で一時は重篤な状態になったが、『国家の罠』を呼んだ母の友人たちから「息子さんの事件の背後に何があったかよくわかりました」という話が聞こえてくるようになると免疫力が回復し、現在は隊員して普通に生活している、(後略)

 

 

ちなみにその母が通っていた教会から、佐藤の背景はカルヴァン派にある。

 

 (神P84

 「私の場合は、もともとの母体が日本キリスト教会というカルヴァン派の教団だったので、結局はカルヴァン的な発想から抜け出ることができない。人間誰しも、人生で一番最初に触れた世界観的な思想、つまり生き死にの原理を説く思想の刷り込みからは抜け出せないというのが、私の結論である。私の場合は、結局それはカルヴァン派的なキリスト教だったのだ。

(中略)

 逮捕以来、「どうしてこういうことになったのか」と、何度も自分の中で考えた。そして、それと同時に、「なぜ神は私にこういった試練を与えるのか」と考える。だから、どんな逆境や厳しい状況にあっても、絶対にあきらめない。それは見方によっては、意志が強く根性があるように見えるのだが、裏返すと、「反省をしていない、とんでもないやつ」ということだと思う、これはカルヴァン派の最大の長所であり、かつ最大の弱点である。

 

 

 

 

②     同志社大学神学部入学

〈補足〉

佐藤は県立浦和高校を卒業し、1979年に同志社大学神学部に入学する。日本のプロテスタント最大手である基督教団の牧師を養成する神学部には、主に5つある

日本基督教団の神学校の背景)

東京神学大学神学部 (長老系・カール・バルトの影響が強い。)

同志社大学神学部  (組合系・自由主義神学の影響が強い)

関西学院大学神学部 (メソジスト系・栗林教授いわく、バルトと自由主義両方できるので、一番バランスがとれているのではないか。また実践・聖書学が伝統的に強い。

④日本聖書神学校   (夜間学校であり、働きながら学ぶ人が多い。)

⑤農村伝道学校    (農村伝道を中心としており授業にも農業実習とかがあるらしい)

⑥東京聖書学校    (ホーリーネス系らしい。ということ以上しらない)

 

このうち①の東京神学大学と②の同志社大学神学部は、伝統的に非常に中が悪い。

①     は②を「悪魔の神学校」といえば、②は①を「洗脳」と言い返す。この辺りは、どうも学生紛争当時の対立がかなり根深く残っていることから来ているらしい。ざっとまとめると、学生紛争当時、青山大学神学部が廃止された。(この結果、荒井献氏は東大に移籍した)またICUの若手研究者だった田川建三氏は、学生側に立ったということで大学を辞める。この中で東京神学大学においても学生紛争がおき、学生の一部が大学を辞めさせられる。ここで学生側が説いたのは、「教会は社会のためにあるべきだ」という主張だった。これは「社会派」と呼ばれた。

一方で教団の主流・幹部は、この「社会派」によって90年代まで占められることになる。当時教団で行われる総会は非常に荒れ、木刀を持った牧師や信徒がつめかけるという光景も日常茶飯事だったという(ある方から直接聞いた)

これに対し、90年代半ばごろから、教団上層部を占めたのが、社会に関わるより教会の福音・伝道をとすべきだといういわゆる「福音派」である。

 ただしこの「社会派」「福音派」の名称は、それぞれが相手に蔑称のようにつけたものであり、正式な名称ではない。おおまかにいって、同志社は「社会派」の影響が強く、東京神学大学は「福音派」の影響が強い、と大まかな色分けが可能である。そしてその対立は現在も続いている。佐藤優が入学したのは、同志社大学神学部であった。この入学面接が面白い。

 

(マ)P117

「実は無神論に興味をもっているんです。フォイエルバッハマルクスなどの無神論を本格的に勉強してみたいんです」

 そう答えてから、私は「まずいことを言ってしまった。面接で不合格になるかもしれない」と思ったが、後の祭りだ。(中略)

 後に樋口和彦先生から「佐藤君のように無神論を勉強したいなどと突っかかってくるタイプは必ずクリスチャンになるんだよ。そして、一旦、信仰をもつようになるとそれは崩れない」といわれがたが、この見立ては正しかった。私は神学部に入った歳のクリスマスに洗礼を受け、それから自らの信仰が揺らいだことはない。ある意味では十九歳のときから全く進歩がないのかもしれないが、私にはいいかげんで、本質的に人間の知性を信じないキリスト教が身の丈にあっているのだ。(後略)

 

(P337)

問題児を神学部はあえて受け入れるところがある。私自身がそのような問題児の一人だった。どこか世間の基準からずれている若者はそれだけ神と出会う可能性が高いことを神学部の教師たちは知っているのである。彼らは大学教師であるとともに牧師なのだ。牧師の職業的良心として、神と出会う可能性のある若者には極力チャンスを与えなくてはならない。

 

 

③     同志社大学神学部時代

当時(1979年入学)、日本の大学において学生運動は下火になっていたが、関西、特に同志社大学ではまだかなりさかんで、「同志社ガラパゴス」と言われるほど各派がヘゲモニー争いをしたいたという。その中、佐藤は当初は社青同社会党系の学生組織)の活動家として、社青同脱退後もかなり神学部自治会関係者として過激に学生運動にかかわったらしい。また、友人とよく至上のロシア料理店「キエフ」で飲みながら議論したという。キエフは歌手の加藤登紀子の父で、関東軍特務機関でロシア専門家として活動した加藤幸四郎氏が戦後始めた店である。現在もあるので、佐藤優ファンはぜひ訪れて、スターリンも愛飲したグルジアワイン「キンズマラウリ」を飲みながら、ファン気分を味わうのもいい。(私はもちろんそうした)。(なおこのグルジアワインは、ヤルタ会談チャーチルが気に入り箱入りしたとか、グルジアは人類最古のワインの産地であり、クレオパトラも愛飲したらしいとか、旧約の人々はこのようなワインを飲んでいたのかと思うとなかなか面白い)

彼の神学的背景、信仰の内面的理解が最も根強く現れているのが、神学部時代の自伝「私のマルクス」(以下マ)である。

 

たとえば、当時学生に影響力の大きかった田川建三同志社を訪ねたときのことも書かれている。

 

(マP161

大山君は(注:佐藤の友人)、院連の大学院生活活動家たちが、「田川先生、これは同思われますか」、「田川先生、コーヒーをいれましょうか」などといって売り込みに腐心していた様子をユーモラスに話した。

 

そして1980年に洗礼を受けている、

(マP169

その年の12月23日のクリスマス礼拝で、私は日本キリスト教会吉田教会の今村正夫牧師から洗礼を受けた。

(マP206

フォイエルバッハマルクス無神論を徹底的に学びたいと思って同志社大学神学部の扉を叩いた。扉は開いて私は無神論を学ぼうとしたが、過去二千年近くにわたって集積された神学の知的遺産の前に、所詮、近代主義の枠を出ていないフォイエルバッハ無神論はあっという間に砕け散ってしまった。私はキリスト教の洗礼を受けた。

 

彼が神学部時代を振り返って印象的なのは、当時神学館二階にあったという「アザーワールド」という部屋である。佐藤はここで親友と泊り込みながら読書会などをしていたという。(2005年にこの部屋はなくなり現在はない)

(マP202

あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。当時、私は野本先生が何をいわんとするのかがわからなかったが、ソ連崩壊を体験するなかで「既成の秩序に収まらない場所」の意味を皮膚感覚で理解できるようになった。

 

(神P17

  神学部教授の野本真也先生があるときにこう言ったのである。

 「秩序が成り立つためには、どこか秩序が完全に崩れている場所がないといけないのです。そういうふうになっていないと秩序というものは成り立たないのです」。

 私は何かのレトリックかと思ったが、今になってやっとその意味がわかるようになった。野本先生は、ユダヤ教カバラのことを暗示していたのだ。ユダヤ教にはカバラという思想があるが、その中にこのような知恵がある。

 「理屈の世界が積み重なると、必ず理屈に反する世界がそれと同じだけ積み重なり、あるときパーンと破裂してしまう。」

 あれだけ精密だった金融工学が破綻して、リーマン危機などが生じてくるなどという現象も、カバラ的な見方をすれば簡単にわかる。これはまさにキリスト教的な考え方でもあって、そういう意味においても、神学は「虚学」なのである。

 神学がいかに「虚学」であるかということを、次の二点からさらに説明した。

 一点目は、「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。

 二点目は「神学論争は積み重ねられない」という神学の性質についてである。

 

 

 

また京都学派の田邉元についての記述。

 

(マP208

藤代泰三神学部教授(註:キリスト教史)

「(前略)この田邉さんが戦争が始まる直前に『歴史的現実』という本をだします。個々人の生命は有限だが、悠久の大義に殉ずるならば、個々人の生命は永遠に生きることになると説きました。見事な弁証法の適用です。戦時中の大ベストセラーになりました。」

私が「要するに国家のために死ね」ということですねと茶々を入れた。

「そうそう。佐藤君の言うとおりです。そして、学徒出陣で出征した兵士たちは『歴史的現実』をポケットに入れて、何度も読み返し、死に備えたのです。この田邉さんは、戦後、『よく考えてみたら、私は間違っていた。日本には懺悔という素晴らしい伝統がある』といって、今度は『懺悔道としての哲学』という本を書いて、これも大ベストセラーになりました。田邉元は弁証法を実に巧みに使いました。しかし、物事はそう簡単に総合されないものです。カントの『純粋理性批判』をきちんと読んだ後にヘーゲルと取り組むことを進めます。カントを抜きにしたヘーゲルは危険です」

 

(マP266)渡邉雅司との会話

 「佐藤君、前から聞いておきたいことがあったんだけどいいかい」

 「なんでしょうか」

 「結局、一人ひとりが、自らの足場を掘り下げていくしかないと思うんだ。学問にしても、人生にしても。究極的なところでは群れたらだめだ」

 「それはちょっとさびしい気がしますね」

 「淋しいけれど、そうなんだと思う。しかし、問題はその先だ。一人ひとりが足場を掘り下げた地下には、この鴨川のような地下水脈が流れているのだろうか」

〈中略〉

「佐藤君はクリスチャンだろう。クリスチャンならば救済を信じているはずだ。それならば、神学を掘り下げていくならば、そこには地下水脈があるということになる。そうじゃないだろうか」

意外な質問に私は途惑った。

「よくわかりません。しかし、僕は地下水脈はあると信じています。ただ、それは相当深いところにあり、岩盤をいくつも突き抜けていかなくてはなりません。たぶん、僕はその水脈まで至らないと思います。地下ではなく、僕は上を指向します。地下水脈はいわば実存なのでしょう。僕は実存ではなく、脱実存を、要するに神という超越性による連帯が唯一の方法のように思えます」

 

(P272

「僕にとっては絶対の真理です。しかしそれが渡邉先生にとっては、絶対の真理とはいえmせん。それから僕が信じているキリスト教と他の人が信じているキリスト教が同一であるという根拠もどこにもありません。それでも僕にとってキリスト教は絶対の真理です。どうしてかと言うと、僕はキリスト教信じることで救済されたと思うからです。これは思い込みで、実は何の根拠もないのかもしれない。でも、結局、信仰とはそういうものなのでしょう」

 

(P311

 私はフローマトカの言説のどこに惹かれたのだろうか。それは神学が大学の研究室における学問でもなければ、教会の存在を正当化するための道具でもなく、この世で生きていく人間のためのものであることを強調したところにある。神学者が活躍する舞台はこの世界(此岸)なのである。

 

(P340

 「神学部を保全することだ。神学部という器があれば、そこで学生たちが自由に考えることができるトポス(場所)が残る。平均的で、一様なスペース(空間)であなく、知的密度の濃いトポスとして神学部を残したい。神学部なくしてキリスト教主義大学は存立しえない。神学部(神学科)が廃止されてしまった青山学院大学明治学院、関東学院は僕に言わせれば、キリスト教主義大学ではなく、『キリスト教の抜け殻』を利用したミッションスクールにすぎない。

 

(P344

同志社大学神学館のチャペルには十字架がない。その代わり、茨冠が説教壇の上にぶら下がっている。前にも述べたがイエスはローマの兵士から侮辱され、被された茨冠こそがキリスト教にふさわしいと同志社神学者たちが考えたからだ。

 

 

 神学部で学ぶ中で、佐藤が出会ったのが、チェコスロバキア神学者、ヨゼフ・フローマトカであった。佐藤が始めて出した本は、フローマトカの自伝『なぜ私は生きているか』(新教出版)であり、多くの著書で繰り返しその名前をだしている。

フローマトカ(1889~1969)は、チェコ神学者である。WW2では、カール・バルトの盟友としてナチスに抵抗し、戦後はアメリカの神学校で教えたが、共産化したチェコに戻り、マルクス主義者との対話を行った。

 

(履 P46

 フローマトカは神学の機能はこの世に奉仕することであると考えた。「Pole je tento svet(フィールドはこの世界である)」というのがフローマトカの座右の銘であった。フローマトカは「象牙の塔」の中で過度にアカデミックな純化を遂げた神学は、信者や神学的訓練をあまり受けていない牧師にとどく言葉を失ってしまうと危惧する。同時に「解放の神学」のように神学を実践運動に解消してしまうことにも反対する。それでは、神学はどのように社会に関与するのであろうか。

 個々の神学者が特定の国家に所属する市民として、あるいは特定の民族に所属する一人の人間として、現時の問題に関与することを通じて自らの信仰を証しするほかに術はないというのが、フローマトカが最終的に至った結論だった。

 

(履 P50

 特に改革派系のマルクス主義者と「人間とは何か」というテーマで対話を続けた。その結果マルクス主義者の側に変化が生じた。チェコスロバキア共産党内部からスターリン主義を克服し、「人間の顔をした社会主義」をつくろうとする運動が起きてくるのである。そしてそれは1968年の「プラハの春」と呼ばれた民主化運動に結実する。しかし、その運動は同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約5カ国軍の侵攻によって叩きつぶされてしまう。

 

 

*     ***

なぜフローマトカに佐藤がこれほど入れ込んだのか?私はよくわからなかったが、最近少し理解できるようになってきた。それは以下の2点においてである。

①     フローマトカは神を否定した共産主義者と「人間とは何か」について対話した。近年、日本の国家は急速に格差が拡大している。その中で、避け難く共産主義的なものへの支持は再び強まっていくように思われる。その中で、教会が、社会とどう関わるか?という点において、将来的に、教会と社会運動というものの対話、協力は必須のものとなっていくと思う。しかし、日本のプロテスタントにおいては「解放の神学」の視座(釜が崎)以外で、それがなされているとはあまり思えない。フローマトカの神学にそのヒントがあるかもしれない。

②     昨年、WCC(世界教会協議会)の窓口となり韓国・中国のキリスト教と深くかかわってこられた教授とお話していて「韓国のプロテスタント教会は今、とても熱心に賀川豊彦を研究している。向うでもトップクラスの神学者が多数、賀川を研究している」と伺った。その理由がよくわからなかったのでさらに聞くと、

「賀川は産業化が進展した戦前の日本で、キリスト教的友愛の元貧民活動に実践的に関わった。その中で、必然的に共産主義者や在日朝鮮人とも関わり対話したキリスト者。韓国は、遠いか近いかはわからないが北朝鮮といつか統一することになる。しかし韓国内には根強い反共イデオロギーがある。同時にキリスト教も非常に強い。だから、将来統一の際には、共産主義キリスト教というイデオロギーが大きな問題になる。だから、それをした賀川の生き方と神学に、韓国キリスト教界は非常に興味を持っているようです」と。

  それを聞いて初めて理由がわかると同時に、将来を見据え、国家の中のキリスト教の社会的役割を認識している韓国キリスト教界の歴史意識に凄みを感じた。そしてその問題意識は、上記のフローマトカと通ずるところがあるように私には思えたのだ。

 

 しかしいずれにしろ、上記の問題をこれ以上発展させて論じる能力も知識もないので、この点はこれまでとさせていただき、佐藤優の話にもどる。

******

 

修士論文でフローマトカを扱った佐藤は、さらに研究のためチェコスロバキア留学を考える。しかし1980年代において、東側のしかも神学研究目的のために日本人が入国することは不可能だった。そこで、佐藤が知ったのが外務省専門職である。外務省専門職として入省し、チェコに赴任すれば、仕事の傍ら研究も可能ではないか?そう考え佐藤は外務省を受験し、入省するのである。(しかしソ連配属となり、その目的は果たされなかったわけだが。もしそうなれば、異能のソ連畑外交官佐藤優は誕生しなかったし、逮捕されることもなかったかもしれない)

以下 その2に続く

学部日本宗教:史不受不施派の特異性とキリスト教(キリシタン)との接点 85点

 

忘れられた殉教者―日蓮宗不受不施派の挑戦 (小学館ライブラリー)

忘れられた殉教者―日蓮宗不受不施派の挑戦 (小学館ライブラリー)

 

 

 

日本宗教史における不受不施派の特異性とキリスト教(キリシタン)との接点

 

1、日蓮宗不受不施派の特異性

不受不施派とは日蓮宗の一派にあたり、法華信者以外からの布施を受けず、他宗の僧侶に一切布施を行わないとする不受不施を教義とする信仰共同体である。江戸幕府によってキリシタンと共に禁止され、明治の解禁まで約200年間の間、地に潜って秘かに受け継がれてきた信仰である。

 禁令となったこと、それを生き延びたという点以外にも、その独特の日本仏教においても珍しいほどの極端な信仰の内面化、弾圧や露見することを覚悟で統治者への諫言(諫暁)を繰り返すこと、世襲ではなく常に信徒の中から僧侶が生み出されてきたことなど、日本仏教の中でも非常に特異な性格を持っている。

そして、同じ禁令下にあったキリシタンとも不思議な接点をもっていた点も興味深い。

 私は、以前仕事で長崎県の浦上地区に住んでいた当時、潜伏キリシタンの末裔の方が集う浦上天主堂のミサで、その先祖伝来と繰り返す弾圧の中生き延びてきた信仰に強い感銘を受けたことがあるが、不受不施派について、書物を通しても同じような底知れぬ重みと力強さのようなものを感じる。

 不受不施派については、研究書や著作も非常に限られているが、これらを通して、特徴をキリスト教とも比較することで、日本仏教史における特異な意義を検討してみたい。

 

2、不受不施派の歴史

今泉淑夫編集『日本仏教史辞典』(1999)吉川弘文館の「不受不施派」の記述がまとまっている。

(以下引用)

「 日蓮宗の一派。派祖は教徒妙覚寺仏性院日奥。法華未信・謗法の布施=経済的支援を拒否して受けずとするのが不受、他宗謗法の僧に布施を行わずとするのが不施である。日蓮以来、中世日蓮教団では、不受を全面的に貫徹する立場と、王侯=公武権力者の布施は格別として受ける立場(王侯除外の不受不施といわれる)との二つがあった。後者が受不施の立場である。これらの立場の選択が、布施をめぐる日蓮宗僧侶のあり方や教団存続への想いと重なり合って教団内の対立を明確にした最初は、文禄四年(1595)豊臣秀吉による京都方広寺千僧供養への百人の僧の出仕命令をめぐる京都日蓮宗僧侶の動きであった。妙覚寺日奥は全面不受の立場をくずさず不出仕を主張して妙覚寺を退去した。一方、本満寺日重・日乾らは王侯除外の不受の立場をとって千僧供養に出仕し、諸僧もこの立場を選択した。慶長四年(1599)、徳川家康は大阪しろにおいて日奥と受派の妙顕寺日紹らを対論させ、ここでもなお不受を主張する日奥を対馬流刑と採決した。この採決が以後の不受僧処断の先例となる。(中略)

