佐藤優入門 (その1) その神学的背景と信仰を概観する
最近はさすがに影響力が落ちたようにみえるが(?)2004年に「国家の罠」を出して以来の佐藤優は論壇の寵児だった。週刊金曜日から諸君、桜チャンネルまで。左から右まで横断して活動する書き手はやはりほかに類がない。
そのインパクトを誰だかがどこかでこう書いていたのを覚えている。
「一匹の妖怪が日本の論壇を徘徊している。佐藤優という名の妖怪が」
(佐藤優の論壇における独自性)
佐藤優という人物が、これだけのポジションを築いた理由としては私は3点が挙げられると考えている。①キリスト神学的素養②外務官僚としての実務と、③日本の思想界が知りえなかったソ連におけるキリスト教信仰の現場の経験者。としてである。
①については、佐藤一人が傑出しているわけではない。日本の神学部、あるいは哲学、現代思想の研究者ならば、このレベルの知識・教養を持っている知識人はおそらく数千人レベルで存在するだろう。しかし、同時に②外交それもソ連における第一線で活動した情報官としての実務の経験をあわせ持つ人物となると、ほとんど類がない。なにせ神学部を卒業して外務省に入省した人物はほとんどいないからだ。そして、キリスト教、ローマ法、ギリシャ哲学の三位一体が知的エリートの基礎である西洋圏の外交の第一線において、その神学的素養が現実に極めて役に立ったということが、他にない彼の独自性をうんでいる。
③についても同様である。共産主義のソ連において、宗教は弾圧され公式に語ることはできなかった。しかし、ロシア正教はロシア人の精神風土に深く根ざしたものであり、社会においては、強く根を張っていた。ましてやソ連社会におけるプロテスタント信仰に、日本のキリスト教界が接触するルートは殆どあり得なかった。その中で、外交官としてそこに直に触れることができたという経験、これもまた他にない彼の独自性を与えている。このこれについては、その(2)で触れる。
この3点を併せ持った経験が彼を他にない唯一の書き手たらしめているのだと思う。
そして個人的に、私もこの人の本と出合わなければクリスチャンになることはなかったように思う。そして神学部に入るまで(牧師を除き)クリスチャンの友人が一人もいなかった私にとって、キリスト教的、神学的思考を教えてくれる唯一の対話者が彼の著作だった。その意味でとても大きな影響を受けている。
日本の教会で(特に関東)佐藤優の名前を出しても、同志社大学神学部卒ということで、すぐにいやな顔をされる。読んでいる人も少ない。あるいは読んでいても、その神学的背景を知っている人はさらに少ない。というわけで、少しそれをまとめてみようと思う。
そして自分が学ぶパッションをとりもどすために、原点を確認したいのだ。
(佐藤優理解のうえで)
佐藤優を理解するうえで重要なポイントは5点あると私は思う。①沖縄戦で生き延びた母、②キリスト教組織神学(特にヨゼフ・フローマトカ)、③外交官としてのソ連勤務、④鈴木宗男事件とイスラエルシンパ(エージェント?)、⑤米原万里(ロシア語同時通訳者)・斉藤勉(元産経新聞社モスクワ支局長)・魚住昭(元共同通信社、ノンフィクション作家)との交流、である。
以下、著作を引用しながらそれをおっていく。彼の著作はすでに数十冊に及ぶ。私は半分程度は目を通しているが、重要なのは初期の数冊である。
(リスト)
『国家の罠』 新潮社 2005 (以下略称 罠)
『自壊する帝国』 新潮社 2006 (帝)
『神学部とは何か』新教出版 2009 (神)
『私のマルクスロシア篇 甦る怪物』 文藝春秋 2009 (怪)
『はじめての宗教論』(左巻・右巻) NHK出版 2009、2011 (左・右)
『神学の履歴書』 2014 新教出版 (履)
これ以外にも重要な対談も数冊あるが、それ以外は上記の本のねたを使いまわしているところが多い(笑)
あとは『獄中記』、魚住昭、斉藤勉、中村うさぎとの対談(2冊)も面白いし、また『福音と世界』に連載していた『神学の履歴書』も今年(2014)に出版されて興味深いがまだ未読である。
近年は自分の生い立ちについて書いた「私と先生」などもあるが未読である。「宗教改革の物語」も“最も力を入れた”と語るように重要な著作であるが、これも未読である。ことをお断りしておく。
⓪ 佐藤優とは何者か?
