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特攻兵士の心情とはどのようなものなのか?

 

 

戦場の宗教、軍人の信仰

戦場の宗教、軍人の信仰

 

 

修羅の翼―零戦特攻隊員の真情 (光人社NF文庫)

修羅の翼―零戦特攻隊員の真情 (光人社NF文庫)

 

 

 

私が興味を持っているのは、戦場における信仰、より絞るならば特攻作戦という極限状況において、「人を殺してはならない」「自死は許されない」クリスチャンがどのような死生観・信仰観を持って最期に臨んだのかということにある。

日本において、キリスト教の戦争協力については既に多くの研究がある。また、日本基督教団の戦争責任協力に関する反省など、このテーマは繰り返し論じられてきた。

日本のキリスト教組織が戦争協力をしたことは事実であり、そこに一片の弁解の余地もない。

(以下参照)

『殉教と靖国と信仰 死者をたたえるのは誰のためか』(高橋哲哉・菱木政晴・森一弘白澤社)(P13)

日本キリスト教新報1944年4月11日

「殉国即殉教」

もし殉教の意味を、聖書本来の意味に解すれば、それは現在この大戦の真っ只中において、切実に求められているものと言わねばならない。聖書に従えば殉教とは、生命を賭して福音を立証することである。それはただ宗教闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。今は国民総武装の時である。我々一億国民は、皆悠久の大義に生き、私利私欲を捨てて、ひたすら国難に殉ずることを求められている。しかるにこの国難に殉ずるところにこそ、福音への立証があり、殉教がある。これは殉国の精神を要する時である。全国民をして、この精神にみたしめよ。

 

私が興味があるのは、そのような国家、教会ですらも死ぬことを連呼していた中、特攻という極限状態の兵士達が自らの信仰をどう自己に納得させたかということにある。

この点に関して、近年研究を積み上げているのが、北海道大学の石川明人氏である。

 

(1)現代人が特攻隊員の心情を理解することは果たして可能なのか?

石川明人氏(北大准教授)は、2013年『戦場の宗教、軍人の信仰』(2013 八千代出版)を執筆し、米軍の従軍チャプレン、自衛隊におけるキリスト教徒組織コルネリオ会などを取り上げ、「戦場のキリスト教」についてこれまでにない新しい光を当てている。第四章では一章を割き、「特攻の死と信仰 クリスチャンの特攻隊員(林市造の手記を読む)」を書いている。この中で京都大学経済学部から学徒出陣により徴兵され、海軍第十四飛行予備学生として神風特別攻撃隊第2七生隊のパイロットとして戦死した林市造の手記と手紙の原資料を精査し、そのキリスト教信仰を描き出そうとしている。

 母や家族に出した手紙、日記には胸を打つものがある。しかし、我々はこれを読むとき、戦地から送られた兵士の手紙には、常に投函前に検閲が行われていたこを見落としてはならない。確かにそれは確実な死を前にした、悲痛で切実な叫びが聞こえるが、しかしそれでもそこには兵士達が感じていた心のすべてが現れているわけではないことは決して忘れてはならないポイントである。

 またそれを読む現代の我々が、そこにどれだけ胸を打たれようとも、我々には特攻隊パイロットの心情を理解することはできない。なぜなら、それは平和な現在の一般常識とかけ離れた余りに過酷な状況があるのであり、そこでは一般の常識によって判断することすら許されない現実があったからである。もし、現代を生きる人間が特攻を理解するためには、まずは虚心坦懐に、当時の特攻隊員の状況を、その当事者の語りによって理解しようとしなければならない。

特攻を語るとき、それがどれだけ心揺さぶられるものであっても、我々は「情緒」だけでそれを語り捉えてはならない、それは現代を生きる生者の傲慢である、と私は思う。

 

その上で、特攻作戦を考える上で、まず抑えておくべきが角田和男氏の著書「修羅の翼 特攻隊員の真情」である。

 

(2)角田和男氏とその意義

①角田和男(1918-2013 海軍中尉)は、千葉県に生まれ6歳のときに父が亡くなり貧しい家庭で育った。1934年、16歳で海軍予科練5期を受験、横須賀航空隊に入り1937年卒業、戦闘機操縦訓練を受け、1938年空母蒼龍に配属。1939年12空に転属、中国漢口に零戦操縦士として赴任、成都爆撃など実践に参加。

