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線遠近法・逆遠近法・中世絵画の見方を通してのJ・ナダルの方法論と黙想と祈り

 

 

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

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イコンの記号学―中世の絵を読むために

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神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)

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観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

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秋学期購読した英語論文を読解に際しては、西洋美術史における遠近法のインパクトと、それ以前の中世絵画の意味論の理解が必要であることが痛感させられた。そこで、この論稿においては、まず(1)パノフスキーの遠近法研究を踏まえたうえで、(2)ボリス・ウスペンスキーによるイコンを中心とした中世西洋絵画の記号論的考察を紹介する。その意味論を信仰論としてみるために(3)クザーヌスの著作を概観する。またナダルの絵画を読み解く意味論がカメラ・オブスキュラという器具によってどのように肉体から切り離され終焉したかを(4)J・クローリーの論稿によってみる。 
そして最後に(5)ナダルの絵画が、祈りや黙想においてどのように機能したのかを考察する。

(1)遠近法の両義性 パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』(ちくま 2009)より
 本論文における前提条件が遠近法に潜む両義性である。その議論についてはイコノロジーの創始者であるパノフスキーの論稿を基礎としている。そこでパノフスキーの遠近法についての論稿をまず概観する。同書においてパノフスキーは、西洋の中世以降の遠近法の登場を解説しながら、実はその初期形態として古代ギリシャの舞台美術において遠近法が使われていたことに触れ以下のように記述している。

(同著P38)特定の芸術的諸問題に向けられた労苦が一定限度まで推し進められ、―かつて採択された諸前提から出発するのでは-それ以上同じ方向に進んでみてももう不毛だと思われるところまでくると、通常大きな逆転ないし-もっと適切な言い方をしてみれば-方向転換が起こる。(中略)
つまり、見たところ「もっと単純(プリミティブ)な」表現形式に逆戻りすることによって、古い建造物の廃材が新しい建造物の構築のために利用される可能性が生じることになる、―つまり、まさしくある距離を置くことによって、以前すでに着手されたことのある諸問題の創造的な採りなおしが準備されることになるのだ。」

これは遠近法という技法についての記述ではあるが、ナダルが、既に確立していた線遠近法を用いながら、異時同図の技法を合わせて用いていること自体にも当てはめることができるだろう。

 さて、パノフスキーはわずか80P程度の本書において、西洋美術における遠近法の登場について詳細に説明しているが、その遠近法がもたらしたインパクトにおいて結論部で明確に記述している。

(P70)遠近法はまた、芸術的な現われを確固たる規則、のみならず数学的に見て精密や規則にまでもたらしもするが、しかしそれはまた他方で、この現われを人間に、のみならず個々人に従属させもする。というのも、上の規則は、視覚印象の精神的物理的諸条件に関係しているのだし、この規則が働く様式は、自由に選択することのできる主観的「視点」の位置によって規定されているからだ。こうして遠近法は人間の権力志向の勝利だともとらえられるし、外界を確定し体系化するものだとも、自我領域の拡張だともとらえられるのである。それゆえ、遠近法の歴史は、この両価的方法がいかなる意味で利用されるべきかという問題の前に、芸術的思考を繰り返し立たせずにはおかなかった。
(中略)
 これらすべての問いのうちには、現代の用語を使うなら、主観的なものの野望に対する対象的なものの「権利主張」がひそんでいる。なぜなら、対象は(まさにある「客観的なもの」として)観賞者から距離をとり、おのれ自身の形の上での合法則性、たとえば対照的であるとか正面をむいているとかから生ずる形のうえでの合法則性を妨害なしに発揮しようとし、(中略)
 どちらかといえば観賞者の想念のうちにあるような座標系によって規定されたりすることは望まないからだ。

パノフスキーは遠近法が持つ両義性を指摘する。遠近法によって鑑賞者の主観的な「視点」から、キャンパスの中の座標軸に規定されて描かれることになる。しかしながら、描かれる対象はそのように規定されることを望まない。通常の絵画においてそうであるならば、ましてや神や信仰を描いた聖画においてはなおさらそれは深刻な問題となりうるだろう。そしてそれを描く画家にとっても、そのジレンマは甚大なものとなることは容易に想定できる。
 しかしながらパノフスキーは続けて宗教画や聖画においても両義性が存在すると結論付けている。

