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内村鑑三『流鼠録』から障害者介護を考えてみる

 

内村鑑三の生涯―日本的キリスト教の創造 (PHP文庫)

内村鑑三の生涯―日本的キリスト教の創造 (PHP文庫)

 

 

 

(1)   内村鑑三を読んでの印象

人は内村鑑三という名前を聞いたとき、どんなイメージを抱くのだろうか。

私の場合、それは、明治のインテリ、不敬事件における不屈の信仰の人、あるいは融通が利かず頑固一徹の人というイメージを持っていた。しかし、春学期の間、実際に文章や詳細な伝記(1)を読むにつれてそのイメージが変わった。意外なほどの人情の厚さや感情の厚みなど人間としての柔らかい情感を何度も感じさせられたのである。近年311原発事故以降、日本とは何か?国家観をめぐる問い直しが多くの分野で問い直されている。その中でも内村に対しては、主として無教会主義の研究者や、不敬事件に注目した近現代史の研究者からの視点が多かったのではないだろうか。しかし、NHK「日本人は何を考えてきたのか」(2012年放送)が注目を集めたほか、キリスト教界でも内村鑑三像の捉えなおしが進みつつあるように思える。

例えば岩野(2013)は内村研究の冒頭、主たる関心として以下のような問いかけをすることで新しい内村像を捉え直そうとしている。「内村鑑三は、「信仰とは個人のものである」ということを強く主張した人物である。しかし同時に、文書伝道、講演等を通した社会への働きかけを最期までやめなかった人物である。信仰が個人のものであるならば、なぜそのように他者とのつながり保ち続けなければならないのであろうか。個人の信仰と社会性とは、いかにしてつながるのであろうか。彼を取り巻く日本の社会に対して怒りと絶望を抱いてもいた内村は、その社会、およびそれを構成する人間に対して、どのような希望を、どのように得ていたのであろうか。」(2)

私もこの説にはうなずくところが多い。この内村の他者や社会との繋がりという点において、筆者は特に内村のアメリカ留学初期のエルウィンの精神薄弱児(2)施設の現場で働いた経験が大きく影響しているのではないかと考える。

 

(2)私自身の経験から

 このような点に強く興味をもつのは筆者自身の体験が出発点となっている。私は大学卒業後10年ほどテレビ、ラジオのメディアの仕事をしてきた。しかし、昨年(2012年)夏から7ヶ月ほど、横浜市身体障害者の入所施設の生活支援員として働くという経験を持った。それまで福祉、障害者のことを学んだことはなくいわば0から突然飛び込んだ世界だった。施設の入居者は、主に脳性麻痺、小児麻痺など肢体不自由な方だが精神障害を併発しているケースも多く設立以来20年間長期入所し生活している施設の中で、食事、排泄、入浴介助など、文字通り朝起きてから夜寝るまで彼らの隣にいて介助をする仕事だった。初めは本当に驚き呆然とすることばかりであり、障害を持った方との接し方から、いわゆる世間で3K、7Kと言われることもある介助の仕事は、かなり辛いのが正直なところであったが、同時に感じさせられ学んだことも本当に大変多かった。おそらくその経験がなければ、今、神学部で学ぶこともなかったと思える。

内村がエルウィンで働いた当時(1885年)とは約130年近い時代の差はあるが、いわば頭でっかちのインテリが全く0から、現場の仕事に飛び込み、四苦八苦するという点で、私は内村鑑三のエルゥイン時代と非常に似た経験をしたといえるのではないか。そのような経験をした者として、内村のエルウェイン時代の記述を読み解くことで彼の内面に触れながら、その後の信仰、ならびに人生において、どのような影響を残したのか理解する一助として考察したい。

 

(3)内村のエルウィン時代の先行研究

 内村は多くの自著や文章の中でこの時代について触れているが、最もまとまった記述が現われるのは『流竄録』(1894)である。これは日本人として最も早い時期に海外の障害者施設の中で働いた報告という点で貴重な歴史的価値を持っており、福祉や社会事業史の観点からも、既に多くの研究がなされている。上野(2012)は、当時のエルウィン白痴院の設立の経緯や実情、また内村と同じくキリスト者として渡米、アメリカの施設で働き後に「日本の知的障害者教育の父・福祉の父」と言われた石井亮一の体験との比較研究を行っている。また中村(2008)は、石井などとの比較とともに、1880年~1910年当時のアメリカにおける精神薄弱者施設とその生活の状況について研究を行っている。