1942年からは、ラバウル基地で、迎撃戦、ガダルカナル上陸援護、ソロモン海戦などに参加。1944年米軍のフィリピンレイテ上陸に伴い、マバラカット基地に転属。(同10月25日始めての神風特別攻撃が行われる)、11月6日201空の特攻隊に配属。終戦まで特攻隊の「直掩任務」に加わる。戦争中の単独撃墜は13機、共同撃墜数は100機以上に登る。2013年に95歳で亡くなる。

 角田氏は、1944年10月25日(結成は23日未明)にフィリピンマバラカット基地で始まった神風特別攻撃隊の創設時から、作戦に加わり生き延びた。また特攻作戦が始まった当時、既にベテランパイロットとの経験を持っていた。また戦後、茨城に戻り開拓農民として生きる中、戦死した部下、戦友の遺族の下を訪ね歩き、その最期を報告し、慰霊して廻った。戦中、戦後を通して特攻作戦の現場を最もよくしる人物である。私は幸いにして2010年9月に茨城のお宅を訪ね、二日間で約10時間ほどお話を聞く機会があった。

現代を生きる我々が、特攻作戦が行われていた極限状態を知るためには、角田氏の『修羅の翼 特攻隊員の真情』を読む必要がある。

 

②「修羅の翼 特攻隊員の真情」の出版の経緯

 角田氏は戦後、全く世に出ることはなく、遺族の行脚を除き、自らの体験を外部に語ることはなかった。1983年頃から、戦史家秦邦彦氏や、戸髙一成氏(現呉大和ミュージアム館長)などのすすめをうけ5年間かけて執筆した。またメディアの取材も一切受けなかったが、晩年2010年ごろからNHKなどの戦争ドキュメンタリーの取材を受け、自らの体験を語るようになった。(2011年には戦争証言プロジェクト「兵士たちの証言」でインタビューに応じている。

この著書の特長は、戦場における特攻兵士の生活、真情を実に赤裸々に書き出していることにある。以下それを引用する。

なお角田和男氏のインタビューはNHKホームページの戦争証言プロジェクトで視聴が可能である。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100784_00000

 

 

(同著から)

従軍慰安婦の記述(P196~)

(B24の急襲があった)

私は、慰安所にもある防空壕に入ろうと彼女を誘ったところが、

「私は行きません、兵隊さんどうぞ入ってください」

と言う。「どうしたんだ、危ないぞ」と言うと、「防空壕に入ったんではいつまでも戦死できませんから」と言う。不思議に思い色々事情を尋ねると、ここラバウルに今いる海軍下士官兵用の慰安婦は、ほとんどが元山付近の北朝鮮出身者が多いのだが・・

(中略)

船に乗せられてトラック島に向かう途中で初めて慰安婦の仕事を説明され、驚いたが既に遅かった。船の中では、毎日これも天皇陛下のためであると教育され、トラックを経由、ラバウルに着いたときは大部分の者があきらめ、しばらくの間は四、五名の者がいうことを聞かなかったが、今では故郷に許婚者が待っているという一人だけが頑張って何と言われても聞かず、仲間の洗濯、炊事などをしているということであった。

「私は天皇陛下のために兵隊さんの奥さんの代わりを勤めようと決心しました。仲間内には日本語の話せない子もいますが、私は京城の高等女学校を卒業し内地人の生活もだいたい知っているので、なるべく内地の奥様らしく務めるよう努力しているのです」と、初めて会ったときの挨拶も、この子にできる精一杯の忠義心であったのだ。

 しかし、このようなことは故郷には知らせられない。家には横浜局気付で元気に工場で働いている、詳しいことは軍機で書けない、といつも簡単にはがきを出している。お金はたくさんもらえるが、使い用がない。家に十円以上は送れないと言う。それ以上の大金が女の子にかせげる訳がないから監督者は金をためて、横浜辺りで将来は料理店でも開いたらどうかということで、だいたいみなその積もりで故郷へは帰らない決心でいるのだと言う。

