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内村の『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読む -武田清子の土着論を通して

宗教学特殊講義                        

 

論題:『代表的日本人』と新渡戸の『武士道』を読み比べる -武田清子の土着論を通して

 

 

 

 

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

武士道 (講談社バイリンガル・ブックス)

 

 

0 はじめに

 本学期にこの授業では内村鑑三の『代表的日本人』を通読してきた。その中で私が感じたのは、現代の視点からこの著作を読むとき、時折経ち現れる「わからなさ」「ずれ」である。しかし、その「ずれ」こそが、逆に明治時代、西欧列強に伍して富国強兵を進める非キリスト教国の日本を、プロテスタントキリスト者としてなんとか説明、弁証しようとした内村の意識や思想を感じさせられて興味深く、読むものに様々なことを考えさせる。

 文芸評論家の若松英輔は『内村鑑三を読む』(岩波ブックレット)の中で、こう記述する。

 

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

内村鑑三をよむ (岩波ブックレット)

 

 「未だに私たちはこの得意な人物を、宗教、キリスト教あるいは近代日本といった柵の向こうに眺めてはいないだろうか。格子の中にいるのは内村ではない。私たちの方である」

 著作を読むときの「ずれ」が、逆に現代を生きる私の歴史観、信仰観を逆照射し、問いかけてくるような思いに時に捉われることがしばしばあった。

 あるいはこの「ずれ」は、現代から内村の特に『代表的日本人』を読む際二重のフレームを通していることとも関係があると思われる。それは①明治との100年以上のギャップ②この著作が英語で海外に向けて出版されたものを日本語に再翻訳して読んでいる、ということである。

 いずれにしろ私はこの「ずれ」をどう捉えるかが、内村を読む鍵であり、最も興味を感じるところなのである。

本論では、武田清子の日本のキリスト教土着論を踏まえたうえで、『代表的日本人』と並び、明治期に日本人が海外に向けて英語で著述し、現代でも日本人論の原点として読まれ続けている、新渡戸稲造の『武士道』を通して読み、比較することで、その特徴を探ることを目的とする。なおこの両書の比較に関しては、既に多くの研究があると思われるが、本論では私自身が両書を読んで感じたことを率直に論じていきたい。

 

Ⅰ、『代表的日本人』と『武士道』の経緯・反響

 戦前、日本人がその文化、思想を英語で海外に紹介した書籍としては、内村の『代表的日本人』(『Representative Men of Japan』1908)、新渡戸の『武士道』(『BUSHIDO』 1900)、さらに岡倉天心の『茶の本』(『The Book of Tea』 1906)の三冊が代表的なものとして挙げられる。『代表的日本人』は1894年に出版された『Japan and the Japanese(日本及日本人)』の改版である。鈴木範久の解説によると、原著が日清戦争の最中に書かれていたのに対し、改版時は日露戦争の後であり、「絶対非戦論」の立場を明確にしていた内村は思想的に変化しており、原版の収録文の取捨選択や序文にその変化が見られるとされている。英語の他ドイツ語、デンマーク語、また鈴木によると1925年の日記にフランス首相クレマンソーが本書を読み日本に行き内村と話したい、と語ったことを伝えられ嬉しく思った、という記述があることからフランス版も存在したようだ。

 一方『武士道』は新渡戸全集解説によると1900年にフィラデルフィアの出版社から出版された。その後、NYの出版社で増訂され、ドイツ語、ポーランド語、ノルウェー語、スペイン語、ロシア語、イタリア語、ボヘミア語、他欧州の主要言語、中国語さらにはインドのマラティ語にも翻訳されという。反響として代表的なのは、同著が当時日露戦争の講和の仲介に乗り出していたアメリカ大統領セオドアルーズベルトへの影響である。

 特使としてアメリカに送られた貴族院議員金子堅太郎は、ハーバード大学留学時にルーズベルトと同窓であり知友であったが、金子はその際、日本を知ってもらうために『武士道』を送ったという。金子が外相小村寿太郎に打電した資料が外交資料として残されているという。