これらの研究は内村のエルウィン時代を理解する上で大きな参考になった。しかし、内村の伝記や上記研究などが、主に内村の思想や制度に注目しているのに対し、筆者としては、むしろ『流竄録』の中に現れる、内村の率直な記述を通して彼の内面を考えたい。

 

(4)『流竄録』を読む

 内村のエルウィン時代については、『余はいかにして基督者になりしか』など複数の本の中で触れられているが、1894年に『国民之友』に発表された『流竄録』が最もまとまった記述であり、本論は主に『内村鑑三全集 3』(1982 岩波書店版)の同著をテキストとする。また内村の生涯については、『内村鑑三の生涯 日本的キリスト教の創造』(小原信 PHP)が非常にまとまっている。

 

①エルウィンで働くまで

 内村がエルウィンで働くに至った理由としては、『余は如何にして基督者となりしか』の以下の文章がしばしば引用される。

「予が病院勤務に入ったのはマルティン・ルターをエルフルト僧院においやったとやや同じ目的をもってであった、(中略)ただ余はそれを『来たるべき怒り』からの唯一の避難所であると考え、そこで余の肉を服従させ、内的純潔の状態に到達するように自身を訓練し、かくして天国を嗣ごうとしたためである」

 しかし実際は、長男祐之の自伝の記述の方が実態に近いように思われる。

「但し、この仕事を父は自ら選んだのではない。旅費だけを工面して留学した、日本の苦学生たる父のために、たまたま白痴院近くに住む知人が探してくれた偶然のポストだったのだ。それにもかかわらず、父はこの仕事に大きな興味と意義を見出し、後に、当時の経験を数冊の著書に記した」(4)

 今日でも福祉や介護の現場の仕事は、7Kといわれるように厳しい労働環境とその社会的必要性にも関わらず、社会的認知度は低い仕事であるといわざるを得ない。まだ福祉制度の創設期であった当時のアメリカでもその風潮はさらに強かっただろう。

 

『流竄録』P63でも以下のような率直な言葉がほとばしり出ている。

 「読者よ、一個の大和男子、殊に生来あまり外国人と快らざる日本青年が直に化して米国白痴院看護人と成りしを想像せよ、彼は朝夕是等下劣の米国人の糞尿の世話迄命ぜられたりと察せよ、彼は舌も碌々廻らざる彼国社会の廃棄物に「ジャップ」を以って呼ばれしと知れ、而して彼は院則に依りて、軟弱なる同胞に対する義務に依て、彼の宗教其物に依て、抵抗を全く禁止されしを想ひ見よ、余は自身も白痴にあらざる呼を疑ひたり、余は狂気せしが故に酔興にもかくのごとき業を選みしかと疑へり。」

 

 この文章は現代的には問題のある表現もあり、あまり引用されることはないようである。しかし一高の秀才で北大を主席で卒業、帝国官吏として働いていた内村にとっては、そのような仕事をすることになったわが身を嘆いたのも正直なところではないだろうか。また北大を卒業した同級生の多くが、官吏として、留学生として前途洋洋と社会に踏み出していったのと比べた嘆息もあったかもしれない。同時にキリスト教国たるアメリカでキリスト教信仰の全てを吸収しようとしていた彼の意気込みも、また嘘でないと思う。

 私自身、福祉施設で働くとき、せめて人のためになる仕事をしてみたいという気持ちと同時に、世間的には汚い辛いとされている仕事をすることへのしり込みもあった。

 この二つの記述は矛盾というよりも、挫折を抱えた青年内村の素直な気持ちの揺れ動きの表れではないだろうか。

 

②施設の中の子どもたち

P58からは、施設の中の子どもたちの様子が記されている。以下いくつか引用する。

 

 「一はクレーランス某なり、唖なり、歳十六にして其智覚は五歳の小児に及ばず、彼の感覚は甚だ鈍なり、唯一感能の鋭敏傍人を驚かすあり、すなわち彼の食欲なり、腹満ちて彼の顔貌常に喜樂あり、飯鐘響き渡りて人の食堂に向ふを見るや痴鈍なる彼に敏捷制すべからざるあり、彼は真正の製糞機械たるに過ぎず、彼を制するの道単に彼の職を減ずるにあるのみ。