 寛文五年(1665)江戸幕府は寺領朱印交付にあたり、日蓮宗寺院に対し、寺領を供養とし、飲水・行路なども布施供養であるとする手形の提出を迫った。日講・日述らはこれを拒否して流刑に処される。同九年四月幕府は不受不施を遵守する寺院の寺請けを禁じた。ここにおいて全面的不受不施を守ろうとする僧・俗は地下に潜行して、禁制宗門不受不施派が成立する。不受派の信徒の中には、うわべは受派寺院に属した内信・内信者と、無宿となて内信を指導した法立(ほうりゅう)との二者があった。法立は法中(出寺して内信。法立を指導した僧=清僧)と内信の間を連絡した。この法中-法立-内信の非合法組織は明治期まで存続した。この間、法中とよばれた僧のなかから不受不施が日蓮宗の正統的立場であることを示し、国家への警告=諫暁のため潜行生活から浮上して訴えでて流罪に処せられていくが、そのマンネリ化はおおいがたい。また、同派はキリシタン、隠れ念仏とともに地下に潜行したが、その間、日尭・日了を指導者とする日指派と日講が指導した津寺派に分裂した。前者は明治九年(1876)四月不受不施派、後者は同十五年三月不受不施派講門派として明治政府により公認された。昭和十六年(1941)両派合同して本化正宗を名のり、同二十一年両者分離、前者は妙法華宗を名のり、二十七年には不受不施派と改称した。」

 

3、教義的な特殊性

以下、奈良本・高野「忘れられた殉教者 日蓮宗不受不施派の挑戦」(1993)の記述を元に、その教義の特徴をあげる。

 

①     禁制と弾圧を生き抜いた特殊性

200年間禁制となった不受不施派が、其の間どのように受け継がれてきたか、それは僧侶がどの

ように供給され続けてきたかの歴史でもある。不受不施派においては、秘かに受け継がれた信徒集団の中から、常に提供され続けてきた。

奈良本・高野(1993)のP110以下で、不受不施派の信仰共同体の構造が説明されている。

これは、法中-施主(法立)-内信といういわば三部構造であった。「まず、僧のうち、あくまで不受不施の立場を貫いたものは出寺して流浪の僧となるが、これを「清派の僧」また「法中」と呼ぶ。」これに対し、「表面上は他宗寺院の檀家となり、しかし内心において不受不施信仰を固く守っているもののことを「内信」として明確に規定することがはじめられた。

 しかし不受不施派の教義の根本をかんがえたとき問題が生じるのである。「たとえ表面上のこととはいえ、内信の社会的存在の姿は謗法者にほかならないのである。」(P115)

 現実的には、流罪僧である訪中の生活が成り立つための物資を供給しうる人間は、内信しか存在しない。「とはいっても、外面は謗法者である内信の供養をうけるとなれば、不受不施主義の立場は根底から崩れてしまうではないか。ここで出てくるのが「施主を立てる」という考え方であった。」という。

 「施主とは、外面の謗法者である内信が法中に対して行う供養の仲介をする役割にあたるもので、近世初期のころは、法中のほか、いまだに謗法を犯していないという意味で児童が形式的な施主となることもあったようである。しかし、次第に、「施主を立てる」と言えば法立のことだけを指すようになっていくのである。」

 そしてここで規定されたのが、信徒の中で寺請けを拒否し、無宿・帳外れとなって訪中に従うものとして「法中」である。

 不受不施派は、禁制という外部に対してはカモフラージュをしながら、内面での信仰を守りる信徒(内信)が、僧侶(法中)を金銭的に支え、その仲介者かつ次代の僧の養成源としての法立という三部構造によって200年間進行を守り続けたのだという。

 この三部構造と、「内面での信仰」というものが不受不施派の最大の特徴であろう。奈良本・高野は「信仰の領域-と言う言葉を仮りに使えるとして-をこれほど明確に指示された宗教者が日本の宗教史にあったろうかと思う」(P122)と述べている。

 私もこれに同意する。日本の宗教史において、禁制下にあるがゆえに、外的には他の宗教の信仰をもつようにふるまいながら、内面のみにおいて自らの信仰を守り続ける。それは、おそらく不受不施派のほかには隠れキリシタンにしかみられない現象だと見られる。しかし不受不施派はさらにこれを厳しく追求した。

 

②内面の信仰

 不受不施派元禄二年(1689年)に二派に分裂している。それが現在の日蓮宗不受不施派(祖山岡山県御津郡御津町妙覚寺)と、日蓮宗不受不施派講門派(祖山岡山県御津群鹿瀬本覚寺)に至っている。(P134)からの記述によると、この論争の焦点は、要するに「清と濁との混乱」にあったという。

「つまりは清者(法中と法立)と濁法(内信)との接触に於いて、清者の不受不施が守られる限界はどこに引かれるべきか」と巡っての論争であった。弾圧化において存続すら危うい少数派の中で、教義の純化をここまで追求したというのも特異な点であると言えるだろう。

 

③諫暁という行為

日蓮宗は、僧侶が国主に対して諫暁(諫言)を実際に行うことが教義の中に息づいている。

法華宗の僧が行う国主諫暁とはこれは世間が乱れているのは国主が法華経を信ぜず、謗法宗である他宗に帰依している故のことであるから、一日も早く他宗を捨てて法華宗に帰依しなければならぬと批判要求するものである。」(P38)

しかしながらこれは当然、国家に受け入れられるものではない。

日蓮以来、その弟子の僧が敢行した国主諫暁は数え切れないほどある。そしてこれはあたりまえのこととしてしまえばそれまでだが、一度も成功した例がない」(P38)

 いわば、無謀な行為である。しかしこの日蓮の教えを徹底したのが不受不施派であった。禁制となり、僧侶が地下に潜伏してからも、200年間の間、繰り返し地下から這い出して諫暁をおこなっている。

そして存在が露見することで、捉えられ獄死、遠島への流罪者を生み出し続けてきた。

(P180)研究者の「殉教者名簿」によると、

「周到な計画と準備の末に決行された諫暁は十二人を数える。これは実際に流罪にされた者のなかの数であり」さらに流罪された島から「再度の諫暁を行った例も少なくない。これに自訴という諫暁をふくめれば、禁制200年間になされた諫暁行為はおびただしい数にのぼるのである」

 

 果たして何が不受不施派にこれだけの犠牲を強いながら、諫暁を続けさせたのであろうか。それは法華宗の主流派が戦国以降、勢力を広げ、国家にとって安全な教派となったのに比べ、著しい対比をしめしている。そしてそこには、他の仏教あるいは日本宗教史の中で、他に見られない特徴があると言える。

 むしろ旧約の中の預言者達と類似している思想が見られるといえるのではないだろうか。そしてそのような教義を200年間墨守し実行し続けてきたと言う点においては、キリスト教宗教改革期における教義への純化という熱狂的な姿との類似性を想像することもできよう。

 

 

4、キリシタンとの関わりから

奈良本・高野(1993)によると、不受不施派は、その歴史において節目節目でキリスト教(きりしたん)の接点、類似点があることが記述されている。

①     宗門改帳(P155)

島原の乱以降、江戸幕府キリスト教禁制をすすめ、寺請制度を確立化していく。このための宗門改帳において、キリシタン宗徒でないことと並んで、日蓮宗不受不施派でないことの誓文が必ず書かねばならないとされてきた。江戸期において、厳しく禁じられたという点ではこの二つの教派だけなのである。(厳密には、薩摩藩治世下の浄土真宗系の隠れ念仏、秘事法門・三業安心派なども禁止されていた)

 

②     また(P207)の記述によると、享和二年(1802年)備中惣爪法難と呼ばれる弾圧が行われた記述がある。露見のきっかけとなった密告の内容は「惣爪にキリシタンがいる」というものであったという。「なぜそのような手の込んだ密告をしたかといえば、惣爪の不受不施信仰はまるで許されているかのように半ば公然たるものであったからだ。そのような空気のなかに倉敷代官所もまきこまれていると予想される以上、「不受不施派がいる」といってやるのはかえって危険でさえある、「そんなはずはない。現に、おまえどもの寺には村民すべてが檀家となって寺請しているではないか。それともあの寺請証文には偽りがあるのか」とやられてはひどいことになる」

備中藩に責任が及ぶ事を避けるために、より危険と思われていたキリシタンがだしに名前を使われたわけで、このような事例はおそらく江戸期において他にはないと思われる。

最も検挙後の尋問で、これが不受不施派であることが露見し、代官所には「申し込みとは大きに相違して、御代官もはなはだ迷惑いたされ候由」という記述が残されている、という。

 これはいわば、江戸幕府における禁制の歴史の皮肉な一挿話といえるだろう。

 

③     最も興味深いのは、明治三年(1870年)に流罪された法難の事例である。(P248)この際に、岡山県津島区の坂本真楽という人物が捕縛され、岡山県の日生島の鶴島に流罪となる。この鶴島には、同時に117人に及ぶ長崎県浦上のキリシタン宗徒が流されてきていたという。

江戸幕府によって厳禁されてきた二つの宗派の徒が同じ流刑小屋で苦しく辛い日々を送ったのはこの鶴島だけだろう。「同宿はみな長崎の者にて、所作も言葉も過半夷人に似たり」と真楽は書いている。真楽と浦上のキリシタン宗徒が意志を通じ合い、その記録でも残っていたらさぞ貴重なものになっていたはずだが、「過半は夷人に似たり」という状態ではどうにもならなかった。」(P249)

 鶴島で、キリシタンとともに坂本は週一度神官の説教に出席させられ改宗を強要されたが、キリシタンのほとんども、真楽も改宗することはなかった、という。

 これはまさに江戸期の過酷な宗教禁制における象徴的なエピソードと言えるであろう。

 

5、現在の不受不施派

 現代において不受不施派がどのような形で存在しているかについての資料は乏しい。関西学院大学図書館で所蔵を確認できたものとして、1968年に岡山大学教育学部社会科研究室が行った地域研究史『在町の近代化 -不受不施派岡山県御津町-』があり、当時の時点での現状報告があるので、以下要点を紹介する。

①信徒数

 禁制後明治35年から大正初期にかけては、岡山を中心に東京、京都、大阪、愛知、兵庫、長崎などに計約26000人の信徒がいたという表が掲載され、昭和40年の時点の資料(官庁宛報告)によると、約34000人(岡山28000人、千葉2400人、東京1200人、大阪800人、長崎530人など)しかし、昭和35年(36000人)から比較して5年の間に2000人が減少しており、後継者がいないことが今後の大きな問題だとされている。(P428)

おそらくこの傾向は現在では加速していると思われ、半減以下の数になっているのではないかと推測される。

 

②     現在の入道制

P475には現在の入道制度についての記述があり、現在の不受不施信仰のあり方の一端を垣間見ることができる。

「入道制は再興後にできたのだが、在家であっても寺から袈裟をもらう、1つの在家仏教の形をとる。

入道会はこの入道得徳者によって組織される。入道となるには、お題目を1000部(1部はお題目を1万辺)唱えなくてはならない。入道・強信な人々の参加による入道研修会を毎年数回開催する」という。

 

③     信条

不受不施派信仰の信条としては7か条が上げられている。特に注目すべきは

・     折伏逆化、不受謗施、国家諌暁が「不受不施の三大鉄則」である。

・     日の如く明朗に、蓮の如く清らかな国家社会を建設するため、何時にても身命を捨てる覚悟が「不惜身命」の信心である。

・     この世において、この身このまま仏の道を成き行うことが「即身成仏」である。(P476)

 

などである。不受不施信仰においては、現在も「不受不施」と「国家への諫暁」が明記されており、またそのために命をもかけることも命じられているのである。そして、それらは、不受不施の信仰が、この余からの遁世ではなく、まさにこの世、この社会の中において行うということがすべての原則として挙げられている。これが不受不施派を200年間の弾圧の中生き延びさせたエネルギーなのであろうか。

 

 

④     生活規則

 

・強信な信者の家では、毎朝御宝前におともし、お線香、お茶とうを供え、お題目を唱えることが行われる、お題目は一息で腹の底から低くおさえつけて長くうなるように唱える。これは、内信時代に役人の目をはばかり隠れて行法したことから自然にこのような唱え方になったのであろう。

・謗法者から施しを受けてはならぬということから、おさい銭にも講社番号と使命を書いて供えるようになっている。

・     他宗の者と交際も何もしないわけではなく、世間上の布施(非田・恩田)は一向かまわない、とされる。

・     婚姻において、現在では“信者である”という枠には大して関係なく行われる。

・     法中の生活で最大の規制は、肉食妻帯を禁じられていることである。不受不施派においては僧は常に信徒の家から供給されてきたが、他宗の世襲制とちがってそのためにいい僧侶を得ることが出来たと理解されている。

・     しかし現代では肉食妻帯を断つ古い固い規律を守って僧侶になりたいとのぞむ人がいるだろうか。

・     「信者間でも、戒律を保つ清僧を法灯の第一義とし、そのために肉食妻帯を捨てて信仰の先達となってもらいたいとする意図、たとえ法中が尽きる時代が来ようとも尊い御曼荼羅を奉持し不受不施精神の貫徹を願う人等、“肉食妻帯”に関してはいろいろ意見がかわされている。何はともあれ、法灯をつぐ僧侶のいない事は、当宗門発展のためにかいけつされなければならない大きな問題点である」(P478)

 

⑤     解禁から再建、拡大まで 

解禁後同派は、寺院建立を行った。当時信徒は口をそろえていったという「それは公許を得た喜びで、信徒からの寄附はどんどん集まり、又実際に労働力を提供した芯とも数知れない」つまり、今の妙覚寺の建物はすべて信徒自らの手で造られたものなのである」

(P464)

その後明治9年に東京麻布に仮事務所を設け、以後教会所が次々に出され、明治15,16年頃には全国100箇所以上にもなったという。

 

現在(1968年)日蓮宗不受不施派の教会は全国に17(15寺院2教会)ある。岡山(祖山妙覚寺他9)、東京1、千葉4、大阪1、長崎1。これらの各寺院は同じ宗義のもとに寺院規則を作成し、住職および責任役員をもうけ、独立して個々に経営を行っている。(P478)

 

(まとめ)

 以上の1968年の報告からは、不受不施派は江戸期200年間の弾圧を潜り抜けた後、明治期には全国に教会所を設け、最盛期には信徒数は数万人を数えるまでになったと思われる。しかし、その後、1968年の時点では減少に転じている。特に最大の悩みは、肉食妻帯を禁じられた僧侶になる者がいなくなっていることだとある。厳しい弾圧を生き延びながらも、逆に平和と豊かさが社会にもたらされるにつれ、その信仰の存続が揺らぎ存続が危うくなっていることが伺える。

 

6、結論と筆者の興味、今後の研究の可能性

 以上日蓮宗不受不施派の歴史と特徴、現状などを概観してきた。筆者が不受不施派に強く興味をもつのは、キリシタンと同様になぜ不受不施派が200年間の弾圧の中生き延びてきたのか?ということにある。さらにその弾圧化にあっても、無謀ともみえる諫言と、内部での教義の純化をすすめていったことは隠れキリシタンの中にも見られない、日本宗教史におけるほとんど唯一の特異な点であると言えるであろう。そこにはある種異様さを感じるほどのラディカルな性質を感じるのである。

 本論で、論拠して多くを引用した『忘れられた殉教者』の著者高野は、あとがきで、不受不施派の研究に入ったのは、彼がライフワークとしていた日本アナキズム史の中で知ったのがきっかけだと述べているが、確かにそこにはある種のアナキズムすら想起させる。しかしここにおけるアナキズムはむしろ精神におけるアナキズム自由主義であるように思える。例えば同じく禁制となったキリシタンが、島原の乱という日本史上最大の農民反乱を起こしたこと、あるいは島津藩において弾圧された隠れ念仏豊臣秀吉の九州征時に、島津に反抗し豊臣軍に協力したことなど、具体的な軍事行動として当時の幕藩制度に対抗した事件があったのに対し、不受不施派は一度もそのような行動を起こしていないのである。

 にも関わらず幕府、藩がこれほどまでに過酷な弾圧禁制を行ったのは、「不受不施」という教義と思想の中に、現実の国家体制を崩壊させるほどの危うさを嗅ぎ取ったからだといえるのではないだろうか?そこには、イエスが繰り返し語った、「神の国」思想に通じる力強さと確信すら感じるのである。

 ともあれ、筆者が、今後不受不施派の研究課題としては以下の点を興味としてあげることができる。

 

・     禁制下にあって、僧侶(法中)が諫暁を行い次々と流罪になる中で、次代の僧侶の教育、養成、献身はどのように成されていたのか?教義的な継承はどのようにされてきたのかについて。

・     禁制下における諫暁、教義の純化、弾圧の中、信徒と僧侶の内面はどのようなものによって支えられていたのか?

・     あるいは上記の点に関して、旧約の預言者や宗教改革期の神学者の思想と、宗教思想として重なるものはないのかという比較宗教史的視座からの検討

・     1870年の鶴島の流罪において、同じ流刑小屋で暮らした浦上キリシタンとの会話や交流を示す資料は残されていないのか?奈良本・高野の著書ではこれを否定しているが、長崎県のキリシタン郷土資料の中にこれを明らかにするものはないか?

・     現在の不受不施派の信徒集団と信仰の実体はどのようなものか?あるいは不受不施、国家への諫暁という中心教義は、現在どのように受け継がれているか?

 

などである。不受不施派の研究はまだ少なく、特に比較宗教的な研究はまだ皆無といえる。しかし、同化や消化力が強いのが特徴である日本の文化や宗教史の中で、きわめて特異な性格をもつ不受不施派の研究は、むしろ現代だからこそ研究する意義を増しつつあるといえるのではないだろうか?