(P76)遠近法的な空間観が二つのまったく異なった側面から論難される可能性があったことも明らかになる。つまり、遠近法が遠慮がちに出発した時点ですでにプラトンが、遠近法は事物の「真の大きさ」をゆがめ、現実や規範のかわりに主観的な仮象や恣意を持ち出すという理由でそれに有罪判決を下したとすれば、もっとも現代的な芸術観は、まったく逆に、遠近法は制限された、また制限を設ける合理主義の道具だという批判をそれにあびせたのだ。(中略)
遠近法的な見方は、それが主として理性と客観主義の方向に利用され解釈されようと、主として偶然性と客観主義の方向に利用され解釈されようと、絵画空間を(たとえ精神生理学的「与件」を大幅に捨象した上であろうと)原理的に諸要素から、経験的視空間の図式に従って構築しようとする意志に基礎を置いている。つまり、遠近法はこの視空間を数学化するのではあるが、しかしそれが数学化しているのは、やはりまさしく視空間なのだ。また、遠近法は一つの秩序づけではるが、しかしそれは視覚的現れの秩序づけなのだ。(中略)
このように芸術的な対象性を特有な仕方で現象的なものの領域に移し入れることによって、遠近法的な見方は宗教芸術に、そこにおいてこそ芸術作品が奇蹟を生み出し予告することになる教義的-象徴的なものの領域を閉ざしてしまうのだ。だが、遠近法は宗教芸術に、あるまったく新たなものとして幻想的(ヴィジオネール)なものの領域を開いてやるのであり、この領域においてこそ、超自然的な出来事がいわば鑑賞者自身の、一見したところ自然な視空間に押し入り、まさしくそうすることによって鑑賞者にその出来事の超自然性を本当の意味で、「内的」に悟らせることになるので、その奇蹟が鑑賞者の直接的な体験となるのだ。また、遠近法は宗教芸術にもっとも高度な意味での心理的なものの領域を開いてやるのであり、そこではもはや奇蹟は、その芸術作品のうちに描かれている人間の心のなかでのみ起こるのである。

 ここでしるされている宗教芸術における“象徴的なものの領域を閉ざす”については、ウスペンスキーの論稿が詳説しているので後に考察する。いずれにしろパノフスキーは、遠近法が以前の宗教絵画に存在した教義的な象徴的なものの領域が閉ざされるのと引き換えに、超自然的な出来事が、一見自然な視空間の中に介入してくることで、その出来事の超自然性を、鑑賞者に「内的」に悟らせ、直接的な体験とさせるという意味を持っていると説明する。

(P78)遠近法的な空間観は、実態(ウーシア)を現象(フェノメノン)に変えることによって、神的なものを単なる人間の意識内容に切り縮めたように見えるが、しかしその見返りに逆に、人間の意識を神的なものの容器にまで広げもするからである。それゆえに、こうした遠近法的な空間観が芸術の発展のこれまでの過程で二度にわたってゆるぎない地歩を占めたのも偶然ではない。その一度は、古代神権政治(テオクラティ)が崩壊したときにその終焉のしるしとしてであったし、もう一度は、近代の人間の政治(アントロポクラティー)が台頭したときにその出発のしるしとしてであった。

 そしてそれは、神的なものを人間的意識内容に切り詰めると同時に、人間の意識を神的なものにまで広げるものとなり、それこそが、人間が自立した意識によって神や世界を認識するという「近代(モダン)」の出発のしるしであったと意義付けるのである。
 本論文において繰り返し立ち現れる、遠近法をめぐるパラドックス、両義性は上記のパノフスキーの考察をベースにしているといえよう。


