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山田かん「長崎・詩と詩人たち 反原爆表現の系譜」(汐文社) を読む

 

長崎・詩と詩人たち―反原爆表現の系譜 (1984年)

長崎・詩と詩人たち―反原爆表現の系譜 (1984年)

 

 

 

山田かん(1930~2003)は永井隆のいわゆる「浦上燔祭説」を初めて批判し議論を提起したことで知られている。また、長崎県では、戦後を代表する詩人でもある。そして彼の名がかたられるとき、常につきまとったのが「原爆詩人」と言う言葉でもあった。山田かんも1945年8月9日に長崎で被爆し、その後妹を亡くしている。

山田かんが生涯問い続けたのは以下の文章に全てが言い表されている。 

 

『記憶の固執』山田かん 「長崎の原爆記録をめぐって

 (P221) 

詩精神は、どう扱おうとそれは自由なのだから。だがカッコつきの「長崎」に落ちた原爆をうたう場合に長崎に対するそのあいも変わらぬ、エキゾチックな美意識が問題なのだ。だからモチイフは原爆そのものを純正な詩人の魂として、悲しみ怒り追求するのにあるのではなくてあく迄「長崎」にあるように思えてくる。長崎という日本の一つの地点に落ちた原爆が、詩人の魂にある作用を喚起するとき、それは必ず天使とか聖灰とか十字架、マリア像、天国というふうなコトバとのからみあいの中でしか原爆の問題が取りだされず、長崎の郷土性と思われているこれらのコトバとのからみあいの中でしか原爆の問題が取りだされず、長崎の郷土性と思われているこれらのコトバを詩語として抽象し、詩のなかに象嵌することで詩自体としての追及も中途でやめてしまっているといえる。要は詩を美しく、詩は美しかるべきものとしてだけ書く姿勢にある。西欧のキリスト教的伝統が自己内部のものとしてあるわけではなく、原爆をあつかう場合に限って付け焼刃的な原罪意識が出てくるというのは、つまりどういうことなのだろう。さきに引例した詩らしき詩とはその技法において比較すべくもないものではあるが、内部の論理化されない思考の未分化からでてくる政治意識のなさにおいては全く同断であり、長崎ものの流行歌謡でうたわれるような「長崎」のなかに、原爆にのたうった長崎のもつイメージはこの詩集のなかで無抵抗に同化され中和されてしまっている。これは作者の懐旧的な叙情の質に原因する。

(中略)

原爆にも傷つくことなく、それに向って立ち上がることをなし得ないような、感受性の鈍い強固さ、これら惰弱なものを形成させてきた長崎の根強い閉鎖性、東洋的カトリック宗教観の混淆がもたらした奇妙な思考型態は、戦うこと以外に脱却し克服する方法がないのだ。

それは単に個人的なものとしてではなく、闘いとしての文学運動こそが、これらを否定し、新しい文学を長崎に育てる手だてとなるだろう。

 

 

記憶の固執―山田かん詩集・エッセイ集 (1969年)

記憶の固執―山田かん詩集・エッセイ集 (1969年)

 

 

 山田が1984年に出版したのが「長崎・詩と詩人たち 反原爆表現の系譜」である。

私はこの本を、長崎の原爆を考える上で最も重要な著作の一つだと考えている。

そしてそれは長崎とキリスト教、あるいは太平洋戦争と日本のキリスト教を考えるうえで最も重要なテキストの一つでもある。(山田自身は、聖公会の熱心なクリスチャンホームに生まれ幼児洗礼を受けている)

 

「怒りの広島、祈りの長崎」と言う言葉で言い表されるように、広島と長崎における原爆を巡る戦後の、言説・表象は異なる形によって形成されてきた。それは何故なのか?