 二はヲスカー某なり、(中略)、彼に唯一の道楽あり、即ち女子の衣服より留め針を盗み来たりて手の甲を刺し以って出血するを見て楽しむにあり、(中略)、しずかに背後に至り、急に彼女の襟元を攫み、直ちにその胸の留め針を奪ふなり、其の手際の迅速なる、被害者の声を挙げて援を乞ふ時は獲物は已に小強盗の掌中にあり、彼は院中の魔鬼なりき(後略)

 三はハリー某なり、可愛の一少年、(中略)彼は普通道徳を解するの力を有せざりき、即ち盗む事を以って悪事と信ずるを得ず、(中略)彼は反って盗むを以て悪事と見做す普通人間を疑ふて止まざりき。

 (中略)

 五はルーシー某なり、十六七歳肥満の女子、其面相ひゃ般若の化身と称するを以って最も適当ならん(中略)殊に彼女の全躰より一種異様の臭芬の発するあり(余は日本の味噌の腐敗する周期なりと覚えたり、白地患者に此臭気を発するもの甚だ多し(後略)」

 

 現代の人権感覚からすると、問題のある記述も多い。しかし、内村がこれを記述した時代において、まだ日本人の中で障害者の人権感覚の確立がなされていないことを考える必要があろう。

その上で感じられるのは、内村が施設で初めて障害児童に直に触れたときの心の動きが素直に現れていることを感じるのである。露骨な描写の行間から、彼が記すことのなかった心の動きも推測できるように思える。それは、驚きではないだろうか。

(私の経験から)

 私自身、初めて施設で働きだしたとき、正直なところ、入所者の方々を見ていて、内心動揺を覚えずにはいられなかった。自分で何もできず言葉をしゃべることもできない、表情を表すことなくずっとうずくまったまま、排泄物をオムツの中に垂れ流してしまう人。そのまま成長することもなく、おそらくこの先も何十年も施設の中で生き死んでいく人々。「なぜ、このような人たちがいるのだろうか。神はいるのだろうか」そんなことを思ったこともある。その時の気持ちをこれまで文章にしたことはないが、それを本当に正直に綴ったならば、内村の記述に近いものだったと思う。

 一見露骨とも思える内村の文章の行間に、彼の子どもたちに対する憐れみや、強い共感が隠されているのと思うのである。それは武士の家に生まれた内村が、文章で書き記すことは困難な感情だったのかもしれない。あるいは当時の生硬な文語体の日本語においては、そのような繊細な感情を表す文章表現がまだ存在しなかったのかもしれない。

 

③内村の施設での仕事

内村は施設の看護人の一人として、入所児22名を担当し、彼らの歯磨きや入浴、排泄、病気の介助、蚤虱の駆除などが日々の主な仕事だった。

 

P62)

「彼等は朝夕口を漱ぐの要と快とを知らず(彼等大概十五歳以上なり)、故に傍らに付き纏いて一々口中を検査せざるを得ず、彼らは糞尿を床に遺すも若し他人の注意を加ふるにあらざれば何日たりとも之に安ずるものなり、故に毎朝厳しく彼等の寝台を検めざるをべからず、彼等は無理に浴中に投ぜらるるにあらざれば何年間たちとも自己の垢に安ずるものなり、故に彼らを浴中に押し込み、ブラッシュをもて彼等を擦らざるべからず、(中略)、蚤虱の征伐に従事せざるべからず、看護人は彼等の奴隷なり(後略)」

 

 現代の障害者施設では、入浴リフト、電動車椅子などある程度の機械化が行われている。しかし日々の介助でほとんどが介護人の肉体労働にかかっていることは当時とあまり変わらないと思われる。武士の出であり、当時のトップレベルのインテリだった内村が、立派な髭と鋭い眼光のあの顔つきで、障害児たちのオムツを替えたり、入浴介助をしたりしていることを想像すると、私はつい微笑んでしまう。