(2)中世絵画の意味論 ウスペンスキー『イコンの記号学』より
ナダルの絵画においては遠近法と中世の異時同図が同じ絵画の中で描かれている。しかし現代に生きる私がこの絵画を見るとき、まず中世絵画の技法と意味論を理解せねばならない。これを主としてイコンの方法論を分析しながら解説しているのが、ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学 中世の絵を見るために』(新時代社1983)である。
 同書においてウスペンスキーは線遠近法とイコンにおける逆遠近法の意味論を対比させている。そして、逆遠近法が、線遠近法の前段階にある原始的な技法などではなく、独自の完結した方法と意味論をもっていることを詳説する。この中には「枠組み」「主観の偶発性」「視点の断片化」「視覚印象の収斂(纏め上げ)作用」など、ナダルの絵画を理解する上での重要な要素が含まれているため、以下多くを引用しながら考察する。

① 線遠近法=視点の固定、逆遠近法=視点の移動という性質の違い

(P86)このように、線遠近法と逆遠近法との対立は、何よりもまず、視点〔視線〕が固定されていて不動であるという特徴と、視座が移動しうるという特徴との対立に、関連づけることができます。(この対立は、すでに世界観における一定の対立・相違と関連づけられます)。このことから、とりわけ中世絵画(たとえばイコン)の中の図像の、不動性という特徴も出てくるといえるのです。なぜなら、このような場合、図像そのものが“動き”の相を見せる必要がないからです。動くのは観る者の方だからです。(もっとも、機能的には双方とも同じです)。このような〔中世絵画〕の場合と、観る者はじっと動かないということを前提とした、ルネッサンス以降の芸術(つまり線遠近法システムの芸術)、とりわけ、それらの芸術に特有の、〔絵の中で〕動き・転回を伝えようとする極端な短縮・・・

(P89)そこで、やや大まかにいえば、逆遠近法のシステムの枠内にある場合には、描かれるべき対象が現実にどのようなものとして存在しているかという点が本質的なことであるが、線遠近法のシステムの枠内にある場合には描かれるべき対象がどう見えているか、いいかえると、対象が描く者の目に〔所与の単一・不動の視点から、しかもある特定の一時点において〕どう映っているかという点が本質的なことである、というふうに言えます。(したがって、芸術の進化の様相と、哲学思想の進化の様相とを結びつけて考えることも難しいことではありません、とりわけ、中世の世界観の絶対主義的な傾向と、近代〔の世界観〕に特徴的な主観〔相対〕主義とを対照させてみるならば)


②中世絵画=全体性、遠近法=断片化が可能
 ウスペンスキーは続けて、絵画の中の一部分を切り出すことができるかという問いを元に、中世絵画と、遠近法以降の絵画の違いを説明する。遠近法の絵画においては絵画の一部分をそのまま切り出してみることが可能である。(例えば人物、テーブル、テーブルの上のもの)しかし中世絵画は、絵画の中に描かれた個々の人物と者は、絵画全体の中で、全体との間の関係において指示対象となり呼応している、とする。

(P92)中世絵画における表現は、なんらかの現実の個別対象を、〔全体から〕個々ばらばらに切り離してコピーするというよりは(なぜなら、なんらかの類似〔現実の対象と描いた対象との間の類似〕を意図してさえいないといえる場合が、しばしばあります)、むしろ、個々の対象(部分)は、これを(それをとりまいている)描かれるべき世界〔全体〕の中に置いて、その中で、当の対象(部分)が占める位置を、象徴的に指定しようとするものです。
(中略)
(逆遠近法のシステムの中では)、絵の全体が、描かれるべき現実(全体)の記号となり、他方、絵の個々の部分は、(その現実の側の)指示対象と、直接に(媒介するものなしに)呼応するのではなく、
個々の部分(個々の図像)が(絵)全体との間にとりむすんでいる関係を介して(間接的に)、(現実の)指示対象と呼応している、というふうに言えるでしょう。
(中略)
おそらく、中世芸術のシステムは、なんらかの己れの(個人的な)図式を描かるべき世界にかぶせてゆくということではなく、現実に在るもの(「存在のかけら」)を、それらが在るがままに受け入れ、在るがままに捉えるということと結びついていると言ってよいでしょう。


③「枠組み」について説明される。
 中世絵画、イコンが、絵全体との関係において成り立ち、その視点が絵画の中に存在する以上、そもそも「枠組み」を必要としない。「枠組み」自体は、絵画に対して、その外側にある世界から美術作品の内側の世界へと移ってゆく際の境界であり、「枠組み」自体は絵の外側に属している、という指摘は重要である。

