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学部旧約概論:旧約聖書の歴史的・批判的研究の概要をまとめ、その現代的意義を述べよ(3000字) 92点

 

 

 

近代旧約聖書研究史―ヴェルハウゼンから現代まで (1978年) (聖書の研究シリーズ)
 

 

1、              旧約の歴史的・批判的研究の概説

①近世以前の研究史

キリスト教の中で、従来モーセ五書はモーセ自身が書いたものと信じられ、疑問を持つこと自体が「霊感を受けて書かれた誤りなき神の言葉」への冒涜だと考えられてきた。しかし申命記末でモーセの死の記述などから、著者への疑問は早くから教会の中でも当然に気づかれていた。17世紀以降、研究は主にカトリックにおいて自由に進み、ホッブズは『リバイアサン』の中で五書の年代特定を試み、スピノザは逐語霊感説を否定し初めて歴史的批判的研究方法を聖書に適用するなど、神学者、哲学者なども巻き込んで議論と研究が活発になった。

②資料仮説の誕生と考古学の発見

17世紀R・シモンは自由な聖書批判を試み本文批判を放棄、文献批判に集中する中で、五書は資料(文学単元)の集積したものを編集(編纂)により成立したものと考え、資料編集という概念を提起し後に批評学の父と呼ばれた。J・アストルックは、創世紀はモーセが数多くの資料を元に編集したものと推測、「神」を呼称する用語を元に資料を分類、E(エロヒム)資料とJ(ヤハウェ)資料と名づけ、「資料仮説」を展開した。アイヒホルンは「旧約緒論」を出版、始めて高層批評という言葉を用いた。その後の研究で、E1(P)、E2、J、Dと名づけられた4つの基本的な文献資料があるという説が有力になった。

また1822年シャンポリオンがエジプトの象形文字を解読、楔形文字など中東地域で多くのテキストが発掘解読されセム語比較言語学が大きな進展を遂げ、古代イスラエル世界の理解に貢献した。

③ヴェルハウゼンの登場(19世紀後半)

グラーフ、キューネンによりレビ記の祭儀規定は預言者よりも後のバビロニア捕囚記に成立したものであるという研究が進み、これをJ・ヴェルハウゼンが発展させ「イスラエル史序説」等を発表し、五書の中核を形成したのはBC850年頃南部(ユダ)で構成された物語的牧歌的な資料J(ヤハウェ)、とBC750年頃北部で構成された倫理的な性格のE(エロヒム)資料であり、この2つにより無名の編集者によって650年ごろ成立したと考え、古代イスラエル史の研究に新しい光を当てることで資料仮説が体系化された。

④類型・様式批評

しかし専ら旧約資料の文献批評を行う研究に対し、北欧神話研究の伝統を持つスカンジナビア学派やドイツのH・グンケルやH・グレスマンによって新たな研究が提起された。

彼らは五書が成立してくる前に、英雄詩、勝利の歌、賛美歌など様々な文学の類型によって物語が伝承されていったと想定し、それらが口頭により「伝承された場」を持つとして、これを「生活の座」と呼び、これを確定できれば文学伝承の生い立ちを知ることができる、と考えたのである。さらに古代中東地域の諸宗教からの影響も研究した。現代様式史的研究の始まりである。グンケルの弟子M・ディベリウスやR・ブルトマンはこの方法を新約研究に適用し大きな成果を収めることとなった。

⑤G・ラートとM・ノートの研究

1950年代以降新たな研究が進展する。G・ラートは6書に見出される最も古い文学(出エジプト、土地の取得など)の定型を申命記の小祭儀信条と考え、この信仰告白を中心として歴史文学が形成されてきた、と考えた。一方M・ノートはカナン移住以後成立した部族連合(アンフィクティオニー)の中の相互作用の中で、ヤハウェという神がイスラエルを導いてエジプトを脱出させるカナン定住物語を形成したとして、これを「基本口伝物語=G」と呼び、この物語から、文書資料が生まれた、と考えた。

4資料を正しく組み合わせていく過程でイスラエルの歴史を再構築できると考えたヴェルハウゼンに対して、資料はイスラエルの信仰の歴史の特定の段階における信仰告白だと考えたのである。