                                        (以上)

 

(追記)本年(2014年)バチカンに所蔵されている、約1万点以上にのぼる「きりしたん資料」が研究資料として公開されたというニュースを見た。今後のきりしたん資料の研究の中で、隠れきりしたんと不受不施派の接点を示す資料が現れる可能性もあり、興味と期待を持って、研究の進展を待ちたい。

 

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140129/art14012911390004-n1.htm

 

 

 

 

参考文献

奈良本辰也・高野澄『忘れられた殉教者 日蓮宗不受不施派の挑戦』(1993)小学館ライブラリー

今泉淑夫 編集『日本仏教史辞典』(1999)吉川弘文館

岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会 地域研究第11集

『在町の近代化 -不受不施派岡山県御津町-』(1968)

 

学部旧約概論:旧約聖書の歴史的・批判的研究の概要をまとめ、その現代的意義を述べよ(3000字) 92点

 

 

 

近代旧約聖書研究史―ヴェルハウゼンから現代まで (1978年) (聖書の研究シリーズ)
 

 

1、              旧約の歴史的・批判的研究の概説

①近世以前の研究史

キリスト教の中で、従来モーセ五書はモーセ自身が書いたものと信じられ、疑問を持つこと自体が「霊感を受けて書かれた誤りなき神の言葉」への冒涜だと考えられてきた。しかし申命記末でモーセの死の記述などから、著者への疑問は早くから教会の中でも当然に気づかれていた。17世紀以降、研究は主にカトリックにおいて自由に進み、ホッブズは『リバイアサン』の中で五書の年代特定を試み、スピノザは逐語霊感説を否定し初めて歴史的批判的研究方法を聖書に適用するなど、神学者、哲学者なども巻き込んで議論と研究が活発になった。

②資料仮説の誕生と考古学の発見

17世紀R・シモンは自由な聖書批判を試み本文批判を放棄、文献批判に集中する中で、五書は資料(文学単元)の集積したものを編集(編纂)により成立したものと考え、資料編集という概念を提起し後に批評学の父と呼ばれた。J・アストルックは、創世紀はモーセが数多くの資料を元に編集したものと推測、「神」を呼称する用語を元に資料を分類、E(エロヒム)資料とJ(ヤハウェ)資料と名づけ、「資料仮説」を展開した。アイヒホルンは「旧約緒論」を出版、始めて高層批評という言葉を用いた。その後の研究で、E1(P)、E2、J、Dと名づけられた4つの基本的な文献資料があるという説が有力になった。

また1822年シャンポリオンがエジプトの象形文字を解読、楔形文字など中東地域で多くのテキストが発掘解読されセム語比較言語学が大きな進展を遂げ、古代イスラエル世界の理解に貢献した。

③ヴェルハウゼンの登場(19世紀後半)

グラーフ、キューネンによりレビ記の祭儀規定は預言者よりも後のバビロニア捕囚記に成立したものであるという研究が進み、これをJ・ヴェルハウゼンが発展させ「イスラエル史序説」等を発表し、五書の中核を形成したのはBC850年頃南部(ユダ)で構成された物語的牧歌的な資料J(ヤハウェ)、とBC750年頃北部で構成された倫理的な性格のE(エロヒム)資料であり、この2つにより無名の編集者によって650年ごろ成立したと考え、古代イスラエル史の研究に新しい光を当てることで資料仮説が体系化された。

④類型・様式批評

しかし専ら旧約資料の文献批評を行う研究に対し、北欧神話研究の伝統を持つスカンジナビア学派やドイツのH・グンケルやH・グレスマンによって新たな研究が提起された。

彼らは五書が成立してくる前に、英雄詩、勝利の歌、賛美歌など様々な文学の類型によって物語が伝承されていったと想定し、それらが口頭により「伝承された場」を持つとして、これを「生活の座」と呼び、これを確定できれば文学伝承の生い立ちを知ることができる、と考えたのである。さらに古代中東地域の諸宗教からの影響も研究した。現代様式史的研究の始まりである。グンケルの弟子M・ディベリウスやR・ブルトマンはこの方法を新約研究に適用し大きな成果を収めることとなった。

⑤G・ラートとM・ノートの研究

1950年代以降新たな研究が進展する。G・ラートは6書に見出される最も古い文学(出エジプト、土地の取得など)の定型を申命記の小祭儀信条と考え、この信仰告白を中心として歴史文学が形成されてきた、と考えた。一方M・ノートはカナン移住以後成立した部族連合(アンフィクティオニー)の中の相互作用の中で、ヤハウェという神がイスラエルを導いてエジプトを脱出させるカナン定住物語を形成したとして、これを「基本口伝物語=G」と呼び、この物語から、文書資料が生まれた、と考えた。

4資料を正しく組み合わせていく過程でイスラエルの歴史を再構築できると考えたヴェルハウゼンに対して、資料はイスラエルの信仰の歴史の特定の段階における信仰告白だと考えたのである。

以降、Jが従来より遅いBC500年代とする研究や、独立資料としてのJを否定したローゼ、アブラハム物語とヘロドトスの類似点に注目する研究などの研究が進んだ。

 

通時的研究の行き詰まりと共時的(文芸論的)アプローチ

以上の研究に共通するのは、作業仮説を立てテキストの背後にあるイスラエルの歴史を再構築し、テキストを再分析するという点で「通時的研究」と呼ぶ。しかし1960年代以降際限なく再分化する研究への行き詰まりが意識されるようになってきた。R・レントルフは以下のように述べている。「今日、文書仮説で言われるような意味で「諸資料」の存在を想定することは、もはや五書の生成の理解のために、いかなる貢献も成しえないのである」(1)

その中で提起されたのが、構造主義記号論の方法論を用いて聖書テキストの背後に想定された歴史を捨象し、特定の歴史、場、等に基づいて解釈するのではなく、フィクションとしての語りの技法や用語や文体がどのような影響を聞き手にもたらすのかを明らかにする「共時的」アプローチであり1970年代以降急速に拡大し、旧約研究の主流となりつつあるのである。

 

2、              旧約研究の現代的意義

共時的方法に対しては、それが読み手の主観性に左右されるのではないかという批判を伴う。これには水野(2006)の以下の言葉が妥当であろう。「テクストから成立状況を再構成する際には、すでに読者の価値観や期待(「先入見」)に基づいた類推をおこなっているために、歴史的批判的研究は、西洋学問の常として、自らの方法を「客観的」であると主張しているが、その主張とは異なって、「客観的」ではありえず、従って研究者の間に最終的な合意は望めない。現在の聖書学が「行き詰っている」とされる原因は、この研究の方法、研究者の判断を「客観的」なものとする前提そのものに存在していたことになる。」(3)

キリスト教の成立以降、教会での礼拝では常にその時代その場所に生きた人々が聖書を語るという読みと解釈が行われていたのであり、それは「共時的」解釈の歴史であったということも可能であろう。そして神学自体が、考古学、言語学、心理学など、その時代の諸学の知見と成果によって進展してきた以上、「共時的アプローチ」による研究の進展もまた、新たな世界を切り開いていくだろう。そして、それは現代に生きる我々が2000年以上前の時代の人々の残したテキストを、自分達のものとして受け取るために欠かせない方法論ということもできる。

しかし通時的研究の意義は失われてはいない。それは、R・E.クレメンツの以下の言葉に全てが言い表されている。「正しい歴史的方法の要請を無視したなんらかの神学的、解釈学的アプローチに逆戻りすることはもはや、不可能だという認識である。旧約は具体的な歴史的に極めて深く根ざしているから、そういったことは不可能であり、教会教父や中世キリスト教神学者の注解にふんだんに見出されるようなつかみどころのない、寓意的、予型論的釈義は今日ではまったく相手にされないのである。」(5)

聖書がキリスト教プロテスタント信仰の源泉である以上、記された神の御言葉の真意に一歩でも近づくべきことがキリスト者の信仰であろう。ならば過去から積み上げられてきた歴史的研究も新たな研究もあらゆる知見と成果を学び続けていくこと自体が、キリスト者としての信仰を常に刷新し続けていく上で、常に現代的な意義を持っていると私は考える。 

以上(本文2984字)

 

 

(引用文献)

(1)R・レントルフ(1987)『モーセ五書の伝承史的問題』

(2)水野隆一(2006)『アブラハム物語を読む 文芸批評的アプローチ』(新教出版社)

(3)R・Eクレメンツ(1978)『近代旧約研究史 ヴェルハウ善から現代まで』(教文館

 

(参考文献)

(1985)『キリスト教大事典』(教文館

(1986)『キリスト教人名事典』(日本基督教団出版局)

R・レントルフ(1987)『モーセ五書の伝承史的問題』(教文館

水野隆一(2006)『アブラハム物語を読む 文芸批評的アプローチ』(新教出版社)

R・Eクレメンツ(1978)『近代旧約研究史 ヴェルハウ善から現代まで』(教文館

『井筒俊彦 叡智の哲学』 (若松英輔 慶応大学出版会)

 

井筒俊彦―叡知の哲学

井筒俊彦―叡知の哲学

 

 井筒俊彦共時的構造化によって描きだそうとした評伝

本書をひとことでいうならば、井筒俊彦という稀代の碩学を“彼が最後にたどり着いた「共時的構造化」の概念によって思想史の中に位置づけようとする試み”と言えるのではないだろうか。

井筒俊彦のいう共時的構造化とは何か?本書の以下の記述がとてもわかりやすい。

 

P124

 「世代」という表現が、読者を再び時間的次元に引きずり込むかもしれない。垂直に伸びる、長方形の立体を考えていただきたい。水平に一定の幅で区分し、十等分する。立体の高さ全体を百年とし、平面を世界だとする。等分されたところは十年となり、それは文字通りの「世代」となる。これを「横の世代」と呼ぶ。

 それに対し、立体をそのままに、次は縦に、天面から下方に向かい、垂直に等分する。その縦軸には百年の間に生きた、何ごとかによってつながる人間が収まるとする。これを「縦の世代」と呼ぼう。

 井筒がクローデルランボーを論じつつ言及するのは、この「縦の世代」である。百年にこだわる必要はない。たとえば古代ギリシアまで遡り、縦軸を三千年に延ばすこともできる。井筒俊彦は後年自身の仕事を「東洋哲学の共時的構造化」と表現したが、それは「縦の世代」の哲学的構造化と置き換えてもよいだろう。そこにはソクラテスプラトン孔子老子、古代インドの鉄人、ユダヤの神秘家、イスラームの哲学者、中国壮大の儒家たち、禅者、芭蕉本居宣長マラルメリルケサルトルが「同世代人」として生きている。

 物理的時間に「日々」があるように、永遠の軸にも「時」がある。古典ギリシア語では、「時間(クロノス)」と「時間(カイロス)」を使い分けた。前者はこの世界に外在し、「時」は内在する。日を時計で測るが、「時」は魂で測られるとアウグスティヌスが論じるのも同じ意味だろう(後略)

 

ざっというならば“時と場所を越えて違う言葉や概念で同じことようなことを思索し、論じようとしているその共通の枠組み”とでもいえばわかりやすいだろうか。

井筒俊彦とはどのような人物なのか?

30カ国語を自在に操った語学の天才、コーランの翻訳者、ジャック・デリダが巨匠と仰いだ、エラノス会議の代表として禅の真髄を世界に発信したetc

それでいながら、日本の宗教、精神史において、コーランの翻訳者、イスラム研究家という点以外で、ふさわしい評価はなされてはこなかった(らしい)。

あとがきで若松は、この本を書くきっかけをこう書いている。

P435)井筒の死は、新聞で知った。その扱いがあまりに小さかったのを、今でも鮮明に覚えている。全国紙すべてを買ったが、どこも形式的な記事ばかりだった。しばらく時間が経過して、河合隼雄司馬遼太郎は情感のある追悼文を書くが、むしろ、それは例外的で、ジャーナリズムは沈黙したといってよい。もちろん、追悼記事の大きさがその人物の業績を直接的に物語るとは限らない。静かに逝った優れた人物も少なくない。しかし、当時感じた、著しい違和感が、本書執筆の直接的な契機となった。(後略)

 

 

それを描くため、若松は井筒俊彦という人物を生い立ちから、知的交流があった人物を描くことによって、正確に位置づけようとしている。

 

西脇順三郎を師とし、親友関根正雄とギリシャ語を学び、大川周明の下東亜経済調査局でイスラム研究を開始し、高橋たか子遠藤周作日野啓三などの文学者や、井上洋治などのカトリック神学者に影響を与え、記号論丸山圭三郎脱構築デリダと深く交流し、ユングの開いたエラノス会議に参加し、エリアーデや世界のイスラムの知性を刺激した。(後年、河合隼雄とも対話がある)。互いに交流があったとは認められないのに、天理教の諸井慶徳や、哲学者九鬼周造、吉満義彦、そして白川静が漢字の世界で生涯積み重ねた学問の問題意識と、深層底流において深く重なり共鳴しあっていた。

 

若松英輔は井筒とそれぞれの著書を引用しながら、その世界を丁寧に描き出していく。

その不思議な共鳴こそが、井筒俊彦のいう「共時的構造化」というものであることが、読者には歩くにつれ目の前に徐々に姿をあらわにする巨大な山脈のように見えてくるのだ。

そこに見えるのは、西洋の知に対して、東洋から同じスケールで取り組んだ知性である。

 

 

②詩人としての井筒俊彦

 

若松はその井筒の本質を原語の達人として原典を読み込んだ上で、その書物が書かれた時代の空気を描きだす、目に見えぬものを何とか語ろうとする激情をコトバにした詩人というものして見出している。

若松が数多く引用している、井筒のコトバから読者は自ずとそれに気づくだろう。

 

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(以下引用)

P221)「存在はコトバである」

 

P4)「形而上学は形而上的体験の後に来るべきものである」

 

「悠邈たる過去数千年のときの彼方から、四周の雑音を高らかに圧しつつある巨大なものの声がこの胸に迫って来る。殷々と耳を聾せんばかりに響き寄せるこの不思議な音声は、多くの人々の胸の琴線にいささかも触れることもなく、ただいたずらにその傍らを流れ去ってしまうらしい。人は冷然としてこれを聞きながし、その音にまったく無感覚なもののように見える。しかしながら、この怖るべき音声を己が胸中の絃ひと筋に受けて、これに相応え相和しつつ、鳴響する魂もあるのだ。

 私は十数年前はじめて識った激しい心の鼓動を今ふたたびここに繰り返しつつ、この宇宙的音声の蟲惑に充ちた恐怖について語りたい。」(「神秘哲学」)

 

P14)「マドンナの理想を抱きながらソドムの深淵に投溺して行く」という言葉があるが、私の父はまさしくそのような霊魂の戦慄すべき分裂を底の底まで知りつくした不幸な、憑かれた人であるった。何者か、あらがい難き妖気のごときものに曳かれて暗澹たる汚辱の淵に一歩一歩陥ちこんで行きながら、而も同時にそれとは全く矛盾する絶対澄浄の巧妙を彼は渇望してやまなかった。いや、人間存在に纏わる罪の深さと、その身の毛もよだつ恐怖とを誰にもまして痛切に感ずればこそ、此の世には絶えて見出し得ぬ晴朗無染の境地をあれほどまでに烈々たる求道精神を持って尋求していたのであろう。そう言えば私がものごころついてから後にる度々目撃した彼の修道ぶりは生と死をかけた何か切羽詰ったものをもっていた。古葦屋金の湯のたぎりを遠松風の音と聞く晩秋深夜の茶室に一人湛座して、黙々と止息内観の法を修している父の姿には一種凄愴の気がただよっていた。」

 

P86

『アラビア思想史』の序文には、梶浦正之の四周『鳶色の月』に収録された「古い言葉」の一節が引かれている。(中略)

 

過ぎ去ったコトバは死んではいない。

奮い言葉は書物の中に眠っている。

わたし達の敬虔な時代の祈祷は

古い言葉を蘇らせよう。

わたし達の静かな時代の鐘は

古い言葉を洞察し賛美しよう。

 

今では、論じる人がいないばかりか、忘却の国に追いやられた梶浦正之という神秘詩人を井筒俊彦はどう呼んでいたのだろう。「わたし達の敬虔な時代の祈祷は/古い言葉を蘇らせよう」、それはそのまま井筒の「祈祷」だったのではないだろうか。

 

 

P169

「自分の心臓の血が直接流れ通わぬようなマホメット像は私には描けない(中略)だからいっそ思いきって、胸中に群がり寄せて来る乱れ紛れた形象の誘いに身を委ねてみよう」

 

「文化と文明を誇る大都会の塵埃と穢悪に満ちた巷に在ることを忘れて、幻の導くままに数千里の海路の彼方、荒寥たるアラビアの砂漠に遥かな思いを馳せてみよう。底深き天空には炎々と燃えさかる灼熱の太陽、地上には焼けただれた岩石、そして見はるかす砂また砂の広曠たる平野。こんなに不気味な、異様な世界に、預言者マホメットは生まれたのだった。」(『マホメット』)

 

(P118

神秘体験の実相を語る井筒はしばしば、「蟲惑」という表現を用いる。あらゆる予想と想念の及ばないところへ、見知らぬ者が自らを奪い去るかのように導いてゆく。どうにも抵抗することのできない招きがあるというのだろう。宗教者たちの「召命」体験に似ているのかもしれない。

 

 この詩人の眼光は、氷河を溶かす春の太陽のようなものだ。彼が眸を凝らしてじっと眺めていると、今まで硬い美しい結晶面をなしていた実在世界の表面が、みるみるうちに溶け出して、やがて、あちことにぱっくり口をあけた恐ろしい亀裂から、暗い深淵が露出してくる。絶対に外には見せぬ宇宙の深部の秘密を、禁断を犯してそっと垣間見る、その不気味な一瞬の堪えがたい蟲惑!恐怖にも充ちた暗黒の櫌乱の奥底を、身の毛もよだつ思いをもって、詩人は憑かれたように覗き込む〈『ロシア的人間』〉

 

 こうした出来事を詩人が待ち望むのではない。それは「恐怖の瞬間」でもある。「自分の意志とは無関係に、このきらびやかな垂幕が、突然思いもかけず、見ている前でするすると巻き上げられてしまう」。確かにチュチェフの肖像であるに違いない。しかし、それは井筒自身の自画像でもあったのである。

P409

 井筒の本性は「詩人」だと日野(啓三)は見る。それは井筒が詩人を論じるからではなく、「問題意識そのものが詩的」であり、詩人として世界に接しているからである、「詩人こそ言葉がゆらめき出る意識と身体の最も深い場所に身を置きつつ、人間と世界と宇宙の全体を根源的に生きる人のことである。その意味で科学させその一部門だ。いわゆる学問も」と記している。

 

 

 縺れ合い、絡み合う無数の「意味可能体」が表層的「意味」の明るみに出ようとして、言語意識の薄暮の中に相鬩ぎ、相戯れる。「無名」が、いままさに「有名」に転じようとする微妙な中間対。無と有のあいだ、無分節と有分節との狭間に、何かさだかならぬものの面影が仄かに揺らぐ。(「文化と言語アラヤ識」『意味と深み』)

  ****************************************

 

通奏低音として流れているのを、見えないものをいかにコトバとして語るか。であり、

その根源には、「哲学は、死者を救い得るか」という実存的な問題が横たわっているのである。」

と若松は本書の最期を締めくくっている。

 

 

③私自身の興味

 私自身がとても興味深く読んだ点は二つある。一つは第六章における井筒と白川静の呼応である。

P242

 文字は神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を受け承いで、これを歴史の世界に定着さえてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形骸化し、現在化するために生まれたのである。もし、聖書の文をさらにつづけるとすれば、「次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった」ということができよう。(『漢字』)

 ここで白川静が「聖書の文」というのは、先に引いた「ヨハネによる福音書」冒頭の一節「太始にコトバがあった。コトバは神のもとにあった。というより、コトバは神であったのだ」(井筒訳)のことである。(中略)

 井筒と白川の間に見るべきは言語観の一致だけではない。むしろ、両者の「神」経験の実相である。「文字は神であった」以上、それを論じる学問が、神秘、すなわち高次の神学になることは白川には当然の帰結だった。井筒俊彦にとってもまた同じである。言語学-「コトバ」の学-に井筒俊彦が発見していたのも、現代の「神」学にほかならない。(後略)

 

 

 今ひとつは井筒が生涯をかけて追求した「神秘主義」について語った言葉。

P285

 「神秘主義といいますものは、ある意味伝統的宗教の中における解体操作である、と私は考えております。つまり神秘主義とはある意味で宗教内部におけるデコンストリュクシオン運動であると思います。」(「スーフィズムと言語哲学」)

 

 上記の2点において、私がいつも感じるプロテスタント教会の中で使われる「言葉」への違和感と、その反動としてのテゼへの傾倒につなげたいと思うのだが、それは感想の域を超えるし、まだうまく説明ができないので、もう少し考えてみたい。

 

④まとめ

 本書は決して読みやすい本ではないと思う。しかし宗教、信仰、哲学、そして何よりも「コトバ」に」興味を持っているものにとっては、井筒俊彦という知られざる豊穣な言語宇宙へ足を踏み入れる道標となるだろう。

 その意味で瞠目すべき本である。よくぞ書ききったと思う。なぜそれができたのだろうか。

 それは若松英輔の哲学と宗教に関する知識、そして詩人としての類い稀なる言葉の感性によるところが大きい。しかしそれだけではない。

 あとがきで、本書執筆中に、若松はガンとなり最後まで夫の仕事を案じながら逝った妻のことを短く書いている。

 

 井筒にとってコトバは見えないものとなんとか対話しようとする試みだった。

「五感を超える実在に、コトバの「肉体」を与えること、それが哲学者の使命である、井筒はそう感じていたのではなかったか」(あとがき P435

ならば文学者にとってそれは詩であり、宗教者ならばそれを祈りと呼ぶのだろう。

本書を成り立たせたのは、若松にとってのそれなのだろう。

 

 

 

 

 

 

白川静

絶対は他者を拒否する。しかし対者の拒否が単なる否定に留まる限り、それは限りなく対者を生み続けるであろうあ。対者の否定とは、対者を包みかつ超えるものではなくてはならぬ。有に対する無は、またその対立を超えた無無であり、さらにそれを超えた無無無でなければならぬ。

 

 

遊ぶものは神である。神のみが遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、豊かな創造の世界である。(中略)この神の世界にかかわるとき、人はともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。

 

ポストモダン神学とは何か? マーク・C・テーラー「ノッツ」「さまよう」を読む。そして井筒俊彦

 

さまよう―ポストモダンの非/神学 (SELECTION21)

さまよう―ポストモダンの非/神学 (SELECTION21)

 

 

 

ノッツ nOts―デリダ・荒川修作・マドンナ・免疫学 (叢書・ウニベルシタス)

ノッツ nOts―デリダ・荒川修作・マドンナ・免疫学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 組織神学の授業で、たまたま誰もやりたがらなかった「ポストモダン神学」を発表しなきゃいけなくて、いやいや読み出したわけですよ。そしたらこれが面白い。残り物には福がある。そして、私自身がキリスト教の中で一番興味をもっているテゼのことを理解するヒントがたくさん与えられたような気がする。

ポストモダン神学は、デリダはじめフランスのポスト構造主義者たちの提唱したポストモダンを神学的に組み入れようとした試みである。

『現代神学の最前線』(栗林輝夫 新教出版 2004)14章で説明がなされている、

(P220)

これまでポストモダン神学者と称されてきたのは、アメリカでは、マーク・C・テーラー、ロバート・P・シャーレマン、チャールズ・ウィンキスト、ディビッド・レイ・グリフィン、そして「神の死の神学」で60年代に名を馳せたトマス・J・アルタイザー、またイギリスではドン・クピットといった面々である。

 これらの人々の特徴は急進的リベラリズム、とくに神論を先鋭化させたラディカル神学にある。つまりニーチェの「神の死」をキリスト教の主題にしながら、以前から論争の喧しかったティリッヒの内在的神論、ブルトマンの実存論的解釈などをいっそう徹底化したのが彼らだともいえようか。もちろんその枠組みも一様ではなく、なかにはグリフィンのようにプロセス哲学に傾いた例もある。しかし大筋で括れば、テイラーを代表格にして、近年のポスト構造主義や言語哲学の考え方を取り入れた一群の神学者たちをポストモダンとする、これが従来の捉え方だった。(後略)」

 

さて、ではそもそもポストモダンとは何なのか?