「食事中大統領語ッテ曰ク 先般拝受セシ書籍中「武士道」トスル書ハ、尤モ克ク日本人民ノ精神ヲ写シ得タリ。予ハ此書ヲ読ミテ、始メテ日本国民ノ徳性ヲ知悉スルコトヲ得タレバ、直二ー書肆ニ命ジ三十部ヲ購入シ、之ヲ知友に頒布シテ閲読セシメタリ。」(b)

引用であり原資料に当たってはいないが、事実とすれば、日本史に影響を及ぼすほどの影響を与えた著作といえ、「代表的日本人」よりは、大きな影響力を持っていたといえる。

 いずれにしろ、日露戦争前後に書かれた両書は、列強と戦争を始めた極東の小国と思われていた日本に、世界の注目が集まり始めた時期であり、この時期に英文著作が、海外で出版され、翻訳されたという点で、重要な著作ということができる。

 時期的には『代表的日本人』が6年早く、二人の親交をみれば、当然新渡戸はそれを読んでいたと思われるし、大きな影響を受けているだろう。その点からの研究も存在するが、今回は

土着と背教―伝統的エトスとプロテスタント (1967年)

土着と背教―伝統的エトスとプロテスタント (1967年)

 

 

 

そこには触れずに、むしろ読んだときに感じたことを直接に考えていきたいと思う。Ⅱ、武田清子『土着と背教』の土着論からみた内村鑑三新渡戸稲造

 内村鑑三と新渡戸について札幌農学校時代の同級生であり、共にキリスト教の洗礼を受けたことはよく知られており、詳しくは省略する。

武田清子は『土着と背教』(1967)の中で、日本のキリスト教需要、土着の形態を㊀埋没型(妥協の埋没)㊁孤立型(非妥協)㊂対決型㊃接木型あるいは土着型(対決を底にひそめつつ融合的に定着)㊄背教型の5つに分類している。

 その中で内村鑑三に関しては、不敬事件などから対決型であるとしながらも、同時に著書『代表的日本人』の中に第四の「接木型」をも見いだしている。

 

(同著P11)たとえば、内村鑑三の『代表的日本人』に「接木型」を追及するアプローチのひとつの原型が見られる。内村はこの本のドイツ語版に次のようなことを書いている。

 「この諸派、現在の世を示すものではない。これは現在基督信徒たる余自身の接木せられている砧木の幹を示すものである。」(引用終)

 

一方で武田は新渡戸を接木型の一典型であると考え、特に内村と同窓で生涯の親友でありながら、「内村と新渡戸とは、その人柄、信仰のあり方などすべてにおいて非常に対照的である。」としてその違いを以下のように説明している。

 

(同著P27)内村はきびしい預言者的迫力にみちた人物である。キリスト教信仰の述べ伝え方も無価値の変革を迫るものがあり、対決的である。ところが新渡戸は母のような暖かい愛にみちた情の人であり、その態度は受容的、抱擁的である。教師としても、内村は弟子を厳選し、少数の限定された人たちを己が弟子としてきびしく教育したのであり、自分の考え方とくいちがうことがあると、容赦なく波紋した。ある場合は、内村のこうした「狭さ」に堪えられず、弟子の側から去ったものもの多かった。他方、教師としての新渡戸は、来るをこばまず、種々雑多な人々をあたたかく受け入れ、自分の考えを押し付けるよりというよりも、彼ら弟子たちのそれぞれよいところを愛し、それぞれに新しい生命の火をともだしたのであり、また心をつくして世話をやいた。そして弟子に恩を仇で返されてもそれを悔いない寛容の人であった。

(中略)

 しかも、二人は相反発する人間関係にあったのではなくて、新渡戸は信仰に関しては、あるところまでゆくと、「このあとは内村の指導を受けてくれ」と自分の弟子たちの多数を内村門下におくりこんだのであった(中略)

 矢内原忠雄氏は一高時代、内村鑑三の信仰との違いを新渡戸稲造校長にたずねておられる。

「(中略)その時先生はこういう風にお答えになりました。

『僕のは正門ではない。横の門から入ったんだ。して、横の門というのは悲しみという事である。』(中略)正門と言われたのは贖罪の信仰の事ではあるまいか。之は内村鑑三先生の信仰の中心でありました。新渡戸先生ご自身が贖罪の思想をもっていられたかどうかということを私は詳しく知りませんけれども、先生の信仰生活の主な点は贖罪よりも悲しみという事である。そういう意味で言われたのではあるまいかと思うんです」(引用終)

