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(取材ノート1)7月15日若松英輔氏講演 (ジュンク堂大阪本店) の書き起こし。

以下記事を書きました。残念ながら字数の限界がありましたので、以下、記事からこぼれてしまった全文テープからのおこしを添付します。(約1万1千字)

www.christiantoday.co.jp

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今日ここに来る前に中ノ島の公会堂に行きました。昼間、法案が通りました。平和とは何かを考えたいと思ったからです。日常における平和とは何かを、内村鑑三から考えたい。内村は1919年1月17日に中島公会堂で講演し、2000人もの人が集まった。

内村はそこで再臨を語った。再臨とはキリストがまたそこに来るということ。

キリストが何らかの形で現れる、と内村鑑三が話したときそれだけの人が集まった。

 

そこで内村はこんなことを話した。

「キリストの再臨はただキリスト信者に関わる問題ではない。世界万民にかかわる問題である。国という国、人という人にして、この問題に対し深き興味をもたざる者としてではないはずである。戦争絶対廃止にかかわる問題である。さらに進んで人生のすべての悲哀、すべての苦痛、しかり、死そのものの廃止にかかわる問題である」

 

絶対的な戦争廃止と、人生のあらゆる苦しみと悲しみがなくなるということ、それがキリストの再臨ということとして話した。それが95年前、この地大阪だった。

1919年とは、どういう年か。1917年に第一次世界大戦にアメリカが参戦する。

内村は札幌農学校キリスト教になりました。同級生には新渡戸稲造や、日本で植物学をつくった宮部金吾などの大変な秀才が集まったところだった。内村は首席で断トツの秀才だった。しかし、一方では、

理性では理解できないような教祖的な人物でもあった。

 

彼が信仰を深めたのはアメリカだった。内村には当時のアメリカは絶対平和の国だった。あのアメリカが戦争をするなんてというのはものすごいショックだった。内村はもうこの世の中は終わりだ、戦いが始まるんだと思った。事実そうなった、それが100年後の今もつづき我々はその中を生きている。

 

内村はその中で、どうやったら戦いがなくなるだろうかと考えて再臨運動をする。

1年間で63回の講演を行い、中の島の講演がほぼ最後だった。

今日の我々からすると一見ほぼ無力で、愚かしくさえ思われる行動だった。

これだけ武器が売買されるなか、大真面目にキリストの再臨と絶対平和を訴える人がいた。

その意味をまじめに考えてみたい。

 

我々が今これが有効だという考えをすべて試みても今の政治状況は変わらないだろう。今日デモにいくという手もあるだろう。しかしおそらく大きな変化はない。

すると我々は我々が考えたこともない形で平和を実現させなければいけない。

そして「非戦」という言葉を今日持ち帰っていただきたい。

 

非戦とは「戦いに非ず」

今日本で問われているのは、どういう場合に戦争は許されるか?ということ。こういう場合には集団的自衛権が使われるのはしょうがいないという議論。

しかし内村は非戦、どんな理由があっても戦ってはならないという考え方、生き方、その非戦の力強さを考えたい。

非戦という言葉を最初に使ったのは痛切では内村とされるが、実は、幸徳秋水大逆事件で殺された人物。大逆事件は1910年に発生し、1911年に処刑された。

幸徳秋水は1900年に「非戦争主義」ということを言い始めた。内村はまだ非戦を唱えていない。

戦争は場合によっては起こりえるかもしれない、と書いている。日露がはじまろうという頃。1903年になって内村は、絶対戦争はだめだという立場になる。

 

幸徳秋水は「共産党宣言」を訳した人物であり、日本で最初の共産主義者であり社会主義者だった。その後に内村は非戦を唱えた。

日本における非戦は宗教から出たのではなく共産主義社会主義から出た。幸徳秋水は激しく批判された。「共産党宣言」もすぐに出版差し止めになった。

幸徳秋水の主著『帝国主義』に序文をよせているのが内村。

現在からみると唯物論キリスト教はぶつかりあうように思える。しかし内村の時代は違うし、内村という人が一番強く幸徳秋水を支えたという歴史的事実がある。

 