山田は、長崎においてそれを最も真摯に切実に執拗に考え発現を続けてきた人物である。

その問題意識は以下の三つの文章に全てが言い表されている。

 

(P130 )

 十三年の間を戦争の惨虐の極点として位置しつづけてきた建造物の廃墟を(注:浦上天主堂)「適切にあらず」として抹消するという思想は国を焦土化した責任を探索せずに済ましてしまうというまことに日本的な「責任所在の行方不明」である。

 

 

(P247)

 「被爆」が表現されなければならぬということは詩人にとってもことばにとってもその作品にとっても不幸なことなのである。

 

(P251)

 しかしながらなおかついいたいことは、「原爆」についてうたわれるときにおいても「長崎」となる時、その「長崎的情緒」といわれるものが、何故につきまといつづけるのであろうか?情緒的幻想がそのように創作主体を操作するのであろうか。 

 

 

本書において山田は、何度となく問いかける。

峠三吉原民喜、大田洋子、栗原貞子、多くの原爆に対する怒りを文によりて戦い続けてきた広島に対し、長崎ではなぜ、それが広がりをもって生まれなかったのか?その問題意識が山田が、戦後タブーだった永井隆批判へと駆り立てた。

 そして同時に本書で試みられているのは、広島の詩人ほどに全国的な知名度はなくても、確かに長崎で発せられた反原爆の詩と詩人たちの系譜を丹念に広い集め、体系付けるという、行為である。それをたった一人で、思索し、まとめたのが「詩人・評論者」としての山田かんだったということができるだろう。

 

私はこの本全てを論じるには、あまりに詩的感性にうとく、また山田かん自体を論じるには準備が足りない。

よって、本書からいくつかの詩を引用し、わずかに補足を加えるにとどめる。

 

(P99)

 影のひとびと 塚越 健 (S28・8・9)

 

ぼくは見る 坂の多い凸凹の道を

きょうもとぼとぼ歩いてゆく

かず知れないひとびとの列を

 

ぼくは聴く 空身ひとつの

重さをやっと支えている

そのくるしみのうめき声を

 

かぜが吹けばその影は消え

その声も散ってしまうのだが

 

目をこらせば あちらにも

こんなに身近な足下の小径にも

耳をすませば どこからともなく

 

居るのだ

通り過ぎることが出来ずに

ゆき着く場所もないままに

それぞれがただ

おのれひとりの重さに耐えて

 

春から夏 秋から冬と

もう八年ものあいだ

とぼとぼと歩みつづけているのだ

 

人がこの世に在るかぎり

 

そして地球が亡びぬかぎり

とぼとぼと当てもなく

 

影のひとびとは歩み続けるに違いない

 

 

 

 

(P132)

平和記念像 高木登 (S30・12)

 

君はどうだい 

 僕はあの顔が嫌いだ

或る時は

 くすぐったそうな顔に見えないか

或る時は

 居眠りしている顔に見えないか

或る時は

 名物にされて苦笑している顔に見えないか

それは記念している顔にはどうしても見えない

 その存在の意義が極めて薄いからなのか

この像が何故ここに居らねばならぬのか

君はもう一度

 数千万円を喰った

満ち足りた顔をみてこいよ

前から見ろよ

みくろ菩薩が今にもおどり出しそうな

 グロテスクな格好だよ

横から見ろよ

 それはどう見てもゴジラだよ 

 

(注)長崎は昭和33年に被爆した浦上天主堂は解体された。一部で保存運動はあったが、大勢は当時の市長、田川務の言葉に代表されていた。「原爆の悲惨さを物語る資料としては適切ではないし、平和を守るために存置する必要はない」

 その代わりに数千万円の予算を投じ立てられたのが、彫刻家北村西望の平和の像であった。

山田は、また福田須磨子(1922-1974)の「ひとりごと」という詩を引用している。

 

何もかも いやになりました

原子野にきつ立する 巨大な平和像

それはいい それはいいけど

そのお金で 何とかならなかったのかしら

“石の像”は食えぬし 腹の足しにならぬ

さもしいと いってくださいますな

原爆の後十年を ぎりぎりに生きる

被災者の 偽らぬ 心境です

 

 被爆し生活保護数千円で生活する福田と、文化功労賞を受賞し、戦中は軍のため多くの彫像を作った、日本を代表する彫刻家北村西望の平和の像の間にある落差を山田は鋭く指摘している。

平和祈念像 - Wikipedia

 

(P309)

 童女へ  福田須磨子

 