 

 武田はさらに、新渡戸の信仰の特徴として、クエーカー信徒としての黙思、黙想を尊ぶ神秘主義的傾向からも詳しく説明している。この二人の違いは著作の中ではどう現れてくるか次に考える。

 

Ⅲ、『代表的日本人』と『武士道』を読む

(1)構成と全体を通しての印象

 『代表的日本人』は、西郷隆盛(新日本の創設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖者)、中江藤樹(村の先生)、日蓮上人(仏僧)の五人を上げ、その生涯業績を通して日本人の精神を説明しようとする。

 一方『武士道』では、武士道が日本の魂であるとして、義・勇気・仁(惻隠の心)、礼儀、誠実、名誉、忠義、克己、切腹などを説明しながらその歴史背景を通して日本人の精神を説明しようとする。両書は構成は異なっているが、内容においては通底する志向がある。

 両書を通読しての第一印象としては、共に近代化を進めるアジアの小国として見られていた日本と日本人の精神を、キリスト者として西欧に対し紹介弁証しようとすることを目的としている点においては共通している。内村の文章に比べると、新渡戸の方が教養においては聖書外にも広いことを感じさせられる。武士道をマルクス資本論を引用し、切腹の説明でシーぇクスピアを引用し、欧州の騎士道の歴史をマグナカルタまで遡り論じ比較する。あるいは当時の社会進化論、ニーチェの民族論、古代ギリシャからゲーテヘーゲル、婦人の地位について説明するときにはカトリックの聖女の生涯まで、当時の西洋思想や歴史を自在に引用し、武士道と比較するその手際は見事であり、すでにしてこれは比較文化論となりえている、といえる。

この辺りは、渡米時アマースト大学で2年学んだ後は基本的に独学で学んだ内村に対し、ジョンホプキンス大学で2年半、さらにドイツで2年、経済、歴史、行政、農業、自然科学を深く学んだ新渡戸との違いを考えざるを得ない。(当時としては内村も大変な学識はありあくまで比較した場合だが)

 

例えば新渡戸は冒頭武士道を以下のように説明する。(引用1章『道徳体系としての武士道』

「私は日本語の武士道を、大雑把に英語でシヴァリー(chivalry)と訳したが、その言語においては騎士道(Horsemanship)というよりも、もっと深い意味がある。すなわち、武士道は文字通り武人あるいは騎士の道であり、武士がその職分を尽くすときでも、日常生活の言行においても、守らなければならない道であって、言いかえれば、武士の掟であり、武士階級の身分に伴う義務なのである。(原文は下部)

In a word, the “Precept of Knighthood,” the nobles oblige of the warrior class.(引用終)

 

武士の掟を、ノブレス・オブリュージュと定義する手際は見事であり、現代でもこれ以上適切な用語で、西洋に武士道の概念を説明する言葉を私は思いつかない。

内村はこのような明晰な定義をなしえてはいない。しかし『代表的日本人』を通読したとき全体を通して見えてくるものは、まさに同じものなのである。新渡戸が武士道の本質を西洋の文化、歴史を引用しながら明晰に定義していったのに対し、内村は人物論として4人(日蓮は武士ではないので)の具体的な生涯・エピソードを通してこれを説明しようとした。

 両書は、互いに補完しあっているといえる。

両書を合わせて読むことで、当時のプロテスタントキリスト者が、日本の精神にキリスト教をどう接木しようとしていたのかが、よりくっきりと見えてくるのである。

次節以下では、具体的に何点か引用し考察していきたい。

 

(2)内容から

 以下4点ほどあげて両書を比較する。

①  陽明学キリスト教との比較

(内村)1章西郷隆盛は「天の義」「誠」を生きた人物であり原点が陽明学であると説明する。

 