内村や幸徳秋水が我々に問いかけてくるのは一人で立って一人で考えるということ。内村も不敬事件でちょっと頭を下げなかったことで大変なことになった。日本中から叩きのめされた。暴力を振るわれたわけでないが、暴力を振るわれる以上のことを受けた。内村は二度死ぬことを考えたと書いている。

幸徳秋水大逆事件もそうだろう。事件はでっちあげだった。

しかしこれらは100年前で今日の我々と関係ないと考えてはいけない。

いつ我々に大逆事件がおきるかもしれない。

 

「今やミリタリズムの勢力盛んなる前古比なく、殆どその極に達せり。(中略)その原因と目的は、けだし防禦意外にあらざるべからず、保護意外にあらざるべからず。

然り、軍備拡張を促進する因由は、実に別にあるあり。他なし一種の狂熱のみ、虚誇の心のみ。好戦的愛国心のみ。」

 

これが110年前書かれた文章です。我々は進化したといえない。今、我々はまさに幸徳秋水が書いたような時代に生きている。今日通った法律(安保関連法制)の根拠は何か?幸徳秋水は、一種の熱狂と、ほとんど意味のない沽券、そして好戦的愛国心と書いている。

国を愛するというが、単に戦いたい者が

 

内村はこう書いている。

「君は基督信者ならざるも、世のいわゆる愛国心なるものを憎むこと甚し、君はかって自由国に遊びしことなきも真面目なる社会主義者なり、余は君の如き士を友として有つを名誉とし、ここに独創的著述を紹介するの栄誉に与かりしを謝す。」(『帝国主義』に序す)

そのように書いていた1917年にアメリカの参戦は、内村には大変なショックだっただろう。

 

考えるべきは秋水の先見性、そしてわれわれは先見性を持った人間を国で罪をでっちあげ叩き殺してきた。それを忘れてしまうぐらい歴史はおかしくなっている。共産主義幸徳秋水と、そばにいた内村も忘れられるのかもしれない。

その後1903年に、影響を受けて内村は「非戦論」を書く。それが20世紀初頭の歴史。

 

 

1904年に幸徳秋水は「共産党宣言」を翻訳する。

共産党は到るところにおいて、万国の民主的諸党派の団結と一致とのために努力する。共産党は、この主義政権を隠蔽することを恥とする。彼らは公然として宣言する。彼らの目的は、一切従来の社会組織を強力的に顛覆することによってのみ達せられる。支配階級をして共産主義革命の前に戦慄せしめよ。プロレタリアは、自分の鎖よりほかに失うべき何ものももたない。そして彼らは、獲得すべき全世界をもっている。

 万国のプロレタリア団結せよ!」 (1904年 幸徳秋水堺利彦訳『共産党宣言』)

 

これは「宣言」です。宣言はなんら法律的根拠を持たない。マルクスエンゲルスのただ二人が書いたもの。しかし20世紀は共産主義の時代だった。この「共産党宣言」はどの法律よりも力をもった。

日本はおそらく近く憲法に手をつけるだろう。しかし、それでも我々は宣言を出してそれを食い止めるという手段をもっている。憲法は変えられる。しかし憲法を押さえつける宣言という手段を我々は持っている。それを秋水はやった。

言論人は問われている。我々はなんらかの宣言をもって法律に対抗できるだろうか?

これから一年それを見て生きたい。私も書き手の一人だからひとごとではないが。

 

 

柳田国男は『遠野物語』でこう書いている。 

『思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならなん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。

願わくはこれを語り手平地人を戦慄せしめよ。』

戦慄せしめよ。これは柳田が幸徳秋水共産主義宣言を読んだことが間違いないことが分かる。柳田の民俗学が学問における革命であったことがわかる。事実、中野重治など左翼の人に愛され信頼されていた。中野は第二次大戦に従軍するとき家族に遺書を渡す。自分に何かあったときは柳田を頼るようにと書いている。

 

この二書は全く接点がないように思える。しかし接点がある。それは民衆。・

民衆にこそ英知がある。権力やお金ではない。民衆の心の中、日常にこそ我々を救う何かがあるということを書いている。それを聞いて、権力人を戦慄せしめよ、と。

それが1909年、翌年大逆事件がおきる。

 

