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キリスト教と戦争を考える -長崎の原爆と浦上燔祭論を通して

 歴史神学特殊講義             

 

課題:キリスト教と戦争を考える -長崎の原爆・浦上燔祭説を中心に

 

(1)はじめに

春学期、この授業では、「初期から中世にかけてのキリスト教が戦争をどうみなしていたか」という視点から資料を読んできた。キリスト教史において、戦争や政治との関わりを考える上で決定的なのは、コンスタンティヌスキリスト教国教化であると私は考える。そして、個別にどのように弁証しようとしても世界史の中で、その名の下に最も多くの血を流してきたのがキリスト教であることは、否定できない。思想として考えてもでも20世紀の共産主義思想に次ぐ、あるいは並ぶものと云えよう。(例えばトマス・アクイナスの正戦論が影響を与えた十字軍の実体を、アミン・マアルーフは『アラブから見た十字軍』(筑摩学芸文庫 2001)の中で他宗教・文化に寛容で安定した平和な社会への“フランク人の侵略と虐殺”として生々しく描きだしている。)

 

 

アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)

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しかしながら、同時に歴史のその時、その時において暴力の惨禍に遭う者たちの側にキリスト者がいたことも確かである。コンキスタドールに始まる南米征服の中にラス・カサスは原住民保護にあたった。キューバ出身のフスト・ゴンザレスは『キリスト教史』の中で原住民保護にあたったイエズス会の活動や、修道士ペドロ・クラヴェルについて記述している。17世紀初頭のコロンビアにおいて「黒人奴隷はキリストにあって兄弟であり平等だ」と主張し奴隷やハンセン病患者救済にあたったクラヴェルは、白人社会や教会組織の中で批判を受け続けた。晩年病に倒れた彼は、奴隷に粗雑に扱われ、汚物にまみれたまま死んだ。ゴンザレスはその最期をこう記述している。

(P421)

「同僚は彼の世話を一人の奴隷にゆだねた。この奴隷は彼を粗雑に扱い、汚物にまみれたまま放置し、その他あらゆる方法で彼を不当に取り扱った。こうして彼は、白人が黒人に対して加えたあらゆる悪行を彼自身の肉体で体験し、奴隷が船の中で味わった拷問を病の床で受けることとなった(中略)彼がカトリック教会の聖人に列せられたのは、それから二百年以上もたった後のことである」

 

キリスト教史 (上巻)

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ナチスドイツ時代、教会がドイツキリスト者運動を進める中で、ボンヘッファーや無名の無数の牧師・神父はナチスに抗し、ユダヤ人保護に当たった。アパルトヘイトベルギーの改革派教会が是認したとき、それに抗したのもキリスト教徒だった。

世界史の中、私達は加害と被害の両側にキリスト者があったことを見出す。

この中で、私は近現代史の中、特に日本の太平洋戦争において、キリスト教と戦争を考える上で象徴的な事例として、原爆投下と長崎燔祭論を巡る議論について調べることで、それを考える事例としたい。

 

(2)キリスト教と戦争戦争と従軍チャプレン

石川明人(北大准教授)は、『戦場の宗教、軍人の信仰』(八千代出版 2013)の中で、①アメリカ軍の従軍チャプレン②自衛隊の内の伝道組織コルネリオ会③内村の軍人観④クリスチャン特攻兵士林市造⑤「戦艦大和の最期」著者吉田満の信仰、などを論じながら宗教と戦争について考察している。

 

戦場の宗教、軍人の信仰

戦場の宗教、軍人の信仰

 

 

 

人はなぜ平和を祈りながら戦うのか? (私たちの戦争と宗教)

人はなぜ平和を祈りながら戦うのか? (私たちの戦争と宗教)

 

 

石川によると、「チャプレン」という呼称は、4世紀のある異教徒ローマ兵に由来するという。あ

る冬の晩、寒さに震えている物乞いに出会い、哀れにおもって自分の着ている外套を半分に裂き与えたところ、その番、彼は自分が与えた外套を着たキリストの夢を見た。それがきっかけとなり、彼はキリスト教徒となる決心をし。後に軍を除隊して教会に身を捧げた。

