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ポストモダン神学とは何か? マーク・C・テーラー「ノッツ」「さまよう」を読む。そして井筒俊彦

 

さまよう―ポストモダンの非/神学 (SELECTION21)

さまよう―ポストモダンの非/神学 (SELECTION21)

 

 

 

ノッツ nOts―デリダ・荒川修作・マドンナ・免疫学 (叢書・ウニベルシタス)

ノッツ nOts―デリダ・荒川修作・マドンナ・免疫学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 組織神学の授業で、たまたま誰もやりたがらなかった「ポストモダン神学」を発表しなきゃいけなくて、いやいや読み出したわけですよ。そしたらこれが面白い。残り物には福がある。そして、私自身がキリスト教の中で一番興味をもっているテゼのことを理解するヒントがたくさん与えられたような気がする。

ポストモダン神学は、デリダはじめフランスのポスト構造主義者たちの提唱したポストモダンを神学的に組み入れようとした試みである。

『現代神学の最前線』(栗林輝夫 新教出版 2004)14章で説明がなされている、

(P220)

これまでポストモダン神学者と称されてきたのは、アメリカでは、マーク・C・テーラー、ロバート・P・シャーレマン、チャールズ・ウィンキスト、ディビッド・レイ・グリフィン、そして「神の死の神学」で60年代に名を馳せたトマス・J・アルタイザー、またイギリスではドン・クピットといった面々である。

 これらの人々の特徴は急進的リベラリズム、とくに神論を先鋭化させたラディカル神学にある。つまりニーチェの「神の死」をキリスト教の主題にしながら、以前から論争の喧しかったティリッヒの内在的神論、ブルトマンの実存論的解釈などをいっそう徹底化したのが彼らだともいえようか。もちろんその枠組みも一様ではなく、なかにはグリフィンのようにプロセス哲学に傾いた例もある。しかし大筋で括れば、テイラーを代表格にして、近年のポスト構造主義や言語哲学の考え方を取り入れた一群の神学者たちをポストモダンとする、これが従来の捉え方だった。(後略)」

 

さて、ではそもそもポストモダンとは何なのか?

 

(1)              ポストモダンとは何か? 

 

ポストモダンでよく使わているイメージ

 

「大きな物語」の終焉(リオタール)、普遍的なものを否定、周縁・マージナル、二項対立を超える、構造主義への批判(デリダ?)、軽やかに浮遊する、反理性、肉体性の重視(?)、他者の痕跡(レヴィナス)、動的(モダンが静的であることへと対象的に)

 

ポストモダンへの批判でよく聞く言葉

 

 相対主義、無責任、デラシネ(根無し草)、よくわからない、レトリック過剰、あるいは説明不能、実体がない、抽象的、現実的な活動(政治、社会)へ適応できるのか?、伝統を壊す?

 

 

さて『ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割』(AEマクグラス

 でマクグラスは以下のように記述している。

2003年 来日時の講演より)

 ****************************************

アリスターマクグラス1953~)アイルランド出身、聖公会神学者。著作多数。『キリスト教神学入門』『キリスト教総説』『プロテスタント思想文化史』などは今日プロテスタント(メインライン)を横断して最もバランスのとれた入門書(だと土門は思う)。また元々はオックスフォードで分子生物学の博士課程を取得後神学者になったという経歴から科学と宗教についての著作も多い。『自己的な遺伝子』『神は妄想か?』で著名な宗教否定派の科学者リチャード・ドーキンスとの討論集もだしている。

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P97)私たちはポスト・モダニズムの世界に住んでいます。これが厳密に何を意味するのか、しばしば判然としていないのですが、私たちは事実問題としてこのことを認めるようになってきました。(中略)

 ポスト・モダニティの高まりは、私たちに挑戦と好機をもたらします。まずそれは私たちにいくつかの再考をうながします。キリスト教の福音を説くのに本当にこの方法が最善なのか。変わりつつある私たちの文化的状況において、キリストの福音をいかに説明し、擁護し、伝えるか、考えなおす必要はないか。過去においては全く問題なく受け入れられていた、われわれの信仰を表すいくつかの方法が、この新しい状況においてはもはや受け入れられなくなっているのではないか。しかし、それはまた、私たちにいくつかの好機をもたらしてくれます。私はポスト・モダニティには多くの誤りがあると考えていますが、ポスト・モダニティが私たちに、福音を説き、伝えるための新しい機会を与えてくれることも充分に認めているのです。(中略)

  (ポストモダニティ)その最も際立った特徴は、私がユニフォミタリズム(合理的画一主義)と呼ぶものを否定することです、これは、正しい考え方はただ一つしかなく、正しい行動も一つしかないという主張です。(中略)画一性への要求は抑圧を生み、そこにおいて人々は、あらかじめ作り上げられたただ一つの型に無理やり押し込まれます。ポスト・モダン哲学者たちの言葉を用いると「他者」は容赦なく「同一なる者」に還元されてしまうのです。ポスト・モダニティは、このような抑圧的な思考方法に対する反動と見ることができます。ポスト・モダニズムとは、多様性を良きものとしてたたえ、厳格・拘束的・抑圧的世界観をもたらすものを退けようとする文化的雰囲気です。それは、あらゆるものを均一な思想群に還元しようとした近代主義に対する反動であり、近代主義を、知的スターリン主義、私たちの世界理解の多様性を否定するものとして批判します。ポスト・モダニティは、個々の人間が何か別の観点を受け入れるように強制使用とするどのような試みも抑圧と考え、信念の多様性を良きものとしてたたえます。

 

(付記)さらにマクグラスは、以下3つをポスト・モダンの特徴としてあげ、詳しく論じている。

 

①物語の強調、②イメージの強調 ③地域共同体の強調

P107)イメージについて考えることは、私たちに自らの信仰の豊かさを深く理解する助けとなる以上のことをもたらします。私たちが教会外の人たちに、信仰をより効果的に力強く伝える助けとなるのです