柳田は元々役人です。日本中回って、自分の思っていることが役人の立場ではできない。明治政府が民衆を忘れ西洋化する中で、国力をつける不可避の道。

今も変わりません。

今も景気がよくなった。大企業はよくなったと。でも我々の生活はあまり変わらないじゃないですか。

だから今の一連の流れを見たときに大逆事件が今の日本で絶対におきないとはとうていいえない。

今と似ている。

おきている現象ときわめて似ている。

だから我々は自分を考えることを忘れてはいけない。

共産党宣言」が我々に教えてくれているのは、自分で考えろということです。人に与えられたことではなく自分の頭を使って自分で考えろということです。

僕は共産主義者ではありませんよ(笑)。生まれて40日で洗礼を受けたカトリックです。しかし共産主義を生きた人々の中にとても深い宗教性、宗教者よりも深い宗教性を感じる。

内村と幸徳秋水のつながりにもそれがあるのではないか。

だから内村は幸徳秋水が亡くなった後、1929年に彼の生き方を「確信ある無神論に自分はなんら反論する言葉を持たない」(『神に関する思想』)と書いている。

宗教の有無、思想の有無をいっている時代ではない。それを超えて実現するべきことが今日の我々にもあるのではないか。その時代1919年この大阪中の島で内村はその話をしたのです。

まさか安保関連法案が通った日になるとは思いませんでしたが。

 

花巻非戦論

1903年内村は『非戦論』を書く。

「余は日露戦争非開戦論者であるばかりではない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。」

内村の高弟に斉藤宗次郎という人の花巻非戦論事件というのがある。宮沢賢治の親友で『雨にも負けず』のモデルになった人物で内村の死に水を取った人。

斉藤は自分は税金を納めるのをやめる、税金が全て軍備になるから。徴兵されても絶対にいかないと国に向かって宣言する。内村はその手紙を受け取るとその日に電車に飛び乗り14時間かけて東北の斉藤に会いに行く。そして「やめろ」という。

「お前の家族はどうなる。お前はいいかもしれないけど家族も巻き添えになるのだぞ。お前はお前の言いたいことを通して気持ちいいかもしれない。しかし一番親しい人を苦しめるからやめろ」と言った。

世の中に伝わる花巻非戦論事件はそこまでしかあまり知られていない。自分では書いたが弟子は止めたと、いうことになっている。

しかし40年後、斉藤宗次郎自身が『花巻非戦論事件における内村先生の教訓』と言う薄い本で、ちょっと違うことを一言だけ書いている。

内村は14時間かけてへとへとになって行き、自分が不敬事件でひどい目にあい病気になって介抱してくれた妻を失って自分が生き残り『キリスト信徒の慰め』を書いている。大変に辛い目にあい、そのときの辛さを知っている。斉藤が同じ目にあうことを恐れて「やめろ」といった、という。

しかし夜通し弟子達がいる中で斉藤を説得した後、翌朝二人だけで散歩してまわりに誰もいないときに、ただ一言言ったという。

「もしお前が本当にお前の信念を曲げたくないならば、ただ一人立って一人でやれ」

斉藤はそれを聞いてわかりましたやめますと言った、と書いている。

 

本当に勇気がある人間は一人で立つ。内村鑑三も家族に類が及ばないようにし、それでも命を懸けるなら一人でやれと言った。

斉藤宗次郎は誰にもいわずに、40年後薄い本でわずかにそう書いている。

内村の非戦論は本物だったと思う。

弟子は殺されても文句は言えない時代だった。実際に1910年幸徳秋水は殺された。良心的兵役拒否などあまっちょろいものはない大罪だった。それでも一人でやれ、と。

平和を考えるとき、我々は一人であることを考えないとだめだ、と思う。たくさんの人が集まって声をあげることが無意味だというのではない。その前に、一人で考え、一人で立たないと勇気をもつことはできないのではないか。

平和を説くのはとても勇気がいる。自分だって戦々恐々としてやっている。でも何かやるならば一人立たなくてはならない。平和とはそういうものなのではないか。

 