これがトゥールのマルティヌスという人物で、現在でもフランスの守護聖人としてよく知られているという。彼の外套(cappa)は神の現前を示す旗として、後にも戦いの場で用いられ。この聖遺物を管理する司祭はcappellanusと呼ばれ、やがて軍隊に関わる聖職者がcapellaniあるいはchapelainと呼ばれるようになり、ここにチャプレン(chaplain)の後が由来する。現在学校や病院月の聖職者を指す言葉だが、元来は軍隊のなかの聖職者を指す言葉だったという。(同著P13)

第二次世界大戦時、米軍は合計約1万2千人ものチャプレンを従軍させていた、また湾岸戦争ではアジア南西部に派遣された陸軍所属のチャプレンだけでも560名にのぼったという(a)。

日本社会において、キリスト教徒とは、(おそらく)柔和で平和を志向する人々と思われているだろう。ゆえに従軍チャプレンという言葉に異様さを感じる。しかし、そこにはキリスト教信仰や歴史的背景をもつ長い歴史がある。

 また、従軍チャプレンの業務が、①戦地における過酷さの中の戦意高揚②戦死者の葬儀、慰霊、という2点において考えれば、それは宗教者の行う最も原初的な行為と言うこともできるだろう。実は、そこに違和感を感じる日本人の意識自体が、世界から見れば例外であり、また平和憲法の下にあるこの約70年程度の中における感覚でしかないのかもしれない。

 また、太平洋戦争において、米軍では過酷な戦場において、精神が追い込まれたときには聖書の何ページの聖句を読めという手引き書も配布されていたという。

 一方日本軍においては、制度的な従軍宗教者制度は存在しなかったし(太平洋戦争の個人従軍記などによると僧侶の資格を持つ兵士が個人的に行うことはあったようだ)

そもそも戦没者の大半が餓死者を占め、食糧の兵站すら全く不完全な日本軍において兵士のメンタルケアの制度はほとんど省みられることがなかった。どちらが軍隊組織として、より人間に配慮をしていたか?応えはおのずと明らかであろう。

 米軍の従軍チャプレン制度を、軍隊の宗教の政治利用とみるか、あるいは戦地におけるせめてものメンタルケアとみるか、あるいは兵士の士気を高め、戦場において高いパフォーマンスを引き出すためのプラクティカルな処置と見るかは、これを受け取る人間の倫理観、信仰観、思考により様々な受け止め方がありえるだろう。一概に、戦争とキリスト教(宗教)を論じることなど不可能と私は考える。応えは人間の数だけあるだろう。

 

(3)原爆投下とキリスト教

 石川の著作の中では、陸軍第509混成飛行隊の所属するテニアン基地を原爆を搭載したB29エノラ・ゲイが8月6日に広島に向かって離陸する直前に、プロテスタントの従軍チャプレン、ウィリアム・ダウニー大尉が礼拝を行い、以下の祈りを唱えたことが記されている。

 「全能の父なる神よ。あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。彼らも、わたしたちお同じく、あたなのお力を知りますように。そしてあなたのお力をまとい、彼らが戦争を早く終らせることができますように。戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。わたしたちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。イエス・キリストの御名によって、アーメン。」(b)

 この原爆が8月9日にこの投下されたのが、日本最大のキリシタンの集落浦上の中心部だった。約一万二千人の信徒のうち8千人が死亡したといわれている。

(付記注:ただし、長崎に原爆を投下したのはエノラゲイではなく、同部隊所属の戦闘機ボックス・カーである。8月9日、ボックス・カーは当初小倉を投下目標にしていたが、曇天のため第二目標の長崎の変更された。当日天候観測機を努めていたのが8月6日に広島に原爆を投下したエノラゲイであり、ボックスカーには、8月6日投下事の搭乗員も搭乗していた)

 長崎は1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌1550年に平戸にセミナリオを設立、キリスト教の布教が始まった。その後、豊臣秀吉により宣教師が追放され京都から流罪になった信徒26人が市内の西坂で処刑される(26聖人殉教)。鎖国が終わり1865年にプチジャン神父がキリシタンを再発見、1867年~1873年にかけては「浦上四番崩れ」の弾圧がおき配流された600名以上が獄死している。江戸幕府の禁令以降実に350年近いキリスト教の歴史をもつ土地である。当時、原爆投下地のすぐ近くにあった浦上天主堂は東洋一の壮麗さを誇ったといわれる。まさに日本で最もキリスト教が盛んな町だった。(現在でも長崎県内のクリスチャン人口は約6%とされ、日本全体の平均の10倍近くに及ぶ)