P111)(現代世界において社会的結びつきの崩壊と共同体の再創造が課題となっていることに触れて) 企業家的能力あふれるアメリカの教会は、最近この役割をさらに発展させ、教会を、激変する文化の中にある共同体的安定をもったオアシスとしみなすようになっています。人々は、まず共同体を求めて惹きつけられるのですが、その後に、その共同体の究極的な基礎がキリストご自身にあることを発見するのです。どこかに所属したいと願っている人々は、このようにしてキリストを信じるようになるのです。(中略)養子縁組では、招かれた特権が祝われ、そこにおいてよそ者だった者が信仰と愛の群れに歓迎されるのです。

 (P118)イエスは議論をされませんでした。イエスは、神の国のよき知らせを彼の周りの人々が理解できるように彼らの経験からわかる物語を話されました。そして、福音書は、キリストがどのようにして人々に出会い、彼らを買えたのかという物語を私たちに語ります。

 

(2)マーク・テイラージャック・デリダ

 

『ノッツ』あとがきにもあるが、マーク・テイラーポストモダン思想におけるジャック・デリダ脱構築を神学に持ち込んだ、あるいは神学を脱構築しようと試みていると言うことができる。

 

 (『ノッツ』訳者あとがきP447

 現代アメリカにおけるポストモダニズムというか「デリダ派」の代表者のような立場にいるテイラーであるから、本書でもデリダ論の比重が高い。

 ***************************************ジャック・デリダ19302004ユダヤ系フランス人思想家。

 以下『現代思想入門』(PHP2007より)

 ジャック・デリダの思想は「脱構築デコンストラクション)として名高いが、それはもっとも広範かつ抜本的なシステム批判という性格をもつ。デリダが問いの対象とするシステムは個別・具体的な諸システムであると同時に、それらを貫通し包括するシステムなるものでもある。いわばシステムのシステムを、デリダは西洋哲学の偉大な哲学者たちのテクスト群のなかに抉りだしていく。個別テクストの読解を通して展開されるデリダ脱構築作業(特に初期の哲学的作業)は一見細かい文献学的作業に見える。しかしそこには哲学やテキスト学以外の政治・経済・社会・文化の諸システムにも共通するシステムの中のシステム(とその拘束)を浮き彫りにし、一つの巨大なシステム批判を可能にする橋頭堡の構築という意図がある。その巨大なシステムは何か。デリダによれば、それは「現前性の形而上学」のシステムである。

 「現前性(presence)とは「現れていること」である。Presence という語は「prae(

前に)+esse(在ること)」から成り、字義どおりには何かのまなざしの前に存在することである。そのときまなざしの主体はその客体(対象)を観察し、それに光を当て解明する認識主体として考えられている。(後略)   

****************************************

 

①「ノッツ」とは何か?

 

445 訳者あとがきより

 表題になっている「ノッツ」という面妖な用語はなんであるか?用語自体の語義としては、英語で述部動詞にともなって遣われている否定文をつくる副詞のノット(not)を名詞扱いにして、その複数形が「ノッツ」というわけである。(中略)

 否定文をつくる「ノット」だから「否定」とか「否定性」という意味であろうという常識的憶測はあたらないということ。とりあえず言えば、否定でも肯定でもなく、非存在と存在でもなく、空っぽでも横溢でもなく、外部でも内部でもない様態、それがノットだということになる。無でもなく何か(有)でもないのがノットであるから、無と有のハザマにこそノットはある、とテイラーは考えている。

 

(付記)

  個人的に思い出したのは私の好きな、直木賞作家北村薫の「詩歌の待ち伏せ」に出てきた(たしか)、詩を読むときの心構えについて、詩集における「空白」のイメージである。北村はいう。例えば同じ詩集本でも、大型単行本としてでたものと、文庫本で出たものは、全くその読書感覚が異なる。それは、ページにおける「空白(余白)」の広さ、スペース、ゆとりがもたらすものである。スペース、装丁、字の間の感覚があることで読者はまったく違った読書体験を経験する。しかし、「余白」自体に意味があるわけではない。「余白」自体はもちろん詩自体を意味的に構成していない。しかし、同時に、「空白」自体が詩集を構成する重要な要素なのである。

 

(3) マドンナのPVを読み解く

 

テイラーは第一章から第四章までで「宗教」を論じた後、第五章以下で、芸術、肉体をテーマに彼のいう「ノッツ」について論じる。第七章においては、広告文化その中でも特にアメリカのミュージシャン、マドンナについて詳しく論じている。ある意味、マドンナこそがポストモダン(神学)の象徴であると考えているようだ。ぜひ、以下のマドンナのPVを見ながら、テーラーの文章を読んでほしい。

☆マドンナとは?(以下wikipediaなどから)1958年アメリカミシガン州生まれ。本名マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ。20世紀アメリカの生んだポップスのスーパースター。「ポップスの女王」「マテリアル・ガール」とも呼ばれる。1980年代初期にデビュー、「ライク・ア・バージン」が大ヒット、その後大胆かつ挑発的なイメージで世界的なスターになる。ビルボード誌の「成功したトップアーティスト100人」では2位。全世界のCD総セールス3億枚以上、ギネスブックによると「世界で最も売れた女性アーティスト」と言われる。(2013年の収入は120億円らしい)また20世紀のアメリカ文化におけるセックスシンボルとしては、マリリン・モンローに次ぐ存在ともいえる。


Madonna - Like A Prayer - YouTube

 

 

マドンナの音楽・イメージにはキリスト教の宗教性が根強く現れている。

 

P333~P337)

 マドンナの宗教的イメージは、ビデオ「ライク・ア・プレイヤー」と映画「トゥルース・オワ・デア」において最も鮮明であり錯綜している。「ライク・ア・プレイヤー」には一連の二項対立の構造があることはすぐに見て取れる。黒/白、愛/憎、平和/暴力、聖/俗、内/外、教会/世俗、女/男、夢/現実。しかしこのビデオに見られるように、マドンナはこうした古典的にこう対立を逆転させ、彼女の作品が拠りどころにしていると思われる構造とまったく逆の構造を問題にする。ほかのどの作品よりもこのビデオにおいて、マドンナの宗教的イメージとしか言いようのないものの輪郭が繊細な形ではあるが、はっきりと現れている。「