ガンディーは非暴力といった。非暴力は一人でないとできない。暴力はみんなでできる。みんなで叩きののめすことはできる。でも打ち返さないということは自分で決めることだ。たとえ二人いてもそれは一と一。非暴力は常に一人でいることを強いる。とても勇気のいること。インドの独立運動は何度も、暴力と非暴力のあいだをいったりきたりして行われた。

非暴力を守ろうとしたとき、人は一万人いてもそこには一人ひとりがいる。烏合の衆にはなりえない。

 

内村の思想も同じだ。

今日、テレビに人がいっぱい映って大きな声を出している。我々も10万人集まってやろうとしている。

それはそれでいいのかもしれないが、でもそれはあまり効果がないのではないか。

一人の人間が本当に心から発する言葉はものすごい力をもつ。だから幸徳秋水を官憲は恐れ殺された。

バンコクのプロレタリアよ団結せよ」と。

団結とは烏合の衆になれということではない。

一人一人立ち、一人ひとりの責任で集まれということだ。

内村と幸徳秋水が強く結びついていたというのは面白いし必然なのだろう。

 

 

『キリスト信徒の慰め』

内村は1891年に妻を亡くす。1893年に『キリスト信徒の慰め』を出版した。

「これ難問題なり。余は余の愛するものの失せしより後、数月間、祈祷を廃したり。祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕に就かじと堅く誓ひし余さへも、今は神なき人となり、恨をもって膳に向ひ、涙を以って寝床に就き、祈らぬ人となりおわれり。」

 

妻がなくなったあと祈ることをやめてしまった。祈らなければ何もしない人間が祈ることをやめ、神を呪詛したと書いている。

 

「ああ神よ、ゆるし給へ。なんじはなんじの子供を傷つけたり。彼は痛みの故になんじ近づくあたわざりしなり。なんじ彼が祈らざるが故に彼を捨てざりしなり。否、彼が祈りし時に勝りて、なんじは彼を恵みたり。彼れ祈り得る時は、なんじ特別の恵みと慰めとを要せず。彼れ祈る能はざる時、彼は爾の擁護を要する最も切なり。」

 

神は自分が祈ったときに自分の近くにいたのではない。自分が祈れないときこそ神がそばにいたのだ。今はそれがよくわかる。これが内村の回心。回心とは向きが変わるということ。キリスト教では人を改めさせてきた。しかしそうではない。「人生の向きを変えるということ」

内村は昔は神を熱心に祈っていたからこそ神はそばにいると思っていた。しかし絶望する出来事があって祈るのをやめ、神を呪いさえした。しかしそのときにこそ神は自分のそばに寄り添っていた。

もちろん人は祈っても救われるしかし祈らずとも救われることがわかった。人間が何かしたからこそご褒美をもらえるという考え方とは全く違う世界が開けている。

 

「ああ感謝す、ああ感謝す、なんじは余のこの大試練に堪うべきを知りたればこそ余の願いを聴き給わざりしなれ。余の熱心の足らざるが故にあらずして、かえって余の熱心(なんじの恵みによりて得し)の足るが故に、余はこの苦痛ありしなり。ああ余は幸福なるものならずや。」

 

この苦しみを通じてこそ見えてくるものがあると知っているからこそ、この苦しみを与えてくれたのだ。

あなたがこの苦しみを与えられたことによって内村は始めて人生にであったのだ。

悲しみや苦しみはこの前までは避けねばと思っていた。しかしそうではない。苦しみを通じてしか見えてこないものがある。これが内村の原点であり、一番最初の本でもある。

妻を失うという偶発的な出来事によって書いた、恵まれた本なのです。

 

第一章の終わりでこう書いている。

「-時にはほとんど神をも―失いたり。しかれども再び、これ回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と荘厳とを加え、神には一層近きを覚えたり。余の愛する者の肉体は失せて彼の心は余の心と合せり。何ぞ思わん、真正の合一は却って彼が失せし後にありしとは」

 

内村の使った「霊性」とは?

