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『静かなる細き声』から   奇跡

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

静かなる細き声 (山本七平ライブラリー)

『静かなる細き声』  奇跡 (p57~59)

『(前略)』

人間にはみな先入観がありまた人間観・社会観がある。そして、どこかで、「自分の観」という枠外にいる人間はいないと信じ込んでいる。
そういう人に本当のことを言うと、相手はそれを頭から嘘だと信じ込む。いまの問題は小さな問題だが、もっと大きな問題もある。
たとえば「現代人には神の存在など信じている人間がいるはずがない」と堅く信じている人がいる。この人の前で、「私は神を信ずる」
といえば、それはその人にとっては嘘であり、何と言おうと「嘘に決まっている」ということとなる。
 私が「引っ込み思案」とか「積極性に欠ける」とか言われたのも、おそらくは、自己の周囲のクリスチャンの小世界の外に、
それとは全く異質の大きな世界があることを子供心にもうすうす知っていて、それに触れるのが怖かったからだと思う。
 一歩そこへ踏み出せば、こちらが本当のことを言っても、頭から「そんなはずはない」「・・・はずはない」「・・・はずはない」
が連発され、すべてが否定されてしまいそうな気がしたからだと思う。
 私はその社会と接触するのはいやだった。そしてできることなら、そういった社会にタッチしないでいたかった。だが私に時代には
軍隊があり、否応なくそこへ入れられる。それはおそらく全く異質の世界であり、私の真実などはすべて笑殺されそうなことは、なんとなく
予感できた。
 そしてそれは、まさに予想通りの世界だった。日本軍についてはすでに多くのことが書かれているが、私の戸惑いはおそらく、多くの
ひととは別だったのであろう。そしてこれは幹部候補生になり見習い士官になり将校になっても同じだった。
 第一、冗談もシャレもわからなかった。献酬という酒席の作法も知らなかった。酒は飲んだことがない、麻雀・花札は知らない、競馬は
言ったことがない、芸者と口をきいたことはない、遊郭にいったことはない等々・・・。

 そしてそれらの人びとの応答は結局、「そんな人間がいるはずはない」ということであった。まことに不思議といえば不思議だた、
その人間がいま目の前にいるのに、人はそういう人間がいることを信じないのである。
 そして信じないがゆえに、さまざまな解釈が生まれ、その解釈が一つの断定となり、その断定で相手を定義し、その定義によって理解
し得たと信じようとする。
 「オイ山本、変にカタブツぶるな。カタブツぶって楽な経理室にまわしてもらおってんだろう。フン、酒は飲みません、花札は知りません、
芸者と口を利いたこともありませんか、見えすいたゴマすりをならべやがって・・・」
といったことになる。そうなった場合、いつも私は、それに対してどう応答してよいかわからなかった。
 もっとも、人にどう思われようと一向にかまわない、ということは言える。しかし、「そう思いたいやつには思わしておけ」
では、伝道はおろか、日常のコミュニケーションさえ成り立たなくなる。
 ではどうすればよいのか。いくら考えても方法はなかった。私は内心でつぶやいた。
 「こりゃ、奇跡でも起こらにゃ不可能だな」
 その瞬間思わずハッとした。奇跡という言葉が否応なく福音書の奇跡を思い出させたからである。
 それまで私は、奇跡を本気で考えたことはなかった。いや、なぜ福音書にこんな奇跡の記述があるのかも、考えたことはなかった。
 それはなんとなく触れたくない問題であり、まことに無責任にも「奇跡物語がなければ、聖書理解も伝道もずっと簡単だろうな」
といったことまで考えていた。
 だが、人は、私という平凡な一人間が目の前にいるのに、それをそのままに見るこさえできない。そしてどう考えても「そのままに見ること」
は不可能で、それを可能にするには奇跡しかないと、いま、私自身がそう信じていたのである。
 
 では目の前にイエスがおられたら、私に見えるであろうか。そのままを見ればよいと言っても、それはおそらく奇跡なくしては不可能
である。いや福音書を読んでイエスが見えるであろうか。いままでのような読み方をやめて、奇跡によってイエスを見た人とともにそれを体験しているという
読み方をすれば、本当にイエスが見えてくるかもしれない。同時に奇跡とは何かがわかるかもしれない。私はそう思った。

 これが軍隊時代に与えられた最大の賜物であった。』

『静かなる細き声』 (P57~59)