「ライク・ア・プレイヤー」の冒頭は意表をつくようなモンタージュになっている。
黒服を着て胸に十字架を垂らしたマドンナが青みがかった荒涼とした風景のなかを
よろめくように走っている。かたわらに火が燃えている。鳴り響く差異レインとへヴィー
メタル・ミュージック。バタンと閉じられる監獄のドア・燃える十字架。
ひとりの白人女性を殴っている白人の男たち。窓から暖かそうな明かりを放射している
白い教会。警官に逮捕される黒人。サイレンが静まってくると、マドンナの歌が聞こえてくる。

 人性は謎よ、だれだってひとりぼっち
 あなたがわたしの名前を呼んでいる 
 家庭(ホーム)みたいな響きがする

 あなたがわたしの名前を呼ぶ声は、お祈りみたい
 わたしはひざまずく、わたしはあなたをあそこに連れてゆきたい
 真夜中はあなたの力を感じるわ
 お祈りみたいに、あなたをあそこに連れてゆくわ

マドンナは気を取り直して教会に入る。家庭(ホーム)という言葉が響くとき、
彼女は後ろ手に扉を閉じ、祈りのろうそくがついている祭壇に向かう。
祭壇の右手、門か横木の向うに黒人のキリスト像がある。マドンナは歌いながら
その聖像に近づく。

 あなたの声が聞こえる、天使のため息みたい
 ほかにはなんにも聞こえない、あなたの声が聞こえる
 舞い上がるような気分だわ

マドンナがキリストの前にぬかづいていると、その聖像はほんのわずか動かして
ひとすじの涙を流す。キリストの涙に感動したマドンナは祭壇から離れて、近くの
長い腰掛けに横になって媚態をつくる。ゆっくり頭を下げながら、
扇情的に自分の陰部に手をあてる。

 わたしは目を閉じる、ああ神さま、わたしは落ちているんだわ
 空から落ちるの、わたしは目を閉じる
 天よ、助けて

幻想の中で、マドンナは聖像の前でうやうやしく頭を垂れ、その足元にキスをし、
檻の扉を開け、聖像の顔に触れる。彼女の手になでられて、聖像は命を帯びる。
その黒人のメシアはマドンナにキスを返し、静かに教会を出て、敵意に満ちた外の世界に
入ってゆく。

まどんなのキスひとつでもって、彼女の歌のインパクトの全部が表に出始める。
彼女はキリスト像の前にぬかずくのだが、その従順の姿は擬態である。
「ライク・ア・プレイヤー」において救い主はマドンナであってキリストではない。
なぜなら、彼女は「わたしはあなたをあそこに連れてゆきたい」と歌うのだから。
彼女の宗教的使命は結果として救世主キリストを救うことである。
彼女がその使命をまっとうするためには、キリストを縛りつけている台座から、
キリストを誘惑して引き離すことが最低限できなければならない。
言い換えれば、マドンナは、教会への隷属からキリストを解放しようと試みるのである。
カトリック教徒はつねに聖母マリア(マドンナ)を崇拝してきたけれど、このマドンナのような
マドンナにはかってお目にかかったことはないだろう。

(中略)

マドンナにとって、愛が救いだ。
とはいえ、マドンナの愛は、肉体を抑圧し肉欲を否定する愛という青白いイメージのものではない。逆なのであって、彼女は存分に肉体
化された愛ー物欲、肉欲を、それこそ神の住まい所として包含している愛ーをこそ信じている。
まさに彼女は「マテリアル・ガール」(物欲の女)である。

(中略)
マドンナは「教会」に挑戦する。
教会が奨励もし抑圧もするあの根源的真理を信じるために、挑戦するのである。


(付記)

 マドンナはデビュー以来、常に賛否両論を巻き起こしてきたアーティストである。このビデオ自体、米の宗教界、政界の保守的な大物たちは、マドンナの放恣な猥雑さは悪魔の仕業だと批判した。(P319)また、2006年のライブツアーでは高さ6メートルの巨大十字架に自ら磔となり「Live to tell」を歌う。ローマ公演では、ベネディクト16世を招待、バチカン近くのスタジアムでパフォーマンスを行うと7万人の観衆は十字架に貼り付けになったマドンナを見て一瞬静まり返ったという。カトリック教会、イスラムユダヤ教指導者から「無礼で悪趣味、かつ挑発的」「j紙への冒涜に近い」と大きな非難を受けた。

 一方でその作品のベースにあるのは彼女の生まれ、反発しながら育ったキリスト教カトリック)的価値観であることもまた良く知られている。

 

P321、)

 

 カトリックは力を、内面の力を与えてくれるわ。カトリックをとことん信じるか信じないかは関係なしに。バックボーンなのよ、それが。わたし、カトリックの核のようなところは拒否してこなかったと思う。でもその理屈は拒否してたわね。そういうことよ。教会には行かないけど、神さまは信じてるの。ロザリオのお祈りはしないけど、神さま関係のことは考えるわ。人がわたしによくしてくれるように、わたしも人によくしてあげるということ。そういう考えが私の根っこにあるのよ。(TIME 1985.5 マドンナのインタビューから)

 (P325)

 

 (付記:マドンナはカトリック的価値観の強い家系で育った。6歳で母をなくしたこと。父からのカトリック的抑圧を感じながら育ったことが、彼女に大きな影響を与えていることは自身があちこちで発言していることを受けて)

 

〈ノー〉に対して「ノー」と言うことで否定を否定することは、罪から自分を解き放ち、自分を受け入れるというか、実際には自分を楽しむことである。父親たちがお前はかくあるべしと命じる存在としてではなく、自分がある存在としての自分を楽しむのである。「ノーに対してノー」と彼女は歌う、「ノットを忘れよう!」

 

P343)

 

 彼女がつける仮面、身にまとうイメージや性格を少しまともに見てみるなら、われわれは等身大のマドンナを知らないばかりか、彼女の素顔を知らないことに気づくだろう。まったくポストモダンであるマドンナは初めから最後までイメージである。彼女はその仮面以外の人ではないが、それでいてどの仮面も彼女の素顔ではない。本当のマドンナがその無数の仮面の向こうに隠れているというのでもない。マドンナはそんなミスは犯さない。実像そのものがシュミラークル(摸像)になることを彼女は承知しているからである。それぞれの画像となった彼女ははにかむようにこちらにウインクする。

