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『静かなる細き声』(山本七平)  あとがきにかえて、から

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

 
(『静かなる細き声』 P171~182  あとがきにかえて   山本良樹(ドロレス註:山本七平の長男)

 父の生涯について考えていると、私の脳裏には旧約聖書に記された一人の預言者 -故国イスラエルに流布した異教神・バアルの預言者達、
崇拝者達と戦い。その戦いの故に、バアル信仰に淫したイスラエルの王からも生命を狙われ、荒野に一人落ちのびてゆく、孤高の預言者-エリヤの
姿が思い浮かぶ。
 愛する故国の民を、外来のバアル信仰による「呪縛」から、救い出そうとして敗れ、「主よ、もう(故国の為の戦いは)たくさんです。
私の命を取ってください。私は先祖に勝るものではありませんっ!!」と叫ぶエリヤ。
 食べる者も、着る物もなく、-まるで敗残の日本兵のように・・・、フィリピンのジャングルをさまよった、若き日の私の父のように-荒野
を彷徨するエリヤ。

(中略)
 エリヤの心には、そうした「死の恐怖」と共に、故国が「外来思想=異教の神」によって蝕まれ、異教と正当なヤハウェー信仰との「習合」
によって、自滅してゆくという「悲嘆」があった。
 四十日四十夜の彷徨の末、エリヤは「神の山」ホレブに到る。そこで、イスラエルの正統なる神・ヤハウェーの声を聴く。
ホレブの山の洞穴に、隠れ潜んでいるエリヤに・・・

(中略)
 「はじめてその人に会ったのがいつごろのことか、はっきりしない、記憶の混濁かも知れぬが、五年たっても十年たっても、その人は
同じ風貌だったように思われる。
 その人が来訪されると、家の中のどこにいてもすぐそれが分かった。その人は非常に耳が遠く、そのため両親が、その人の耳許で大声をだすからで
あった。了解するとその人はただ静かにうなずき、低い声で答えていた。両親の高い大声の間のその人の低い声は、本当に『静かなる細き声』と
いう感じがした」(本書・「長崎先生」)

 「静かなる細き声」「静かにささやく・・・神の声」
父の最後の本である本書は、そうした「静かに、細く、ささやく声」によって彫琢された、父の、少年時代の軌跡である。
分厚いカーテンに覆われた教会堂の窓から沁み込んでくる一条の細い陽光。「道標」に始まる一編一編は、それ一つ一つが、限り無く
「静かなる細き声」に添うように描かれ、余分な物は一切無く、静かで、張りつめ、和やかでありながら、厳しい。また一つ一つが詩情に
満ちた信仰の詩でありながら、その奥に峻烈な「箴言」の厳格さを秘めている。
 贅肉を削ぎ落とされ、これ以上はない程、小さな声で語られた書物には、ことさらな分析やしたり顔の批評は必要あるまい。

 (中略)

 最後に、父のために記すが、あの孤独な探索、報われなかったかも知れぬ「沈黙の二十年」の中で、一人未だに「荒野」にある
人のごとく歴史の古層を穿ち進んでゆく間、父の耳元でささやき続けた「声」は、あのホレブの山でエリヤが聴いたような、あの長崎
先生の「声」のような、「静かなる細き声」であったに違いない。孤独な探索行、いわば「伝統を日に新たに救い出す」作業の途次で、
「隠れたる、細き声の神」キリストの弟子である事と、日本人である事は、見事に調和し合っていたであろう。
 そして何より「救われた」個人、あのフィリピンの「戦場」のような「地獄」から、自分以上の存在によって「救い出された」と信じ得る
「個人」のみが、自分以上に巨大な「歴史」というものに手を触れ、その「混迷」の中から、自国の伝統を、日本人の姿を、「日に新たに救い出す」
事ができたはずなのである。
 父にとって「救い」とは、あの「歴史」の中に建てられた小さな道標、「静かに立ちつくす」「始めであり、終わり」であった者、
聖書の中の「静かなる細き声」、イエスご自身であったに他ならない。


(『静かなる細き声』 P171~P182)
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数回にわたり同著を引用、紹介してきた。
なるべくなら引用ではなく、私自身の言葉で論評しようと思ったが、良樹氏の書くように「ことさらな分析やしたり顔の批評は必要あるまい」
であり、ほとんどをそのまま引用した。

私がこの本に出会ったのは、数年前、ある書店のキリスト教書コーナーだったように思う。
山本七平は数冊読んだことはあったが、このような著書は知らなかったし、最晩年の最後の著書ということで興味を持ったのだと思う。
以来、時々読み返している。
この本を読まなければキリスト教の洗礼は受けることはなかったかもしれない。

その意味で、この本は私にとって、最良の「キリスト教入門書」いや、「キリスト教信仰の入門書」

 

であったと思う。

そして、同時に、日本人論、日本論、に関するきわめて優れた本であるともいえると、思う。


その割には「空気の研究」などに隠れてほとんど知られていないこの本を紹介したくて長々と引用を重ねた。
まだまだ引用したい部分はあるが、同著の紹介についてはこれで終わりとしたい。