(引用P18)「陽明学は、中国思想のなかでは、同じアジアに起源を有する最も聖なる宗教と、きわめて似たところがあります。それは、崇高な良心を教え、恵み深くありながら、きびしい「天」の法を説く点です。」

陽明学キリスト教の類似性については、これまでにも何度か指摘されました。(中略)「これは陽明学にそっくりだ。帝国の崩壊を引き起こすものだ」。こう叫んだのは維新革命で名をはせた長州の戦略家、高杉新作であります。(注によると原典は蒲生重章『近世偉人伝』(1878)         

(新渡戸)『武士道』では、第二章「武士道の淵源」で武士道は単なる知識ではなく行動を重視した、として王陽明を説明する。さらにはそこから新約との類似を説明している。

(引用)

西洋の読者は、王陽明の著書の中に、『新約聖書』とよく似ている言葉の数々を、容易に見出すことであろう。それぞれに固有な用語の相違にもかかわらず「まず神の国と神の義を求めよ。そうすればすべてこれらのものは、汝らに加えられるであろう」という言葉は、王陽明の書の中に終始見出される思想である。

 王陽命を師とあおぐ日本人は(注 三輪執斎)「転地正々の主宰、人に宿りて心となる。ゆえに心は活物にして、常に照々たり」と言い、また「その本体の霊明は常に照々たり、その霊明人意に渡らず、自然より発現して、よくその善悪を照らすを良知という、かの天神の光明なり」

と言っている。この言葉は、アイザック・ぺニントンなどの神秘主義の哲学者たちの言葉ときわめて似た響きではないか!

 

(まとめ)内村の文章だけでは、陽明学キリスト教の類似が私にはいまいち理解が難しかったのだが、新渡戸の説明とあわせて読むことで、「天の義(正義)」が人に宿り行動に移すこと(知名合一)が、キリスト教の受肉論、あるいはロゴスキリスト論と共通するものがあると認  

識されていたことを理解できるのである。

 

②  義理

(内村)内村の著作において重要な概念が、「正義」「義」である。例えば「西郷にとり「正義」ほど天下に大事なものはありません」

 

(新渡戸)新渡戸は6章で「義または正義 Rectitude or Justice」として詳細に説明する。特に興味深く感じられるのは「義理」の説明である。

(引用P60)「義理は義(Rectitude)から出て、はじめはその元の意味から、わずかしか離れていなかったが、次第に離れていって、ついには俗世間で誤り用いられるようになり。本来の意味は曲げられてしまった。義理という言葉は、もともと「正義の道理(Right reason)」という意味であったが、時代を経るにしたがい、漠然とした義務の観念を意味するようになって、世論が人々に対し、これを守り行うことを期待する言葉となってしまった。(中略)

 義理は、正しい道理から遠ざかって誤用されるようになると、あらゆる種類の詭弁と偽善の隠れみのとなってしまった。それ故に、武士道においても、もし正しい勇気の信念と、敢為堅忍の精神がなかったならば、義理は一片して、卑怯者の巣と化してしまったであろう。

 

(まとめ)

 武士道の原点として義と義理を挙げている点では共通しているが、新渡戸にはそこから踏み込んだシビアな視点が見られる。

 

③経済観

(内村)『代表的日本人』の中で、上杉鷹山の行政・産業改革や二宮尊徳公共事業一般として、経済を論じている。そこから感じられるのは比較的素朴な農本主義的思想であり、質素倹約を尊ぶ傾向が強い。

 

(西郷の「生財」の引用 P47)「『左伝』にこう書かれている。徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし国民に安らぎを与えることにより生じるものだからである(後略)」

 

(引用 P67)「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であるます。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。」

 

(新渡戸)新渡戸も農本主義的なものを原点としている。また、武士が金銭をいやしんだことをシェークスピアの戯曲等を引用して詳しく説明し、節約が教えられたのは経済上の理由ではなく、自分の欲望をおさえる克己の訓練のためであったとして高く評価している。またモンテスキューが貴族に商業を禁じたのは、権力に富を集中させることを防止した社会政策であり、古代ローマで貴族が商業に従事したことが、少数の元老階級に富と権力の独占が生じたことが国家の衰退につながったと述べている。

