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『静かなる細き声』から  道標

『静かな細き声』 P13~

私は時々、至光社の武市さんから聞いたギリシア正教の司祭の言葉を思い出し、今昔を比較して、ある種の疑問を感ずる。
それは、ギリシア正教は伝道もせず社会に進出もせず、孤立していったい何をしているのかという問いに答えた言葉である、
「道しるべです」と。
 言われてみれば西欧の道標は十字架であった。
 それは動かずに立ち尽くすことに意味があった。人びとが道標に向かって群れをなして歩いてくることもあるであろうし、
去っていくこともあるであろう。頭を下げることもあろうし、石を投げることもあろう。
 また見向きもせず横道にそれて行くこともあろう。だが道標は動いてはならない。民衆の中に入り、いっしょに動き
だしたら、それはもう道標ではなく担ぎまわられるプラカードであり”時代”の使い捨ての用具にすぎない。
 主が道なら、その言葉を記した書を手に持ち、それを示しつつ道標として立っていればよい。いまの言葉いまの体制が
過ぎ去っても、主の言葉は過ぎ去ることはない・・・。
 その司祭はそういう意味のことをいった。武市さんは非常に感銘を受けたといわれた。
人がその言葉を永遠と信じそれに仕えているなら、それはできる。そうでなければ、それはできない。そう思って
教会史を読むと、そこには常に、外部への積極的伝道の「芯」に、この道標という自覚があったことに気づく。