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(マドンナのPVとテーラーの分析を考える)

 

①  この5分のPVを改めてみると「現代神学の最前線」に含まれている、ポストモダン、宗教なき時代(世俗化)、神の死、黒人神学、フェミニズム、解放の神学(?)など多くのテーマのイメージを見て取ることができる。そう考えるとやはりすごい。

 

②  これはあくまでPV(プロモーション・ビデオ)に過ぎない。ミュージシャンが自分のCDを売るための販売促進のためのビデオである。宗教的な映像でも著作や神学書でもない。

 

③  そもそもこのテーラーの分析が正しいのか?誰にも分からない。(おそらく)テーラーがマドンナ本人に会って逐一説明してもらったわけではない。あくまで解釈の一つである。

 

④  このPVがマドンナ自身の信仰、価値観、生き方を表明している学術書・ドキュメンタリーではない。あくまでPVにすぎない。しかしながら、見た者にはその中には、拭い去りがたく、マドンナ自身の信仰、価値観、生き方が織り込まれていると、感じざるをえない。

 

⑤  マドンナは最も成功したアーティストであるとともに、アメリカのセレブの中で慈善活動 

 

に最も熱心であることでも知られている。(NYを旅行したとき、マンハッタンにゴージャスなマンションを見て、知人がマドンナはアジアの孤児数十人を養子として引き取って住んでいると聞いた。ちなみにこれにより、マドンナは、数十人だけを選ぶことや、その子と選ばれなかった子はどうなるのだ、それは偽善だという批判を受けた。成功と慈善そして偽善という批判。マドンナに常に引き起こしている。(東北大震災でいち早く50万ドルを寄付したことも報道された)

 

(まとめ)

マドンナと彼女の作品には、ポストモダン(神学)を象徴しているとテーラーは考えている。それはキリスト教の中にある二項対立を超えて、そのなかをかろやかに浮遊し楽しむことで超えていこうとする、ということ。それでいながらもそのベースにはまぎれもないキリスト教的価値観の中を生きようとする、ということとまとめてみる。またマドンナのPVの中にこのような思想を読み込もうとするテーラーの論調もまたポストモダンの特徴と言えるだろう。PV、マドンナという存在、テーラーの分析、それぞれがポストモダンの特徴をとてもよく現している。

 

 

さてテーラーは第六章では、ユダヤ人のポストモダン建築家リベスキンドについて一章を裂いている。

 

(3)第六章、ダニエル・リベスキンドのノット建築

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 ダニエル・リベスキンド1946~)ポーランド系アメリカ人、ユダヤ人。両親はポーランドホロコーストを生き延びたユダヤ人。脱構築主義の建築思想家。「建築しない建築家」として知られていたが、1988年のベルリン・ユダヤ博物館当選後世界的に著名になる。2001広島市主催のヒロシマ賞受賞。911世界貿易センター跡地再建コンペに当選、541mの高さの「フリーダムタワー」とツインタワーの跡地の慰霊スペースからなる建築2010年に完成。 (wikipediaより)

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%99%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%89

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ベルリン・ユダヤ博物館

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

 

 リベスキンドがその名を高めたのが1989年からはじまったベルリン・ユダヤ博物館の建築である。テーラーの論証を詳しく紹介、分析できないがその建築の特徴を挙げると。

 

・  ジグザグで不調和な建物

・  壁の穴、裂け目、行き止まりの階段、空っぽの空間(スペース)

 

などを特徴としている。(ポーランドユダヤ人でホロコーストの生き残りを両親にもつリベスキンドは、ベルリンを、20世紀初頭まで最もコスモポリタン世界市民的)で、理性的だった都市、それがWW2によって「内部崩壊し」、冷戦のベルリンの壁によって「分断」された都市であると認識している。そのベルリンに立地する博物館として上記のような建築を選んだと言える。

そして訪れるものを不安に、孤独にさせる錯綜した建築と、それを訪れたものが実体験すること自体が、不安定で絶望的な状況におかれたユダヤのあり方を追体験させることをねらっている。それこそが、ベルリンという場所にユダヤ博物館を建てる意味だと彼は考えているのだろう。

 

(ネットでみたある批評)

 

 記憶を内包した「場」には、目に見えずさまざまな影響力が作用し、その作用の拠り所とをたどる行為が軌跡としてこの場において出会い、時に衝突し、時に反発し、時に融合しあう。リベスキンドはいくつかの強い影響力をもつテーマをすくい取りながら、同時に、場に満ちている目に見えない、言葉によって表すことのできない数多くの影響力の存在している事実をいかに表象するか模索している。

 

テーラーは以下のように記述している。

 

 「ノッツ」(P262

 ・からっぽ空間がいたるところにある印象である。ベルリンの歴史のねじれた足取りをたどるなかでリベスキンドが付加したものは、まさにそのからっぽ空間自体なのだということが次第に明らかになってくる。〔中略〕

 

・空間に亀裂を構築することで、見た目こそ安定している構造体を脱構築する地下室という建築。そんな建築は「ノット建築」である。(中略)

 

・この喪失にはひとつの別のホロコーストが含まれている。ひとつの他の秩序、その燃えがらと灰がひとつほかの〈他者〉の痕跡であるようなその秩序、というホロコーストが含まれているのだ。

 

・〈言葉〉を傷つける、テクストのもろもろの欠陥には際限がない。これらの欠陥において、欠陥を通じて、聖性の崇高さが近づいてくる。(中略)崇高なるものは「いっさいの形態、形状の縁に」ある。

 

これがテーラーの考える「ノット」のポストモダン建築における表れなのである。

 

 

(5)第八章「肉体の裏切り」

第8章でテーラーは肉体に裏切り、と題して免疫システムを論じながら、自らの述べる「ノッツ」について論証する。それが妥当なものかは私には判断ができない

P395

免疫システムの主な仕事は、『自己』と『非自己』を区別することだと一般には考えられている。いちど区別がなされると『自己』は温存され『非自己』は壊される。もちろん、ほとんど一般のレベルでは、これはこれでまちがいがなく、だから人間は生き生きと健康でいられる。しかしながら、もっと微細なレベルでは、自己と他者との区別は絶対的な区別ではないということが最近明らかになってきた。