(P105)しかし、中世絵画の作品には、内なる観察者の視点と並んで、表現の外側に立つ始点も(つまり、絵を見るかもしれない潜在的な観賞者の視点と一致する視点も)存在するといえます。これは何よりもまず絵画作品の枠組みにかかわることです。ここで「枠組み」という用語で理解しているのは、描かれる現実の境界を示すために役立つ約定的な技法や形態です。それらの境界は、直接表示された絵の(あるいは一般に美術作品の)境目(たとえば、特別に描かれた線とか、窓枠、開かれた戸口、開かれた戸口、引き開けられたカーテンなどといったたぐいの境目。絵の実際の物理的な枠(額)とか、イコンの聖物箱なども、結局はこれらの一つといえるでしょう)であることもあれば、表現の周縁部に示される、特別な構図上の形式であることもあります。
枠組みは、〔描かれる現実の境目を示すということによって〕、(表現に対して)その外にある世界から、美術作品の内側の世界へと移ってゆく際の境界を示すことになります。その際、枠組みそのものは、表現(作品)のうちに示される、想像されるべき三次元の世界にでなく、〔絵の〕外に立ってこれを見る物の空間に属しているものです。したがって、(絵を観る者、つまり)外側の観察者を念頭において示されている特殊な形式も、絵画作品の枠組みを示すことができます、

(P106)イコンは、さらにまた一般に古い絵画表現は、枠組み(額縁)を特に必要としないのです。「外側の」視点に由来する図像そのものが、表現(作品)のごく自然な枠組みとなるからです、ところが、近代芸術の場合は、表現の境目を示すなんらかの仮の枠組みが不可欠です。枠組みこそが、〔全体としての〕表現を組織するからです。表現に記号としての意義を与えるのも、枠組みだからです。

④視覚表現の収斂における2種類の原理
(さらにウスペンスキーは、中世絵画において視覚印象の収斂(纏め上げ)を二種類の原理に区別する。A画工自身が複数の視覚印象を一つに収斂する場合
空間・時間的に複数の違った位置を、ひとつに纏め上げようとする(アッシリアの五本足の牛、中世ロシアの三本の手の聖母像など)
B〔収斂以前の〕視覚印象そのものをじかに伝えようとし、それらの印象を収斂し纏め上げるのは、われわれ観る者の方にゆだねられている場合。
(たとえば洗礼者ヨハネを構図として、切られる前と切られた後の頭部が、同じ画面に二度描かれる場合など)
ウスペンスキーはAにおいては(対象の上をすべらせてゆくような)視線の移動が生じる。Bでは連続しない個々ばらばらな視線の投げかけが行なわれるとして、その譬えとして、投光器(照明ライト)が、なにかの表面を映し出すときにA順序を追って対象の上を滑ってゆく場合B違ったライトがそれぞれフラッシュのように瞬間的に(スポットライトのように)照らし出す場合に例えている。そして、特にBの技法を映画におけるモンタージュ技法との類似していると指摘している。(モンタージュにおいても、フィルム上の個々ばらばらな構成要素をひとつに総合し収斂しているのは、観客であるから)
ウスペンスキーはこの舞台における役者の動きのたとえを、何度か使っており、非常に分かり易い。

(P162) 意味論的な統辞法
 描かれるべき対象の、意味上重要な部分は、観る者のほうに向けられる。他方、意味上重要でない部分は、遠近法による変形を受け、(それら両種の部分からなる)対象(全体)の、空間における実際に位置(在り方)を示す。そのことによって、当の対象(全体)を三次元の空間の裡に置き直すための、いわば、鍵とでもいうべきものとなる。中世絵画の裡にきわめて頻繁に現れる、図像の、あらゆる種類のずれ(デフォルマシオン)や割れも、このように(“鍵”として)扱うことができる。
(なお、著者はここで、重要な部分が観る者のほうに向いていることを芝居との対比で説明する。芝居においては、それぞれのシーンを臙脂ながら、俳優の顔はつねに観客の方にむけている。)