内村は『代表的日本人』で西郷隆盛日蓮を愛情をこめて書いている。内村は宣教師ではなく、親鸞日蓮法然によってキリスト教に目覚めたのだと書いている。

1893年内村は「霊性」と言う言葉を使っている。「霊性」と言う言葉を我々は鈴木大拙を思い出す。鈴木は1944年戦争末期に「日本的霊性」を書く。日本が負けたとき我々は何をよすがとして蘇ったらいいかを考えて書いた。その50年前に内村は「霊性」と言う言葉を使った。

内村が「霊性」という言葉をつかうとき、宗教を超えて、という意味で使った。

キリスト教、仏教など宗派・教義を超えた何かということを指した。

「霊性」とは人間の大いなるものに対する態度です。霊とは“魂の奥底にある何か”、そこへの態度。それにどう向き合うかが、我々がどう生きるかということに直結する。

だから内村は幸徳秋水を大事にできた。秋水は最後に『キリスト抹殺論』を書いた人です。本来ならタイトル見ただけで内村は破り捨てそうなもの。しかし内村はそれを引き受けて、「確信ある無神論」として幸徳秋水を高く評価した。

幸徳秋水が論じてるキリストは、キリスト教学がつくったキリストにすぎないそんなものは無くなってしまえばいいと言った。

我々が必要なのは、思想を同じくする人と手を結ぶことではない。それは戦争するのと変わらない。

考えが違う、思想が異なる人でも目的が同じならば手を結ばなければならない、ということを教えてくれている。二人とも大変辛い目にあった。我々も100年後に生きているのだから、内村と秋水の生き方から学びたい。

 

 

亡き人々と再臨運動

内村の二つ目の辛い出来事は1912年娘ルツ子を失ったこと、これも大きな体験だった。

1930年になくなるまで晩年の18年は娘の死とどう向き合うかだったといってもいい。

その中で再臨運動だったといえる。内村は再臨運動とは亡くなった人と自分がもう一度会えるということ、書いている。

1913年、内村が娘をなくした翌年、第二の故郷札幌に行く。親友が内村があまりに悲しんでいて、このままではだめになると思って呼び、連続講演を行った。私は内村の一番優れた講演だと思う。

 

「今夜色々話したき事がありますけれども死んだ人々のことを話したいと思います。こんなことはちょっと無益なように考えられます。キリスト教は生きて居る人を助けるものであって、死んで居る人はいかんともすることはできない。いかにもこれは無益の事のようであります。他の方面から見ても、あまりに感情に走る事のようで、ただ、わからぬ事を想像によりて語るものとしか考えられません。」

 

プロテスタント・チャーチではこの事〔死者に関すること〕にすこぶる冷淡であります。普通の教会では死者のために祈ることは禁ぜられております、死ぬる前においては盛んに祈りますが一旦死してしまえばその人のために祈る事はありません。この事はほとんど私どもには堪えられないことであります」

 

これは今もそうなんですよね。個人ではそうではない。キリスト教界は個人の信仰と公の信仰があって公の信仰で苦しめられる。教会に行く前のほうが元気だった人も多い。

教会で亡くなった人のことを話すと、そんなことをはなすなと冷淡にいわれる。そんなことは耐えられないと内村は書いている。

 

「もしも諸君が最も親しき者を失った時に、それが消えてしまったのだと考えるのはほとんど堪えられることでありましょう。死というものは永久に別れたのではありませぬ。一時、別れたのであります。否、さらに近しくなったものだと考えるべきであります。これが実に愛する者を失いし時に起る実際の至情であります。(中略)「キリストに依れる者は死しても尚死なないということはデモンスツレーテット、フワクト〔証明された事実〕である」

(「逝きにし人々」1913)

 

キリスト教問答』(1905)

「神、彼等の目の涙をことごとくぬぐいとなり、また死あらず、悲しみ、痛み、あることなし。そは前の事すでに過ぎ去ればなり。(黙示録第四章)

 

 

内村が語るときよすがにしているのは、理性ではなく感情です。内村はものすごい頭がいい人だった。考えに考え、生き抜いて一番大切にしたのは感情、心情、深い静かな自分の中で容易に否定できないもの、だった。それを「「キリスト教の教義にまさる」と書いている。