 

P397

 

 身体の境界を越えて入ろうとするよそ者は、無数にいる。これら、よそ者は、特定の諸々の分子によって作られた独特なものをひとつずつもっている抗原たちによって標しをつけられる。(中略)

 

 人体は、一億以上という驚くべき数の抗原を見つけて、それらに対応するようにあらかじめプログラムされている(後略)

 「真理(一個の抗体を合成する能力)は学んで得られるものだろうか?学んで得られるものなら、真理は前もっては存在していないはずである。学んで得られるためにこそ、真理は求められるはずである。こうして、われわれは難問にぶつかる。ソクラテスが「メノン」において提起している問題だ。人は自分が知っていることを求めることはありえないが、反対に、自分がまだ知っていないことを求めることもありえない。なぜなら、すでに知っている以上、あらためてそれを求めることはありえないし、知っていないことについては、そもそも何を求めていいやらわからないのだから、それを求めるはずもない。ソクラテスはこの難問を解決するために、学んで得るとは想起にほかならない、と断定する。真理(一個の抗体を合成する能力)は外からもたらされるのではない。それはすでにうちにあったのである。(中略)いろいろな合成能力は核酸に外から付与されるのではなく、前もって存在しているのだ。

 (P410

 

 「敵意ある子宮」という刺激的な論文で、ロブ・ウェクスラーがこう書いている。

 子宮は出生前の楽園であり、そこでは向くなるひとつの生命が、母体によって外的から守られて。温水にゆっくりつかっている。われわれはそう考えている。しかし、一部の免疫学者によれば、生は-誕生前のそれも-それほど単純ではないらしい。彼らの考えでは、母体の免疫機構が胎児を外の組織のひと塊と認める。攻撃して破壊してまうべき侵入者と認めるのだ。だから、母親は、酸素や栄養でもって胎児の命を支えながら、一方では、致死抗体やキラー細胞をもって退治に爆撃をかけてもいると言えるのだ。母親の攻撃反応に歯止めがかからなくなったら、無力の胎児は死んでしまう。このシナリオでは、誤った方向に発動された免疫システムによる残忍な裏切りの結果として流産となることもある。

 (中略)

 免疫学者から見て、最も頭を悩まされる問題は、なぜ一部の妊婦が流産するのか、ということではなく、なぜ多くの妊婦が流産しないのか、ということである。

 

P418

  これは、わたしの身体、壊れた身体

 

(付記)

 いまいちよくわからない。しかし村上靖彦レヴィナス 壊れ物としての人間』で提起したように、西洋哲学の志向における自律した理性的な知性の前提自体を疑い、人間を壊れた者として捉えるところか、福祉、介護、ターミナルのコミュニケーションにレヴィナスを読み直そうとする試みに相通ずる思考であるように私は思える。

 

 では、上記の一見神学と関係なさそうな現象を引用してテーラーは何をしようとしているのか?

 

(6)マーク・テーラーは何を目指しているのか?

 「ノッツ」の神学的議論(1~5章)はあまりにレトリック過剰でありかつ錯綜して要約することは困難である。もう一冊の主著「さまよう」(1991 マークテーラー P15 以下)の記述にその確信が、はっきりと述べられている。

 

  P15)

 西洋神学伝統も、ある種の単極敵基盤上に、だがより性格に言えば、一種の両極的・二項対立的な基板上に、存在している。(中略)この二種類の対立項(概念)群の間を揺れ動く振り子運動、として読みとることが可能である。

 

  神        世界             真理    誤謬

 

 永遠        時間             現実    幻影

 

 存在        生成             明晰    混乱

 

  静        動              正気    狂気

 

 不変        変化             光     闇

 

 現前        非在             視力    盲目

 

 一          多             不可視   可視

 

 聖          俗             精神    肉体

 

 秩序        混沌             霊的    肉的

 

 意味        虚妄             心     物質

 

 生          死             善     悪

 

 無限        有限             有中心   脱中心

 

 超越的       内在的            深層    表層

 

 同一性       差異性            話し言葉  書き言葉

 

 肯定        否定             真摯    戯れ   etc

 

  階層的秩序系による圧制・抑圧を、もしも真に克服しようとするのなら、たしかに〔弁証法的〕逆転・倒置の位相を一度は通過する必要があるだろう。だが〔単なる〕逆転は、逆転それ自体が、背反的対立としての二項対立の組織系、の射程内に捕らえられたまま、そこから一歩も出られない、という事態になる可能性もある。単に「西洋文化を構成する様々な要素群に付された正の記号を負の記号に置き換えることが、西洋文化の構成要素群から、みずからを解放することにはならない。むしろ、依然としてその網目組織内に全面的に拘束されたままで終る、という結果になるだろう。神を最高の悪と規定することも、結局は、神を至高の善と規定することと同じく、信仰と賛美の表明行為であることに変わりはない」

 

 相対立する両項を、単に、〔正・負記号なしの〕無記号のままで置いておくのではなくて、両項の本源的同一性そのものを解消してしまうような、弁証法的逆換を-単純な〔正・負〕逆転の代わりに-有効に機能させる必要がある。

 

 言い換えれば、逆換が逆換であると同時に、全面破壊的な、倒錯的・逸脱、でなければならない。神学的規範逸脱そのものが、真に。徹底的に破壊的なものに転成しない限り、根源的なものは何一つ変化しないだろう。継承された秩序体系全体が、創造的に解体されるための手段となるような、批判的てこ入れ、それこそが必要なのだ。非/神学の神学者にとって、解体哲学が、有効な一種の思想的資源としての可能性を持つことになるのは、まさしく、この点においてである。

 

(中略)

 

 解体論は、もはや引き返しようもないほど決定的な意味で、分界的であり、境界・欄外(マージナル)的なのである。解体論の〔あちら側でもなく、こちら側でもないというその〕分界性が、不安定な一種の境界地帯・外縁地帯(ボーダー)を設定するが、境界・欄外的思索家達は、その地帯沿いに流浪を続ける。

 

 信仰と不信仰、そのいずれでもない中間地帯に捕らえられて脱出不可となっている人々の関心の的となっているよ;うな種種様々な群を提起する形式としては、この、全く新奇でしかも自他共にゆるす論争的批判形式でもあるような、解体論的批判、こそが格別にふさわしい、と私には思える。

(『ノッツ』P7)

 「ノットについて考えることを拒否しないことによって、神について別様に考える可能性。それを生み出す読解を暗示」

 

(付記)いわばこれこそがテーラーの目指す神学である。それは弁証的であり、かつ宣教的である(と彼は考えているのであろう)それこそが、テーラーの信仰告白なのではないだろうか?