しかしそこにとどまるだけでなく、「封建時代における日本の商業は、自由な状況であれば到達していたはずの段階までは発達しなかった」として近代産業がなぜ日本に根付かなかったかについても考察する。

 最大の原因としては、武士と商人階級が分かれており、武士階級の誠実さに対して、商人階級にはそれが欠けていたからだとする。維新後の「武士の商法」のほとんどが失敗したことを悲劇として描いている。一方で、以下の一文は注目に値する。

(引用)「封建時代のわが国の商人でも彼らの間には道徳の規範があって、それがなければ同業組合、銀行、取引所、保険、手形、為替などの基本的な制度を発展させることはできなかった。」

 

 そして、維新後20年の間に、日本の承認もじょじょに近代的商業道徳をわきまえてきたとといている。

(まとめ)現代においては、江戸時代の日本が農本社会でありながら、同時に商取引制度においては、大阪に米の先物取引相場が存在したことなど実は近代資本主義の土台が存在し、それが日本の近代化の基盤となったことは定説となっており素朴ながら新渡戸にはその認識がある。

そこからは新渡戸が出版直後の1901年から後藤新平の下、台湾総督府に勤務し台湾糖業の振興政策に関わるなど政府の実務官僚として経済に当たったことを思い起こさせる。

 札幌農学校で同じスタートを切りながら、生涯在野の思想家(宗教家)として生きた内村と、そこから政府の実務官僚として生きることになった新渡戸の生涯の対比を感じさせる。

 

④  武士の克己

(内村)『代表的日本人』の中で内村は、5人の人格的な面を繰り返し説明する。それは西

郷の無私に見られる言葉少なく謙譲な人となりである。

 

(新渡戸)新渡戸は日本人が人前で感情を表に出さないことを以下のように説明する。

(引用)

「十戒の(神の名をみだりにとなえてはならないという)第三の戒めを破ることにつながる。日本人の耳には、烏合の衆に向って、最も神聖な言葉や、最も秘めやかな心の体験が語られるのを聞くのはまことに耳ざわりなのである。」

本人が逆境にあって心を乱され、苦しみと悲しみのうちにひしがれたとき、しばし笑うのは、その心の平静を保とうとする努力を、人前で隠そうとするためであって、笑いは、悲しみやあるいは怒りのバランスをとるためのものであった」

「克己の理想とするところは、わが国の表現で言えば、デモクリトスが至高善と呼んだエウテミアの状態に到達することである。」

 

そして感情の安全弁として簡潔な詩歌をあらわしたのだと記述する。死んだ子のことを思い出し、生きていたころのように蜻蛉つりにでかけていると想像してやるせない悲しみを読んだ加賀の千代女の歌を引用する。

 

「蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら」

How far to-day in chase, I wonder, Has gone my hunter of the dragon-fly!

 

 (まとめ)新渡戸の聖書を用いての説明は明晰であり、現代でも通用しえる。また引用された歌は、矢内原のいう「悲しみの人としての新渡戸」を色濃く表しているといえよう。

 

⑤  女性観

両書において特徴的なのが女性観や社会の中の女性の役割である。

(内村)内村の著書では女性に関する記述はあまりない。唯一4章中江藤樹を論じる中で

その母親崇拝と、妻との関係について論述している程度である。

藤樹が母親のそばにあって暮らすために、藩主の元を去ったときのことを詳しく説明し、藤樹の手紙を引用している。

 (P119)

 二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当てを出すことで、だれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼るものがないのでございます。(引用終わり)

 

 鈴木範久は『内村鑑三の生涯』の26節「母の死」で、内村と母ヤソとの関係について考察し、ヤソが入信しながら棄教したことや、発病後施設に預けたことを巡り兄弟と骨肉の争いが生じたことなどが、彼の「母なるもの」を行き詰らせ、他者への厳しい態度の理由となり、そのこだわりが特にこの藤樹の母親崇拝への記述にあらわれている、と記述しており興味深い。

 また母に対する「孝」以外では、藤樹の『女訓』の以下の部分を引用する程度で単純なものである。 

(引用P130)