そこに牧師によって祝福された原爆が投下したのである。日本においてキリスト教と戦争を考える上で私はどうしてもこの事例を考えずにはいられない。

 

(4)長崎の原爆と永井隆の長崎燔祭論

 原爆が投下されて、浦上を中心に信徒1万2千人のうち8千500人が死亡したとされる。その中にあって被爆し、カトリック信徒で長崎医科大学の医師として救護活動に当たり後に作家

として著名になったのが永井隆である。

 

 

この子を残して (アルバ文庫)

この子を残して (アルバ文庫)

 

 

 

壊滅的な打撃を受けた浦上信徒に対して永井は、「原子爆弾が長崎に落ちたのは大きな御摂理であり、神の恵みである。浦上は神に感謝をささげなければならない」と主張することで、生きる勇気を与えた。1945年11月23日の浦上信徒合同追悼祭りで、天主公教浦上信徒代表として読み上げた「原子爆弾合同葬弔辞」には、その思想が如実に現れている。

 (以下一部引用)

 主戦と浦上壊滅の間に深い関係がありはしないか。世界大戦という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られた燃やされるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?

 (中略)

 あの日あの時この家で、なぜ一緒に死ななかったのでしょうか。なぜ私らのみかような悲惨な生活をせねばならぬのでしょうか。私らは罪人だからでした。今こそしみじみ己が罪の深さを知らされます。私は償いを果していなかったから残されたのです。あまりにも罪の汚れの多き者のみが神の祭壇に供えられる四角なしとして選び遺されたのであります。(引用終)

 

(5)長崎燔祭論を巡る議論の経緯と山田かん

 ①永井隆の評価を巡る系譜

永井隆は1951年に没するが、その後荒野の聖人として称えられ、批判することは長崎においては長らくタブーであった。しかし、関西大学の岡本洋之(2009)の論文(b)、長崎「かみあわぬ「浦上燔祭説」評価論争」によると、その後、永井隆の評価は半世紀の間、様々に議論されたことがわかる。

(参考)

岡本洋之 「永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?」,教育科学セミナリー第42号,関西大学教育学会,2011.

http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/4865/1/KU-1100-20110300-01%282%29.pdf

 

永井の後輩である長崎大学の医師、秋月辰一郎は「ついていけない」という心情を吐露した。さらに諫早市在住の詩人(土門注:聖公会信徒)、山田かんは1972年に月刊誌「潮」に、「聖者・招かざる代弁者(編集部により掲載時は「偽善者・永井隆への告発」と改題)を掲載し、長崎在住者としては初めて本格的に永井を批判した。(後述)

 

長崎原爆・論集

長崎原爆・論集

 

 

さらに90年代には、長崎大学文学部教授の高橋眞司が、永井の言説を「浦上燔祭説」として名づけ、東西冷戦や戦後政治のより大きな社会的文脈の中に置くとき、その歴史的意義は戦争責任と原爆投下責任の二重の責任を免除するところにある。否、そればかりでなく、原爆投下の是認、ひいては原子爆弾そのものの肯定に道をひらく」と、批判を展開した。

 

長崎にあって哲学する―核時代の死と生

長崎にあって哲学する―核時代の死と生

 

 

これに対し、永井を擁護したのは、カトリック長崎純心大学学長の片岡千鶴子が「被爆直後、終戦直後のあの時代に、しかも信徒の励ましに心を砕いている永井に、戦争責任や原爆投下責任の免罪などということを考える余地があっただろうか。こうした批判は非現実的だ」とした。またカトリック信徒の元長崎市長本島等は、カトリックが四番崩れ以降、極貧の生活の中、スパイや非国民と罵られ、神社に行かず外国の宗教を信じたゆえの原爆は天罰である、と言われ絶望の中にあった信徒に、永井は激励し、希望を与えるものであったと擁護している。