 

 レトリック過剰で過激(ラディカル)に思えるテーラーの記述、しかしこれは神学全体の中でどのように位置づけることができるのだろうか?

 

(7)ポストモダン否定神学の復権なのか?

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否定神学(岩波キリスト教辞典)とは?

神について、「神は全能である」といった肯定的言表はそれなりの真実性をもちながらも、しかし無限の神を表現するのには限界がある。それに対し無限の神は知りえないとして、認識探究をストップさせる行為(不可知論)の他に、知りえないことを十分に承知しながらも、人間に可能な限り神に迫り、肯定的陳述を否定的陳述に変え、神は「・・・でない」という仕方で、いわば負の側面から神を知ろうとするのが「否定神学」である、

この態度はユダヤキリスト教に原初から付随していた。例えば出20:4で神の像の作成が禁じられ、207では神の名をみだりに呼ぶことが禁じられている。

 つまり当初から神を具体的形やそれと名指しして呼ぶことが禁じられていた、それゆえ神を概念的に把握することは不可能であった。しかもヨハネ118では、神の独り子以外は神を見た者はないと言われているから、「神は・・・である」というのは極めて不完全な陳述にすぎない。いずれにしても神の把握は不可能に近いことであるから、啓示や受肉を信頼する肯定神学よりも否定神学を重用する人々が現れても当然であろう。否定神学を特に意図的に用いたのは、ギリシア教父のアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスなどに遡ると言われる。(中略)

 その後哲学においては展開を続けた。カントの言う超越者の認識不可能性は不可知論ではあるが、、一種の否定神学的要素をもち、現代のアドルのも絶対者を言語で言い表そうとするときに否定的にしか語りえないといったり、デリダ否定神学的表明をしつつ、それを超える道を探ったりしている。その意味で否定神学そのものは、神なき時代においても、超越を思索する人間にとっての尽きざる泉のようなものであると言えるだろう。

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この定義によれば、テーラーと否定神学は共通点が多い。むしろ神学の歴史の中の最も中核的な主題の現代的捉えなおしと考えることも可能だ。しかしデリダが生涯「ポストモダン否定神学ではない」と述べたように、従来の肯定-否定の対立軸をこえるという形での、“新しい形としての否定神学”といえる(とテーラーも考えているようだ)

 

(8)ポストモダン神学の日本における意味、可能性

 

上記を抑えた上で日本におけるポストモダン「神学」の状況を私なりに考察する。

 「そうした人々の言説は大部分欧米の事情に関わるもので、ポストモダンがもつ批評的役割はそのまま日本には通用しない、(栗林)」確かにその通りである。

 なにせ、マドンナのPVを使ったコマーシャルが教会の非難によって放送禁止になるのがアメリカである。生活、社会、政治、のすべての分野においてキリスト教的価値観がしみこんでいるのがアメリカという国家なのであろう。

 日本において「ポストモダン神学」が大きな影響を与えることはなかった。キリスト教徒1%(実体はそれ以下)とされる日本においては、それほど文化、政治、意識の中にキリスト教的価値観が支配するには至っていない。それゆえに、社会にこびりついた(あるいはベースとしてある)「キリスト教的価値観」からの脱却を試みる(かろやかな)ポストモダン神学は、それほど必要とされていなかった、と考えられるのではないだろうか?

  しかし、教会を出て、社会をみたとき80年代から90年代、さらに現代も「ポストモダン」的思潮は、マクグラスのいうように「事実として」支配的であるように思える。 私自身が興味をもつのは90年代以降のサブカルチャーブーム(アニメ「エヴァンゲリオン」など世紀末、ハルマゲドンなどの宗教的モチーフの氾濫、様々な新興宗教ブームなど)「(キリスト教的)神なき国ゆえのポストモダン神学」のようなものにあたるのではないかと、この本を読んでいてひざをうつような思いであった。

 

 一方でポストモダンが、相対化、ラディカルな破壊的な傾向を持つ。これは教会形成の神学としては危険性を内包している。ゆえに、(栗林 14章)に記述されるように、リンドベック、ハワーワスなどの「信仰者のコミュニティの規範」を重視したポストリベラル神学が台頭、さらに西洋文化以外からのポストコロニアル神学が台頭してきたといえるだろう。

  しかし「ポストモダン神学を、文化批評、一時の流行性にすぎない」、「言葉の消費」(栗林)にすぎないのだろうか?「わたしたちは事実問題としてポストモダンの時代を生きている」(マクグラス)。そしてポストモダンの目指す「私が語りかけようとする相手とは、実のところ、マージナルな人間たち(私自身もその一人なのだが)なのである」(テーラー)、そして伝統的キリスト教は衰えるということは、教会から外れたマージナルが広がっているということでもある。その中で、いかにキリスト教を弁証し、伝道していくためにそれは理解(通過)しなければならないように思える。

 

 マクグラスは『プロテスタント思想文化史』中で、ペンテコスタリズムを高く評価し、こう締めくくっている(P495)「プロテスタンティズムの将来を批判する人々は、繁栄するためは愚か、その前に生き残るために、自己理解を急進的に変えなければいけないという。(中略)われわれはプロテスタンティズム自身のうちに、内なる資源に基づいて刷新、革新、改革を行うユニークかつ内的な能力があることを見た。プロテスタンティズムの将来は、まさにプロテスタンティズムが実際にプロテスタンティズム本来の姿を採ることのうちにある。」

 

(9)考えるべき課題

 

・  「神の死」「ポストモダン」という言葉を離れて、演習にいるお一人お一人が知悉(詳しく知っていること)について、「ノット」という形式を経由することで、「神の死」「ポストモダン」という概念のインパクトを自分のものとして捉えてみるという思考実験。

 

(例)

 

 ・禅とも関連がある(らしい)華道において、「無心」「形のない」ことから形をつくっていくことの意味、捉え方について

・  免疫学における自己攻撃性から(人体に本来的に組み込まれているノットのメカニズム)

・  伝統宗教の弱まりとポストモダン的新興宗教としてオウム真理教を捉えてみる、(なぜ彼らは伝統宗教ではなく新興宗教へと足を向けたのか)

・  あるいは、キリスト教・教会と全く縁のなかった人(神の存在を確信していない人、知らない人、つまり「神は死んでいる」人)が教会に来たとき、伝道者(牧師)としていかに「神の実在」を伝えていくのか?