 男の女に対する関係は、天の地に対する関係と同じである。天は力(virtus)であり、万物は天より生じる。地は受ける側であり、天の生むものを受け、これを育てる。ここに夫と妻の和もある。前者は生み、後者は成す。云々

 私は、キリスト教は、このような女性観に異を唱えるものではないと信じます。

 

(新渡戸)一方新渡戸は、14章で「婦人の教育と地位」と1章を割いて論じている。

前半では女性も武芸を教育され、襲われた場合戦い、自分の胸を指すこともあったことを論じ、これを純潔と敬虔を守るため自殺した、聖者ペラギアとドミニナアや貞女コルネリアを引用し共通するものであるとして説明する。

より興味深いのは、当時のアメリカにおける女権拡張論に文化論として弁証をしていることである。

(引用 P242)

「(男女)両性の相対的地位を計る尺度は複合的な性質をもつものでなければならない。(中略)武士道は独自の基準を持っており、それは二項方程式の基準であった。女子の価値を、戦場とそして家庭との二つにおいて計れば、前者においては女子の価値ははなはだ軽いが、後者においては完全であった。(中略)すなわち、社会的あるいは政治的な単位としては高くなかったけれども、妻あるいは母としては最も高い尊敬と最も深い愛情を払われた。」(引用終)

あるいは聖書が「男と女は合して一体となるべし」としているのに、西洋人は夫と妻が二人の人格であると考え、権利を争いばかばかしいほどの相愛の言葉や無意味なへつらいの言葉をつくし(原文ママ)ているのは、自分の半身をほめていることにあり、日本人からすれば悪趣味であると論じている。

このあたりは、少し極端な記述であると思えるが、西洋的な女性擁護論をそのまま受けれいるのではなく、文化論としてこれをきちんと批判している点は、例えば現代のイスラムの女性のスカーフ着用や女性差別への西洋圏からの批判と、それは社会における女性保護のであるというイスラム側からの反論を思い起こさせるものであり、現代性を持ちえているともいえる。

(まとめ)

 以上の比較からすると女性観において内村は素朴なものがある。日本のキリスト教土着を研究しているマーク・マリンズは『メイドイン・ジャパンのキリスト教』の中で、無教会主義の集いにおいては当初から現代まで男性優位的な傾向が強く、女性の側からの批判があるという。そこには内村がそれほど「女性の権利」を意識していなかったことが今でも影響しているともいえる。一方で、東京女子大学学長を務めるなど女性教育にも携わった新渡戸に方が時代的限界があるとはいえ、社会・文化の中の女性の役割についての認識は深かったと言えるだろう。

 

⑥  その他

 その他、共通点として重要点なのは、両者がプロテスタントキリスト者として著述しながら、当時のアメリカの宣教師の伝道方法を厳しく批判している点は注目してよい。あくまで日本精神にキリスト教接木しようとした両者にとって、西洋の思考・文化を押し付けようとするやり方は我慢ならなかったのであろう。

 

切腹について

『武士道』で特記すべき点として12章で新渡戸は「切腹および方敵討ち」と題して、西洋文明からすると奇怪に思えるこの行動を説明しようとする。

シェイクスピアのジュリアスシーザーに「汝(カエサル)の霊魂があらわれ、我が剣を逆さまにして、わが腹を刺さしめる」という記述があることや多くの西洋画において高貴な人物の腹部に刃物が突き刺さった光景がモチーフとなっていることを共通点としてあげる。そして

「最も醜い死の形式が、最も崇高なものとなり、新しい生命の象徴とさえなるのである。そうでなければ、コンスタンティヌス大帝がみた徴(十字架)が世界を征服することはなかったであろう!」として、十字架の象徴性から論じる。

さらに腹を切ることについて旧約の「ヨセフはその弟のために、はらわたがやけるがととくいたむ(創世紀43-30)」」や、ダビデが「神がそのはらわたをわすれざらんこと」を祈り(詩篇26-6)、他にもイザヤ、エレミヤなど「はらわたがなる」とか「はらわたがいたむ」を引用、「これらのことは腹に霊魂が宿っているものとした日本人の信仰を是認するものではなかろうか。」と説明し、さらに西洋におけるソクラテスの最期を引用する。