 1990年代を中心に、長崎では上記、山田・片岡・高橋・本島などが議論が続いたという。

 また近年では、国家宗教的慰霊を研究する西村明氏(東京大学准教授・宗教学)が国家慰霊の観点から、前記の関西大学の岡林洋之氏は浦上キリシタンへの差別という、けがれ意識の点から考察をふかめた論文を発表している。2013年には現長崎大研究員の四篠知恵氏が、占領期における原爆の語りを、当時の新聞や被爆した孝高の刊行物を分析する中で、長崎燔祭説がカトリック信仰や、その後の長崎の原爆の語りにどのように影響していったかを実証的に研究した博士論文を発表している。(c)

(参考)

『祈りの長崎-永井隆と原爆死者』(西村明 2002)

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001506972

『浦上の原爆の語り -永井隆からローマ教皇へ-』 (四條 知恵 2012年)

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009480518

いずれもCiNiiarticles でPDFで閲覧可能

 

 

諫早市の詩人・山田かん(1931~2003)の永井隆批判

 上記中、1972年に長崎でも初めて永井隆批判の文章を発表した山田かんを私は、2001年10月に訪問しお話を伺ったことがある。

(参考)

『我れ重層する歳月を経たり 父山田かんの軌跡』

http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2003/kikaku/kikaku6/01.html

以下子息で長崎新聞社記者の山田貴己の記事によると(e)山田かんは14歳のとき妹と共に長崎市内で被爆。祖父以来3代目で、幼児洗礼を受けたプロテスタント聖公会)信徒だった。幼い頃は牧師か絵描きが夢だったという。戦中派、敵性宗教の信者として「耶蘇!耶蘇!」と差別され、教師から「天皇陛下とキリストはどっちが偉いか」などと陰湿な質問を何度も浴びせられた。カトリック信者もプロテスタント信者も周囲から厳しい目で見られる状態にあったが、信仰は父のよりどころだった。

(中略)

 しかし終戦後、ふと訪ねた牧師間で、アメリカ給与のジャムとバターと白パンが並ぶ好計を見て、聖職者と庶民の格差を垣間見た。さらに後年、被爆した妹が失踪し自死したさい、自殺を理由に協会は争議を拒否したという。「おれが牧師の代わりに聖書を読み、自宅で執行した。屈辱だった。教会とは何かということであ。貧乏人が苦しんで死んで・・・。許せないと思った。ますます教会から遠ざかった」

 それゆえに「父山田かんは七十二年、雑誌に掲載された「聖者・招かざる代弁者」で、永井博士の言説について「『原爆の内質としてある反人類的な原理をおおい隠すべき加担にほかならなく、民衆の癒しがたい怨恨をそらし慰撫する、アメリカの政治的発想を補強し支えるデマゴギー』などと厳しく指摘。批判の姿勢を崩すことはなかった。

 山田かんは、1974年に浦上で足元の地層に原爆犠牲者の大量の骨を感じながら、次のような詩を書いた。

 

 この地に

信ずる神と共に在りつづけた人々の

生は

虐殺

異教徒でなく

同じ信ずる者たちの手にかかり絶える苦しみは

消えたであろうか           

(「小峰町交差点にて」に収録。)

 

  キリスト教国との戦争の中で、キリスト教によって祝福された原爆を投下されながら生きたキリスト信徒。その中で生きる希望を与えた言説の中に潜む過ちを別の立場から付いたキリスト者、それが山田かんの生涯だったと私達は知るのである。

 

(6)浦上燔祭説の現代的意義

浦上燔祭説が宗教と戦争を考える上で重要なのは、それが宗教における慰霊と殉教の性質を巡る議論であり、それは現代でも再び形を変えて経ち現れるからである。

 

福島第一原子力発電所事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーを務めた山下俊一長崎大学福島県立医科大学副学長はその著作『放射線リスクコミュニケーション』に「原子力の問題が出たときには、昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています。(中略)原子力という科学の光、力を利用してより良い世界を作っていくべきだ、ということを彼はその当時既に書いているのです」と書き、『原子力文化』2012年1月号の作家森福都との対談では、それを「わが国は敗れた。すべてが灰燼に帰した。しかし、この禍を転じてわが国は原子力の平和利用によって、亡くなった方々に対し罪をあがなわなくてはいけない。その結果、わが国はきっと復興する」と言い換えている。

 (参考)

wikipedia 浦上燔祭説

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E7%87%94%E7%A5%AD%E8%AA%AC

 