現代の使い捨ての紙おむつもなく、当時は全て布オムツであった。毎日の排泄介助のあと、それらは全て手洗いし、干さなければならない。これは大変な労働であったと思われる。(昭和初期の日本の障害者施設の施設史を見ると、建物の外に満艦飾のように干されたオムツの写真が必ずある)

また生活介助は、あらゆる肉体労働を伴う。また寝たきりの方を起こし、車椅子に移し、入浴時は、バスチェアに移動させる。肢体不自由な方の移乗(トランスファーと呼ばれる)は、慣れるまでかなりのコツが必要だし、腰への負担から腰痛を起こすことも多い。一つ間違えば、すぐに事故や怪我をさせることにもつながる。生来身体を使った運動があまり得意ではなかったといわれる内村も、当初は苦労したのではないだろうか。同僚のアメリカ人に、叱られあるいは励まされながら介助技術を身に付けていったのかと思うと、不器用で失敗していたばかりの元介助人であった私としては親しみを覚える。残念ながら、そのような細かい記述を内村は残してはいないのだが。

朝早くから就寝の時間まで肉体的にも精神的にも大変な仕事であったと思う。しかしそのような肉体労働の中で、信仰について、聖書について考えさせられることも多かったのではないだろうか。

 

 例えば、入居者を風呂に入れる入浴介助。日々施設の中で単調な生活を送っている彼等にとって、お湯に入るのは最大の娯楽といってもいい。入居者と共に介護者も全裸になって(内村は褌をして解除したのだろうか?残念ながら記述はない)身体を洗う。腰を落とし、時には排泄物にまみれた足を、手にとって丁寧に洗う。彼等が心底気持ちよさそうに喜ぶ顔を見ながら、内村は聖書のヨハネ福音書の言葉をかみ締めていたのではないだろうか。

 

 「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。(中略)

「わたしのしていることは、今あなたがたには分かるまいが、後でわかるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないようにしてください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

(中略)

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたもするようにと、模範をしめしたのである。」(ヨハネ13:7~)

 

 私は入浴介助をするときいつもそれを思い出したし、内村もそうであったのではないかと確信している。キリスト教において隣人愛、他者に仕えると言う言葉はよく使われる。しかしそれを身をもって体験した人は案外少ないのではないだろうか。少なくとも内村はそれをわが身で体験した人間ではあった。

 また重要だと思われるのは、内村の生涯において実際に肉体労働に従事したのは、エルウィンの8ヶ月の期間だけではないかと思われることである。(札幌脳学校時代も農作業程度は行ったであろうが)

入居者と常に身体を接し、介助するというこの経験はその後の内村の思想や信仰の血となり骨となったのではないだろうか。

 

     障害者施設で働くことの中の喜び

しかし、社会からは暗く辛い印象ばかりがもたれる施設においても、同時にそこには人間が生活し生きる中の喜びも確実に存在する。

68、内村はクリスマスの日のことを記している。

 

「慈善院に於ける最も幸せなる時は「キリスマス」なり、是れ歓喜と涙の時節なり、幾百の貧児は分外の贈物を夢想しつつあり、而して米国の社会派彼等を思ふ善人に乏しからざるなり、告げず問はずして贈り物は輸送し来るなり、一婦人は書を寄せて曰ふ、

 

小婦は一児を有せり、年の初めよりキリスマス祭に於いて彼に晴衣を着せんが為に些少の金を醵しつつありし、然るに神は三週間前に彼を取り去り賜へり、我児は青山の下に眠りぬ、醵金は今は彼に要なし、故に今之を閣下(院長)に送る、願くは閣下の保護の下にある父無き、母無き小児に贈れ、X婦より」

と封内に二十ドルの為替あり、全院之が為に泣く、其れ一例たるに過ず、米人亦た君子の快楽を有するにあり。」

 

其れ一例たるに過ず、とあるが。実にその通りで、現場で働くことは本当に、人の生死から悲喜こもごもまで普通の社会では目にすることのできないもの、目をそむけてしまうものを体験することになる。その中で内村は、聖書にある隣人愛の姿を具体的に経験し、見たのだろう。

 

⑤まとめ

内村がエルウィンで働いた機関は約8ヶ月間に過ぎない。しかしその間彼は、文字通り汚れと汗にまみれながら、社会から排除された「最も小さくされた人々」と共に彼等のために身体を使って働いた。それは彼自身にとって本当に大きな体験であったと思われる。