 

(1)              ポストモダンとは何か? 

 

ポストモダンでよく使わているイメージ

 

「大きな物語」の終焉(リオタール)、普遍的なものを否定、周縁・マージナル、二項対立を超える、構造主義への批判(デリダ?)、軽やかに浮遊する、反理性、肉体性の重視(?)、他者の痕跡(レヴィナス)、動的(モダンが静的であることへと対象的に)

 

ポストモダンへの批判でよく聞く言葉

 

 相対主義、無責任、デラシネ(根無し草)、よくわからない、レトリック過剰、あるいは説明不能、実体がない、抽象的、現実的な活動(政治、社会)へ適応できるのか?、伝統を壊す?

 

 

さて『ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割』(AEマクグラス

 でマクグラスは以下のように記述している。

2003年 来日時の講演より)

 ****************************************

アリスターマクグラス1953~)アイルランド出身、聖公会神学者。著作多数。『キリスト教神学入門』『キリスト教総説』『プロテスタント思想文化史』などは今日プロテスタント(メインライン)を横断して最もバランスのとれた入門書(だと土門は思う)。また元々はオックスフォードで分子生物学の博士課程を取得後神学者になったという経歴から科学と宗教についての著作も多い。『自己的な遺伝子』『神は妄想か?』で著名な宗教否定派の科学者リチャード・ドーキンスとの討論集もだしている。

***************************************

P97)私たちはポスト・モダニズムの世界に住んでいます。これが厳密に何を意味するのか、しばしば判然としていないのですが、私たちは事実問題としてこのことを認めるようになってきました。(中略)

 ポスト・モダニティの高まりは、私たちに挑戦と好機をもたらします。まずそれは私たちにいくつかの再考をうながします。キリスト教の福音を説くのに本当にこの方法が最善なのか。変わりつつある私たちの文化的状況において、キリストの福音をいかに説明し、擁護し、伝えるか、考えなおす必要はないか。過去においては全く問題なく受け入れられていた、われわれの信仰を表すいくつかの方法が、この新しい状況においてはもはや受け入れられなくなっているのではないか。しかし、それはまた、私たちにいくつかの好機をもたらしてくれます。私はポスト・モダニティには多くの誤りがあると考えていますが、ポスト・モダニティが私たちに、福音を説き、伝えるための新しい機会を与えてくれることも充分に認めているのです。(中略)

  (ポストモダニティ)その最も際立った特徴は、私がユニフォミタリズム(合理的画一主義)と呼ぶものを否定することです、これは、正しい考え方はただ一つしかなく、正しい行動も一つしかないという主張です。(中略)画一性への要求は抑圧を生み、そこにおいて人々は、あらかじめ作り上げられたただ一つの型に無理やり押し込まれます。ポスト・モダン哲学者たちの言葉を用いると「他者」は容赦なく「同一なる者」に還元されてしまうのです。ポスト・モダニティは、このような抑圧的な思考方法に対する反動と見ることができます。ポスト・モダニズムとは、多様性を良きものとしてたたえ、厳格・拘束的・抑圧的世界観をもたらすものを退けようとする文化的雰囲気です。それは、あらゆるものを均一な思想群に還元しようとした近代主義に対する反動であり、近代主義を、知的スターリン主義、私たちの世界理解の多様性を否定するものとして批判します。ポスト・モダニティは、個々の人間が何か別の観点を受け入れるように強制使用とするどのような試みも抑圧と考え、信念の多様性を良きものとしてたたえます。

 

(付記)さらにマクグラスは、以下3つをポスト・モダンの特徴としてあげ、詳しく論じている。

 

①物語の強調、②イメージの強調 ③地域共同体の強調

P107)イメージについて考えることは、私たちに自らの信仰の豊かさを深く理解する助けとなる以上のことをもたらします。私たちが教会外の人たちに、信仰をより効果的に力強く伝える助けとなるのです

P111)(現代世界において社会的結びつきの崩壊と共同体の再創造が課題となっていることに触れて) 企業家的能力あふれるアメリカの教会は、最近この役割をさらに発展させ、教会を、激変する文化の中にある共同体的安定をもったオアシスとしみなすようになっています。人々は、まず共同体を求めて惹きつけられるのですが、その後に、その共同体の究極的な基礎がキリストご自身にあることを発見するのです。どこかに所属したいと願っている人々は、このようにしてキリストを信じるようになるのです。(中略)養子縁組では、招かれた特権が祝われ、そこにおいてよそ者だった者が信仰と愛の群れに歓迎されるのです。

 (P118)イエスは議論をされませんでした。イエスは、神の国のよき知らせを彼の周りの人々が理解できるように彼らの経験からわかる物語を話されました。そして、福音書は、キリストがどのようにして人々に出会い、彼らを買えたのかという物語を私たちに語ります。

 

(2)マーク・テイラージャック・デリダ

 

『ノッツ』あとがきにもあるが、マーク・テイラーポストモダン思想におけるジャック・デリダ脱構築を神学に持ち込んだ、あるいは神学を脱構築しようと試みていると言うことができる。

 

 (『ノッツ』訳者あとがきP447

 現代アメリカにおけるポストモダニズムというか「デリダ派」の代表者のような立場にいるテイラーであるから、本書でもデリダ論の比重が高い。

 ***************************************ジャック・デリダ19302004ユダヤ系フランス人思想家。

 以下『現代思想入門』(PHP2007より)

 ジャック・デリダの思想は「脱構築デコンストラクション)として名高いが、それはもっとも広範かつ抜本的なシステム批判という性格をもつ。デリダが問いの対象とするシステムは個別・具体的な諸システムであると同時に、それらを貫通し包括するシステムなるものでもある。いわばシステムのシステムを、デリダは西洋哲学の偉大な哲学者たちのテクスト群のなかに抉りだしていく。個別テクストの読解を通して展開されるデリダ脱構築作業(特に初期の哲学的作業)は一見細かい文献学的作業に見える。しかしそこには哲学やテキスト学以外の政治・経済・社会・文化の諸システムにも共通するシステムの中のシステム(とその拘束)を浮き彫りにし、一つの巨大なシステム批判を可能にする橋頭堡の構築という意図がある。その巨大なシステムは何か。デリダによれば、それは「現前性の形而上学」のシステムである。

 「現前性(presence)とは「現れていること」である。Presence という語は「prae(

前に)+esse(在ること)」から成り、字義どおりには何かのまなざしの前に存在することである。そのときまなざしの主体はその客体(対象)を観察し、それに光を当て解明する認識主体として考えられている。(後略)   

****************************************

 

①「ノッツ」とは何か?

 

445 訳者あとがきより

 表題になっている「ノッツ」という面妖な用語はなんであるか?用語自体の語義としては、英語で述部動詞にともなって遣われている否定文をつくる副詞のノット(not)を名詞扱いにして、その複数形が「ノッツ」というわけである。(中略)

 否定文をつくる「ノット」だから「否定」とか「否定性」という意味であろうという常識的憶測はあたらないということ。とりあえず言えば、否定でも肯定でもなく、非存在と存在でもなく、空っぽでも横溢でもなく、外部でも内部でもない様態、それがノットだということになる。無でもなく何か(有)でもないのがノットであるから、無と有のハザマにこそノットはある、とテイラーは考えている。

 

(付記)

  個人的に思い出したのは私の好きな、直木賞作家北村薫の「詩歌の待ち伏せ」に出てきた(たしか)、詩を読むときの心構えについて、詩集における「空白」のイメージである。北村はいう。例えば同じ詩集本でも、大型単行本としてでたものと、文庫本で出たものは、全くその読書感覚が異なる。それは、ページにおける「空白(余白)」の広さ、スペース、ゆとりがもたらすものである。スペース、装丁、字の間の感覚があることで読者はまったく違った読書体験を経験する。しかし、「余白」自体に意味があるわけではない。「余白」自体はもちろん詩自体を意味的に構成していない。しかし、同時に、「空白」自体が詩集を構成する重要な要素なのである。

 

(3) マドンナのPVを読み解く

 

テイラーは第一章から第四章までで「宗教」を論じた後、第五章以下で、芸術、肉体をテーマに彼のいう「ノッツ」について論じる。第七章においては、広告文化その中でも特にアメリカのミュージシャン、マドンナについて詳しく論じている。ある意味、マドンナこそがポストモダン(神学)の象徴であると考えているようだ。ぜひ、以下のマドンナのPVを見ながら、テーラーの文章を読んでほしい。

☆マドンナとは?(以下wikipediaなどから)1958年アメリカミシガン州生まれ。本名マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ。20世紀アメリカの生んだポップスのスーパースター。「ポップスの女王」「マテリアル・ガール」とも呼ばれる。1980年代初期にデビュー、「ライク・ア・バージン」が大ヒット、その後大胆かつ挑発的なイメージで世界的なスターになる。ビルボード誌の「成功したトップアーティスト100人」では2位。全世界のCD総セールス3億枚以上、ギネスブックによると「世界で最も売れた女性アーティスト」と言われる。(2013年の収入は120億円らしい)また20世紀のアメリカ文化におけるセックスシンボルとしては、マリリン・モンローに次ぐ存在ともいえる。


Madonna - Like A Prayer - YouTube

 

 

マドンナの音楽・イメージにはキリスト教の宗教性が根強く現れている。

 

P333~P337)

 マドンナの宗教的イメージは、ビデオ「ライク・ア・プレイヤー」と映画「トゥルース・オワ・デア」において最も鮮明であり錯綜している。「ライク・ア・プレイヤー」には一連の二項対立の構造があることはすぐに見て取れる。黒/白、愛/憎、平和/暴力、聖/俗、内/外、教会/世俗、女/男、夢/現実。しかしこのビデオに見られるように、マドンナはこうした古典的にこう対立を逆転させ、彼女の作品が拠りどころにしていると思われる構造とまったく逆の構造を問題にする。ほかのどの作品よりもこのビデオにおいて、マドンナの宗教的イメージとしか言いようのないものの輪郭が繊細な形ではあるが、はっきりと現れている。「

「ライク・ア・プレイヤー」の冒頭は意表をつくようなモンタージュになっている。
黒服を着て胸に十字架を垂らしたマドンナが青みがかった荒涼とした風景のなかを
よろめくように走っている。かたわらに火が燃えている。鳴り響く差異レインとへヴィー
メタル・ミュージック。バタンと閉じられる監獄のドア・燃える十字架。
ひとりの白人女性を殴っている白人の男たち。窓から暖かそうな明かりを放射している
白い教会。警官に逮捕される黒人。サイレンが静まってくると、マドンナの歌が聞こえてくる。

 人性は謎よ、だれだってひとりぼっち
 あなたがわたしの名前を呼んでいる 
 家庭(ホーム)みたいな響きがする

 あなたがわたしの名前を呼ぶ声は、お祈りみたい
 わたしはひざまずく、わたしはあなたをあそこに連れてゆきたい
 真夜中はあなたの力を感じるわ
 お祈りみたいに、あなたをあそこに連れてゆくわ

マドンナは気を取り直して教会に入る。家庭(ホーム)という言葉が響くとき、
彼女は後ろ手に扉を閉じ、祈りのろうそくがついている祭壇に向かう。
祭壇の右手、門か横木の向うに黒人のキリスト像がある。マドンナは歌いながら
その聖像に近づく。

 あなたの声が聞こえる、天使のため息みたい
 ほかにはなんにも聞こえない、あなたの声が聞こえる
 舞い上がるような気分だわ

マドンナがキリストの前にぬかづいていると、その聖像はほんのわずか動かして
ひとすじの涙を流す。キリストの涙に感動したマドンナは祭壇から離れて、近くの
長い腰掛けに横になって媚態をつくる。ゆっくり頭を下げながら、
扇情的に自分の陰部に手をあてる。

 わたしは目を閉じる、ああ神さま、わたしは落ちているんだわ
 空から落ちるの、わたしは目を閉じる
 天よ、助けて

幻想の中で、マドンナは聖像の前でうやうやしく頭を垂れ、その足元にキスをし、
檻の扉を開け、聖像の顔に触れる。彼女の手になでられて、聖像は命を帯びる。
その黒人のメシアはマドンナにキスを返し、静かに教会を出て、敵意に満ちた外の世界に
入ってゆく。

まどんなのキスひとつでもって、彼女の歌のインパクトの全部が表に出始める。
彼女はキリスト像の前にぬかずくのだが、その従順の姿は擬態である。
「ライク・ア・プレイヤー」において救い主はマドンナであってキリストではない。
なぜなら、彼女は「わたしはあなたをあそこに連れてゆきたい」と歌うのだから。
彼女の宗教的使命は結果として救世主キリストを救うことである。
彼女がその使命をまっとうするためには、キリストを縛りつけている台座から、
キリストを誘惑して引き離すことが最低限できなければならない。
言い換えれば、マドンナは、教会への隷属からキリストを解放しようと試みるのである。
カトリック教徒はつねに聖母マリア(マドンナ)を崇拝してきたけれど、このマドンナのような
マドンナにはかってお目にかかったことはないだろう。

(中略)

マドンナにとって、愛が救いだ。
とはいえ、マドンナの愛は、肉体を抑圧し肉欲を否定する愛という青白いイメージのものではない。逆なのであって、彼女は存分に肉体
化された愛ー物欲、肉欲を、それこそ神の住まい所として包含している愛ーをこそ信じている。
まさに彼女は「マテリアル・ガール」(物欲の女)である。

(中略)
マドンナは「教会」に挑戦する。
教会が奨励もし抑圧もするあの根源的真理を信じるために、挑戦するのである。


(付記)

 マドンナはデビュー以来、常に賛否両論を巻き起こしてきたアーティストである。このビデオ自体、米の宗教界、政界の保守的な大物たちは、マドンナの放恣な猥雑さは悪魔の仕業だと批判した。(P319)また、2006年のライブツアーでは高さ6メートルの巨大十字架に自ら磔となり「Live to tell」を歌う。ローマ公演では、ベネディクト16世を招待、バチカン近くのスタジアムでパフォーマンスを行うと7万人の観衆は十字架に貼り付けになったマドンナを見て一瞬静まり返ったという。カトリック教会、イスラムユダヤ教指導者から「無礼で悪趣味、かつ挑発的」「j紙への冒涜に近い」と大きな非難を受けた。

 一方でその作品のベースにあるのは彼女の生まれ、反発しながら育ったキリスト教カトリック)的価値観であることもまた良く知られている。

 

P321、)

 

 カトリックは力を、内面の力を与えてくれるわ。カトリックをとことん信じるか信じないかは関係なしに。バックボーンなのよ、それが。わたし、カトリックの核のようなところは拒否してこなかったと思う。でもその理屈は拒否してたわね。そういうことよ。教会には行かないけど、神さまは信じてるの。ロザリオのお祈りはしないけど、神さま関係のことは考えるわ。人がわたしによくしてくれるように、わたしも人によくしてあげるということ。そういう考えが私の根っこにあるのよ。(TIME 1985.5 マドンナのインタビューから)

 (P325)

 

 (付記:マドンナはカトリック的価値観の強い家系で育った。6歳で母をなくしたこと。父からのカトリック的抑圧を感じながら育ったことが、彼女に大きな影響を与えていることは自身があちこちで発言していることを受けて)

 

〈ノー〉に対して「ノー」と言うことで否定を否定することは、罪から自分を解き放ち、自分を受け入れるというか、実際には自分を楽しむことである。父親たちがお前はかくあるべしと命じる存在としてではなく、自分がある存在としての自分を楽しむのである。「ノーに対してノー」と彼女は歌う、「ノットを忘れよう!」

 

P343)

 

 彼女がつける仮面、身にまとうイメージや性格を少しまともに見てみるなら、われわれは等身大のマドンナを知らないばかりか、彼女の素顔を知らないことに気づくだろう。まったくポストモダンであるマドンナは初めから最後までイメージである。彼女はその仮面以外の人ではないが、それでいてどの仮面も彼女の素顔ではない。本当のマドンナがその無数の仮面の向こうに隠れているというのでもない。マドンナはそんなミスは犯さない。実像そのものがシュミラークル(摸像)になることを彼女は承知しているからである。それぞれの画像となった彼女ははにかむようにこちらにウインクする。

*****************************************

(マドンナのPVとテーラーの分析を考える)

 

①  この5分のPVを改めてみると「現代神学の最前線」に含まれている、ポストモダン、宗教なき時代(世俗化)、神の死、黒人神学、フェミニズム、解放の神学(?)など多くのテーマのイメージを見て取ることができる。そう考えるとやはりすごい。

 

②  これはあくまでPV(プロモーション・ビデオ)に過ぎない。ミュージシャンが自分のCDを売るための販売促進のためのビデオである。宗教的な映像でも著作や神学書でもない。

 

③  そもそもこのテーラーの分析が正しいのか?誰にも分からない。(おそらく)テーラーがマドンナ本人に会って逐一説明してもらったわけではない。あくまで解釈の一つである。

 

④  このPVがマドンナ自身の信仰、価値観、生き方を表明している学術書・ドキュメンタリーではない。あくまでPVにすぎない。しかしながら、見た者にはその中には、拭い去りがたく、マドンナ自身の信仰、価値観、生き方が織り込まれていると、感じざるをえない。

 

⑤  マドンナは最も成功したアーティストであるとともに、アメリカのセレブの中で慈善活動 

 