自分の心情の真実の出来事は世にいう教会に勝る。それを皆さんと一緒に考えたいと故郷で話始めた。

 

平和という問題を我々は理で考えてはだめなのではないか。理で語ると必ずやられ、ねじ伏せられ、説き伏せられる。感情をねじ伏せられることはできない。いやはいやだから。

そのとき我々はどれだけ深く感情と切り結ぶことができるか、を内村は示している。

 

我々はこの世で守らなければならないものを一番最初に感じるのは、理性ではなく感情、心情だと内村は教えてくれる。

ゆえに内村は、幸徳秋水を信じた。理ではなく心情で。理性だったらぶつかってしまう。片方はキリスト教、片方は無神論者。しかし感情からいったらこんなにいいやつはいない。なぜなら幸徳秋水はぎりぎりのときは絶対裏切らないから。

内村は不敬事件の時、ものすごく教会の人から苦しめられた。自分がかって信頼していると思った人から苦しめられる。幸徳秋水のように立場が違った人が彼を救った。

これは100年前の出来事ではない。我々もそうだ。一番信頼できる人間は必ずしも自分の思想信条を同じくするものばかりではない。

 

内村の文章は一回読んだらもう忘れることはできない。内村のような魂から魂へ飛び立つ言葉は現代では本当に稀有である。頭から頭、論理で考えてしまう。論理的だから正しいですよねと。人間が論理で生きていることなどわずかなことを我々は知っているからこそ論理でねじ伏せようとしてくる。

論理とは違うチャンネルで接しているんだということを内村は示している。

内村鑑三の文章は我々の理性ではなく、まったく違うところを揺さぶってくる。

揺さぶられた時、自分にもそういう場所があるなと気づく。抱きしめられたときここにいるなと分かるそれと一緒。別の感情・心情の深いところに訴えてくる。

それには一人で読まなければだめ。

そのために内村を読んでほしい。

 

内村の「クリスマスはいつ来るのか」という文章がある。

クリスマスは12月25日。しかしおそらくキリストが生まれたのは春。そうでないと凍え死んでしまう。福音書を読んで、馬小屋など一言も出てこない。

アラブの人の客間には馬がいる。暖房代わりに。馬はすごく大事にされた。日本人の感覚からすると客間。アラブ人が読むとそう読める、イエスはとても大切にされたとアラブ人の神学者は言う。

それを知らないイタリア人はイエスは貧しいところで生まれたと読んでしまう。

聖書そのようにないことを読まれてしまう。

クリスマスは12月25日という特定の日ではない。

 

「クリスマスはまた着たり。悲しくもあります。喜ばしくもあります。まず、悲しいことから申しましょう。過ぐる年のクリスマスに私どもと顔を合わせて共に志を語りし私どもの友人にして、今はこの世にその影をとどめないものは幾人もあります。(中略)

しかし世を去った友人はあきらめることができます。あきらめんと欲してあきらめることのできないものは、いまだに世に存するも、一時のわずかな誤解のためにわれらをそむき去った友人であります」

 

死んだ人より生きて仲たがいした人をクリスマスは思う。身が裂けるばかりに苦しいと言っている。

 

「平和の君が世に臨みたまいしというこの時に、私どもは旧怨はすべてこれを私どもの心より焼き払わんと努めまするが、さりとてまたこの世はやはり涙の谷でありまして、悲哀をまじえない歓喜とてはない所であると思いますれば、クリスマスの喜楽の中にも言い尽くされる悲歎があります。」

 

平和をもたらしたキリストが生まれたクリスマスを祝っているけど、自分にはまったく違うものがある、と書いている。これは内村の激しい言葉をあらわしている。同じ言葉遣いをするのが宮沢賢治です。

火のような激しい言葉を使っている。内村の高弟の斎藤宗次郎が宮沢賢治の親友だというのもわかる。

 

「これは悲哀の半面であります。しかし私どもの歓喜の半面を言いますならば、それは言い尽くされるものではありません。キリストの降世と生涯と死とによりまして、死とは私どもには無きものとなりました。死は私どもには「つらい、うれしい事」であります。(中略)