 

上記の様なテーマ設定をすることで、「神の死」「ポストモダン神学」のインパクトと可能性をそれぞれのわが身のものとして思考実験してみると興味深いだろう。

 

 

 私自身は、自身が興味を持っているテゼの運動と、黙想をポストモダンとして捉えてみたい。

①  一つの教会、教派にとどまらないエキュメニズムにみる越境性

②  特定の指導者を持たず、分裂、枝分かれして拡大していく拡散性

③  「沈黙」「黙想」「自分の歌声ではなく他者の歌声に耳をすます」ことを重視する他者性、言葉や典礼を超えて祈りを共有するという構造。

④  礼拝空間の美しいイメージの強調

⑤  韓国やバングラデシュのラルシュ共同体との連帯にみる「共同体性」

 

0、(付録 マーク・テーラーから離れて )

 

「さまよう ポストモダンの非/神学」の本の訳者は、井筒豊子(英米文学・意味論)である。巻末ジャック・デリダとその夫井筒俊彦が、かなり熱烈な推薦文を寄せている。井筒俊彦の主著が「意識と本質-精神的東洋を求めて-」では、プラトン以来のギリシャ哲学、スコラ、イスラーム、インドのヴェーダ儒教、禅、現象学ポストモダン、和歌の世界を横断しながら「本質」という概念がどのように把握されているかを分析している。(ちなみにこの著書の中で、「共時的構造化」という概念を提出し、独自の哲学を始めた矢先井筒は亡くなった)。この「意識と本質」で井筒が、禅における「無心」というものの意味、構造について説明しているのだが、これがテーラーの「ノッツ」と通ずる、把握するために役に立つように思われるので、以下紹介する。というより、テーラーの錯綜したレトリック過剰な文章より、井筒の禅について書いた文章のほうがずっと「ノッツ」の概念を理解しやすい(笑)

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井筒俊彦とは(19141993イスラム学者、言語学者、東洋思想研究者。慶応大学卒業後大川周明の下、東亜経済調査局でイスラム研究を開始。日本で最初に「コーラン」の原典訳をした。ギリシャ語、アラビア語ヘブライ語、ロシア語など20ヶ国語を習得し、ごり者哲学、仏教思想、老荘思想、禅、密教儒教ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。鈴木大拙の死後、禅の研究者としてエラノス会議に参加、世界各国の知識人と交流を深める。ジャック・デリダも井筒を「巨匠」と呼び尊敬していたなど、国際的な評価は極めて高い研究者だった。(2013年から慶応大学で井筒俊彦著作集の刊行がはじまるなど、近年また再評価の機運が高まっている、らしい)主著「コーラン」訳「イスラム文化」「意識と本質」他。2014年は生誕100年で全集が随時出版され始めている。

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井筒俊彦「意識と本質」 (P101)

 

 それにつけてもすぐ憶い出されるのは禅の説く「無心」だ。仏教、特に禅は「無心」ということをよく云々するが、「無心」とはたんにAに対する非(ノン)Aという形での、「心」の矛盾概念ではない。「心」に矛盾し、「心」を論理的に拒否するところに成立する純粋に消極的な否定概念でそれがないことは勿論、主体的体験としても、ただ何も意識しない状態、存在認識機能がまったく停止した状態、ノエーシスの完全に消滅してしまった境位、を意味するのではない。

 反対に、純粋無雑なノエーシス、つまり個別的対象としてのノエーマのないノエーシスそのものをそれは意味する。

 

(注:ノエーシスとはギリシャ語のヌース(精神、理性)およびそれと同系のノエイン(思惟する、知覚する、直観する)からの派生語noesisに由来するフッサール現象学の述語。フッサール自身、ある箇所でノエインを〈直接的に見ること〉と訳している)

 

 (中略)

  要するに、禅の述語としての「無心」はあらゆる意味での「心」のない状態であるどころか、むしろ「有心」の極限なのである。すなわち「無心」は字義通りの無-心ではなくて、かえって「心」の基底であり、本源的本来性における「心」そのものだということ。つまり意識(と存在)の究極的原点である。後述するように、禅では「無心」と「心」とが、縷々完全な同義語として使われるが、この言語慣習はまさにここに由来する。つまり「無心」と「有心」とが互いにまったく同義的であり得るような境位が、ここに成立しているのだ。

 「意識はいろいろ違った仕方で意識であり得る」という、冒頭に掲げたメルロ・ポンティの命題を、意識の次元に関わることと解釈して、それをいわば垂直的に展開したらどんな問題が出てくるか、その可能性をししゅんする具体的事例として、以上簡単に禅の「無心」の意識性に触れた。(後略)

(P132)

コトバによる存在文節の問題を処理する禅の仕方も一風変わっている。コトバ-ここではものの名-が、その名の意味するところにしたがって存在を分節し、こうして意味指示的に切り取られた存在断片を「本質」的に凝結させ固定してしまうところに、この側面でのコトバの問題性の主眼点がある。古来伝えられてきた語録にそのことを示す例は多く公案集に公案として採用されたものも幾つかあるが、ここでは典型的な例を二、三考察してみよう。

 

 真空従一、「心鏡明鑑にしてさわり無し」 柱杖をねんきして曰く

 

「シャコを呼んで柱杖と作さば、即ち是れギ(石編に疑)、喚んで柱杖となさざるもまた是れギ。此を離れてほかに、畢竟、如何。会せんと要するや。ギと不ギと誰か対を為さん。大地山河、郭然粉砕」(『五燈会元』)十六)