に最も熱心であることでも知られている。(NYを旅行したとき、マンハッタンにゴージャスなマンションを見て、知人がマドンナはアジアの孤児数十人を養子として引き取って住んでいると聞いた。ちなみにこれにより、マドンナは、数十人だけを選ぶことや、その子と選ばれなかった子はどうなるのだ、それは偽善だという批判を受けた。成功と慈善そして偽善という批判。マドンナに常に引き起こしている。(東北大震災でいち早く50万ドルを寄付したことも報道された)

 

(まとめ)

マドンナと彼女の作品には、ポストモダン(神学)を象徴しているとテーラーは考えている。それはキリスト教の中にある二項対立を超えて、そのなかをかろやかに浮遊し楽しむことで超えていこうとする、ということ。それでいながらもそのベースにはまぎれもないキリスト教的価値観の中を生きようとする、ということとまとめてみる。またマドンナのPVの中にこのような思想を読み込もうとするテーラーの論調もまたポストモダンの特徴と言えるだろう。PV、マドンナという存在、テーラーの分析、それぞれがポストモダンの特徴をとてもよく現している。

 

 

さてテーラーは第六章では、ユダヤ人のポストモダン建築家リベスキンドについて一章を裂いている。

 

(3)第六章、ダニエル・リベスキンドのノット建築

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 ダニエル・リベスキンド1946~)ポーランド系アメリカ人、ユダヤ人。両親はポーランドホロコーストを生き延びたユダヤ人。脱構築主義の建築思想家。「建築しない建築家」として知られていたが、1988年のベルリン・ユダヤ博物館当選後世界的に著名になる。2001広島市主催のヒロシマ賞受賞。911世界貿易センター跡地再建コンペに当選、541mの高さの「フリーダムタワー」とツインタワーの跡地の慰霊スペースからなる建築2010年に完成。 (wikipediaより)

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%89

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ベルリン・ユダヤ博物館

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

 

 リベスキンドがその名を高めたのが1989年からはじまったベルリン・ユダヤ博物館の建築である。テーラーの論証を詳しく紹介、分析できないがその建築の特徴を挙げると。

 

・  ジグザグで不調和な建物

・  壁の穴、裂け目、行き止まりの階段、空っぽの空間(スペース)

 

などを特徴としている。(ポーランドユダヤ人でホロコーストの生き残りを両親にもつリベスキンドは、ベルリンを、20世紀初頭まで最もコスモポリタン世界市民的)で、理性的だった都市、それがWW2によって「内部崩壊し」、冷戦のベルリンの壁によって「分断」された都市であると認識している。そのベルリンに立地する博物館として上記のような建築を選んだと言える。

そして訪れるものを不安に、孤独にさせる錯綜した建築と、それを訪れたものが実体験すること自体が、不安定で絶望的な状況におかれたユダヤのあり方を追体験させることをねらっている。それこそが、ベルリンという場所にユダヤ博物館を建てる意味だと彼は考えているのだろう。

 

(ネットでみたある批評)

 

 記憶を内包した「場」には、目に見えずさまざまな影響力が作用し、その作用の拠り所とをたどる行為が軌跡としてこの場において出会い、時に衝突し、時に反発し、時に融合しあう。リベスキンドはいくつかの強い影響力をもつテーマをすくい取りながら、同時に、場に満ちている目に見えない、言葉によって表すことのできない数多くの影響力の存在している事実をいかに表象するか模索している。

 

テーラーは以下のように記述している。

 

 「ノッツ」(P262

 ・からっぽ空間がいたるところにある印象である。ベルリンの歴史のねじれた足取りをたどるなかでリベスキンドが付加したものは、まさにそのからっぽ空間自体なのだということが次第に明らかになってくる。〔中略〕

 

・空間に亀裂を構築することで、見た目こそ安定している構造体を脱構築する地下室という建築。そんな建築は「ノット建築」である。(中略)

 

・この喪失にはひとつの別のホロコーストが含まれている。ひとつの他の秩序、その燃えがらと灰がひとつほかの〈他者〉の痕跡であるようなその秩序、というホロコーストが含まれているのだ。

 

・〈言葉〉を傷つける、テクストのもろもろの欠陥には際限がない。これらの欠陥において、欠陥を通じて、聖性の崇高さが近づいてくる。(中略)崇高なるものは「いっさいの形態、形状の縁に」ある。

 

これがテーラーの考える「ノット」のポストモダン建築における表れなのである。

 

 

(5)第八章「肉体の裏切り」

第8章でテーラーは肉体に裏切り、と題して免疫システムを論じながら、自らの述べる「ノッツ」について論証する。それが妥当なものかは私には判断ができない

P395

免疫システムの主な仕事は、『自己』と『非自己』を区別することだと一般には考えられている。いちど区別がなされると『自己』は温存され『非自己』は壊される。もちろん、ほとんど一般のレベルでは、これはこれでまちがいがなく、だから人間は生き生きと健康でいられる。しかしながら、もっと微細なレベルでは、自己と他者との区別は絶対的な区別ではないということが最近明らかになってきた。

 

P397

 

 身体の境界を越えて入ろうとするよそ者は、無数にいる。これら、よそ者は、特定の諸々の分子によって作られた独特なものをひとつずつもっている抗原たちによって標しをつけられる。(中略)

 

 人体は、一億以上という驚くべき数の抗原を見つけて、それらに対応するようにあらかじめプログラムされている(後略)

 「真理(一個の抗体を合成する能力)は学んで得られるものだろうか?学んで得られるものなら、真理は前もっては存在していないはずである。学んで得られるためにこそ、真理は求められるはずである。こうして、われわれは難問にぶつかる。ソクラテスが「メノン」において提起している問題だ。人は自分が知っていることを求めることはありえないが、反対に、自分がまだ知っていないことを求めることもありえない。なぜなら、すでに知っている以上、あらためてそれを求めることはありえないし、知っていないことについては、そもそも何を求めていいやらわからないのだから、それを求めるはずもない。ソクラテスはこの難問を解決するために、学んで得るとは想起にほかならない、と断定する。真理(一個の抗体を合成する能力)は外からもたらされるのではない。それはすでにうちにあったのである。(中略)いろいろな合成能力は核酸に外から付与されるのではなく、前もって存在しているのだ。

 (P410

 

 「敵意ある子宮」という刺激的な論文で、ロブ・ウェクスラーがこう書いている。

 子宮は出生前の楽園であり、そこでは向くなるひとつの生命が、母体によって外的から守られて。温水にゆっくりつかっている。われわれはそう考えている。しかし、一部の免疫学者によれば、生は-誕生前のそれも-それほど単純ではないらしい。彼らの考えでは、母体の免疫機構が胎児を外の組織のひと塊と認める。攻撃して破壊してまうべき侵入者と認めるのだ。だから、母親は、酸素や栄養でもって胎児の命を支えながら、一方では、致死抗体やキラー細胞をもって退治に爆撃をかけてもいると言えるのだ。母親の攻撃反応に歯止めがかからなくなったら、無力の胎児は死んでしまう。このシナリオでは、誤った方向に発動された免疫システムによる残忍な裏切りの結果として流産となることもある。

 (中略)

 免疫学者から見て、最も頭を悩まされる問題は、なぜ一部の妊婦が流産するのか、ということではなく、なぜ多くの妊婦が流産しないのか、ということである。

 

P418

  これは、わたしの身体、壊れた身体

 

(付記)

 いまいちよくわからない。しかし村上靖彦レヴィナス 壊れ物としての人間』で提起したように、西洋哲学の志向における自律した理性的な知性の前提自体を疑い、人間を壊れた者として捉えるところか、福祉、介護、ターミナルのコミュニケーションにレヴィナスを読み直そうとする試みに相通ずる思考であるように私は思える。

 

 では、上記の一見神学と関係なさそうな現象を引用してテーラーは何をしようとしているのか?

 

(6)マーク・テーラーは何を目指しているのか?

 「ノッツ」の神学的議論(1~5章)はあまりにレトリック過剰でありかつ錯綜して要約することは困難である。もう一冊の主著「さまよう」(1991 マークテーラー P15 以下)の記述にその確信が、はっきりと述べられている。

 

  P15)

 西洋神学伝統も、ある種の単極敵基盤上に、だがより性格に言えば、一種の両極的・二項対立的な基板上に、存在している。(中略)この二種類の対立項(概念)群の間を揺れ動く振り子運動、として読みとることが可能である。

 

  神        世界             真理    誤謬

 

 永遠        時間             現実    幻影

 

 存在        生成             明晰    混乱

 

  静        動              正気    狂気

 

 不変        変化             光     闇

 

 現前        非在             視力    盲目

 

 一          多             不可視   可視

 

 聖          俗             精神    肉体

 

 秩序        混沌             霊的    肉的

 

 意味        虚妄             心     物質

 

 生          死             善     悪

 

 無限        有限             有中心   脱中心

 

 超越的       内在的            深層    表層

 

 同一性       差異性            話し言葉  書き言葉

 

 肯定        否定             真摯    戯れ   etc

 

  階層的秩序系による圧制・抑圧を、もしも真に克服しようとするのなら、たしかに〔弁証法的〕逆転・倒置の位相を一度は通過する必要があるだろう。だが〔単なる〕逆転は、逆転それ自体が、背反的対立としての二項対立の組織系、の射程内に捕らえられたまま、そこから一歩も出られない、という事態になる可能性もある。単に「西洋文化を構成する様々な要素群に付された正の記号を負の記号に置き換えることが、西洋文化の構成要素群から、みずからを解放することにはならない。むしろ、依然としてその網目組織内に全面的に拘束されたままで終る、という結果になるだろう。神を最高の悪と規定することも、結局は、神を至高の善と規定することと同じく、信仰と賛美の表明行為であることに変わりはない」

 

 相対立する両項を、単に、〔正・負記号なしの〕無記号のままで置いておくのではなくて、両項の本源的同一性そのものを解消してしまうような、弁証法的逆換を-単純な〔正・負〕逆転の代わりに-有効に機能させる必要がある。

 

 言い換えれば、逆換が逆換であると同時に、全面破壊的な、倒錯的・逸脱、でなければならない。神学的規範逸脱そのものが、真に。徹底的に破壊的なものに転成しない限り、根源的なものは何一つ変化しないだろう。継承された秩序体系全体が、創造的に解体されるための手段となるような、批判的てこ入れ、それこそが必要なのだ。非/神学の神学者にとって、解体哲学が、有効な一種の思想的資源としての可能性を持つことになるのは、まさしく、この点においてである。

 

(中略)

 

 解体論は、もはや引き返しようもないほど決定的な意味で、分界的であり、境界・欄外(マージナル)的なのである。解体論の〔あちら側でもなく、こちら側でもないというその〕分界性が、不安定な一種の境界地帯・外縁地帯(ボーダー)を設定するが、境界・欄外的思索家達は、その地帯沿いに流浪を続ける。

 

 信仰と不信仰、そのいずれでもない中間地帯に捕らえられて脱出不可となっている人々の関心の的となっているよ;うな種種様々な群を提起する形式としては、この、全く新奇でしかも自他共にゆるす論争的批判形式でもあるような、解体論的批判、こそが格別にふさわしい、と私には思える。

(『ノッツ』P7)

 「ノットについて考えることを拒否しないことによって、神について別様に考える可能性。それを生み出す読解を暗示」

 

(付記)いわばこれこそがテーラーの目指す神学である。それは弁証的であり、かつ宣教的である(と彼は考えているのであろう)それこそが、テーラーの信仰告白なのではないだろうか?

 

 レトリック過剰で過激(ラディカル)に思えるテーラーの記述、しかしこれは神学全体の中でどのように位置づけることができるのだろうか?

 

(7)ポストモダン否定神学の復権なのか?

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否定神学(岩波キリスト教辞典)とは?

神について、「神は全能である」といった肯定的言表はそれなりの真実性をもちながらも、しかし無限の神を表現するのには限界がある。それに対し無限の神は知りえないとして、認識探究をストップさせる行為(不可知論)の他に、知りえないことを十分に承知しながらも、人間に可能な限り神に迫り、肯定的陳述を否定的陳述に変え、神は「・・・でない」という仕方で、いわば負の側面から神を知ろうとするのが「否定神学」である、

この態度はユダヤキリスト教に原初から付随していた。例えば出20:4で神の像の作成が禁じられ、207では神の名をみだりに呼ぶことが禁じられている。

 つまり当初から神を具体的形やそれと名指しして呼ぶことが禁じられていた、それゆえ神を概念的に把握することは不可能であった。しかもヨハネ118では、神の独り子以外は神を見た者はないと言われているから、「神は・・・である」というのは極めて不完全な陳述にすぎない。いずれにしても神の把握は不可能に近いことであるから、啓示や受肉を信頼する肯定神学よりも否定神学を重用する人々が現れても当然であろう。否定神学を特に意図的に用いたのは、ギリシア教父のアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスなどに遡ると言われる。(中略)

 その後哲学においては展開を続けた。カントの言う超越者の認識不可能性は不可知論ではあるが、、一種の否定神学的要素をもち、現代のアドルのも絶対者を言語で言い表そうとするときに否定的にしか語りえないといったり、デリダ否定神学的表明をしつつ、それを超える道を探ったりしている。その意味で否定神学そのものは、神なき時代においても、超越を思索する人間にとっての尽きざる泉のようなものであると言えるだろう。

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この定義によれば、テーラーと否定神学は共通点が多い。むしろ神学の歴史の中の最も中核的な主題の現代的捉えなおしと考えることも可能だ。しかしデリダが生涯「ポストモダン否定神学ではない」と述べたように、従来の肯定-否定の対立軸をこえるという形での、“新しい形としての否定神学”といえる(とテーラーも考えているようだ)

 

(8)ポストモダン神学の日本における意味、可能性

 

上記を抑えた上で日本におけるポストモダン「神学」の状況を私なりに考察する。

 「そうした人々の言説は大部分欧米の事情に関わるもので、ポストモダンがもつ批評的役割はそのまま日本には通用しない、(栗林)」確かにその通りである。

 なにせ、マドンナのPVを使ったコマーシャルが教会の非難によって放送禁止になるのがアメリカである。生活、社会、政治、のすべての分野においてキリスト教的価値観がしみこんでいるのがアメリカという国家なのであろう。

 日本において「ポストモダン神学」が大きな影響を与えることはなかった。キリスト教徒1%(実体はそれ以下)とされる日本においては、それほど文化、政治、意識の中にキリスト教的価値観が支配するには至っていない。それゆえに、社会にこびりついた(あるいはベースとしてある)「キリスト教的価値観」からの脱却を試みる(かろやかな)ポストモダン神学は、それほど必要とされていなかった、と考えられるのではないだろうか?

  しかし、教会を出て、社会をみたとき80年代から90年代、さらに現代も「ポストモダン」的思潮は、マクグラスのいうように「事実として」支配的であるように思える。 私自身が興味をもつのは90年代以降のサブカルチャーブーム(アニメ「エヴァンゲリオン」など世紀末、ハルマゲドンなどの宗教的モチーフの氾濫、様々な新興宗教ブームなど)「(キリスト教的)神なき国ゆえのポストモダン神学」のようなものにあたるのではないかと、この本を読んでいてひざをうつような思いであった。

 

 一方でポストモダンが、相対化、ラディカルな破壊的な傾向を持つ。これは教会形成の神学としては危険性を内包している。ゆえに、(栗林 14章)に記述されるように、リンドベック、ハワーワスなどの「信仰者のコミュニティの規範」を重視したポストリベラル神学が台頭、さらに西洋文化以外からのポストコロニアル神学が台頭してきたといえるだろう。

  しかし「ポストモダン神学を、文化批評、一時の流行性にすぎない」、「言葉の消費」(栗林)にすぎないのだろうか?「わたしたちは事実問題としてポストモダンの時代を生きている」(マクグラス)。そしてポストモダンの目指す「私が語りかけようとする相手とは、実のところ、マージナルな人間たち(私自身もその一人なのだが)なのである」(テーラー)、そして伝統的キリスト教は衰えるということは、教会から外れたマージナルが広がっているということでもある。その中で、いかにキリスト教を弁証し、伝道していくためにそれは理解(通過)しなければならないように思える。

 

 マクグラスは『プロテスタント思想文化史』中で、ペンテコスタリズムを高く評価し、こう締めくくっている(P495)「プロテスタンティズムの将来を批判する人々は、繁栄するためは愚か、その前に生き残るために、自己理解を急進的に変えなければいけないという。(中略)われわれはプロテスタンティズム自身のうちに、内なる資源に基づいて刷新、革新、改革を行うユニークかつ内的な能力があることを見た。プロテスタンティズムの将来は、まさにプロテスタンティズムが実際にプロテスタンティズム本来の姿を採ることのうちにある。」

 

(9)考えるべき課題

 

・  「神の死」「ポストモダン」という言葉を離れて、演習にいるお一人お一人が知悉(詳しく知っていること)について、「ノット」という形式を経由することで、「神の死」「ポストモダン」という概念のインパクトを自分のものとして捉えてみるという思考実験。

 

(例)

 

 ・禅とも関連がある(らしい)華道において、「無心」「形のない」ことから形をつくっていくことの意味、捉え方について

・  免疫学における自己攻撃性から(人体に本来的に組み込まれているノットのメカニズム)

・  伝統宗教の弱まりとポストモダン的新興宗教としてオウム真理教を捉えてみる、(なぜ彼らは伝統宗教ではなく新興宗教へと足を向けたのか)

・  あるいは、キリスト教・教会と全く縁のなかった人(神の存在を確信していない人、知らない人、つまり「神は死んでいる」人)が教会に来たとき、伝道者(牧師)としていかに「神の実在」を伝えていくのか?