ノンキャリアの外務省専門官として入局、ソ連勤務を勤める。その中でキリスト教組織神学の知識を通してモスクワ大学の講師として(おそらく西側外交官としてはじめて)教える中で、ゴルバチョフの改革派、共産党保守派の両派に人脈を広げた異能の外交官だった。特に特記されるのは、1991年の共産党保守派によるクーデターでゴルバチョフが軟禁された際、共産党幹部から直に情報を取ることで、西側外交官の中でいち早くゴルバチョフ生存の情報を掴んだことは有名。その後、鈴木宗男外相のブレーンとしてイスラエルロビーを通しての北方領土交渉に関わり、その後の小泉・田中(真)と鈴木の政争の中で、鈴木と共に逮捕される。2005年に『国家の罠』を出版。その後、いちやく論壇の寵児となった。(詳しくはWIK参照)
① 沖縄戦を生き残った母
佐藤の精神形成上で沖縄戦を生き延びた母の影響はことのほか強い。『久米島から日本を読み解く』などの沖縄に関する著書や、基地問題での言説なども、この「沖縄の血」としてのルーツからであることを繰り返し言及している。沖縄戦で死のすぐ淵を経験した母がキリスト教の洗礼を受けたことが、彼のキリスト教信仰の源泉となっていることは間違いないと思われる。また多くの著作のあとがきで母について触れていることから、彼と母親の絆は極めて強いことが感じられる。
(マ P33)
私の母は、1930年に南海の孤島、沖縄県北大東島で生まれたが、戦後すぐに沖縄本島の西にある祖父母の故郷の久米島に移った。(中略)沖縄戦では「石部隊」の軍属として、電話交換や秘書業務に従事し、軍と行動を共にして、沖縄本島南端の摩文仁までやってきた。1945年6月23日、第三十二軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇中将が自決し、日本軍の組織的抵抗は終わるが、母は摩文仁の丘で、その後、数週間、降伏せずに抵抗を続けた。最後に米兵が壕の前に来たとき、母は手榴弾の安全ピンを抜いて自決の準備をしたが、どうしても起爆栓を叩きつけて作動させることができなかった。そうしているうちに隣にいるひげ面の伍長が手を上げて降伏したので命拾\\いをした。
戦争体験を経て、母親は戦後、キリスト教の洗礼を受けた。それと同時に反戦平和の強い信念をもつ熱心な社会党支持者になった。(後略)
(自 P523あとがき)
『国家の罠』出版後に私の身辺で起きた変化について記しておく。実は母が癌で一時は重篤な状態になったが、『国家の罠』を呼んだ母の友人たちから「息子さんの事件の背後に何があったかよくわかりました」という話が聞こえてくるようになると免疫力が回復し、現在は隊員して普通に生活している、(後略)
ちなみにその母が通っていた教会から、佐藤の背景はカルヴァン派にある。
(神P84)
「私の場合は、もともとの母体が日本キリスト教会というカルヴァン派の教団だったので、結局はカルヴァン的な発想から抜け出ることができない。人間誰しも、人生で一番最初に触れた世界観的な思想、つまり生き死にの原理を説く思想の刷り込みからは抜け出せないというのが、私の結論である。私の場合は、結局それはカルヴァン派的なキリスト教だったのだ。
(中略)
逮捕以来、「どうしてこういうことになったのか」と、何度も自分の中で考えた。そして、それと同時に、「なぜ神は私にこういった試練を与えるのか」と考える。だから、どんな逆境や厳しい状況にあっても、絶対にあきらめない。それは見方によっては、意志が強く根性があるように見えるのだが、裏返すと、「反省をしていない、とんでもないやつ」ということだと思う、これはカルヴァン派の最大の長所であり、かつ最大の弱点である。
② 同志社大学神学部入学
〈補足〉
佐藤は県立浦和高校を卒業し、1979年に同志社大学神学部に入学する。日本のプロテスタント最大手である基督教団の牧師を養成する神学部には、主に5つある
(日本基督教団の神学校の背景)
①東京神学大学神学部 (長老系・カール・バルトの影響が強い。)
③関西学院大学神学部 (メソジスト系・栗林教授いわく、バルトと自由主義両方できるので、一番バランスがとれているのではないか。また実践・聖書学が伝統的に強い。
④日本聖書神学校 (夜間学校であり、働きながら学ぶ人が多い。)
⑤農村伝道学校 (農村伝道を中心としており授業にも農業実習とかがあるらしい)
⑥東京聖書学校 (ホーリーネス系らしい。ということ以上しらない)
このうち①の東京神学大学と②の同志社大学神学部は、伝統的に非常に中が悪い。
① は②を「悪魔の神学校」といえば、②は①を「洗脳」と言い返す。この辺りは、どうも学生紛争当時の対立がかなり根深く残っていることから来ているらしい。ざっとまとめると、学生紛争当時、青山大学神学部が廃止された。(この結果、荒井献氏は東大に移籍した)またICUの若手研究者だった田川建三氏は、学生側に立ったということで大学を辞める。この中で東京神学大学においても学生紛争がおき、学生の一部が大学を辞めさせられる。ここで学生側が説いたのは、「教会は社会のためにあるべきだ」という主張だった。これは「社会派」と呼ばれた。
一方で教団の主流・幹部は、この「社会派」によって90年代まで占められることになる。当時教団で行われる総会は非常に荒れ、木刀を持った牧師や信徒がつめかけるという光景も日常茶飯事だったという(ある方から直接聞いた)