つぶらな眼を精一ぱい見ひらき

まじまじと見つめる童女よ

 

お前の眼には

私がお化けのように映るのだろうね

 

私がお化けのようにならされた

そんな過程を

いくら説明したって

 

お前にはわかりはしない

だが お前の金色に光った生毛の

ブルブルッとしたその肌に

放射能がふりかかったとき

そのなめらかな肌は醜くひきつるのだ

 

いやその時は何となくても

五年後 十年後 二十年後

いつの日か くさりくさって

私と同じような化物になるのだ

 

そう思うと

お化けのような顔をしていても

どんなに疲れきっていても

原水爆禁止の話をしなけりゃと思うのだ

つぶらな眼を精一ぱいみひらき

まじまじと見つめる童女よ

 

(P332)

ひとびとについて 上滝望観

 

象がいるので

街ではひとしきりざわめき

 

とか なんとか

女の児は着飾って

綿菓子はひとしおふくらみ

 

あそこでもここでも

田舎から 年寄りが出てきて

ひとつ ゆっくりするか

 

原爆のほかは

なんでもええわ

気前よくやらんか

 

きらり

きらり

波はうたい

 

きょう

船が売られていったのは

アフリカのリベリアげな

港をでるとき

サーカスの小屋が揺れたげな

 

ひとびとは

ほう ほうと感心しながら

ひとまわりすると

ここにきてながい鼻にさわりたくなり

しかして慎重にして快楽

 

ひとびとは

やわらかくじぶんを てのひらにつつんで

たもとをしのばせ

それからやっと それらしいあしどりである

 

そして

ひとびとのわずかな隙間に

いつか夕闇がまぎれこんで

いよいよ象の出番となるらしい

 

 

(P267)

菊とナガサキ 被爆挑戦人の遺骨は黙したまま  石牟礼道子 1968・8・11

 

「いわしば焼くごと」

 

原爆のおっちゃけたあと

一番最後まで 死骸の残ったのは朝鮮人だったとよ

日本人はたくさん生き残ったが挑戦人はちっとしか生き残らんじゃったけん どがんもこがんもできん

死体の寄っとる場所で朝鮮人とわかるとさ

生きとるときに寄せられとったけん

牢屋に入れたごとして 仕事だけ這いも立ちもならんしこさせて・・・

三菱兵器にも長崎製鋼にも三菱電機にも朝鮮人は来とったとよ

中国人も連れられて来とったとよ

原爆がおっちゃけたあと

地だが焼けとるけん 誰もなかなか長崎には来つけんじゃった

だが カラスは空から一番さきに飛んできた

うんと来たばい それからハエも・・・

それで一番最後まで残った朝鮮人たちの死骸の目ン玉ば

カラスがきて食うとよ

(略)

十六、七の娘の子たちが

遠い朝鮮から連れてこられて

ひとりも助かった娘はおらんじゃろ

一万人あまりの朝鮮人が ジューッと

一ぺんにやけ死んだやろ あの収容所の下で

六千度の熱で

今から、どげんして調べるとやろか

一番うらみの深か者はぜんぶ死んでしもたナ

 

(注)石牟礼が長崎に来て、朝鮮人労働者から聞き語りをして書いた詩とある。長崎方言を使った詩はやはり圧倒的な迫力がある。山田かんは多くの詩を残しているが、長崎方言を使った詩はほとんどない。そこが山田かんという人物を読み解くひとつの鍵な気がしている。

 山田は、多くの詩を引用し長崎の反原爆の系譜を辿りながら、以下のように記している。

 

(P349)

 そのような不可知の部分ともいえる長崎の内面を見届けようとする詩人は、あるいは長崎よりも域外に在る詩人において書きつがれているような気がしてならない。

 被爆地に於てはすでに見えなくなっている事物を通してというよりも、自身の構築する詩的造形によって長崎を見続けようとする営為である。

 それは非常に困難な観念の操作をともなうものであろうが、なおかつそれをした彼方にある

長崎を直観しようとする鋭い視線は時の経過による古びた皮膜をはぎとったところにこそ存在する

この被爆の土地の意味を、さらに新たに教示しているということができる

それは或いはこの土地にある詩人たちの慣れ合った果ての鈍い反応に対する刺突でもあるのかもしれない。

 