⑤イコンにおける人物像の構図と礼拝における祈り
 さらにウスペンスキーはイコンが礼拝において使用されるものであり、その絵が枯れ方が祈りにおいて極めてアクチュアルな問題であることを説明する。

(P174)ここで指摘しておく必要があることは、描かれる人物像を、それが記号としてもつ重要度(価値)に応じて、構図の中で区別(して配置)するという問題が、イコンにとっては、とくにアクチュアルな問題であり、イコンの特性やイコンと世俗絵画との相違を大きく規定している点でもあるということです。事実、重要な(礼拝されうる)像と、重要ではない像、つまり、礼拝されることはないが、象徴的に示される主題を考慮して絵の中に配される像という、この二種類の像を区別しなければならない必要に、非常にはっきりとした形で直面するのが、特殊な用いられ方をする〔単に観られるだけではなく礼拝されもする〕イコンの場合です。
(中略)
 この点に関連して興味深いのは、ロシアの若干の宗派が、ひとりの礼拝されるべき人物とその人に直接関係した付属品とを描いたイコンだけを認めて、なんらかの〔礼拝には〕無関係な人物なり事物なりが描かれているイコンに対しては、礼拝を拒む(たとえば、イコンに、十字架にかける側の兵士たちが描かれているなら、磔を描いたイコンも礼拝することを拒む)という場合です。
(中略)
一般的にいえば、このような分別の必要も、そのために使われる具体的な技法も(とりわけ、正面をむかせる技法)、元来は、イコンと礼拝する者との接触という課題によって決定されていたものだということは、改めて言うまでもないことです。なんらかのこうした接触を妨げる可能性のあるものは、すべて取り除いてしまおうとする努力も、同様に説明できます。


末尾は正教の礼拝においてはしばしば十字架やイコンにキスをする。そのようなことを意味していると思われるが、いずれにしろイコンと言うものが徹頭徹尾、祈るために製作されておりそもそもそのために存在しているということを改めて認識させられる。


⑥絵画における偶発性の意味合い

(P178)ルネッサンス以降の芸術の場合は、〔図像を組織する〕原理そのものが(なによりもまず、線遠近法の原理が)、原則的に偶発的な契機を拠りどころとしている度合、大きいということがあります。実際のところ、画家が選ぶ空間上の〔特定の〕位置も時間上の〔特定の〕位置も、偶然的なものにならざるをえないからです。なぜなら、画家も観る者と同様、描かれるべき世界の中に直接身を置いてはいないからです。(中略)
 映画の用語でいいかえるなら、絵の「ショット」の中に入るものの境界そのものも偶発的です。しかも示唆にとんでいることは、そうした偶発的な境界(線)が、しばしば、人物なりの図像そのものの上に直接引かれているという点です。そこで、表現されるものが、いわば、人為的に切断され、絵の枠組みが、それぞれの図像を、いわば、切り離してしまうということにもなります。
 (中略)
一般には、ここでは(近代のイデオロギーの中では)、表現が偶然性をもっていることこそが、その表現の真実らしさ(リアリティ)を保証するものである、というふうに受け取られています。事実、表現が真実らしさをたもつための、近代(ルネッサンス以後)の基準によれば、作者(画家・小説家など)の、あれこれの主観的な位置(視座)を、したがって、そのために避けがたく偶発的でもある位置を、拠りどころとしなければならないとされております。そこから、作者の認識が、原理的に限定されたものにならざるをえないという特性も、出てくるわけです。つまり作者は何か知らないことが許されるということです。しかも、そうした限定は、だまし絵的な真実らしさを実現するために、作者が、自分自身の認識に、意識的に加える限定であるという場合が、多いのです。こうした限定に加えられているということによって、はじめて、作者の認識の源となっているものは何かという問題も、したがって、結局のところ、作者の認識が信頼しうるかどうかという問題も、論理的に正当なものになるわけです。