 「監督の説明では、もし万一ここで戦死するようなことがあれば、身分を一階級進めて特志看護婦として公報され、靖国神社に祭ってもらえるとのことです。私は店を開くより靖国神社に祭ってもらい、立派に軍属として父母に公報を届けてもらった方が良いのです。防空壕に入っては戦死できませんから」と言う。

 戦争とはいえ何と不幸な人たちのいることか。人性を完全に狂わされてしまったのだ。ときどき心ない兵隊のからかいに、彼女たちは、「何を言うか、天皇陛下一つ、朝鮮朝鮮パカにするな」の叫び声は毎夜のようにどこかで聞かれた。それに自分も一日一日を死と対面する空戦を続けているが、まだ自分から進んで死のうとは思っていない。国のために全力で戦うが、また自分でも死にたくない、落とされたくないから精一杯戦っているのだ。

 死を決している少女の言葉にウソは無いと信じた。そうと聞いて一人逃れる訳にはいかない。

「チラッ」と妻の顔が浮かんだが、天皇陛下のためにとこの道を選んだ少女がいるなら陛下に代わってお詫びの印に、私も一緒に万一の場合は死んでやろう、と決心した。

 若丸は飛び上がらんばかりに喜んだ。

「本当に一緒に死んでくれますか、前に聞いたことですが、もし爆弾が当たって二人一緒に戦死すれば、海軍では一夜でも妻は妻、一緒に海軍葬をしてくれるそうです。私は飛行士官の妻として靖国神社に祭ってもらえるかも知れませんね」と言う。

 私は服装を整えて静かに横になっていた。終夜続いた間断的な盲爆の一発で、三十キロくらいの爆弾が慰安所の庭に落ちた。バリ、バリッという屋根に破片の落ちる音と共に二階から人声がする。誰か他にもいる。飛び起きて見に行った若丸が、しばらくして眼を輝かして帰ってきた。

「今夜も防空壕に入らない者が七人ばかりいる。でも皆一人で寝ている。ちょうど上の部屋の子が足に破片を受けて今病院に運ばれて行った。あの子は可哀相だった」と、

 しかし、嬉しそうに「今日は爆弾が当たる、当たる」と歌うように口ずさみ、私の横に寄り添って胸に顔を埋め、真剣に、

 「神様仏様、どうか今夜は爆弾が命中しますように」と、小声で祈っていた。本当に可愛い子だった。

 私は、この子の運命が何とかならないものかと考えつつ、申し訳ないが私は心の中で、

「当たれば仕方ないが、なるべく爆弾は当たりませんように」と祈っていた。

 

(P398)出発直前の特攻隊員たち

 昼飯には少し早かったが、配られた弁当の缶詰を、機上では面倒だから食って行こうという者があり、さっそく整備員に手伝ってもらって缶を開いたところ、この缶詰のまずいこと、ぼそぼそで味も何もあったものではない。

 私はそっと若い隊員たちを見回した。ところが、彼らは実に旨そうにまるで遠足に行った小学生のように嬉々として立ち喰いしている。しかし、約半数の者はサイダーだけ飲んで、あとは、

「おい、俺はとても喉を通らないぞ」と見送りの整備員にいたずらっぽく渡していた。、

 この時、私の顔色はどうだったろう。特務少尉ともあろう者がこの期に及んで弁当も喰い残したとあっては恥だと考え、傍らに転がっていた丸太に腰を下ろして、サイダーを飲みながら形だけは悠々と全部平らげた。まったく砂を噛む想いとはこのことだろう。あの半数の若者たちには、遠く及ばない、と感じた。

(P399 )

 距離約3万メートルとなって、突撃を下令する。爆装機は編隊を解き、全力接敵を開始した。幸い上空に直衛機はいない。私の視力はこの天候なら三万メートル以上で敵機を発見できる。隊員の表情は分からなかったが、全力で突入する気魄はまったく差異は認められない。なぜか防御砲火もなかった。訓練した型通りの降爆に入る。角度も良く敵進攻方向に合わせて六十度。

 中型空母に向かった一番機は、その前甲板に見事命中、大きな爆炎が上がった。二番機は戦艦の中央煙突の後ろ十メートルばかりに突入。この頃になってようやく防御砲火が猛烈となり。一番機の開けた穴を狙った三番機は、1500メートルくらいまで突っ込んだ時、突然炎を吐いた。 