以降、Jが従来より遅いBC500年代とする研究や、独立資料としてのJを否定したローゼ、アブラハム物語とヘロドトスの類似点に注目する研究などの研究が進んだ。

 

通時的研究の行き詰まりと共時的(文芸論的)アプローチ

以上の研究に共通するのは、作業仮説を立てテキストの背後にあるイスラエルの歴史を再構築し、テキストを再分析するという点で「通時的研究」と呼ぶ。しかし1960年代以降際限なく再分化する研究への行き詰まりが意識されるようになってきた。R・レントルフは以下のように述べている。「今日、文書仮説で言われるような意味で「諸資料」の存在を想定することは、もはや五書の生成の理解のために、いかなる貢献も成しえないのである」(1)

その中で提起されたのが、構造主義記号論の方法論を用いて聖書テキストの背後に想定された歴史を捨象し、特定の歴史、場、等に基づいて解釈するのではなく、フィクションとしての語りの技法や用語や文体がどのような影響を聞き手にもたらすのかを明らかにする「共時的」アプローチであり1970年代以降急速に拡大し、旧約研究の主流となりつつあるのである。

 

2、              旧約研究の現代的意義

共時的方法に対しては、それが読み手の主観性に左右されるのではないかという批判を伴う。これには水野(2006)の以下の言葉が妥当であろう。「テクストから成立状況を再構成する際には、すでに読者の価値観や期待(「先入見」)に基づいた類推をおこなっているために、歴史的批判的研究は、西洋学問の常として、自らの方法を「客観的」であると主張しているが、その主張とは異なって、「客観的」ではありえず、従って研究者の間に最終的な合意は望めない。現在の聖書学が「行き詰っている」とされる原因は、この研究の方法、研究者の判断を「客観的」なものとする前提そのものに存在していたことになる。」(3)

キリスト教の成立以降、教会での礼拝では常にその時代その場所に生きた人々が聖書を語るという読みと解釈が行われていたのであり、それは「共時的」解釈の歴史であったということも可能であろう。そして神学自体が、考古学、言語学、心理学など、その時代の諸学の知見と成果によって進展してきた以上、「共時的アプローチ」による研究の進展もまた、新たな世界を切り開いていくだろう。そして、それは現代に生きる我々が2000年以上前の時代の人々の残したテキストを、自分達のものとして受け取るために欠かせない方法論ということもできる。

しかし通時的研究の意義は失われてはいない。それは、R・E.クレメンツの以下の言葉に全てが言い表されている。「正しい歴史的方法の要請を無視したなんらかの神学的、解釈学的アプローチに逆戻りすることはもはや、不可能だという認識である。旧約は具体的な歴史的に極めて深く根ざしているから、そういったことは不可能であり、教会教父や中世キリスト教神学者の注解にふんだんに見出されるようなつかみどころのない、寓意的、予型論的釈義は今日ではまったく相手にされないのである。」(5)

聖書がキリスト教プロテスタント信仰の源泉である以上、記された神の御言葉の真意に一歩でも近づくべきことがキリスト者の信仰であろう。ならば過去から積み上げられてきた歴史的研究も新たな研究もあらゆる知見と成果を学び続けていくこと自体が、キリスト者としての信仰を常に刷新し続けていく上で、常に現代的な意義を持っていると私は考える。 

以上(本文2984字)

 

 

(引用文献)

(1)R・レントルフ(1987)『モーセ五書の伝承史的問題』

(2)水野隆一(2006)『アブラハム物語を読む 文芸批評的アプローチ』(新教出版社)

(3)R・Eクレメンツ(1978)『近代旧約研究史 ヴェルハウ善から現代まで』(教文館

 

(参考文献)

(1985)『キリスト教大事典』(教文館

(1986)『キリスト教人名事典』(日本基督教団出版局)

R・レントルフ(1987)『モーセ五書の伝承史的問題』(教文館

水野隆一(2006)『アブラハム物語を読む 文芸批評的アプローチ』(新教出版社)

R・Eクレメンツ(1978)『近代旧約研究史 ヴェルハウ善から現代まで』(教文館