 実に適切な引用と説明であり、現代でもこれ以上適格に、切腹のもつ文化的意味を対外的に説明するロジックを私は思いつかない。しかしまた、そこに逆に説明が洗練されすぎて見事であるがゆえの危うさをも感じるのである。

 

⑧  武士道の限界・批判

しかし新渡戸は切腹や武士道を無条件に賛美しているわけではない。

(P202)「切腹を名誉としたことは、おのずからその乱用を生んだ(中略)最も悲しむべきことは、名誉には常にプレミアムがついたことである。それも正当の価値に対してではなく、不当に水増しあれた価値に対してである」

「死を軽んずるのは勇気である。しかし、生が死よりも恐ろしい場合に、あえて生きることこそ、真の勇気である」

 

切腹に対して一定の留保を付してもいるしまた武士道の欠点も記述している。

(P276)

「しかし公平を期するために、日本人の性格の欠点や短所もまた、武士道が大いに責任があるということも、認めなければならない。我が国民が、深遠な哲学に欠ける原因は(中略)それは武士道の教育制度において、形而上の学問の訓練をおろそかにしてきた故である。(中略)「自負尊大」が、もし我が国民の生活であるとすれば、それは名誉心の病的な行きすぎにほかならない。」

「また、若者の多くは、「忠君愛国の権化」であり、(中略)このような彼らの長所と短所のすべてもまた、武士道の最期の断片であろう。」

 

(まとめ)内村の『武士道』において内村は、時に無防備と思えるほど賞賛しているのが目に付く。しかし新渡戸はその限界についても明晰に指摘しているということができる。

 

⑨  両書の巻末の比較

(内村)内村は同著の最終章「日蓮」を以下のように締めくくる。

(P176)

 これでわかるように、受け身で受容的な日本人にあって、日蓮は例外的な存在でありました。-むろん、日蓮は、自分自身の意志を有していましたから、あまり扱いやすい人間ではありません。しかし、そういう人物にしてはじめて国家のバックボーンになるのです。これに反して、愛想よさ、従順、受容、依頼上手とかいわれるものは、たいてい国の恥にしかなりません。改宗業者たちが、母国への報告に「改宗者」数の水増しをするためにだけ役立つものであります。

 闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教であります(引用終)

 

(新渡戸)最終章は「武士道の未来」と題され、武士道は滅びてしまうかもしれないが、その思想は桜の花の香気のように人類を祝福するであろうとして、クエーカーの詩人の詩を引用している。

 いずこよりかは知らねど 近き香りに

   旅人はしばしやすらい 歩をとめて

   ゆたかなる その香りをなつかしみ

   高き御空の いのりをぞ聞く

 

(まとめ)巻末にあって、両者の特徴が特に色濃くあらわれる。内村が最終章で宗教者日蓮を取り上げ、国家との対決したその生涯を詳述して、終っているのは、「対決型」であろう。

 一方新渡戸は、はかなさと祈りを感じさせる詩の引用でしめくくる。そこには接木型であり、矢内原が語った、受容・悲しみとしての新渡戸を感じさせるのである。

 

Ⅳ、『代表的日本人』と『武士道』その現代的意義

以上、多岐の引用を行いながら通読してきたので、その現代的意義を考えることでしめくくりたい。

内村は、政府に使えた期間もあるが、一貫して在野にありジャーナリスト、そして説教者として非キリスト教国である日本の中でプロテスタントを弁証しようとした思想家・説教者であった。一方、新渡戸は一高校長、台湾の植民地省、国際連盟次長など国家の要職を務めた。実務家であり、教育者でもあった。

 出発点を同じとしながら立場は全く異なった人生を送ったことになる。

 両書を読み比べるとき、2014年を生きる私からみると、やはり内村の著作からは、「ズレ」を時々感じる。ペリーと「両者のうちに宿る魂が同じであることを認めます」とする記述や、

上杉鷹山の章で、郷村頭取と郡奉行とは、「一種の巡回説教のような役であります」としたり、五人組とは「使徒の教会」ともいえる。と記述する。このような感覚は私には“いまいちよくわからない”しかし、同時に、明治期の日本人が西洋キリスト教国家に向かって、日本精神を説明しようとするとき、それは考え抜いた末の必死の記述であったということを感じる。