 

上記の様なテーマ設定をすることで、「神の死」「ポストモダン神学」のインパクトと可能性をそれぞれのわが身のものとして思考実験してみると興味深いだろう。

 

 

 私自身は、自身が興味を持っているテゼの運動と、黙想をポストモダンとして捉えてみたい。

①  一つの教会、教派にとどまらないエキュメニズムにみる越境性

②  特定の指導者を持たず、分裂、枝分かれして拡大していく拡散性

③  「沈黙」「黙想」「自分の歌声ではなく他者の歌声に耳をすます」ことを重視する他者性、言葉や典礼を超えて祈りを共有するという構造。

④  礼拝空間の美しいイメージの強調

⑤  韓国やバングラデシュのラルシュ共同体との連帯にみる「共同体性」

 

0、(付録 マーク・テーラーから離れて )

 

「さまよう ポストモダンの非/神学」の本の訳者は、井筒豊子(英米文学・意味論)である。巻末ジャック・デリダとその夫井筒俊彦が、かなり熱烈な推薦文を寄せている。井筒俊彦の主著が「意識と本質-精神的東洋を求めて-」では、プラトン以来のギリシャ哲学、スコラ、イスラーム、インドのヴェーダ儒教、禅、現象学ポストモダン、和歌の世界を横断しながら「本質」という概念がどのように把握されているかを分析している。(ちなみにこの著書の中で、「共時的構造化」という概念を提出し、独自の哲学を始めた矢先井筒は亡くなった)。この「意識と本質」で井筒が、禅における「無心」というものの意味、構造について説明しているのだが、これがテーラーの「ノッツ」と通ずる、把握するために役に立つように思われるので、以下紹介する。というより、テーラーの錯綜したレトリック過剰な文章より、井筒の禅について書いた文章のほうがずっと「ノッツ」の概念を理解しやすい(笑)

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井筒俊彦とは(19141993イスラム学者、言語学者、東洋思想研究者。慶応大学卒業後大川周明の下、東亜経済調査局でイスラム研究を開始。日本で最初に「コーラン」の原典訳をした。ギリシャ語、アラビア語ヘブライ語、ロシア語など20ヶ国語を習得し、ごり者哲学、仏教思想、老荘思想、禅、密教儒教ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。鈴木大拙の死後、禅の研究者としてエラノス会議に参加、世界各国の知識人と交流を深める。ジャック・デリダも井筒を「巨匠」と呼び尊敬していたなど、国際的な評価は極めて高い研究者だった。(2013年から慶応大学で井筒俊彦著作集の刊行がはじまるなど、近年また再評価の機運が高まっている、らしい)主著「コーラン」訳「イスラム文化」「意識と本質」他。2014年は生誕100年で全集が随時出版され始めている。

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井筒俊彦「意識と本質」 (P101)

 

 それにつけてもすぐ憶い出されるのは禅の説く「無心」だ。仏教、特に禅は「無心」ということをよく云々するが、「無心」とはたんにAに対する非(ノン)Aという形での、「心」の矛盾概念ではない。「心」に矛盾し、「心」を論理的に拒否するところに成立する純粋に消極的な否定概念でそれがないことは勿論、主体的体験としても、ただ何も意識しない状態、存在認識機能がまったく停止した状態、ノエーシスの完全に消滅してしまった境位、を意味するのではない。

 反対に、純粋無雑なノエーシス、つまり個別的対象としてのノエーマのないノエーシスそのものをそれは意味する。

 

(注:ノエーシスとはギリシャ語のヌース(精神、理性)およびそれと同系のノエイン(思惟する、知覚する、直観する)からの派生語noesisに由来するフッサール現象学の述語。フッサール自身、ある箇所でノエインを〈直接的に見ること〉と訳している)

 

 (中略)

  要するに、禅の述語としての「無心」はあらゆる意味での「心」のない状態であるどころか、むしろ「有心」の極限なのである。すなわち「無心」は字義通りの無-心ではなくて、かえって「心」の基底であり、本源的本来性における「心」そのものだということ。つまり意識(と存在)の究極的原点である。後述するように、禅では「無心」と「心」とが、縷々完全な同義語として使われるが、この言語慣習はまさにここに由来する。つまり「無心」と「有心」とが互いにまったく同義的であり得るような境位が、ここに成立しているのだ。

 「意識はいろいろ違った仕方で意識であり得る」という、冒頭に掲げたメルロ・ポンティの命題を、意識の次元に関わることと解釈して、それをいわば垂直的に展開したらどんな問題が出てくるか、その可能性をししゅんする具体的事例として、以上簡単に禅の「無心」の意識性に触れた。(後略)

(P132)

コトバによる存在文節の問題を処理する禅の仕方も一風変わっている。コトバ-ここではものの名-が、その名の意味するところにしたがって存在を分節し、こうして意味指示的に切り取られた存在断片を「本質」的に凝結させ固定してしまうところに、この側面でのコトバの問題性の主眼点がある。古来伝えられてきた語録にそのことを示す例は多く公案集に公案として採用されたものも幾つかあるが、ここでは典型的な例を二、三考察してみよう。

 

 真空従一、「心鏡明鑑にしてさわり無し」 柱杖をねんきして曰く

 

「シャコを呼んで柱杖と作さば、即ち是れギ(石編に疑)、喚んで柱杖となさざるもまた是れギ。此を離れてほかに、畢竟、如何。会せんと要するや。ギと不ギと誰か対を為さん。大地山河、郭然粉砕」(『五燈会元』)十六)

  (中略)

 禅師は手にした杖を持ち上げる。「このものを何と呼ぶ。もし杖である、といえば分節の網に引っかかる。杖でない、と言っても、やはり分節の網に引っかかる。であるとかでないとかいうことを離れて見たら、究極的にどうなるか」と。そして相手の答えを待たずに、「おまえたち本当のところがわかりたいか。であるのでないのと言っているからいけないのだ。大地山河、全部一挙に粉微塵にしてしまえ」という。

  「大地山河廓然粉砕。」これは杖であるとか、杖でない-無分節を分節と同平面に並べて相対的な分節否定と考える立場-とか言っていないで、全存在界を一挙に粉砕し尽くし、廓然たる絶対無分節の境位に翻入してみれ、というのだ。

 (中略)

 ある経験的事物の分節(A)を消去するためにそれを否定(Aではない)しても、それではただAに論理的に矛盾する「非A」を持ってきて、別の新しい分節をつくる出すだけのことで、禅の問題としている無分節とは全然質を異にする。

 (中略)

 もっと禅的な表現を使うなら、「有心」から一旦「無心」に出て、その境位からひるがえって「有心」の見ていた経験会の事物を「無心」の目で見直す必要がある、ということ。そうしてはじめて、存在の無「本質」的分節ということがわかってくる。  

 (井筒の提唱するイメージ)

          無分節

 

        ↗     ↘

 

  分節(Ⅰ)        分節(Ⅱ)

 

P164)コトバは、元来、意味的側面においては、存在分節をその第一義的絹音するものであって(略)分節1〈Ⅰ〉は有「本質」的分節。ここでは、分節とはいろいろ違う事物を「本質」的に分別することである。「本質」によって金縛りにされて動きのとれない事物は、他の侵入を絶対に赦さない。他の一切を拒否し、排除することによってのみ、それらの事物は自らを主張する。「本質」は事物を固定し、結晶させるものだ。

 これに反して、分節(Ⅱ)の次元では、あらゆる存在者が互いに透明である。ここでは、花が花でありながら-あるいは、花として現象しながら-しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。「・・・のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。分節〈Ⅰ〉の次元では、花は一つの、それ自体で独立した、閉じられた単体だった。花はすべての他のものにたいして固く自らを閉じていた。だが「本質」のない分節(Ⅱ)の世界に移されるとき、花は、かたくなな自己閉鎖を解き、身を開く。

 無「本質」の世界。それは存在的透明性と開放性の世界、「水清くして底に徹す。魚の行くことは遅遅たり。空広くして涯りない。鳥の飛ぶことようようたり」〈宏智『座禅箴』〉

 

(中略)

 

魚は魚、鳥は鳥として立派に分節され区別されていながら、しかも、この鳥とこの魚との間には不思議な存在相通があり、存在融和がある。つまり、分節されているのに、その分節線が全然働いていないのだ。まるで分節されていないかのように。

 (P258)(密教曼陀羅カバラの類似性にふれて)

 Gショーレムはカッバラーを(中略)ごく、大ざっぱに言うなら『旧約』時代以後ユダヤ教の主導権を握ったラビたちは、律法から一切の神話的形象、象徴的イマージュをいっそうすることにその努力を傾注したということもできるだろう。とはいっても、元来、著しく形象的な『旧約聖書』が聖典である以上、イマージュを全然なくしてしまうことは、もとより不可能である。しかし、イマージュは依然としてそこにあっても、その生々しい象徴的作用性が剥奪されてしまえば、それはもう表現上のメタファとして生き残るだけだ。神を絶対的超越性において純化しようとしたラビたちは、地上的、人間性匂いのつきまとう一切の神話的表象を、この意味において、神から取り除こうとしたのだ。

 だが、この動向が極端にまで進めば、神は一つの純粋概念になってしまう。「生ける神」の瑞々しい生命力は枯渇し、果ては宗教そのものの死滅にもなりかねない。宗教的シンボルの生み出す濃密な象徴的雰囲気の中で、人が神と相対するという体験は不可能になり、ユダヤ教そのものの宗教的地盤である儀式、典礼は無内容な形骸と化してしまう。

 ユダヤ教のこの危機的状況において、カバリストは、ラビたちの合理主義に反抗し、シンボルの氾濫のうちにこそ、神の生きた実在性に触れようとする。宇宙的生命の根源である神、そしてその神の創造する存在背かには、合理主義者たちの知らない神秘の基底があり、この神的存在の深みがシンボルのヴェールの向う側に透視される、と。

 

 

 

(まとめ)

 

 マーク・テイラーがしようとしたことは、井筒俊彦が「意識と本質」で論じた東洋の禅における「無心」「無」を、ギリシャ、キリスト教的な思考の中で、論じようとしたもの、(なのかもしれない)だからあれほど井筒はテーラーを評価しているのであろう。そして井筒俊彦自体がはっきりと書いているのだ。

 

神秘主義といいますものは、ある意味で伝統的宗教の中における解体操作である、と私は考えております。つまり神秘主義とはある意味で宗教内部におけるデコンストリュクシオン運動であると思います」(「スーフィズムと言語哲学」)

 

とするならば、ポストモダンは、ユダヤカバラの現代的表れということができる。デリダレヴィナス、やはり現代思想を捉えるうえで、ユダヤ性というものについては、きちんと深くおさえていくべき必要があるようだ。(おしまい)

 

 

(参考文献)

 

ポストモダン時代のキリスト教」(教文館 AEマクグラス 2004

 

「さまよう」(岩波書店 MC・テーラー  1991

 

「ノッツ」 (法政大学出版 MC・テーラー 1996

 

現代思想Ⅰ」(PHP 2007

 

プロテスタント思想文化史」(教文館 AEマクグラス 2009

 

「意識と本質」(岩波 井筒俊彦 2001

 

井筒俊彦 叡智の哲学」(慶応大学出版会 若松英輔

内村鑑三『流鼠録』から障害者介護を考えてみる

 

内村鑑三の生涯―日本的キリスト教の創造 (PHP文庫)

内村鑑三の生涯―日本的キリスト教の創造 (PHP文庫)

 

 

 

(1)   内村鑑三を読んでの印象

人は内村鑑三という名前を聞いたとき、どんなイメージを抱くのだろうか。

私の場合、それは、明治のインテリ、不敬事件における不屈の信仰の人、あるいは融通が利かず頑固一徹の人というイメージを持っていた。しかし、春学期の間、実際に文章や詳細な伝記(1)を読むにつれてそのイメージが変わった。意外なほどの人情の厚さや感情の厚みなど人間としての柔らかい情感を何度も感じさせられたのである。近年311原発事故以降、日本とは何か?国家観をめぐる問い直しが多くの分野で問い直されている。その中でも内村に対しては、主として無教会主義の研究者や、不敬事件に注目した近現代史の研究者からの視点が多かったのではないだろうか。しかし、NHK「日本人は何を考えてきたのか」(2012年放送)が注目を集めたほか、キリスト教界でも内村鑑三像の捉えなおしが進みつつあるように思える。

例えば岩野(2013)は内村研究の冒頭、主たる関心として以下のような問いかけをすることで新しい内村像を捉え直そうとしている。「内村鑑三は、「信仰とは個人のものである」ということを強く主張した人物である。しかし同時に、文書伝道、講演等を通した社会への働きかけを最期までやめなかった人物である。信仰が個人のものであるならば、なぜそのように他者とのつながり保ち続けなければならないのであろうか。個人の信仰と社会性とは、いかにしてつながるのであろうか。彼を取り巻く日本の社会に対して怒りと絶望を抱いてもいた内村は、その社会、およびそれを構成する人間に対して、どのような希望を、どのように得ていたのであろうか。」(2)

私もこの説にはうなずくところが多い。この内村の他者や社会との繋がりという点において、筆者は特に内村のアメリカ留学初期のエルウィンの精神薄弱児(2)施設の現場で働いた経験が大きく影響しているのではないかと考える。

 

(2)私自身の経験から

 このような点に強く興味をもつのは筆者自身の体験が出発点となっている。私は大学卒業後10年ほどテレビ、ラジオのメディアの仕事をしてきた。しかし、昨年(2012年)夏から7ヶ月ほど、横浜市身体障害者の入所施設の生活支援員として働くという経験を持った。それまで福祉、障害者のことを学んだことはなくいわば0から突然飛び込んだ世界だった。施設の入居者は、主に脳性麻痺、小児麻痺など肢体不自由な方だが精神障害を併発しているケースも多く設立以来20年間長期入所し生活している施設の中で、食事、排泄、入浴介助など、文字通り朝起きてから夜寝るまで彼らの隣にいて介助をする仕事だった。初めは本当に驚き呆然とすることばかりであり、障害を持った方との接し方から、いわゆる世間で3K、7Kと言われることもある介助の仕事は、かなり辛いのが正直なところであったが、同時に感じさせられ学んだことも本当に大変多かった。おそらくその経験がなければ、今、神学部で学ぶこともなかったと思える。

内村がエルウィンで働いた当時(1885年)とは約130年近い時代の差はあるが、いわば頭でっかちのインテリが全く0から、現場の仕事に飛び込み、四苦八苦するという点で、私は内村鑑三のエルゥイン時代と非常に似た経験をしたといえるのではないか。そのような経験をした者として、内村のエルウェイン時代の記述を読み解くことで彼の内面に触れながら、その後の信仰、ならびに人生において、どのような影響を残したのか理解する一助として考察したい。

 

(3)内村のエルウィン時代の先行研究

 内村は多くの自著や文章の中でこの時代について触れているが、最もまとまった記述が現われるのは『流竄録』(1894)である。これは日本人として最も早い時期に海外の障害者施設の中で働いた報告という点で貴重な歴史的価値を持っており、福祉や社会事業史の観点からも、既に多くの研究がなされている。上野(2012)は、当時のエルウィン白痴院の設立の経緯や実情、また内村と同じくキリスト者として渡米、アメリカの施設で働き後に「日本の知的障害者教育の父・福祉の父」と言われた石井亮一の体験との比較研究を行っている。また中村(2008)は、石井などとの比較とともに、1880年~1910年当時のアメリカにおける精神薄弱者施設とその生活の状況について研究を行っている。

これらの研究は内村のエルウィン時代を理解する上で大きな参考になった。しかし、内村の伝記や上記研究などが、主に内村の思想や制度に注目しているのに対し、筆者としては、むしろ『流竄録』の中に現れる、内村の率直な記述を通して彼の内面を考えたい。

 

(4)『流竄録』を読む

 内村のエルウィン時代については、『余はいかにして基督者になりしか』など複数の本の中で触れられているが、1894年に『国民之友』に発表された『流竄録』が最もまとまった記述であり、本論は主に『内村鑑三全集 3』(1982 岩波書店版)の同著をテキストとする。また内村の生涯については、『内村鑑三の生涯 日本的キリスト教の創造』(小原信 PHP)が非常にまとまっている。

 

①エルウィンで働くまで

 内村がエルウィンで働くに至った理由としては、『余は如何にして基督者となりしか』の以下の文章がしばしば引用される。

「予が病院勤務に入ったのはマルティン・ルターをエルフルト僧院においやったとやや同じ目的をもってであった、(中略)ただ余はそれを『来たるべき怒り』からの唯一の避難所であると考え、そこで余の肉を服従させ、内的純潔の状態に到達するように自身を訓練し、かくして天国を嗣ごうとしたためである」

 しかし実際は、長男祐之の自伝の記述の方が実態に近いように思われる。

「但し、この仕事を父は自ら選んだのではない。旅費だけを工面して留学した、日本の苦学生たる父のために、たまたま白痴院近くに住む知人が探してくれた偶然のポストだったのだ。それにもかかわらず、父はこの仕事に大きな興味と意義を見出し、後に、当時の経験を数冊の著書に記した」(4)

 今日でも福祉や介護の現場の仕事は、7Kといわれるように厳しい労働環境とその社会的必要性にも関わらず、社会的認知度は低い仕事であるといわざるを得ない。まだ福祉制度の創設期であった当時のアメリカでもその風潮はさらに強かっただろう。

 

『流竄録』P63でも以下のような率直な言葉がほとばしり出ている。

 「読者よ、一個の大和男子、殊に生来あまり外国人と快らざる日本青年が直に化して米国白痴院看護人と成りしを想像せよ、彼は朝夕是等下劣の米国人の糞尿の世話迄命ぜられたりと察せよ、彼は舌も碌々廻らざる彼国社会の廃棄物に「ジャップ」を以って呼ばれしと知れ、而して彼は院則に依りて、軟弱なる同胞に対する義務に依て、彼の宗教其物に依て、抵抗を全く禁止されしを想ひ見よ、余は自身も白痴にあらざる呼を疑ひたり、余は狂気せしが故に酔興にもかくのごとき業を選みしかと疑へり。」

 

 この文章は現代的には問題のある表現もあり、あまり引用されることはないようである。しかし一高の秀才で北大を主席で卒業、帝国官吏として働いていた内村にとっては、そのような仕事をすることになったわが身を嘆いたのも正直なところではないだろうか。また北大を卒業した同級生の多くが、官吏として、留学生として前途洋洋と社会に踏み出していったのと比べた嘆息もあったかもしれない。同時にキリスト教国たるアメリカでキリスト教信仰の全てを吸収しようとしていた彼の意気込みも、また嘘でないと思う。

 私自身、福祉施設で働くとき、せめて人のためになる仕事をしてみたいという気持ちと同時に、世間的には汚い辛いとされている仕事をすることへのしり込みもあった。

 この二つの記述は矛盾というよりも、挫折を抱えた青年内村の素直な気持ちの揺れ動きの表れではないだろうか。

 

②施設の中の子どもたち

P58からは、施設の中の子どもたちの様子が記されている。以下いくつか引用する。

 

 「一はクレーランス某なり、唖なり、歳十六にして其智覚は五歳の小児に及ばず、彼の感覚は甚だ鈍なり、唯一感能の鋭敏傍人を驚かすあり、すなわち彼の食欲なり、腹満ちて彼の顔貌常に喜樂あり、飯鐘響き渡りて人の食堂に向ふを見るや痴鈍なる彼に敏捷制すべからざるあり、彼は真正の製糞機械たるに過ぎず、彼を制するの道単に彼の職を減ずるにあるのみ。

 二はヲスカー某なり、(中略)、彼に唯一の道楽あり、即ち女子の衣服より留め針を盗み来たりて手の甲を刺し以って出血するを見て楽しむにあり、(中略)、しずかに背後に至り、急に彼女の襟元を攫み、直ちにその胸の留め針を奪ふなり、其の手際の迅速なる、被害者の声を挙げて援を乞ふ時は獲物は已に小強盗の掌中にあり、彼は院中の魔鬼なりき(後略)

 三はハリー某なり、可愛の一少年、(中略)彼は普通道徳を解するの力を有せざりき、即ち盗む事を以って悪事と信ずるを得ず、(中略)彼は反って盗むを以て悪事と見做す普通人間を疑ふて止まざりき。

 (中略)

 五はルーシー某なり、十六七歳肥満の女子、其面相ひゃ般若の化身と称するを以って最も適当ならん(中略)殊に彼女の全躰より一種異様の臭芬の発するあり(余は日本の味噌の腐敗する周期なりと覚えたり、白地患者に此臭気を発するもの甚だ多し(後略)」

 

 現代の人権感覚からすると、問題のある記述も多い。しかし、内村がこれを記述した時代において、まだ日本人の中で障害者の人権感覚の確立がなされていないことを考える必要があろう。

その上で感じられるのは、内村が施設で初めて障害児童に直に触れたときの心の動きが素直に現れていることを感じるのである。露骨な描写の行間から、彼が記すことのなかった心の動きも推測できるように思える。それは、驚きではないだろうか。

(私の経験から)

 私自身、初めて施設で働きだしたとき、正直なところ、入所者の方々を見ていて、内心動揺を覚えずにはいられなかった。自分で何もできず言葉をしゃべることもできない、表情を表すことなくずっとうずくまったまま、排泄物をオムツの中に垂れ流してしまう人。そのまま成長することもなく、おそらくこの先も何十年も施設の中で生き死んでいく人々。「なぜ、このような人たちがいるのだろうか。神はいるのだろうか」そんなことを思ったこともある。その時の気持ちをこれまで文章にしたことはないが、それを本当に正直に綴ったならば、内村の記述に近いものだったと思う。

 一見露骨とも思える内村の文章の行間に、彼の子どもたちに対する憐れみや、強い共感が隠されているのと思うのである。それは武士の家に生まれた内村が、文章で書き記すことは困難な感情だったのかもしれない。あるいは当時の生硬な文語体の日本語においては、そのような繊細な感情を表す文章表現がまだ存在しなかったのかもしれない。