(P180)他方、中世やそれ以前の時代の絵画においては、この種の問題は、まったく想起しえない問題です(つまり、われわれが検討してきたシステムの範囲内では、正当化できない問題です)。なぜなら、すでに指摘したように、逆遠近法のシステムの中では、対象の像は、個々人の意識を通して示されるのではなく、対象の所与のままの在り方に従って示されるからです。〔中世の〕画工は、長方形の対象を描く際にも、(線遠近法のきまりによって指示されているように)〔手前から奥の方へ遠ざかるにつれて〕次第に小さくなるように描こうとはしません。なぜなら、そのように見えるのは、単に、ある特定の時点に、ある特定の視座をとった場合だけだからです。近代の基準とは違って、ここでは、非偶発性(合法則性)こそが、表現を、真実らしくするものとみなされているのです。こうした、中世の絵画に一般的に言えることが、とくにはっきりと現れているのが、中世のイコンの場合です。


 ウスペンスキーは絵画における偶発性(contigency)を取りあげる。線遠近法は常に偶発性を包含している。(聖画のあるシーンを描く場合においても、そのシーンをどの場所から、どの瞬間に、どの視点から描くか、考えてみれば全てが製作者の主観的な位置(視座)による偶発性を含んでいるのだ)。そしてその偶発性こそが表現のリアリティと、批評における作家性、作者の意図の分析の源となっている。しかし中世絵画やイコンは、対象の所与のままのあり方によって示されたものをそのまま描くゆえに偶発性は存在しない。(ゆえに特にイコンにおいて、多くの場合製作者が誰であるかすら知られることがないといえるのかもしれない。)
 引用してきたようにウスペンスキーは逆遠近法における意味論を線遠近法絵画と対照させながらし見事に説明している。(ただし、イコンと中世絵画を分類することなく一体として論じている点においてのみやや疑問が残るのだが・・・)
その考察に基づき、ジェロームナダルの中心に遠近法によって描かれ、その周辺に異時同図が配置された絵画がなぜ描かれたかを理解することができる。

(3)神の(視点の)偏在性 クザーヌス『神を観ることについて』
 本論文においてクザーヌスが引用されているが、クザーヌスは『神を観ることについて』の冒頭で、人間に可能な方法で神的な事柄に向けて導こうとする場合に、「万物を観ている人物像」と呼ばれる絵画以上にふさわしいものを見出せないとし、それを「神のイコン」と名づけている。
 この絵画は、鑑賞者が東西南北のどの方向から見ても、鑑賞者を見つめているように見える。また東西南北のそれぞれの鑑賞者が同時に見つめられているように感ずる。この像の眼差しは動かずに居ながら動くようにしか見えない。つまりその眼差しは全ての人を配慮しているのであり、つまり誰をも見捨てることがない。クザーヌスはそこに神の遍在性の証しを見ているのである。いわばクザーヌスの文章からはウスペンスキーが考察した中世絵画における視点の内在性が、繰り返し論じられる中で、信仰論として練り上げられているということができるだろう。

(P34)
主よ、私の神よ、私があなたのお顔を長く見つめていればいるほど、あなたが私に対してその鋭い眼差しをいっそう鋭く投げかけていて下さることが、ますます明らかになります。

(P51)
あなたの眼差しは目であり、つまり生命ある鏡ですから、自己のうちに万物を観るのです。なぜならば、それはあらゆる見られうるものの原因であるがゆえに、全てのものをそれらの原因にして根拠のうちに、すなわり自己自身のうちに、包含しており観ていることになるからです。主よ、あなたの眼は屈折することなく万物に到達します。ところがわれわれの眼は、対象に向かって自己を屈折させるのです。その理由は、われわれの眼差しが一定の角度をもって見るということにあります。

(P52)
主よ、あなたは、今私が眺めている図像がそうであるように、全体と個々のものとを同時に見つめておられるのですが、いかにしてあなたの視力において〔このような〕普遍的なものが個別に合致しているのか、私は驚かされています。しかし、私は以下のことには気付くことができます。すなわち、あなたの〈観〉を探求する際に、私は自分を視力をもってせざるをえないがゆえに、これ〔この合致〕がどうして成立するのかを、私の想像力は捉えることがないのだということを。あなたの〈観〉は、私のそれのように感覚器官に縮限されることがありませんから、私は判断する際に欺かれてしまうのです。