西村明(上記)は、長崎燔祭論について以下のようにまとめている。

永井は原爆死者を神への燔祭として、平和日本再建の礎として、また科学のための犠牲として捉えた。つまり、供犠として捉えたということである。しかしながら、(中略)「燔祭」あるいは供犠として原爆死者を捉える思想には、繰り返される戦争を今回限りとする歯止めの契機が欠けている。永井は実際のところ、各時代の戦争が最終戦争となってしまう可能性を察知し、平和を願っていたのであろう。

 しかしその真情とは裏腹に、原爆死者を供犠として捉えることによって、戦争の反復を否定して恒久平和を希求する方向ではなく、むしろ冷戦構造のもとでの「戦後」という暫定的な平和を享受し、「平和の礎」に対してその恩恵を感謝するといったような消極的な平和主義を生み出す結果につながった。(36)永井の願いもむなしく、現在も戦争は繰り返されている。われわれは暫定的な平和を享受してきた結果、暴力への感覚が麻痺しているように思われてならない。(e)

 

(まとめ)私自身はキリスト教問わず、宗教の原初からの目的が、「死者の慰霊」を伴う以上、戦争とキリスト教もまた切り離せないと考えている。あるいは、圧倒的な暴力にさらされた無力な人間が、生きる希望を取り戻すために、キリスト教ならば聖書の聖句や思想をにすがることをなんら否定しない。個人の行為としてはそれは必然的なものであろう。

 しかし、いざ戦争に宗教のロジックをもちこむとき、そこには戦争を遂行する主体である国家が必ず関与してくる。そして慰霊・殉教という象徴性を帯びた言説や行事が立ち現れる。その過程に他者が触れるときそこには情緒的な反応を帯、戦争の記憶の美化、肯定が行われる。そのこと自体が問題だと考えている。

 例えば東京大学教授の哲学者高橋哲哉はこのテーマから研究を続けている。

 

犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)

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靖国問題 (ちくま新書)

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国家と犠牲 (NHKブックス)

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記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュヴィッツ (岩波人文書セレクション)

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 個人としての慰霊・信仰と国家・組織による慰霊・言説化は区別して考えなければならないが、それは外部や後世から見ると極めて困難になるのである。しかし、それはなされなければならない作業である。

 現在、私は修士論文として「特攻兵士における慰霊と記憶の美化」をテーマに研究を行っている。浅学にして非才ではあるが、ささやかな試みとしてそれをまとめていきたいと考えている。

 

(7)付記:私達は「戦争」を知っているのか?

 最後に、キリスト教と戦争を論じようとするとき、私達はその両者を当然に知っているかのように思っている。しかしそうなのだろうか。前者についてはひとまず置く。しかし、戦争について私達はどれほどのことを知っているのだろうか。戦争とキリスト教について、クリスチャンとして戦地にあった者の生の声を語るものとして山本七平の『静かなる細き声』(文藝春秋 1993)を引用する。同著は最晩年「信徒の友」に連載されたエッセイをまとめたものであり、ほかの本とは違い、彼が自身の生い立ちや信仰について、静な筆致で綴られている。

 

 

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

 

 

本書によると山本は、両親はキリスト教、生まれながらのクリスチャンだった。幼少時は新聞を読むなら聖書を読め、雑誌やラジオも聴いたことのなかったが、太平洋戦争が始まり、彼は、青山学院の学生時代に学徒動員で、いきなり軍隊に放り込まれることになる。山本は、入営前、軍隊経験のある恩師の下に挨拶にいったとき、こんな言葉を送られたという。

「軍隊にいくと、いわゆるインテリというものが、いかに少数・例外者かが、本当によくわかります。山本君のような家庭に育った人は、統計や理屈ではそれがわかっても、それがどういうことなのか、本当はよくわかっていないものです。まして、そのインテリの中のクリスチャンが、どれほどの少数者・例外者かを身をもって実感できるのが軍隊です。これは得がたい経験ですから、その実態をできる限り正確にみていらっしゃい」

そして、それは山本にとって、想像を絶する経験だった。それは会話すら成立しない世界、コミュニケーションの隔絶した世界だった、と彼は書いている。

「しばしば不思議がられることだが、私にはいわゆる「戦友」はいない。(中略)同じ釜の飯を食おうと、「生死を共に」しようと、周囲の人はすべて別世界の住人だった。(中略)部下や周囲の人にできる限りの親切はしたかもしれない。人の命を助けたこともあったのかもしれない。しかし、誰に対して も、完全に心を許したことはなかった。どこかで絶えず、何かを用心し、相手との間に、常に一線を画していた」