 やられたか、と瞬間胸が締め付けられたが、完全に大きな火の玉となりながら、確実に急降下を続け、一条の尾を引きながら空母甲板の中央に命中し、黒煙の中にさらに大きく爆発の火炎を上げた。

 実に人間技とは思えない凄い気力である。緒戦時、被弾して着陸した操縦者がすでに何分か前に死んでいたはずだった、というような話を聞いたことがあり(これは、私の同期生、中瀬正幸一飛曹だったことを戦後知った)これはだいぶ誇張された話だと思っていたが、この時、私は初めて真実に精神力の物凄さを見せ付けられた。米空母の乗員はどんなに感じただろう。(中略)

 この合計八名の戦果は、ただちに艦隊司令部に報告され、改めて神風特別攻撃隊葉桜隊と命名されたのだった。

 

(ラジオ番組のインタビューで、私(D)は、角田氏に聞いた。「目の前で戦友が敵艦に突っ込んでいくのを見るとき、一体どんなお気持ちでしたか?」と。どうしても聞きたい質問だったのだ。角田氏はその時思ったことを本書P182以下の部分のことを思い出しながら語った。1942年11月まだ特攻作戦が開始される前、ラバウル基地でソロモン付近の作戦に関わっていた頃、日本軍の輸送船団の護衛任務についていたとき、8機零戦で20数機のグラマンに襲われたときのことを書いている。

(P180)

 この雷撃隊だけは絶対に阻止しなければならない。魚雷一発くえば艦も船も轟沈まちがいなしだ。どうする、どうする?

 せわしく自分で自分に問いかける。答えは一つ、体当たりしかない。全身の血がカアッと頭に上って、目がくらみそうになる。胸がぎゅっとしめつけられてくる。それでも手足は確実に操縦をつづけ、頭の中の他の一部分は最も有効な方法を考える。

 敵の一番機、おそらく魚雷は胴体の中に抱いているだろう。前上方や側方では駄目だ、真正面から同高度でぶつかろう。うまくすれば、魚雷の誘爆を起こせるかも知れない。そうだ、飛行機ではない、魚雷だ、あの中の魚雷に体当たりするのだ。そうすれば、少なくとも第一編隊の九機くらいは道連れにすることができるだろう。敵の第一編隊が木端みじんになれば、おそらく第二、第三編隊は算を乱して避退に移るだろう。

 

(P182)

緊張と不安に固くなっていた胸がふぁーっと暖く膨らんで瞼がにじむ。形容し難い嬉しさ、もしこの時死んでいたら極楽往生は間違い無かったろうに。

ラジオ深夜便インタビューP57)

そのときは命中してよかったなぁ、と思いましたね。今でこそ思い出すたびに涙が出ますけれど、当時としては、命令された任務を遂行するのが第一でした。(中略)

 私を撃ってくれと。空戦しながら輸送船を攻撃することはできませんから、私の零戦を狙ってくれれば輸送船が助かります。

 そのときは、つらかった・・・。俺を撃ってくれーっていう気持ちと、輸送船が狙われたらどうしようと、胸を締めつけられるというのはああいう感じです。零戦だと気づいたら、相手はみんな撃ってきてくれました。それがうれしかったですね。涙も浮かんできました。

「ああよかった。こいつらの爆弾全部俺がもらった。これで輸送船は安全だ」と。・・・あのとき死んでいれば、私は極楽往生間違いなかったと思います。そういう経験があるものですから、葉桜隊が突っ込んだときも似たような気持ちで見ていました。みんな、うまくぶつかるかどうか心配して、硬くなって突っ込んでいくだろうと。「ようし、これでぶつかる」とわかったとき、おそらく胸をふくらませたんじゃないかな、と思って。みんな満足して死んでくれたんだなと思ってました。

 

(なお直接の談話では、以下のように話していた)

「私は寺に行きますが、そんなに神さまのことなんて考えたことはなかった。でもこのときは仏も神もアメリカのキリストもイスラムアッラーも全部が私の中に入ったような気がした。もし私はあそこで死んでいれば極楽往生間違いなかったと思います。と語っていた。」