 そして、それは「言葉だけでなく身体と態度をもって具体的に他者のためにつくす」ということを知る最もよい学びとなったのではないだろうか。そして、外部からは「暗い、汚い」あるいは「聖人のような人でなければできない」と厄介視と特別視されがちな施設の中にも、毎日の生活があり、日々悲しみと共に確かに喜びやおかしみがあり、人間が生きているという現場を身をもって体験したのだろう。

『余は如何にして』の記述によると、内村はこの時期、エレミヤ記とパウロ書簡を繰り返し読んでいたという。日々の超形而下の肉体労働の日々と、聖書の中の信仰の言葉、それは相反するものでありながら、また分かちがたく彼の信仰に刻印されたと思われる。

 あるいは、ここから福祉や介護の現実とメディアという捉え方という現代における問題を取り上げることも可能あ。内村の文章には、未だにメディアでは報道のされ方ない現実を見つめる視点がある。

現代多くのテレビドキュメンタリーや新聞報道、あるいはノンフィクション、研究書などを読んだとき、私はいつもそこに違和感を覚える。それは、介護をハートウォーミングに肯定的に捉えるにせよ、そのシビアさを伝えるにせよ、最も汚いものに触れずにきれいごとやステレオタイプで捉えようとする点にある。なぜ福祉をテーマにするとき、テレビの画面には机で微笑み合ったり、車椅子をゆっくりおす障害者と介助者の姿しか映し出されないのだろうか。重い障害を持ち、初めて見たときに思わず動揺してしまうような容貌の人たちを映し出さないのだろうか、あるいは排泄や入浴など、日々のルーチンワークの中で、一番時間を裂かれ最も重きを占める仕事を映し出さないのだろうか。そして現場において最も重要な「臭い」が伝わってくるような文章や映像ではないのだろうか?

 そこには、やはり汚れや穢れをなるべく目にしたくないという意識が働いているだろう。そして、それが現代においても介護や福祉を、暗い、遠いものにしている遠因があるのではないか?

しかし、内村にはそのようなためらいはなかったし、己の驚きや嫌悪も素直に言葉にし、見たものを赤裸々に描きだしているのである。そこに内村の率直な性格と、後にライターとして世にしられることになる原点や発露を見ることもできるといえ、その意味でも『流竄録』の記述は貴重であると言えよう。

 

(4)その後の内村とエルウィンの関わり

 内村はこの後、アマースト大学に入学し、勉学の道に入るが、その後4年間、時々エルウィンの施設を訪ね交流を保っていたことが伺える。始めてみたとき「其面相は般若の化身と称するを以って最も適当ならん」と記述したルーシーとも再会したようだ。

P58)

「余は偶々、新英州(ニューイングランド)より帰る、ルーシーは余を記憶せり、彼女は余を洗濯室の階下に擁して曰ふ「内村君よ余は君を思ふ久し、余は君に向て数回の書状を発せしと思ふ、君何故に余に返辞を賜はざりしや」と、余は曰ふ「ルーシーよ、余の不注意を免せよ、余は汝の厚意を酬ゆる事を怠らざるべし」と、ルーシー得々たり、報復絶倒の内、亦無量の涙なき能はず」

 

また有名な絶食事件で親しくなったダニーとも再会している。

 

P65)

「余と彼は親友(注:ダニー)となりぬ、四年を経て余が日本に向て出立せんとするの前、有余は彼に会せり、余の告別の語に対し彼の心情如何に濃かなりしよ、(後略)」

 

内村はこの後、帰国し以後、教師、信仰者、ライターとして生涯を送っていくことになる。障害者施設で働くことは生涯において二度となかった。彼等と出会うことは二度となかったと思われる。(手紙のやりとりなどはあったのだろうか?今後調べたい)

おそらく彼等は、ほぼ全員が生涯を施設の中で終えたと思われる、その記録は残ってはいない。しかし内村は、その後の人生において、教会で説教をするときも、文章を書くときも、いつも心の中のどこかには、エルウィンで会い介護をした「この世で最も小さくされた人たち」の姿があったのではないだろうか。そして、そのことが、ともすれば武士という出身階級やインテリ、強く妥協のない信仰一途の人内村鑑三の中の人間としての柔らかさや優しさを形作ったのではないかと私は推測するのである。