ちなみに、山本は平穏な軍隊生活をすごしたわけではない。「怒りをおさえし者 「評伝 山本七平」」(稲垣武 1997)によると、彼は、フィリピンレイテの激戦地に送り込まれ、部隊が全滅し、ただ数人生き残るという経験をしている。いわば太平洋戦争中におけるもっとも過酷な戦場を生き延びておりその時のことも記述している。

 

(引用 P57~59)

人間にはみな先入観がありまた人間観・社会観がある。そして、どこかで、「自分の観」という枠外にいる人間はいないと信じ込んでいる。そういう人に本当のことを言うと、相手はそれを頭から嘘だと信じ込む。いまの問題は小さな問題だが、もっと大きな問題もある。

たとえば「現代人には神の存在など信じている人間がいるはずがない」と堅く信じている人がいる。この人の前で、「私は神を信ずる」といえば、それはその人にとっては嘘であり、何と言おうと「嘘に決まっている」ということとなる。

 私が「引っ込み思案」とか「積極性に欠ける」とか言われたのも、おそらくは、自己の周囲のクリスチャンの小世界の外に、それとは全く異質の大きな世界があることを子供心にもうすうす知っていて、それに触れるのが怖かったからだと思う。

 一歩そこへ踏み出せば、こちらが本当のことを言っても、頭から「そんなはずはない」「・・・はずはない」「・・・はずはない」が連発され、すべてが否定されてしまいそうな気がしたからだと思う。私はその社会と接触するのはいやだった。そしてできることなら、そういった社会にタッチしないでいたかった。だが私に時代には軍隊があり、否応なくそこへ入れられる。それはおそらく全く異質の世界であり、私の真実などはすべて笑殺されそうなことは、なんとなく予感できた。

 そしてそれは、まさに予想通りの世界だった。日本軍についてはすでに多くのことが書かれているが、私の戸惑いはおそらく、多くのひととは別だったのであろう。そしてこれは幹部候補生になり見習い士官になり将校になっても同じだった。

 第一、冗談もシャレもわからなかった。献酬という酒席の作法も知らなかった。酒は飲んだことがない、麻雀・花札は知らない、競馬は言ったことがない、芸者と口をきいたことはない、遊郭にいったことはない等々・・・。

そしてそれらの人びとの応答は結局、「そんな人間がいるはずはない」ということであった。まことに不思議といえば不思議だ。

その人間がいま目の前にいるのに、人はそういう人間がいることを信じないのである。

 そして信じないがゆえに、さまざまな解釈が生まれ、その解釈が一つの断定となり、その断定で相手を定義し、その定義によって理解し得たと信じようとする。

 「オイ山本、変にカタブツぶるな。カタブツぶって楽な経理室にまわしてもらおってんだろう。フン、酒は飲みません、花札は知りません、芸者と口を利いたこともありませんか、見えすいたゴマすりをならべやがって・・・」

といったことになる。そうなった場合、いつも私は、それに対してどう応答してよいかわからなかった。もっとも、人にどう思われようと一向にかまわない、ということは言える。しかし、「そう思いたいやつには思わしておけ」では、伝道はおろか、日常のコミュニケーションさえ成り立たなくなる。

 ではどうすればよいのか。いくら考えても方法はなかった。私は内心でつぶやいた。

 「こりゃ、奇跡でも起こらにゃ不可能だな」

 その瞬間思わずハッとした。奇跡という言葉が否応なく福音書の奇跡を思い出させたからである。

 それまで私は、奇跡を本気で考えたことはなかった。いや、なぜ福音書にこんな奇跡の記述があるのかも、考えたことはなかった。それはなんとなく触れたくない問題であり、まことに無責任にも「奇跡物語がなければ、聖書理解も伝道もずっと簡単だろうな」といったことまで考えていた。だが、人は、私という平凡な一人間が目の前にいるのに、それをそのままに見るこさえできない。そしてどう考えても「そのままに見ること」は不可能で、それを可能にするには奇跡しかないと、いま、私自身がそう信じていたのである。