角田氏がキリストについて唯一語っていたのがここであり、とても印象に残っている。「アメリカのキリスト」ってのはちょっと違うんでは、と頭の片隅で思いながら)

 

 

(P402)出撃前夜の特攻隊パイロット達

その入り口に近づいた時、突然、右手の暗闇から飛び出して来た者に大手を広げて止められた。

「ここは士官のくるところではありません」と押し返してくる。

(中略)

「何だ、倉田じゃないか、どうしたんだ」私の声に彼も気がついた。

「あっ分隊士ですか、分隊士なら良いんですが、士官が見えたら止めるように恃まれ、番をしていたものですから」と、変なことをいう。不審に思ってわけを聞いてみると

「搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです。特に飛行長には見られたくないので、交代で立番をしているのです。飛行長がみえた時は中の者にすぐ知らせるのです。しかし、分隊士なら宜しいですから見てください」

そう言われてドアを開けた。そこは電灯もなく、缶詰の空缶に廃油を灯したのが三、四個置かれていた。薄暗い部屋の正面にポツンと十人ばかりが飛行服のままあぐらをかいている。そして、無表情のままじろっとこちらを見つめた眼がぎらぎらと異様に輝き、ふと鬼気迫る、といった感じを覚えた。

 左隅には十数人が一団となって、ひそひそ話している。ああ、ここも私たちの寝床ではない、と直感して扉を閉めた。

(中略)

 「どうしたんだ、今日俺たちと一緒に行った搭乗員たちは、みな明るく、喜び勇んでいたように見えたんだがなあ」

 「そうなんです。ですが、彼らも昨夜はやはりこうしていました。眼をつむるのが恐いんだそうです。色々と雑念が出て来て、それで本当に眠くなるまでああして起きているのです。毎晩十二時頃には寝ますので、一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは、ああして起きて待っているのです。しかし、こんな姿は士官には見せたくない、特に飛行長には、絶対にみんな喜んで死んで行く、と信じていてもらいたいのです。だから、朝起きて飛行場に行く時は、みんな明るく朗らかになりますよ。今日の特攻隊員と少しも変わらなくなりますよ」

 私は驚いた。今日のあの悠々たる態度、嬉々とした笑顔、あれが作られたものであったとすれば、彼らはいかなる名優にも劣らない。しかし、また、昼の顔も夜の顔もどちらも本心であったかも知れない。何でこのようにまでして飛行長に義理立てするのか、立てつづけの私の追及に、倉田は

「それは、特攻隊編成の際、隊長の人選が長官の思い通りに行かず、新任で新妻のある関大尉(D註:最初の特攻攻撃を行った関行男大尉)を選出したことで長官の怒りに触れ、他の飛行隊長は全部搭乗配置を取り上げられたという噂があるのです。それで201空の下士官は、自分たちだけでも喜んで死んでやらなければ、間に立たされた司令や副長が可哀相だと思っているらしいのです」とのことであった。

 割り切れない気持ちを残して、私たちはまたトボトボと坂道を明るい士官室へと引き返していった。

 

(P438)

誉田参謀が、先ほど参謀長に届けた書類を見ながら、

「角田君、この手紙の内容は知っているんだろうな」

「いいえ、知りません」

「そうか、これには、最初は君が誘導直掩で列機を突っ込ませ、成功した後は君は単独で突っ込ませてくれと書いてあるが、聞かなかったのかな」

「ききませんでしたが、それではやります」

 

 

(P497)終戦、国に帰る

 帰宅して妻に相談すると農家育ちの妻は喜んで、「働く土地があるならやりましょう。今まではお父さん一人で働いてくれたから、今度は私が働いて、開墾でも何でもしてお父さん一人くらい養ってみせますよ」と心強い返事が返って来た。

 こうして現在地に入植することになったのである。先人も見離していた富士火山灰の酸性土壌との二十年近い苦闘が続き、曲がりなりにも人の住家らしきものに入ることができたのは、世の中も経済成長期に入った昭和三十九年暮れのことであった。

 