世はこの信仰を迷信であると言います。しかし、この「迷信」をいだく私どもは、世の人が死者についていだく断腸の念をいだきません。私どもの涙はイエスの奇跡力によって真珠と化せられました。私どもは死者について思うて涙をこぼしますが、しかしその涙は希望と感謝の涙であります。」

(『クリスマス述懐』1903)

 

内村は価値の逆転を言っている。価値を根本的に逆転することができる。クリスマスとはそういう日である。だから一番恨んでいるやつを許さないといけない。一番悲しいことが一番喜びに変わる日なのだ。

問題は我々はいつクリスマスを自分に呼び込むことができるのか?12月25日である必要は全くない。平和とはクリスマスが日々続くということなんです。だから内村のいうキリストの再臨とはそういうこと。キリストが再び生まれるということ。自分の心の中で大いなる許しがうまれるという奇跡がおきるということ。それは「平和」とは別の問題ではないと言っている。

自分が許せない人間が平和なんて実現しようがない。国家の問題は違う問題というのは嘘だ。

我々はそのような歴史を目の当たりにしてきた。

 

 

 

太宰治内村鑑三

太宰治は内村を読み込んでいた。内村は厳しい人で文学はだめだ、人を堕落させると悪口をいっていたので志賀直哉正宗白鳥も離れていった。太宰は最後に好きな女と心中したが内村鑑三が大好きだった。

箱根で療養しているときに、あるエッセイでこう書いている。

内村鑑三の随筆集だけは、一週間ぐらい私の枕もとから消えずにいた。私は、その随筆集から二三の言葉を引用しなようと思ったが、だめであった。全部を引用しなければいけないような気がするのだ。これは、「自然」と同じぐらいに、おそろしい本である。

私はこの本にひきずり廻されたことを告白する。ひとつには、「トルストイの聖書」への反感も手伝って、いよいよ、この内村の信仰の書にまいってしまった。今の私には、虫のような沈黙があるだけだ。私は信仰の世界に一歩、足を踏みいれているようだ。これだけの男なんだ。これ以上うつくしくもなければ、これ以下に卑劣でもない。ああ、言葉のむなしさ。饒舌への困惑。いちいち、君のいうとおりだ。だまっていておくれ。そうとも、天の配慮を信じているのだ。御国のこらむことを。(嘘から出たまこと。やけくそから出た信仰。)」(『碧眼托鉢』1936年太宰治

 

もし一人の小説家にこれだけの言葉を書かせたなら、内村はこれだけでよしとされるような激しい賛美ですね。

自分は信仰の世界に足を踏み入れた、自分は内村鑑三の本を読んで、火の洗礼を受けた、と書いている。

太宰と聖書という本はたくさんでているが、内村鑑三抜きにしては読めない。

内村鑑三の文章と思想は実は、全部太宰治に流れ込んでいる。

 

司馬遼太郎は太宰のことを「東北の巨人たち」(『司馬遼太郎全講演3』)という講演録で書いている。

昭和23年に太宰が死んだとき、私はなりたての新聞記者でした。太宰治という字が読めなくて、「ダザイジ」と呼んでいたぐらいで、それほど無知でした。太宰を読むようになったのは50半ばからです。(中略)得た結論は「太宰は破滅型でも、自堕落でもないということでした。太宰治の精神、文学がもっているたった一つの長所を挙げよといわれれば、聖なるものへのあこがれという一語に尽きるわけです。

あの人は『聖書』が好きでした。クリスチャンではありません。ただ座右の書として置いていた。素朴に清らかなものとしてとらえていた。『聖書』の文体が好きでした。(中略)破滅型な作品でさえ、破滅して行く主人公の心には、実に聖なるものへのあこがれがあらわれています。」

 

これは私が今まで読んだ太宰論の中で最高の批評です。太宰論は山ほどあるが、これほどのものはない。

批評家、司馬遼太郎のすさまじさを示している。

それは内村鑑三の聖性と、太宰治の聖性とは非常に近いものだったということが我々にとって誇り高い先人の証なのではないか。

 

最後に、「自分の魂を揺り動かすものは自分で書くしかない。いい文章に感動するだけではだめ。

だからみなさんも自分で書いてください。」