 では目の前にイエスがおられたら、私に見えるであろうか。そのままを見ればよいと言っても、それはおそらく奇跡なくしては不可能である。いや福音書を読んでイエスが見えるであろうか。いままでのような読み方をやめて、奇跡によってイエスを見た人とともにそれを体験しているという読み方をすれば、本当にイエスが見えてくるかもしれない。同時に奇跡とは何かがわかるかもしれない。私はそう思った。

これが軍隊時代に与えられた最大の賜物であった。

 

あるいは山本は、死線をさまよう中迎えた終戦時のことを以下のように記述している。

 

(同著 「平和をもたらすもの」 P66~P69 )

その人の名は知らない。また生涯二度とその人に会うこともないであろう。またその人がどういう人なのか、簡単に言えば善人なのか悪人なのか私は知らない。

 しかしその人のその瞬間の顔を私は終生忘れ得ない。だがそれを聞いたらその人は驚くかもしれない。というのは、その人は、そのときのことをもう忘れているかもしれないからである。

 それは昭和20年8月28日であった。当時私は、ルソン島北端から50キロほど南へ下がった地点の、東海岸の断崖絶壁の近くにいた。敗北に敗北を重ね、追われ追われて逃げ場のない人跡未踏のジャングルに追い詰められていた。背後は海、そこまで歩いて二日の距離であった。食料はすでになく、マラリア、栄養失調、アメーバ赤痢、負傷が重なり、生き残った32名のうち、歩けるものは十数人。付近のジャングルは腐乱死体の山であった。

 8月15日の終戦はもちろん知らない。ただジャングルの前端に迫っていたアメリカ軍の動きがなんとなく鈍くなったことになにやら事態の変化が感じられていた、といってもフィリピン人ゲリラのわれわれに対する討伐は少しも衰えていなかった。

8月27日は、アメリカ軍将校に付き添われた旅団副官が前哨に来て、停戦命令がでたから、所在のアメリカ軍に連絡してその指示をうけよと言い日時・場所を指示して立ち去った。

多少とも英語がわかるのは私だけであった。そこで私が連絡に行くことになった。

ジャングルの前端からこの部落までは1千メートルぐらいである。私は自分の生涯において、この千メートルを歩いたときぐらい、強い恐怖を感じたことはない。名目的には平和になった、しかし自分の生命の安全は保障されていないという状態。こういう状態ほど不気味な状態はない。(中略)

いつどこから弾丸が飛んできて射殺されるかわからない。といって、戦闘隊形をとるわけにもいかないという、非常に奇妙な状態に置かれるからである。

私は軍刀を背に負い、手榴弾二発を帯皮に下げ、銃を持ち、阿部という上等兵を一人つれて、ジャングルを出た。そして異常な緊張状態の中をやっと、ダラヤの村長の家についた。

 米軍の将校は来ていなかった。村全体が険悪な雰囲気。「まてよ、ワナじゃないのか。呼び出してなぶり殺しにするつもりではないのか」そんな疑念がわく。そしてそう思うと、全てがそう見えてくる。

 私は村長を人質にし、阿部上等兵にいざというときはどう応戦すべきかを指示して、待った。どれだけ待っていたのかわからない。案外短い時間だったのかもしれない。だが異常な緊張は、一分を一時間にも感じさせる。

やがてアメリカ軍の将校が来た。彼は完璧な丸腰で、たった一人で、フィリピン人からもらった水牛の角笛を楽しそうに吹きながらやってきた。まどからその姿が見えた瞬間、今度は、どう対応したらいいのか戸惑った。「こんにちは」と言うわけにもいかず、おじぎも、握手も

奇妙である。何しろ、今の今まで撃ち合っていた相手である。その相手が、勝者としてどういう態度に出てくるのか、皆目わからないから・・・。

 彼はつかつかと入ってきた。二人は向き合った。彼は私の方をまっすぐに見て、きわめて簡単に言った。

「私は軍医だ。歩けない重病人は何人いるか。それを無事に収容するには、われわれはどうすればよいか」-

 その瞬間、全身の力が抜けた。一瞬にしてすべてが平和になった。二人はきわめて事務的に、日本軍による病人担送終結地点と、終結日時と、その地点に進出するアメリカ軍兵員輸送車の数と日時を打ち合わせた。終わると彼は、きわめて事務的にもう一度念を押して去った。それだけであった。だがこの短い時間に、私の方に大きな心的転回があった。すべてが