 伝記が明らかにしているように、内村は自己を曲げない強固な一面が強調されながらも、時々で意外なバランス感覚や人としての柔らかな情感を示している。弟子だった斉藤宗次郎が徴兵を拒否するとき、それを止めようとしたこと、あるいは長女ノブに生涯示し続けた愛情など。そのようなものは、エルウィンでの体験や、不敬事件を通じて味わった孤立無援の状態など、自らに骨身にしみた中から現れたものなのではないだろうか。

 

(5)   エルウィン体験が内村家にもたらしたもの

このエルウィン体験は、内村本人を超えて内村家の将来にも影響を与えることとなった。後に東京大学医学部長となり日本の精神医学の研究者として活躍した長男祐之は自著の中で、「何ゆえに、専門として精神医学を選んだか」という問いに二つの理由を挙げている。(ちなみに内村祐之は、東大野球部創設期の名投手として知られ、後にプロ野球コミッショナーに就任してたりする)

一つは幼少期祖母(内村の母)が精神病を発病したこと。その祖母を施設に入院させたことをきっかけに、内村が兄弟から「親殺し」と言われ、生涯仲たがいをしたことを書いている。小原信の伝記(1993)によると、内村は、自らがエルウィンで体験したことから施設に預ける事に抵抗はもっていなかったが、当時の日本において親を施設に入れることは親不孝と見做されるものであり、この意識のずれは内村家にとって大きな不幸であったといえるだろう。

 しかし祐之はもう一つ、幼少時の記憶として父(鑑三)が小学校で講演した記憶を記述している、

「それは精神薄弱児に関するものであった。父がなぜ、小学校などで、このような話をしたのか、よくわからないが、とにかく、少年の私にさえ、おもしろかったという印象を今に残しているところを見ると、学校生活のことを、おもしろく、わかりやすく、話したものと思われる。だが学校と言っても、それは、父がアメリカで苦学中、アルバイトの看護人として働いていた白痴院のことで、正確の名はペンシルヴァニア州立訓練学校(training school)と言い、その時期は1884年(明治17年)12月から7ヶ月間のことであった(中略)この時から四十余年を経た1927年に、私は、フィラデルフィア近郊、エルウィンという村にある、この白痴院を訪れ、当時の院長であり、かつ父の恩人でもあったケルリンという人の墓に詣でた。父の名は、この学校で、まだ記憶されており、父が自ら測量して院内に作った道には、父を記念して「内村ロード」の名が付けられていた(後略)」(4)

 

祐之は1897年生まれであるから、おそらく1900年代初期のことだと思われる。1885年から20年以上たっても、エルウィンの記憶と経験は内村にとって強烈で、懐かしく、楽しさをもって語られる体験だったことが伺える。

 

(5)その後の無教会主義

内村の死後、彼の無教会主義は、塚本虎二、矢内原忠雄を初めとして、日本を代表する知識人・インテリによって担われていくことになった。ある時期には、それ自体が無教会の魅力となり憧れや広がりをもたらしたかもしれない。しかし、彼らには内村のエルウィン時代のように、社会の中で低く見られる現場の一労働者として働いた経験はない。そのことが後の無教会主義そのものの「臭い」を決定付けたように私には思える。

内村没後80年以上がたつ、小原信は(1992)、内村の伝記中、無教会の可能性として「教会からこぼれてきた者が結果として「無教会」に拾われ、救われるという道である」(P496)と述べている。しかし小原の伝記が書かれてからも20年、現代において無教会はどのような存在となっただろうか。無教会については、その実数は把握が難しいが高齢化が著しいといわれる日本のキリスト教界の中でも、際立ってそれが強いのではないだろうか。私自身、かって訪れた教会で、一度だけ無教会の方の聖書研究に参加させていただいた経験がある。聖書に対する熱心な研究と読み込み自体は敬服に値するものだと感じた。しかし、私自身の周りで、同年代の無教会主義のキリスト者に会ったことは一度もないし、その集いに参加したことがある人すらいない。無教会主義自体に、将来性はあるのだろうかと心配にならざるを得ない。