 

③内村の施設での仕事

内村は施設の看護人の一人として、入所児22名を担当し、彼らの歯磨きや入浴、排泄、病気の介助、蚤虱の駆除などが日々の主な仕事だった。

 

P62)

「彼等は朝夕口を漱ぐの要と快とを知らず(彼等大概十五歳以上なり)、故に傍らに付き纏いて一々口中を検査せざるを得ず、彼らは糞尿を床に遺すも若し他人の注意を加ふるにあらざれば何日たりとも之に安ずるものなり、故に毎朝厳しく彼等の寝台を検めざるをべからず、彼等は無理に浴中に投ぜらるるにあらざれば何年間たちとも自己の垢に安ずるものなり、故に彼らを浴中に押し込み、ブラッシュをもて彼等を擦らざるべからず、(中略)、蚤虱の征伐に従事せざるべからず、看護人は彼等の奴隷なり(後略)」

 

 現代の障害者施設では、入浴リフト、電動車椅子などある程度の機械化が行われている。しかし日々の介助でほとんどが介護人の肉体労働にかかっていることは当時とあまり変わらないと思われる。武士の出であり、当時のトップレベルのインテリだった内村が、立派な髭と鋭い眼光のあの顔つきで、障害児たちのオムツを替えたり、入浴介助をしたりしていることを想像すると、私はつい微笑んでしまう。

現代の使い捨ての紙おむつもなく、当時は全て布オムツであった。毎日の排泄介助のあと、それらは全て手洗いし、干さなければならない。これは大変な労働であったと思われる。(昭和初期の日本の障害者施設の施設史を見ると、建物の外に満艦飾のように干されたオムツの写真が必ずある)

また生活介助は、あらゆる肉体労働を伴う。また寝たきりの方を起こし、車椅子に移し、入浴時は、バスチェアに移動させる。肢体不自由な方の移乗(トランスファーと呼ばれる)は、慣れるまでかなりのコツが必要だし、腰への負担から腰痛を起こすことも多い。一つ間違えば、すぐに事故や怪我をさせることにもつながる。生来身体を使った運動があまり得意ではなかったといわれる内村も、当初は苦労したのではないだろうか。同僚のアメリカ人に、叱られあるいは励まされながら介助技術を身に付けていったのかと思うと、不器用で失敗していたばかりの元介助人であった私としては親しみを覚える。残念ながら、そのような細かい記述を内村は残してはいないのだが。

朝早くから就寝の時間まで肉体的にも精神的にも大変な仕事であったと思う。しかしそのような肉体労働の中で、信仰について、聖書について考えさせられることも多かったのではないだろうか。

 

 例えば、入居者を風呂に入れる入浴介助。日々施設の中で単調な生活を送っている彼等にとって、お湯に入るのは最大の娯楽といってもいい。入居者と共に介護者も全裸になって(内村は褌をして解除したのだろうか?残念ながら記述はない)身体を洗う。腰を落とし、時には排泄物にまみれた足を、手にとって丁寧に洗う。彼等が心底気持ちよさそうに喜ぶ顔を見ながら、内村は聖書のヨハネ福音書の言葉をかみ締めていたのではないだろうか。

 

 「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。(中略)

「わたしのしていることは、今あなたがたには分かるまいが、後でわかるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないようにしてください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

(中略)

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたもするようにと、模範をしめしたのである。」(ヨハネ13:7~)

 

 私は入浴介助をするときいつもそれを思い出したし、内村もそうであったのではないかと確信している。キリスト教において隣人愛、他者に仕えると言う言葉はよく使われる。しかしそれを身をもって体験した人は案外少ないのではないだろうか。少なくとも内村はそれをわが身で体験した人間ではあった。

 また重要だと思われるのは、内村の生涯において実際に肉体労働に従事したのは、エルウィンの8ヶ月の期間だけではないかと思われることである。(札幌脳学校時代も農作業程度は行ったであろうが)

入居者と常に身体を接し、介助するというこの経験はその後の内村の思想や信仰の血となり骨となったのではないだろうか。

 

     障害者施設で働くことの中の喜び

しかし、社会からは暗く辛い印象ばかりがもたれる施設においても、同時にそこには人間が生活し生きる中の喜びも確実に存在する。

68、内村はクリスマスの日のことを記している。

 

「慈善院に於ける最も幸せなる時は「キリスマス」なり、是れ歓喜と涙の時節なり、幾百の貧児は分外の贈物を夢想しつつあり、而して米国の社会派彼等を思ふ善人に乏しからざるなり、告げず問はずして贈り物は輸送し来るなり、一婦人は書を寄せて曰ふ、

 

小婦は一児を有せり、年の初めよりキリスマス祭に於いて彼に晴衣を着せんが為に些少の金を醵しつつありし、然るに神は三週間前に彼を取り去り賜へり、我児は青山の下に眠りぬ、醵金は今は彼に要なし、故に今之を閣下(院長)に送る、願くは閣下の保護の下にある父無き、母無き小児に贈れ、X婦より」

と封内に二十ドルの為替あり、全院之が為に泣く、其れ一例たるに過ず、米人亦た君子の快楽を有するにあり。」

 

其れ一例たるに過ず、とあるが。実にその通りで、現場で働くことは本当に、人の生死から悲喜こもごもまで普通の社会では目にすることのできないもの、目をそむけてしまうものを体験することになる。その中で内村は、聖書にある隣人愛の姿を具体的に経験し、見たのだろう。

 

⑤まとめ

内村がエルウィンで働いた機関は約8ヶ月間に過ぎない。しかしその間彼は、文字通り汚れと汗にまみれながら、社会から排除された「最も小さくされた人々」と共に彼等のために身体を使って働いた。それは彼自身にとって本当に大きな体験であったと思われる。

 そして、それは「言葉だけでなく身体と態度をもって具体的に他者のためにつくす」ということを知る最もよい学びとなったのではないだろうか。そして、外部からは「暗い、汚い」あるいは「聖人のような人でなければできない」と厄介視と特別視されがちな施設の中にも、毎日の生活があり、日々悲しみと共に確かに喜びやおかしみがあり、人間が生きているという現場を身をもって体験したのだろう。

『余は如何にして』の記述によると、内村はこの時期、エレミヤ記とパウロ書簡を繰り返し読んでいたという。日々の超形而下の肉体労働の日々と、聖書の中の信仰の言葉、それは相反するものでありながら、また分かちがたく彼の信仰に刻印されたと思われる。

 あるいは、ここから福祉や介護の現実とメディアという捉え方という現代における問題を取り上げることも可能あ。内村の文章には、未だにメディアでは報道のされ方ない現実を見つめる視点がある。

現代多くのテレビドキュメンタリーや新聞報道、あるいはノンフィクション、研究書などを読んだとき、私はいつもそこに違和感を覚える。それは、介護をハートウォーミングに肯定的に捉えるにせよ、そのシビアさを伝えるにせよ、最も汚いものに触れずにきれいごとやステレオタイプで捉えようとする点にある。なぜ福祉をテーマにするとき、テレビの画面には机で微笑み合ったり、車椅子をゆっくりおす障害者と介助者の姿しか映し出されないのだろうか。重い障害を持ち、初めて見たときに思わず動揺してしまうような容貌の人たちを映し出さないのだろうか、あるいは排泄や入浴など、日々のルーチンワークの中で、一番時間を裂かれ最も重きを占める仕事を映し出さないのだろうか。そして現場において最も重要な「臭い」が伝わってくるような文章や映像ではないのだろうか?

 そこには、やはり汚れや穢れをなるべく目にしたくないという意識が働いているだろう。そして、それが現代においても介護や福祉を、暗い、遠いものにしている遠因があるのではないか?

しかし、内村にはそのようなためらいはなかったし、己の驚きや嫌悪も素直に言葉にし、見たものを赤裸々に描きだしているのである。そこに内村の率直な性格と、後にライターとして世にしられることになる原点や発露を見ることもできるといえ、その意味でも『流竄録』の記述は貴重であると言えよう。

 

(4)その後の内村とエルウィンの関わり

 内村はこの後、アマースト大学に入学し、勉学の道に入るが、その後4年間、時々エルウィンの施設を訪ね交流を保っていたことが伺える。始めてみたとき「其面相は般若の化身と称するを以って最も適当ならん」と記述したルーシーとも再会したようだ。

P58)

「余は偶々、新英州(ニューイングランド)より帰る、ルーシーは余を記憶せり、彼女は余を洗濯室の階下に擁して曰ふ「内村君よ余は君を思ふ久し、余は君に向て数回の書状を発せしと思ふ、君何故に余に返辞を賜はざりしや」と、余は曰ふ「ルーシーよ、余の不注意を免せよ、余は汝の厚意を酬ゆる事を怠らざるべし」と、ルーシー得々たり、報復絶倒の内、亦無量の涙なき能はず」

 

また有名な絶食事件で親しくなったダニーとも再会している。

 

P65)

「余と彼は親友(注:ダニー)となりぬ、四年を経て余が日本に向て出立せんとするの前、有余は彼に会せり、余の告別の語に対し彼の心情如何に濃かなりしよ、(後略)」

 

内村はこの後、帰国し以後、教師、信仰者、ライターとして生涯を送っていくことになる。障害者施設で働くことは生涯において二度となかった。彼等と出会うことは二度となかったと思われる。(手紙のやりとりなどはあったのだろうか?今後調べたい)

おそらく彼等は、ほぼ全員が生涯を施設の中で終えたと思われる、その記録は残ってはいない。しかし内村は、その後の人生において、教会で説教をするときも、文章を書くときも、いつも心の中のどこかには、エルウィンで会い介護をした「この世で最も小さくされた人たち」の姿があったのではないだろうか。そして、そのことが、ともすれば武士という出身階級やインテリ、強く妥協のない信仰一途の人内村鑑三の中の人間としての柔らかさや優しさを形作ったのではないかと私は推測するのである。

 伝記が明らかにしているように、内村は自己を曲げない強固な一面が強調されながらも、時々で意外なバランス感覚や人としての柔らかな情感を示している。弟子だった斉藤宗次郎が徴兵を拒否するとき、それを止めようとしたこと、あるいは長女ノブに生涯示し続けた愛情など。そのようなものは、エルウィンでの体験や、不敬事件を通じて味わった孤立無援の状態など、自らに骨身にしみた中から現れたものなのではないだろうか。

 

(5)   エルウィン体験が内村家にもたらしたもの

このエルウィン体験は、内村本人を超えて内村家の将来にも影響を与えることとなった。後に東京大学医学部長となり日本の精神医学の研究者として活躍した長男祐之は自著の中で、「何ゆえに、専門として精神医学を選んだか」という問いに二つの理由を挙げている。(ちなみに内村祐之は、東大野球部創設期の名投手として知られ、後にプロ野球コミッショナーに就任してたりする)

一つは幼少期祖母(内村の母)が精神病を発病したこと。その祖母を施設に入院させたことをきっかけに、内村が兄弟から「親殺し」と言われ、生涯仲たがいをしたことを書いている。小原信の伝記(1993)によると、内村は、自らがエルウィンで体験したことから施設に預ける事に抵抗はもっていなかったが、当時の日本において親を施設に入れることは親不孝と見做されるものであり、この意識のずれは内村家にとって大きな不幸であったといえるだろう。

 しかし祐之はもう一つ、幼少時の記憶として父(鑑三)が小学校で講演した記憶を記述している、

「それは精神薄弱児に関するものであった。父がなぜ、小学校などで、このような話をしたのか、よくわからないが、とにかく、少年の私にさえ、おもしろかったという印象を今に残しているところを見ると、学校生活のことを、おもしろく、わかりやすく、話したものと思われる。だが学校と言っても、それは、父がアメリカで苦学中、アルバイトの看護人として働いていた白痴院のことで、正確の名はペンシルヴァニア州立訓練学校(training school)と言い、その時期は1884年(明治17年)12月から7ヶ月間のことであった(中略)この時から四十余年を経た1927年に、私は、フィラデルフィア近郊、エルウィンという村にある、この白痴院を訪れ、当時の院長であり、かつ父の恩人でもあったケルリンという人の墓に詣でた。父の名は、この学校で、まだ記憶されており、父が自ら測量して院内に作った道には、父を記念して「内村ロード」の名が付けられていた(後略)」(4)

 

祐之は1897年生まれであるから、おそらく1900年代初期のことだと思われる。1885年から20年以上たっても、エルウィンの記憶と経験は内村にとって強烈で、懐かしく、楽しさをもって語られる体験だったことが伺える。

 

(5)その後の無教会主義

内村の死後、彼の無教会主義は、塚本虎二、矢内原忠雄を初めとして、日本を代表する知識人・インテリによって担われていくことになった。ある時期には、それ自体が無教会の魅力となり憧れや広がりをもたらしたかもしれない。しかし、彼らには内村のエルウィン時代のように、社会の中で低く見られる現場の一労働者として働いた経験はない。そのことが後の無教会主義そのものの「臭い」を決定付けたように私には思える。

内村没後80年以上がたつ、小原信は(1992)、内村の伝記中、無教会の可能性として「教会からこぼれてきた者が結果として「無教会」に拾われ、救われるという道である」(P496)と述べている。しかし小原の伝記が書かれてからも20年、現代において無教会はどのような存在となっただろうか。無教会については、その実数は把握が難しいが高齢化が著しいといわれる日本のキリスト教界の中でも、際立ってそれが強いのではないだろうか。私自身、かって訪れた教会で、一度だけ無教会の方の聖書研究に参加させていただいた経験がある。聖書に対する熱心な研究と読み込み自体は敬服に値するものだと感じた。しかし、私自身の周りで、同年代の無教会主義のキリスト者に会ったことは一度もないし、その集いに参加したことがある人すらいない。無教会主義自体に、将来性はあるのだろうかと心配にならざるを得ない。

 

(6)まとめとして

本論においては、主としてエルウィン時代の『流竄録』に注目してきた。あまりに内村の一時期の限られた記述に絞り、私自身の経験から主観的な読み込みをしてきたことは自覚している。果たして個人的な体験(内村と私の)からその人の思想を、解き明かすことにどこまで普遍性があるのかという懸念はある。

しかし、内村鑑三という人間が信仰者、思想家として語られるとき、特に無教会主義の方の著作には、彼の残したテキストを何かの託宣かのようにあがめ奉り読むような姿勢にはどうしても違和感を感じる。そして、それが逆に内村の現代的における理解やその生き方の理解を遠いものにしているようにも感じられる。だからこそ、私は思い切って主観的な読みしてみた。その中で、時代も思想も信仰者としてもあまりにかけ離れた内村鑑三を私のものとして理解するための一つの切り口を得ることができたように思う。

そもそも内村は、仕事を辞め、離婚し、見通しもないままアメリカにわたり、日本人として最も早い時期に現地の障害者施設で働き、帰国すれば不敬事件で世論と国家に苦渋をなめさせられ、次々と仕事を変わり、足尾銅山事件の田中正造と関わり、あるい再臨運動を始めるなど、行き詰まりや停滞の中、常に行動し動きまわることで、自らの信仰と思想と不思議な楽天主義を育くみ、それをもって未来を切り開いてきた人物であったといえるかもしれない。

そのダイナミズムと現場主義は、現在の無教会主義に受け継がれているだろうか、あるいは日本のプロテスタント教会に受け継がれているだろうか?それがいまや教会の中だけで細々と守ろうとするプロテスタント信仰の頽勢にもつながるといえるのかもしれない。

現在の日本でキリスト教の頽勢は著しい。また日本基督教団の中でも社会と関わるか、信仰に傾注するかの対立は相変わらず続いている。しかし、この二者を対立するものとして捉えること自体、問題の立て方の誤りなのではないか。教会の中の信仰を堅持すると同時に、教会や基督者が生きる社会の中に身を投じて動き回ること、その過程で経験し身につけたことは、巡り巡って教会と信仰をよりたくましいものとしてくれるだろう。内村鑑三から学ぶべきは、その点ではないかと私は考える。

また、内村鑑三の唱えた無教会主義は、彼が繰り返し述べているように、教会制度の全否定ではない。むしろ、教会制度に疑問を抱かずキリスト者としてあり続けることなく、個人個人が、キリスト者としての意識をもち自覚的に生きることにあると私は、総論としては捉えている。そして、その彼の思想自体が、現場と行動を通して傷を追いながら築き上げてきたものであった。その意味で、「無教会主義」という言葉自体が、すでに自己撞着をはらんでいるのかもしれない。

 「無教会主義」的な共同体は、たしかに時代的役割を終えつつあるのかもしれない。しかし内村の唱えた、「無教会」的な彼の思想と生涯自体は、今だに色あせないし、むしろ軸を見失い混迷を深める現代においてこそ、捉え直される必要があるのではないだろうか。    

                                      (以上)

 

(脚注)

(1)小原信『内村鑑三の生涯』(1992) PHP

(2)岩野祐介『無教会としての教会 内村鑑三における「個人・信仰共同体・社会」(2013教文館

(3)内村の文章中の用語については、現代的の人権における視点からは問題のある用語も多いが、当時の社会意識を知るための歴史的著述であることを鑑み、原則として資料の用語をそのまま用いる。

(4)内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(1969みすず書房

(参考・引用文献)

内村鑑三内村鑑三全集 3 流竄録』(1982岩波書店

小原信『内村鑑三の生涯』(1992) PHP

岩野祐介『無教会としての教会 内村鑑三における「個人・信仰共同体・社会」(教文館

上野武治『内村鑑三のエルウィン知的障害児学校における「看護人」体験の今日的意義』

     北西学園大学社会福祉学部北星論集第49号(20123月)

中村満紀男『1880-1910年代アメリカ合衆国における精神薄弱者施設と精神薄弱児の生活の状況

       内村鑑三石井亮一・川田貞治郎の訪問期を中心に』 

     社会事業史研究第35号(20085月刊)

内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(1969みすず書房

 

 

 

 

 

 

 

 

『静かなる細き声』(山本七平)  あとがきにかえて、から

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

 
(『静かなる細き声』 P171~182  あとがきにかえて   山本良樹(ドロレス註:山本七平の長男)

 父の生涯について考えていると、私の脳裏には旧約聖書に記された一人の預言者 -故国イスラエルに流布した異教神・バアルの預言者達、
崇拝者達と戦い。その戦いの故に、バアル信仰に淫したイスラエルの王からも生命を狙われ、荒野に一人落ちのびてゆく、孤高の預言者-エリヤの
姿が思い浮かぶ。
 愛する故国の民を、外来のバアル信仰による「呪縛」から、救い出そうとして敗れ、「主よ、もう(故国の為の戦いは)たくさんです。
私の命を取ってください。私は先祖に勝るものではありませんっ!!」と叫ぶエリヤ。
 食べる者も、着る物もなく、-まるで敗残の日本兵のように・・・、フィリピンのジャングルをさまよった、若き日の私の父のように-荒野
を彷徨するエリヤ。

(中略)
 エリヤの心には、そうした「死の恐怖」と共に、故国が「外来思想=異教の神」によって蝕まれ、異教と正当なヤハウェー信仰との「習合」
によって、自滅してゆくという「悲嘆」があった。
 四十日四十夜の彷徨の末、エリヤは「神の山」ホレブに到る。そこで、イスラエルの正統なる神・ヤハウェーの声を聴く。
ホレブの山の洞穴に、隠れ潜んでいるエリヤに・・・

(中略)
 「はじめてその人に会ったのがいつごろのことか、はっきりしない、記憶の混濁かも知れぬが、五年たっても十年たっても、その人は
同じ風貌だったように思われる。
 その人が来訪されると、家の中のどこにいてもすぐそれが分かった。その人は非常に耳が遠く、そのため両親が、その人の耳許で大声をだすからで
あった。了解するとその人はただ静かにうなずき、低い声で答えていた。両親の高い大声の間のその人の低い声は、本当に『静かなる細き声』と
いう感じがした」(本書・「長崎先生」)