(P71)
あなたご自身があなたご自身の〔観ること〕の対象であるならば、あなたは同時に、観る主体であり、観られる客体であり、観ることそのものであるのですから、その場合に、どうしてあなたがあなた以外のものを創造することがあるでしょうか。

(P90)
すなわち、あなたを見つめる者があなたに形相を与えるのではなく、むしろ、彼は、自分が現に存在しているということをあなたから受け取っているのですから、自分があなたのうちで見つめられているのです。同様に、あなたが(あなたを)見つめているものから受け取っているように見えるという事実は、〔実は〕あなたが与えているものなのです-あなたが、あたかも諸々の形相の形相としての永遠性の生命ある鏡であるかのようにして。誰かがこの鏡のなかを見つめるならば、鏡という諸々の形相の形相のうちに自分自身の形相を観ることになり、この鏡のうちに見る形相を、自分の形相の像であると判断することになります-なぜならば、磨かれた物質としての鏡ではこのとおりですから。
 しかし、真実はこの反対なのです。すなわち、彼がこの永遠の鏡のなかに観るものは像ではなく真理であり、それを観ている者の法がそれの像なのです。それゆえに、私の神よ、あなたのうちなる像は現に存在し、存在可能である一切のものと個々のものの真理であり原像なのです。

(P130)
 イエスよ、それゆえにあなたは、人間の眼をもって眼に見える偶有的なものを見るとともに、神の絶対的な眼差しをもってものの実体を観たのです。肉のうちに配備された人間であって、実体あるいはものの何性を観たことのある者は、あなた以外にはおりません。
 (中略)
 人間においては知性的な能力が動物的視力に合一しているので、人間は単に動物として見るだけではなく、人間として識別し判断もするのですが、イエスよ、あなたにおいては、これと同様な構造で、絶対的眼差しが、動物的視力において働く識別力としての人間の知性的能力に合一しているのです。

(まとめ=神との親密性?)
 クザーヌスにおいては「神のイコン」をきっかけにして神の偏在性、全視点性を確信する。そしてそこから、人間が神を見るとき、それができること自体が神の働きかけであるとする。鏡を覗き込むとき、それは像を覗いているのではなく、覗いているものが像であり像が真理を覗き込んでいるという逆説的な譬えとして、クザーヌスの信仰につながる。
 そして人間が偶有性によって限界づけられているのに対して、イエスだけは肉の眼でみながら絶対的な眼差しで実体を見ることができるとする。
 しかしながら、クザーヌスの記述において特徴的に感じられるのは、神と人とは絶対的な違いがありながら同時に、そこに不思議な親密性と相互作用(インターアクション)を帯びているように思われる。それが、神秘主義と呼ばれるものなのだろうか?
 あるいは、この「親密性」がポイントなのとも思われる。


(4)カメラ・オブスキュラの登場による一つの終焉

 しかしながら、ナダルの絵画におけるような模索の時代はその後、終焉を迎える。J・クレーリー『観察者の系譜 視覚のモダニティ』において、視覚の“近代”におけるカメラ・オブスキュラの登場の意義を、単にカメラという器具の原初形態以上の意味をもつ、極めて重大なものとして詳説している。

(P68)「まず第一に、カメラ・オブスキュラは個体化という働きを遂行する。つまり、カメラ・オブスキュラは観察者というものを、必然的に、その暗い領域の内部にあって他者から切り離され、囲い込まれた、自立的な存在として定義=限定しているのである(中略)それと同時に、この第一のことと関連してはいるが同じくらい重要なこの暗室(カメラ)の機能は、見るという行為を観察者の肉体としての身体から切り離すこと、視覚を非肉体化することであった。

(P71)観察者は、一方ではこの仕組みの働きそのものからは切り離され、機械的・超越的なかたちで世界の客観性を再-現した像に対する、非身体的化された目撃者として存在している。しかし他方では、暗室の中に彼または彼女が居るということは、人間の主観性=主体性と客観的=客体的な装置との時間的及び空間的な同時存在性を意味してもいる。かくして観客は、〔遠近法絵画を眺めるときと比較すれば〕再現=表象化の仕掛けからより独立した、周縁的で補足的な存在として、暗闇のなかにあって自由に浮遊する存在となるのである。(中略)カメラ・オブスキュラは観察者が自分の位置を表象の一部に繰り込まれたものとして見ることを、アプリオリに妨げる。