 一方で新渡戸の『武士道』には、「ズレ」を感じることは余り無い。時代的制約はあるとはいえ、女性観、経済学、あるいは文化論として、それは現代でも通ずる説得力を持ちえている。

 しかし、それによって『武士道』の方が優れている、と言い切ることに躊躇を覚える。それはあまりにも、洗練され、説得力があるゆえに、“ズレ”“ひっかかるところ”がなく日本人としての私の心情や情緒にすぅっと沁み込んでくるのだ。そこにわずかな危うさを感じるのだ。

逆に内村の文章からは、“ズレ”からこそ、現代日本でキリスト者として自明として考えていることを再考させるきっかけが与えられるように思う。冒頭引用した若松英輔の「未だに私たちはこの得意な人物を、宗教、キリスト教あるいは近代日本といった柵の向こうに眺めてはいないだろうか。格子の中にいるのは内村ではない。私たちの方である」

という言葉はゆえに至言であると私は思える。

 

武田清子は『土着と背教』の2章「伝統的エトスの近代化」でこの感覚に類似したことを記述している。

(P59)

 「ただ、新渡戸の『修養』『世渡りの道』その他の著書が、さきにもふれた修養団その他の修養グループの思想と時をほとんど同じくし、また、一見、その表現をも同じくして出されたことは、それらのもろもろも修養グループとの区別をあいまいにさせる結果となった面でもあるであろう」

「新渡戸はこの厚い広い層(注:前段の庶民の層を意味する)に手をとどかせることの出来た和少ない思想家であったのであるが、他の修養グループとは異質でありながらも、それを明確にすることをせず、その社会的意識とは異質な近代的市民、ないし組織労働者としての社会意識に目覚めさせるような旗色の鮮明さは持たなかった。そして意図せずして他の修養グループと同様、権力支持の保守的役割をになわしめられてしまった側面もあったかもしれないのである。」

 私の感じるわずかなあやうさもこの意識に通ずるものだと考える。あまりに洗練され、明晰であるがゆえに『武士道』には、読んだものを納得させるが、変化させ変容させるきっかけがない。不思議なことに、『代表的日本人』をはじめとする内村の文書にはその力がある。

それが時代によって変化するべき教育・実務家として生きた新渡戸と、宗教者・思想家として生きた内村の違いというべきものなのかもしれない。あるいは政府の実務官僚として、その対象を西洋キリスト教国とした国際人新渡戸に対し、非キリスト教国である国内でもっぱらそれを行った内村が接木型と同時に対決型を取らざるを得なかったともいえる。

 

しかしながら新渡戸は当然にして自らの限界と危うさを認識していたのでもあろう。門下生に有る段階を超えたら、内村の下へいくように勧めたのはそれゆえなのであろう。

 

 いずれにしろこの二冊の著作は、明治と変わらず非キリスト教国であり、1%以下でしかないマイノリティとして社会を生きる中で、その原点を確かめる上で読み返される価値があるし、二人が生涯の親友であったように、相互補完しながらこれからも読み続けられるのだろう。

 

最後に矢内原の『余の尊敬する人物』での記述を持って本論を終りたい。

内村鑑三新渡戸稲造とは私の二人の恩師で、内村先生よりは魂を、新渡戸先生よりは人を学びました。両先生は明治初年札幌農学校で同級の親友でありましたら、その意味で私も札幌の子であります」

                                      (以上)

 

 

(参考・引用文献)

『国際人 新渡戸稲造 武士道とキリスト教』(花井等 広池学園出版部1994)

内村鑑三の生涯』(鈴木範久 PHP 1992)

『日英対訳 武士道 BUSHIDO』(訳 須知徳平 講談社インターナショナル1998)

『日英対訳 代表的日本人 Representeative Men of japan』

                               (監訳 稲盛和夫 講談社インターナショナル 1999)

『土着と背教』(武田清子 新教出版 1967)

『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(マーク・R・マリンズ トランスビュー 2005)