 「静かなる細き声」「静かにささやく・・・神の声」
父の最後の本である本書は、そうした「静かに、細く、ささやく声」によって彫琢された、父の、少年時代の軌跡である。
分厚いカーテンに覆われた教会堂の窓から沁み込んでくる一条の細い陽光。「道標」に始まる一編一編は、それ一つ一つが、限り無く
「静かなる細き声」に添うように描かれ、余分な物は一切無く、静かで、張りつめ、和やかでありながら、厳しい。また一つ一つが詩情に
満ちた信仰の詩でありながら、その奥に峻烈な「箴言」の厳格さを秘めている。
 贅肉を削ぎ落とされ、これ以上はない程、小さな声で語られた書物には、ことさらな分析やしたり顔の批評は必要あるまい。

 (中略)

 最後に、父のために記すが、あの孤独な探索、報われなかったかも知れぬ「沈黙の二十年」の中で、一人未だに「荒野」にある
人のごとく歴史の古層を穿ち進んでゆく間、父の耳元でささやき続けた「声」は、あのホレブの山でエリヤが聴いたような、あの長崎
先生の「声」のような、「静かなる細き声」であったに違いない。孤独な探索行、いわば「伝統を日に新たに救い出す」作業の途次で、
「隠れたる、細き声の神」キリストの弟子である事と、日本人である事は、見事に調和し合っていたであろう。
 そして何より「救われた」個人、あのフィリピンの「戦場」のような「地獄」から、自分以上の存在によって「救い出された」と信じ得る
「個人」のみが、自分以上に巨大な「歴史」というものに手を触れ、その「混迷」の中から、自国の伝統を、日本人の姿を、「日に新たに救い出す」
事ができたはずなのである。
 父にとって「救い」とは、あの「歴史」の中に建てられた小さな道標、「静かに立ちつくす」「始めであり、終わり」であった者、
聖書の中の「静かなる細き声」、イエスご自身であったに他ならない。


(『静かなる細き声』 P171~P182)
**************************************

数回にわたり同著を引用、紹介してきた。
なるべくなら引用ではなく、私自身の言葉で論評しようと思ったが、良樹氏の書くように「ことさらな分析やしたり顔の批評は必要あるまい」
であり、ほとんどをそのまま引用した。

私がこの本に出会ったのは、数年前、ある書店のキリスト教書コーナーだったように思う。
山本七平は数冊読んだことはあったが、このような著書は知らなかったし、最晩年の最後の著書ということで興味を持ったのだと思う。
以来、時々読み返している。
この本を読まなければキリスト教の洗礼は受けることはなかったかもしれない。

その意味で、この本は私にとって、最良の「キリスト教入門書」いや、「キリスト教信仰の入門書」

 

であったと思う。

そして、同時に、日本人論、日本論、に関するきわめて優れた本であるともいえると、思う。


その割には「空気の研究」などに隠れてほとんど知られていないこの本を紹介したくて長々と引用を重ねた。
まだまだ引用したい部分はあるが、同著の紹介についてはこれで終わりとしたい。








『静かなる細き声』から   奇跡

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

『静かなる細き声』  奇跡 (p57~59)

『(前略)』

人間にはみな先入観がありまた人間観・社会観がある。そして、どこかで、「自分の観」という枠外にいる人間はいないと信じ込んでいる。
そういう人に本当のことを言うと、相手はそれを頭から嘘だと信じ込む。いまの問題は小さな問題だが、もっと大きな問題もある。
たとえば「現代人には神の存在など信じている人間がいるはずがない」と堅く信じている人がいる。この人の前で、「私は神を信ずる」
といえば、それはその人にとっては嘘であり、何と言おうと「嘘に決まっている」ということとなる。
 私が「引っ込み思案」とか「積極性に欠ける」とか言われたのも、おそらくは、自己の周囲のクリスチャンの小世界の外に、
それとは全く異質の大きな世界があることを子供心にもうすうす知っていて、それに触れるのが怖かったからだと思う。
 一歩そこへ踏み出せば、こちらが本当のことを言っても、頭から「そんなはずはない」「・・・はずはない」「・・・はずはない」
が連発され、すべてが否定されてしまいそうな気がしたからだと思う。
 私はその社会と接触するのはいやだった。そしてできることなら、そういった社会にタッチしないでいたかった。だが私に時代には
軍隊があり、否応なくそこへ入れられる。それはおそらく全く異質の世界であり、私の真実などはすべて笑殺されそうなことは、なんとなく
予感できた。
 そしてそれは、まさに予想通りの世界だった。日本軍についてはすでに多くのことが書かれているが、私の戸惑いはおそらく、多くの
ひととは別だったのであろう。そしてこれは幹部候補生になり見習い士官になり将校になっても同じだった。
 第一、冗談もシャレもわからなかった。献酬という酒席の作法も知らなかった。酒は飲んだことがない、麻雀・花札は知らない、競馬は
言ったことがない、芸者と口をきいたことはない、遊郭にいったことはない等々・・・。

 そしてそれらの人びとの応答は結局、「そんな人間がいるはずはない」ということであった。まことに不思議といえば不思議だた、
その人間がいま目の前にいるのに、人はそういう人間がいることを信じないのである。
 そして信じないがゆえに、さまざまな解釈が生まれ、その解釈が一つの断定となり、その断定で相手を定義し、その定義によって理解
し得たと信じようとする。
 「オイ山本、変にカタブツぶるな。カタブツぶって楽な経理室にまわしてもらおってんだろう。フン、酒は飲みません、花札は知りません、
芸者と口を利いたこともありませんか、見えすいたゴマすりをならべやがって・・・」
といったことになる。そうなった場合、いつも私は、それに対してどう応答してよいかわからなかった。
 もっとも、人にどう思われようと一向にかまわない、ということは言える。しかし、「そう思いたいやつには思わしておけ」
では、伝道はおろか、日常のコミュニケーションさえ成り立たなくなる。
 ではどうすればよいのか。いくら考えても方法はなかった。私は内心でつぶやいた。
 「こりゃ、奇跡でも起こらにゃ不可能だな」
 その瞬間思わずハッとした。奇跡という言葉が否応なく福音書の奇跡を思い出させたからである。
 それまで私は、奇跡を本気で考えたことはなかった。いや、なぜ福音書にこんな奇跡の記述があるのかも、考えたことはなかった。
 それはなんとなく触れたくない問題であり、まことに無責任にも「奇跡物語がなければ、聖書理解も伝道もずっと簡単だろうな」
といったことまで考えていた。
 だが、人は、私という平凡な一人間が目の前にいるのに、それをそのままに見るこさえできない。そしてどう考えても「そのままに見ること」
は不可能で、それを可能にするには奇跡しかないと、いま、私自身がそう信じていたのである。
 
 では目の前にイエスがおられたら、私に見えるであろうか。そのままを見ればよいと言っても、それはおそらく奇跡なくしては不可能
である。いや福音書を読んでイエスが見えるであろうか。いままでのような読み方をやめて、奇跡によってイエスを見た人とともにそれを体験しているという
読み方をすれば、本当にイエスが見えてくるかもしれない。同時に奇跡とは何かがわかるかもしれない。私はそう思った。

 これが軍隊時代に与えられた最大の賜物であった。』

『静かなる細き声』 (P57~59)

『静かなる細き声』から  道標

『静かな細き声』 P13~

私は時々、至光社の武市さんから聞いたギリシア正教の司祭の言葉を思い出し、今昔を比較して、ある種の疑問を感ずる。
それは、ギリシア正教は伝道もせず社会に進出もせず、孤立していったい何をしているのかという問いに答えた言葉である、
「道しるべです」と。
 言われてみれば西欧の道標は十字架であった。
 それは動かずに立ち尽くすことに意味があった。人びとが道標に向かって群れをなして歩いてくることもあるであろうし、
去っていくこともあるであろう。頭を下げることもあろうし、石を投げることもあろう。
 また見向きもせず横道にそれて行くこともあろう。だが道標は動いてはならない。民衆の中に入り、いっしょに動き
だしたら、それはもう道標ではなく担ぎまわられるプラカードであり”時代”の使い捨ての用具にすぎない。
 主が道なら、その言葉を記した書を手に持ち、それを示しつつ道標として立っていればよい。いまの言葉いまの体制が
過ぎ去っても、主の言葉は過ぎ去ることはない・・・。
 その司祭はそういう意味のことをいった。武市さんは非常に感銘を受けたといわれた。
人がその言葉を永遠と信じそれに仕えているなら、それはできる。そうでなければ、それはできない。そう思って
教会史を読むと、そこには常に、外部への積極的伝道の「芯」に、この道標という自覚があったことに気づく。

『静かなる細き声』から   ~平和ならしむる者~

静かなる細き声

静かなる細き声

引き続き同著を紹介したいが一部引用が難しいので、ほぼ前編を引用する。

 


山本七平『静かなる細き声』(文藝春秋) P66~P69 から )

平和ならしむる者

 その人の名は知らない。また生涯二度とその人に会うこともないであろう。またその人がどういう人なのか、簡単に言えば善人なのか
悪人なのか私は知らない。
 しかしその人のその瞬間の顔を私は終生忘れ得ない。だがそれを聞いたらその人は驚くかもしれない。というのは、その人は、そのときのことを
もう忘れているかもしれないからである。
 それは昭和20年8月28日であった。当時私は、ルソン島北端から50キロほど南へ下がった地点の、東海岸の断崖絶壁の近くにいた。敗北に敗北を
重ね、追われ追われて逃げ場のない人跡未踏のジャングルに追い詰められていた。背後は海、そこまで歩いて二日の距離であった。
 食料はすでになく、マラリア、栄養失調、アメーバ赤痢、負傷が重なり、生き残った32名のうち、歩けるものは十数人。付近のジャングルは腐乱死体
の山であった。
 8月15日の終戦はもちろん知らない。ただジャングルの前端に迫っていたアメリカ軍の動きがなんとなく鈍くなったことになにやら事態の変化が感じられていた、といってもフィリピン人ゲリラのわれわれに対する討伐は少しも衰えていなかった。

8月27日は、アメリカ軍将校に付き添われた旅団副官が前哨に来て、停戦命令がでたから、所在のアメリカ軍に連絡してその指示をうけよと言い
日時・場所を指示して立ち去った。
多少とも英語がわかるのは私だけであった。そこで私が連絡に行くことになった。

ジャングルの前端からこの部落までは1千メートルぐらいである。私は自分の生涯において、この千メートルを歩いたときぐらい、強い恐怖を感じたことはない。名目的には
平和になった、しかし自分の生命の安全は保障されていないという状態。こういう状態ほど不気味な状態はない。
(中略)
いつどこから弾丸が飛んできて射殺されるかわからない。といって、戦闘隊形をとるわけにもいかないという、非常に奇妙な状態に置かれるからである。

私は軍刀を背に負い、手榴弾二発を帯皮に下げ、銃を持ち、阿部という上等兵を一人つれて、ジャングルを出た。そして異常な緊張状態の中を
やっと、ダラヤの村長の家についた。
 米軍の将校は来ていなかった。村全体が険悪な雰囲気。「まてよ、ワナじゃないのか。呼び出してなぶり殺しにするつもりではないのか」
そんな疑念がわく。そしてそう思うと、全てがそう見えてくる。
 私は村長を人質にし、阿部上等兵にいざというときはどう応戦すべきかを指示して、待った。どれだけ待っていたのかわからない。
案外短い時間だったのかもしれない。だが異常な緊張は、一分を一時間にも感じさせる。

 やがてアメリカ軍の将校が来た。彼は完璧な丸腰で、たった一人で、フィリピン人からもらった水牛の角笛を楽しそうに吹きながら
やってきた。まどからその姿が見えた瞬間、今度は、どう対応したらいいのか戸惑った。「こんにちは」と言うわけにもいかず、おじぎも、握手も
奇妙である。何しろ、今の今まで撃ち合っていた相手である。その相手が、勝者としてどういう態度に出てくるのか、皆目わからないから・・・。
 彼はつかつかと入ってきた。二人は向き合った。彼は私の方をまっすぐに見て、きわめて簡単に言った。
「私は軍医だ。歩けない重病人は何人いるか。それを無事に収容するには、われわれはどうすればよいか」-
 その瞬間、全身の力が抜けた。一瞬にしてすべてが平和になった。二人はきわめて事務的に、日本軍による病人担送終結地点と、終結日時と、その地点に進出
するアメリカ軍兵員輸送車の数と日時を打ち合わせた。
 終わると彼は、きわめて事務的にもう一度念を押して去った。それだけであった。だがこの短い時間に、私の方に大きな心的転回があった。すべてが
平和になったのである。


イエスは「さいわいなるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称えられん」と言われた。この言葉はこの言葉の通りに受け取るべきであろう。
イエスは「平和ならしむる者」と言われたのであって、「平和、平和と大声で叫ぶ者」と言われたのでない。平和という単語を口にするかしないかは
、「平和ならしむる」ことに無関係である。
 その軍医は「歩けない重病人は何人いるか。それを無事に収容するには、われわれはどうすればよいか」といっただけで、「平和」という単語を口に
したわけではない。
 だがその言葉が出た瞬間、そこに平和は訪れ、その人は「平和ならしむる者」となった。そしてその瞬間を人は忘れない。
(中略)
 それは非常に具体的な言葉であり、すぐに行動を要請する言葉であった。だが、その言葉によって、人の心の中に平和が訪れ、平和が来たのである。
 昨日までの敵に、「歩けない重病人は・・・」と言ったこの言葉、この言葉こそ「生ける言葉」であり、それは百万言の平和論にまさる平和をもたらす。
そして余計なことを言わず、それだけを口にできる人が、「平和ならしむるもの」なのであろう。」

山本七平『静かなる細き声』(文藝春秋) P66~P69 )

「静かなる細き声」  ~山本七平の信仰~

 

山本七平の思想と著書はいまだに古びてはいない、ように思われる。さすがに彼のユダヤ人論は、このボーダーレスの時代には古臭い気がしないでもないが、「日本人は空気と安全はただ、だと思っている」彼の言葉が崩壊したのが、まさに2011年だったのだといえる。そして、「空気の研究」は戦争や官僚、今回の震災でも何度も引用されている。その議論については、何度も様々な人が様々なところで論じているので、立ち入ることは省略する。しかし、この本は多分、日本がある限り引用され続けると思う。

ところで私は個人的に、彼の言論よりも、なぜ彼があの時代に、あそこまで突き放した目で日本の社会を見て、時代を超えて説得力を持つ日本人論を構築することができたのかに興味を持っている。

その原点は、彼が「生まれながらのキリスト教徒」にあるように思えてならない。そして、その原点がこの本に書かれている。

本書は、最晩年「信徒の友」に連載されたエッセイをまとめたもの。あの冷たいまでに冷静な山本のほかの本とは違い、彼が自身の生い立ちや信仰について、とても静かで美しい文章が綴られている。。

 

山本は、両親はキリスト教、生まれながらのクリスチャンだった。子供のころ、新聞を読むなら聖書を読めという家庭で育ち、雑誌やラジオも聞いたことがない。まあ、当時でも、超浮世離れした青年は、そんな環境の中、穏やかで幸せな少年時代をすごす。しかし、太平洋戦争が始まり、彼は、青山学院の学生時代、学徒動員で、いきなり軍隊に放り込まれることになる。

山本は、入営の少し前、軍隊経験のある恩師の下に挨拶にいったとき、こんな言葉を送られたという。

軍隊にいくと、いわゆるインテリというものが、いかに少数・例外者かが、本当によくわかります。山本君のような家庭に育った人は、統計や理屈ではそれがわかっても、それがどういうことなのか、本当はよくわかっていないものです。まして、そのインテリの中のクリスチャンが、どれほどの少数者・例外者かを身をもって実感できるのが軍隊です。これは得がたい経験ですから、その実態をできる限り正確にみていらっしゃい」

そして、それは山本にとって、想像を絶する経験だった。それは会話すら成立しない世界、コミュニケーションの隔絶した世界だった、と彼は書いている。

「しばしば不思議がられることだが、私にはいわゆる「戦友」はいない。(中略)同じ釜の飯を食おうと、「生死を共に」しようと、周囲の人はす べて別世界の住人だった。(中略)部下や周囲の人にできる限りの親切はしたかもしれない。人の命を助けこともあったのかもしれない。しかし、誰に対して も、完全に心を許したことはなかった。どこかで絶えず、何かを用心し、相手との間に、常に一線を画していた」

ちなみに、山本は平穏な軍隊生活をすごしたわけではない。稲垣武著(元読売新聞記者)の「怒りをおさえし者 「評伝 山本七平」」によると、彼は、フィリピンレイテの激戦地に送り込まれ、部隊が全滅し、ただ数人生き残るという文字通り屍大河を成す激戦地を生き延びる経験をしている。いわば太平洋戦争中におけるもっとも過酷な戦場を生き延びている。

多くの元兵士が、それこそ90代になっても、戦友会の集まりで、「戦友」としてのアイデンティティーに強い誇りと記憶を

持っている中で、この山本の感覚は、非常に興味深い。

戦中を生き延びた山本は、復員し、戦後は、キリスト教関係の出版業に関わりながら、”沈黙の20年”と自ら語る時代をすごす。そこで、彼が興味を持ったのは、なぜ日本が「現人神」という思想によって染め上げられたかということだった。

そこで、彼は徳川時代尊王思想家の、石田梅岩、鈴木正三などの研究に、ただ一人没頭していった。

敗戦で、時代はアメリカ民主主義礼賛の時代に、そんな本を読んでいるのは頭がおかしいのか、右翼なのかと、人に首を傾げられた、と山本は書いている。

そして次のように続けている。

「これは私にとっては、別に新規なことではなかった。戦争中に聖書学の本を読んでいれば、みな少将頭 がおかしいと思われrのが普通だったからである。それはいつしか私に、黙って、自分に関心のあることだけに関心を持つという習性をつけてくれた。世の中の ことはどうでもよい。世間にどんな思想が流行していようと、それは関係がない。私が関心を持っていることに、世の中もともに関心を持ってほしいとも思わな い。まして私がやっていることを認めてくれとか、評価してくれとかいった気持ちはまったくない。(中略)すべては用いられる時が来れば用いられるのだろ う。人は黙ってその準備をしていればよいのであろう。」

20年の時を経て、山本は「日本人とユダヤ人」で世に出る。そして、以来論壇のスターとなった。しかし、日本を恐ろしく突き放して、その視点から見えてくるものを論じる彼の原点は、すべてここに現れているように私は思える。それが、本書のタイトルである「静かなる細き声」なのだろう。

なお、本書には、山本の子息、良樹氏のあとがきがおさめられている。

 十代の終わり頃、父に尋ねた事がある。

「父上、戦場に『神』はいたかい」

「いた」とのみ、父は答えた。

日本にとってキリスト教徒は1%未満。実際にはおそらく0.3、4%なのだろう。

少数者であり、キリスト教徒として生きることは、社会的に何のメリットも(一方で今はデメリットもない)その日本において、キリスト教徒として生きることは何がしかの自覚なり、ものの見方、生き方を問われるということだ、と佐藤優氏は語っているし、私も同意する。

おそらく、そのような自覚が、時に時代を経て、山本氏や佐藤氏のような存在を生み出しているように私には思える。

どうも、日本で「個」としてものを考えるというのは、それぐらい困難で、マレなことなのではないだろうか?

この本は、山本七平を語る人も、キリスト教を信じる人にもそれほど読まれてはいない気がして、それが少々残念なので、もう少し内容を紹介してみたい。