 

(6)まとめとして

本論においては、主としてエルウィン時代の『流竄録』に注目してきた。あまりに内村の一時期の限られた記述に絞り、私自身の経験から主観的な読み込みをしてきたことは自覚している。果たして個人的な体験(内村と私の)からその人の思想を、解き明かすことにどこまで普遍性があるのかという懸念はある。

しかし、内村鑑三という人間が信仰者、思想家として語られるとき、特に無教会主義の方の著作には、彼の残したテキストを何かの託宣かのようにあがめ奉り読むような姿勢にはどうしても違和感を感じる。そして、それが逆に内村の現代的における理解やその生き方の理解を遠いものにしているようにも感じられる。だからこそ、私は思い切って主観的な読みしてみた。その中で、時代も思想も信仰者としてもあまりにかけ離れた内村鑑三を私のものとして理解するための一つの切り口を得ることができたように思う。

そもそも内村は、仕事を辞め、離婚し、見通しもないままアメリカにわたり、日本人として最も早い時期に現地の障害者施設で働き、帰国すれば不敬事件で世論と国家に苦渋をなめさせられ、次々と仕事を変わり、足尾銅山事件の田中正造と関わり、あるい再臨運動を始めるなど、行き詰まりや停滞の中、常に行動し動きまわることで、自らの信仰と思想と不思議な楽天主義を育くみ、それをもって未来を切り開いてきた人物であったといえるかもしれない。

そのダイナミズムと現場主義は、現在の無教会主義に受け継がれているだろうか、あるいは日本のプロテスタント教会に受け継がれているだろうか?それがいまや教会の中だけで細々と守ろうとするプロテスタント信仰の頽勢にもつながるといえるのかもしれない。

現在の日本でキリスト教の頽勢は著しい。また日本基督教団の中でも社会と関わるか、信仰に傾注するかの対立は相変わらず続いている。しかし、この二者を対立するものとして捉えること自体、問題の立て方の誤りなのではないか。教会の中の信仰を堅持すると同時に、教会や基督者が生きる社会の中に身を投じて動き回ること、その過程で経験し身につけたことは、巡り巡って教会と信仰をよりたくましいものとしてくれるだろう。内村鑑三から学ぶべきは、その点ではないかと私は考える。

また、内村鑑三の唱えた無教会主義は、彼が繰り返し述べているように、教会制度の全否定ではない。むしろ、教会制度に疑問を抱かずキリスト者としてあり続けることなく、個人個人が、キリスト者としての意識をもち自覚的に生きることにあると私は、総論としては捉えている。そして、その彼の思想自体が、現場と行動を通して傷を追いながら築き上げてきたものであった。その意味で、「無教会主義」という言葉自体が、すでに自己撞着をはらんでいるのかもしれない。

 「無教会主義」的な共同体は、たしかに時代的役割を終えつつあるのかもしれない。しかし内村の唱えた、「無教会」的な彼の思想と生涯自体は、今だに色あせないし、むしろ軸を見失い混迷を深める現代においてこそ、捉え直される必要があるのではないだろうか。    

                                      (以上)

 

(脚注)

(1)小原信『内村鑑三の生涯』(1992) PHP

(2)岩野祐介『無教会としての教会 内村鑑三における「個人・信仰共同体・社会」(2013教文館

(3)内村の文章中の用語については、現代的の人権における視点からは問題のある用語も多いが、当時の社会意識を知るための歴史的著述であることを鑑み、原則として資料の用語をそのまま用いる。

(4)内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(1969みすず書房

(参考・引用文献)

内村鑑三内村鑑三全集 3 流竄録』(1982岩波書店

小原信『内村鑑三の生涯』(1992) PHP

岩野祐介『無教会としての教会 内村鑑三における「個人・信仰共同体・社会」(教文館

上野武治『内村鑑三のエルウィン知的障害児学校における「看護人」体験の今日的意義』

     北西学園大学社会福祉学部北星論集第49号(20123月)

中村満紀男『1880-1910年代アメリカ合衆国における精神薄弱者施設と精神薄弱児の生活の状況

       内村鑑三石井亮一・川田貞治郎の訪問期を中心に』 

     社会事業史研究第35号(20085月刊)

内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(1969みすず書房