平和になったのである。

イエスは「さいわいなるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称えられん」と言われた。この言葉はこの言葉の通りに受け取るべきであろう。

イエスは「平和ならしむる者」と言われたのであって、「平和、平和と大声で叫ぶ者」と言われたのでない。平和という単語を口にするかしないかは、「平和ならしむる」ことに無関係である。

 その軍医は「歩けない重病人は何人いるか。それを無事に収容するには、われわれはどうすればよいか」といっただけで、「平和」という単語を口にしたわけではない。

 だがその言葉が出た瞬間、そこに平和は訪れ、その人は「平和ならしむる者」となった。そしてその瞬間を人は忘れない。

(中略)

 それは非常に具体的な言葉であり、すぐに行動を要請する言葉であった。だが、その言葉によって、人の心の中に平和が訪れ、平和が来たのである。

 昨日までの敵に、「歩けない重病人は・・・」と言ったこの言葉、この言葉こそ「生ける言葉」であり、それは百万言の平和論にまさる平和をもたらす。そして余計なことを言わず、それだけを口にできる人が、「平和ならしむるもの」なのであろう。」(引用終)

 

 私はキリスト教徒が戦地でどのようなことを考えていたのか、これ以上に生々しい文章を読んだことがない。そして、おそらく戦後の山本七平の思索の全ては、このクリスチャンとして戦争を経験したことが原点となっているといえるだろうと思われるのである。

 戦争とキリスト教の一つの生々しい証言として同著は貴重であり長々と引用した。

 

(8)最後に

 1976年生まれの私はもちろん戦争をしらない。それはあくまで二次創作物を通してのものである。しかしながら、仕事で(NHKの戦争ドキュメンタリーの資料リサーチャーを4年ほど努めた)、多くの従軍兵士の手記を読み、何人かの方の話を直接聞いた。その中で、少しだけ戦争とはどのようなものなのか知ることができたように思う。共通するのは、それは「異常な状態であり、平常時の人間には理解ができないものである」ということだった。善悪も倫理も通常の信仰も超えている。当事者の生の声を聴き読むことでかろうじてそのリアリティを想像することがかろうじて可能になる。しかしそれですら、後世ゆえに知ることのできる多くの情報を知った上で、それを判断している。

 もし私達が戦争とキリスト教について学ぼうとするならば、それはキリスト教とその歴史を学ぶのと同等の努力が、戦争とは何か、について割かれなければならない。それなしの議論は、ただの書斎の机上から歴史を裁くことになるのではないだろうか。

 そのような自戒と共に、修士論文に取り組みたい。

                                       

 

  1. (石川)『戦場の宗教、軍人の信仰』P2、P13
  2. 上記著P38。引用元資料は.『ドキュメント原爆投下 下 エノラ・ゲイ』(G・トマス、M・M・ウィッツ 松田銑訳 TBSブリタニカ 1980)
  3. 永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?』(岡林洋之 2009年)P2より
  4. 『浦上の原爆の語り -永井隆からローマ教皇へ-』 (四條 知恵 2012年)

e 『我れ重層する歳月を経たり 父山田かんの軌跡』

長崎新聞社記者 山田貴己 長崎新聞2003年7月30日インターネットにて再録)

 

 

(参考・引用文献)

『戦場の宗教、軍人の信仰』(石川明人 八千代出版 2013)

『人はなぜ平和を祈りながら闘うのか?私たちの戦争と宗教』

(石川明人、星川啓慈 並木書房 2014)

『祈りの長崎-永井隆と原爆死者』(西村明 2002)

永井隆はなぜ原爆死が神の摂理だと強調したのか?』(岡林洋之 2009年)

『浦上の原爆の語り -永井隆からローマ教皇へ-』 (四條 知恵 2012年)

ナガサキの思想と永井隆没後50年目の夏に』(長崎新聞2000年8月1日掲載ネット再録)

『我れ重層する歳月を経たり 父山田かんの軌跡』

長崎新聞社記者 山田貴己 長崎新聞2003年7月30日ネット再録)

『静かなる細き声』(山本七平 文藝春秋社)

『怒りを抑えし者 【評伝】山本七平』 (稲垣武 PHP 1997)