(P381)

 むしろ、作品としての実質を持つものは長崎以外の土地で長崎を冷たく見すえるところから産みだされているように思われる。

 

 

(付記)

 長崎に生まれ長崎に生きた人物の、これほどに厳しい、言葉を、私は他にしらない。

最後に、そのように書いた山田自身の詩を紹介してとりあえず本稿を終える。

 

 

山田かん全詩集

山田かん全詩集

 

 

「切支丹史」 山田かん

 

沿道には見物が例の如く堵を為して「あら切支丹も人間よ目もあれば鼻もあり

口もある」等と互いに言い罵るも腹立たしい(浦上切支丹史)

 

炎天下社会党 炎天下核武装 炎天下中蘇論

炎天下共産党 炎天下原水協 炎天下不可知

炎天下総評系 炎天下核戦争 炎天下県原水

炎天下中立系 炎天下社青同 炎天下原水禁

炎天下市原水 炎天下日青協 炎天下核兵器

炎天下組合旗 炎天下三見連 炎天下地婦連

炎天下被災協 炎天下細分裂 炎天下活動家

炎天下統社同 炎天下社革同 炎天下再統一

 

炎天下のまひるはおし展げられ

凌辱のように紅にそまって倒れていた

あるいは倒れてなんかいなかった

サリイのように身体に旗を巻きつけて

変なデザインの金属片を楯にして目をいからせ

ヘイワ へいわ 崩れぬ塀は と

さがし求めていたのだ

 

炎天下

帰りは長距離バスのなか

帰りは遊覧バスのなか

折詰弁当ぱくついて空折は窓外に舞い

風にのって宙返り沿道に降りつもる

へいわのためなのだ

そして皆はチリチリになって去っていく

 

焦ることには意味がある

集ることは激しい主張なのだ

 だが

ほの燃える魂のような炬火を捧げて

夜のなか 静かに歩み続けることも

より激しい身振りではないのか

聖母の祈りをとなえながら

足をひきずる老婆を俺はみている

吹き消えた炬火に気づかず

 めでたし聖寵みちみてるマリア

 主は御身のうちにやどらせ給う

低く獣のように呻きながら

涙をながしている老婆にそって

流配される切支丹をはじめて見るように

俺は沿道を少しずつ移動する

大弾圧浦上四番崩れ

そして浦上原爆崩れのなかにも

なお生き残った老婆と

この数百人の一人一人のもつ炬火の流れは噴きあげる

炎の蛇のように

道にあふれ夏の九日の夜気に揺れ

死に絶えた切支丹の夜のように静かだ

小さい児は年上の児に小突かれて歩み

手には炬火

すこし調子外れのソプラノでアベマリアを唱い

火が映っている瞳で沿道を不思議に見る

崩れ去った部落は

夜のなかだけで精気をとりもどし

四方の谷 谷からより添い

共同体のように唱和をつづけながら

悲しみの老婆をささえ

悲しみの男をささえ

悲しみの女を 兄弟をささえ

二十年前の焦熱を身に湧きかえさせ

白衣の神父 白衣の修道尼を前列に

十字架をかかげ

八月九日の夜をとぎれることなく

歩んでいくのだ

目も口もある切支丹たちは叫ぶことなく

聖壇のまえに近づき今は静かに展開しつつある

鼻の先に接した広場には

陽気な盆踊りに浴衣の男女が汗ばんでいる

レコードがこだまする

白い神父の声がその合間にとぎれる

今日は祭でなく叫びでなく祈りの日です

貴方たちがここにあるかぎり世界に大事な

メッセージを送るのです 平和は聖なる

言葉です そして平和は一人を残すことなく愛することです

 

浦上に夜は更けていく

もうあらゆる言葉は消え去った

鈴懸をそよがせて風だけが動きはじめた

長距離のバスは未だ走りつづけているか

蛍光灯の窓をボンボリのよう連ねて-

求めているものは祈りのように同じなのに

炎天下炎天下

そしてこの夜も明日も

ほんとうに苦しい日日だ