(P499)終戦後、戦友の遺族を訪ねる

以来、時間の許す限りご遺族を訪ねて、個人をおまいりさせていただく慰霊の旅が始まった。(中略)

しかし、正確な名簿があるわけでなく、全軍布告された特攻隊員でさえ遺族の不明な方も少なくなかった。(中略 昭和52年7月24日)

「こちらは昔、神風特別攻撃隊で戦死された出津正平さんのお宅でしょうか」と尋ねると、きょとんと、している。

「失礼ですが、出津源一様という方をご存知ないでしょうか」と再び尋ねると、不思議そうに、

「源一は私ですが、何の用でしょう」というので、

「私は特別攻撃隊で戦死されました正平さんの戦友ふぇすが、このたびフィリピンの現地に慰霊祭りに行くことになりましたので、その前に一度遺族にお会いしてお墓参りさせて戴きたいと思って参りました」

 と言ったが、まだ腑に落ちない様子で、

「人違いではないでしょうか。正平は確かに私の弟ですが、特攻隊員だということは聞いたことがありません。確かに飛行機乗りにはなっていましたが、どこでどうなったのか、音信不通のままで、戦死の公報もなく、十年近く経っても帰って来ないので、どこかで死んでしまったのだろうと思い、死亡認定をしてお墓も立てましたが・・・」となかなか信用してもらえなかった。

(中略)

私は、当時のこのことを、厚生省の担当課長に訴えたが、

「今さら、そのようなことを申し立てても、遺族を迷わすだけだから止めてもらいたい」

との一言で、一顧もされず一蹴されてしまった。

(中略)

「今頃になって戦死していたとは、どういうことなのだ。貴方が責任を取ってくれるとでも言うのか」と詰問されてしまった。しかし、私にはどうすることもできないのであった。

 

(P524 再刊にあたって)

 平成13年9月11日、ニューヨークに航空機による同時多発テロがあり、テレビは実況放送を続けていた。私は涙を押さえながら見ていた。あの斜めになってビルに体当たりする旅客機の凄まじさ、場所も目的もまったく違ってはいたが、私は同じような場面を前に一度、ただ一人で大きく眼を開けて瞬きもせず見つめていた。葉桜隊の体当たり。

 飛行長中島正中佐より「爆装隊員は沈着に判断行動せよ。敵を発見したならばまず一番機は一番大きな空母のリフトにぶつかって穴を開けろ。二、三番機はその結果を見て沈まないと思ったら二番機は一番機の開けた穴に突っ込め。それでも沈まなかったら三番機も同じ穴に突っ込め。目標を散らしては戦果が薄れる。千巻の場合は煙突の穴に突っ込め。直掩機隊はこの間、敵の攻撃を受けても反撃は一切ならぬ。爆装隊の盾となり、全弾身に受けて爆装隊を進めよ。制空隊は敵の上空直掩機を圏外に誘い出し、攻撃の終るまで空戦を続け、全機投入を確認したならば帰投して宜しいが、確認できずまた離脱困難の場合は最後まで戦え」

 

(註)

 2011年の東日本大震災福島第一原発事故では、自衛隊のヘリが放水シートに水をくるみ、原発上空からの放水作戦が行われた。それは「現実的には効果はないのに、日本が必死で本気で取れうる手段をすべて取ったということをアメリカに示す」という点で、特攻作戦そのものだった。

知人のディレクターから聞いたが、角田氏はやはりそれを涙を流しながらテレビを見ていたという。

 

(P512)

 国民総中流意識の時代は過ぎて、貧富の差は次第に大きく開きつつあり、田園は今、荒れなんとしています。誤った歴史を再び繰り返してはならないのです。先人の誤った轍を踏んではならないと思います。昭和六十三年 中秋 角田和男

(P526)

 たとえ平和のためであっても、戦さはしてはならない、二度と遺族をつくってはならない。

 

 

(まとめ)

特攻を語るとき、まず押さえておくべきことは、それが、人を必ず死ぬ作戦に従事させるがゆえに、あまりに異常な状態にあり、現在の私たちが普通のレベルでは理解できない心理にあるということである。このことは、当事者の語りに触れることによってしか気づくことすらできない。

 その点において、角田氏の著書は極めて貴重な歴史的価値を持っているのだと思う。