(P82)
「絶対的な特権を有する視点が消失し、「可視性が偶有的(コンティンジェント)な事実となった」世界の内部」にたった一つの開口部を通して客観的な世界観の上に人間の知を基礎付けようとする、ことが可能になったのである。


カメラ・オブスキュラの登場によって、暗室の中に空いた光を通す一つの穴だけに、視覚の「枠組み」は完全に限定され、固定されることで徹底される。さらに、鑑賞者は、遠近法絵画を眺める際に生ずる「再現=表象化(representation)」から切り離され、暗闇の中で、非肉体化され、自由に浮遊する存在となる。
 カメラ・オブスキュラの登場によって、視覚体験は永久に変革されたのだと言えよう。
しかし、クレーリーはそれを「自由に浮遊する存在となる」と書くが、それは同時に、肉体を離れた視覚の圧倒的な優位、支配性と、際限のない偶有性の分裂をも意味する。
 そこからはビデオカメラ、マルチカメラ、マルチスクリーンによる鑑賞体験など、現代において私達が普通のこととして感じている圧倒的に多様な視覚体験を思い起こさせる。
 今一つは、カメラオブスキュラの登場により、観察者が再現=表象化から切り離されたことは、同時に圧倒的な器具、器具の設置者(写真・映像なら製作者)の主観・偶有性が優位を占めたことをも意味する。器械を通しての視覚は、原則として覗きこむ万人にとって同じものとして認識される。それは、絵画を見て、再現=表象化を行ない鑑賞する際の、鑑賞者による多様性とは比較にもならない。
 いわば観察者は、器具と製作者の支配下に置かれる。(そして、それを脱するために、また絵画・写真・映画が多様な表現形式を考案し、創作し続けようとしているのでもあろう)


 (5)J・ナダルの方法論
 『霊操』の翻訳者、門脇佳吉はロヨラの文章の守護は常に人間であり、人間中心であり、これまでキリスト教修行方法の中で、これほど人間の自由と選択の自由と自己決定を中心課題においた霊性は存在しなかった。それが『霊操』の現代性であり、「ルネサンスの最初のヒューマスト」ロヨラが目指した「神的ヒューマニズム」なのである、と論じている。
 『霊操』を読むと(独学では理解が困難だが)、その方法論として徹底的に具体的な方法によっていることはすぐに気付く。そしてその最終目標は、「神との合一」ではなく「神が何を求められているか」を知ることにある。この点において、クザーヌスと決定的な違いがある。
 ナダルの絵画においては、中心に遠近法で重要なテーマがかかれ、周縁に様々な異時同図が配置され、下部には数字と共にその説明が書かれている。これは、霊操において段階的に行を行ないながら、その方法論は徹底的に具体的で、ステップを踏んで進められていくスタイルをそのまま表しているといえる。
 私が興味があるのは、その中に線遠近法と、異時同図が画中画として並立しているところにある。
ウスペンスキーが詳説したように、中世絵画は、描かれた内容を断片化することなく、あるがままの全体として描いた。ゆえにそこには安定性があり、絵画の中に視点があるがゆえに観察者は描かれた絵画の中の神性との親密さ(クザーヌスの記述に感じられるように)がある。しかしながらそこには、個人としての主体性というものは存在しない。一方で線遠近法は、そこに観察者、製作者の主観性と偶有性を持ち込んだ。同時に、もはや中世絵画に見られる全体としての安定性は失われた。
 ナダルの方法論は。近代によって確立された主体性と、神を中心とした全体性・安定性を両立させようとする試みとして見ることができるだろう。
その現代的意味については、今後考察したい。


(参考文献)
クザーヌス『神を観ることについて』(岩波 2001)
ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜 視覚空間のモダニティ』(十月社 1997)
E・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』 (ちくま学芸文庫 2009)
ボリス・ウスペンスキー『イコンの記号学』 (新時代社 1983)
ロヨラ『霊操』(岩波 1995)