  (中略)

 禅師は手にした杖を持ち上げる。「このものを何と呼ぶ。もし杖である、といえば分節の網に引っかかる。杖でない、と言っても、やはり分節の網に引っかかる。であるとかでないとかいうことを離れて見たら、究極的にどうなるか」と。そして相手の答えを待たずに、「おまえたち本当のところがわかりたいか。であるのでないのと言っているからいけないのだ。大地山河、全部一挙に粉微塵にしてしまえ」という。

  「大地山河廓然粉砕。」これは杖であるとか、杖でない-無分節を分節と同平面に並べて相対的な分節否定と考える立場-とか言っていないで、全存在界を一挙に粉砕し尽くし、廓然たる絶対無分節の境位に翻入してみれ、というのだ。

 (中略)

 ある経験的事物の分節(A)を消去するためにそれを否定(Aではない)しても、それではただAに論理的に矛盾する「非A」を持ってきて、別の新しい分節をつくる出すだけのことで、禅の問題としている無分節とは全然質を異にする。

 (中略)

 もっと禅的な表現を使うなら、「有心」から一旦「無心」に出て、その境位からひるがえって「有心」の見ていた経験会の事物を「無心」の目で見直す必要がある、ということ。そうしてはじめて、存在の無「本質」的分節ということがわかってくる。  

 (井筒の提唱するイメージ)

          無分節

 

        ↗     ↘

 

  分節(Ⅰ)        分節(Ⅱ)

 

P164)コトバは、元来、意味的側面においては、存在分節をその第一義的絹音するものであって(略)分節1〈Ⅰ〉は有「本質」的分節。ここでは、分節とはいろいろ違う事物を「本質」的に分別することである。「本質」によって金縛りにされて動きのとれない事物は、他の侵入を絶対に赦さない。他の一切を拒否し、排除することによってのみ、それらの事物は自らを主張する。「本質」は事物を固定し、結晶させるものだ。

 これに反して、分節(Ⅱ)の次元では、あらゆる存在者が互いに透明である。ここでは、花が花でありながら-あるいは、花として現象しながら-しかも、花であるのではなくて、前にも言ったように、花のごとし(道元)である。「・・・のごとし」とは「本質」によって固定されていないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切にたいして自らを開いた花である。分節〈Ⅰ〉の次元では、花は一つの、それ自体で独立した、閉じられた単体だった。花はすべての他のものにたいして固く自らを閉じていた。だが「本質」のない分節(Ⅱ)の世界に移されるとき、花は、かたくなな自己閉鎖を解き、身を開く。

 無「本質」の世界。それは存在的透明性と開放性の世界、「水清くして底に徹す。魚の行くことは遅遅たり。空広くして涯りない。鳥の飛ぶことようようたり」〈宏智『座禅箴』〉

 

(中略)

 

魚は魚、鳥は鳥として立派に分節され区別されていながら、しかも、この鳥とこの魚との間には不思議な存在相通があり、存在融和がある。つまり、分節されているのに、その分節線が全然働いていないのだ。まるで分節されていないかのように。

 (P258)(密教曼陀羅カバラの類似性にふれて)

 Gショーレムはカッバラーを(中略)ごく、大ざっぱに言うなら『旧約』時代以後ユダヤ教の主導権を握ったラビたちは、律法から一切の神話的形象、象徴的イマージュをいっそうすることにその努力を傾注したということもできるだろう。とはいっても、元来、著しく形象的な『旧約聖書』が聖典である以上、イマージュを全然なくしてしまうことは、もとより不可能である。しかし、イマージュは依然としてそこにあっても、その生々しい象徴的作用性が剥奪されてしまえば、それはもう表現上のメタファとして生き残るだけだ。神を絶対的超越性において純化しようとしたラビたちは、地上的、人間性匂いのつきまとう一切の神話的表象を、この意味において、神から取り除こうとしたのだ。

 だが、この動向が極端にまで進めば、神は一つの純粋概念になってしまう。「生ける神」の瑞々しい生命力は枯渇し、果ては宗教そのものの死滅にもなりかねない。宗教的シンボルの生み出す濃密な象徴的雰囲気の中で、人が神と相対するという体験は不可能になり、ユダヤ教そのものの宗教的地盤である儀式、典礼は無内容な形骸と化してしまう。

 ユダヤ教のこの危機的状況において、カバリストは、ラビたちの合理主義に反抗し、シンボルの氾濫のうちにこそ、神の生きた実在性に触れようとする。宇宙的生命の根源である神、そしてその神の創造する存在背かには、合理主義者たちの知らない神秘の基底があり、この神的存在の深みがシンボルのヴェールの向う側に透視される、と。

 

 

 

(まとめ)

 

 マーク・テイラーがしようとしたことは、井筒俊彦が「意識と本質」で論じた東洋の禅における「無心」「無」を、ギリシャ、キリスト教的な思考の中で、論じようとしたもの、(なのかもしれない)だからあれほど井筒はテーラーを評価しているのであろう。そして井筒俊彦自体がはっきりと書いているのだ。

 

神秘主義といいますものは、ある意味で伝統的宗教の中における解体操作である、と私は考えております。つまり神秘主義とはある意味で宗教内部におけるデコンストリュクシオン運動であると思います」(「スーフィズムと言語哲学」)

 

とするならば、ポストモダンは、ユダヤカバラの現代的表れということができる。デリダレヴィナス、やはり現代思想を捉えるうえで、ユダヤ性というものについては、きちんと深くおさえていくべき必要があるようだ。(おしまい)

 

 

(参考文献)

 

ポストモダン時代のキリスト教」(教文館 AEマクグラス 2004

 

「さまよう」(岩波書店 MC・テーラー  1991

 

「ノッツ」 (法政大学出版 MC・テーラー 1996

 

現代思想Ⅰ」(PHP 2007

 

プロテスタント思想文化史」(教文館 AEマクグラス 2009

 

「意識と本質」(岩波 井筒俊彦 2001

 

井筒俊彦 叡智の哲学」(慶応大学出版会 若松英輔