これに対し、90年代半ばごろから、教団上層部を占めたのが、社会に関わるより教会の福音・伝道をとすべきだといういわゆる「福音派」である。
ただしこの「社会派」「福音派」の名称は、それぞれが相手に蔑称のようにつけたものであり、正式な名称ではない。おおまかにいって、同志社は「社会派」の影響が強く、東京神学大学は「福音派」の影響が強い、と大まかな色分けが可能である。そしてその対立は現在も続いている。佐藤優が入学したのは、同志社大学神学部であった。この入学面接が面白い。
(マ)P117
「実は無神論に興味をもっているんです。フォイエルバッハやマルクスなどの無神論を本格的に勉強してみたいんです」
そう答えてから、私は「まずいことを言ってしまった。面接で不合格になるかもしれない」と思ったが、後の祭りだ。(中略)
後に樋口和彦先生から「佐藤君のように無神論を勉強したいなどと突っかかってくるタイプは必ずクリスチャンになるんだよ。そして、一旦、信仰をもつようになるとそれは崩れない」といわれがたが、この見立ては正しかった。私は神学部に入った歳のクリスマスに洗礼を受け、それから自らの信仰が揺らいだことはない。ある意味では十九歳のときから全く進歩がないのかもしれないが、私にはいいかげんで、本質的に人間の知性を信じないキリスト教が身の丈にあっているのだ。(後略)
(P337)
問題児を神学部はあえて受け入れるところがある。私自身がそのような問題児の一人だった。どこか世間の基準からずれている若者はそれだけ神と出会う可能性が高いことを神学部の教師たちは知っているのである。彼らは大学教師であるとともに牧師なのだ。牧師の職業的良心として、神と出会う可能性のある若者には極力チャンスを与えなくてはならない。
③ 同志社大学神学部時代
当時(1979年入学)、日本の大学において学生運動は下火になっていたが、関西、特に同志社大学ではまだかなりさかんで、「同志社ガラパゴス」と言われるほど各派がヘゲモニー争いをしたいたという。その中、佐藤は当初は社青同(社会党系の学生組織)の活動家として、社青同脱退後もかなり神学部自治会関係者として過激に学生運動にかかわったらしい。また、友人とよく至上のロシア料理店「キエフ」で飲みながら議論したという。キエフは歌手の加藤登紀子の父で、関東軍特務機関でロシア専門家として活動した加藤幸四郎氏が戦後始めた店である。現在もあるので、佐藤優ファンはぜひ訪れて、スターリンも愛飲したグルジアワイン「キンズマラウリ」を飲みながら、ファン気分を味わうのもいい。(私はもちろんそうした)。(なおこのグルジアワインは、ヤルタ会談でチャーチルが気に入り箱入りしたとか、グルジアは人類最古のワインの産地であり、クレオパトラも愛飲したらしいとか、旧約の人々はこのようなワインを飲んでいたのかと思うとなかなか面白い)
彼の神学的背景、信仰の内面的理解が最も根強く現れているのが、神学部時代の自伝「私のマルクス」(以下マ)である。
たとえば、当時学生に影響力の大きかった田川建三が同志社を訪ねたときのことも書かれている。
(マP161)
大山君は(注:佐藤の友人)、院連の大学院生活活動家たちが、「田川先生、これは同思われますか」、「田川先生、コーヒーをいれましょうか」などといって売り込みに腐心していた様子をユーモラスに話した。
そして1980年に洗礼を受けている、
(マP169)
その年の12月23日のクリスマス礼拝で、私は日本キリスト教会吉田教会の今村正夫牧師から洗礼を受けた。
(マP206)
フォイエルバッハやマルクスの無神論を徹底的に学びたいと思って同志社大学神学部の扉を叩いた。扉は開いて私は無神論を学ぼうとしたが、過去二千年近くにわたって集積された神学の知的遺産の前に、所詮、近代主義の枠を出ていないフォイエルバッハの無神論はあっという間に砕け散ってしまった。私はキリスト教の洗礼を受けた。
彼が神学部時代を振り返って印象的なのは、当時神学館二階にあったという「アザーワールド」という部屋である。佐藤はここで親友と泊り込みながら読書会などをしていたという。(2005年にこの部屋はなくなり現在はない)
(マP202)
あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。当時、私は野本先生が何をいわんとするのかがわからなかったが、ソ連崩壊を体験するなかで「既成の秩序に収まらない場所」の意味を皮膚感覚で理解できるようになった。
(神P17)
神学部教授の野本真也先生があるときにこう言ったのである。
「秩序が成り立つためには、どこか秩序が完全に崩れている場所がないといけないのです。そういうふうになっていないと秩序というものは成り立たないのです」。
私は何かのレトリックかと思ったが、今になってやっとその意味がわかるようになった。野本先生は、ユダヤ教のカバラのことを暗示していたのだ。ユダヤ教にはカバラという思想があるが、その中にこのような知恵がある。
「理屈の世界が積み重なると、必ず理屈に反する世界がそれと同じだけ積み重なり、あるときパーンと破裂してしまう。」
あれだけ精密だった金融工学が破綻して、リーマン危機などが生じてくるなどという現象も、カバラ的な見方をすれば簡単にわかる。これはまさにキリスト教的な考え方でもあって、そういう意味においても、神学は「虚学」なのである。
神学がいかに「虚学」であるかということを、次の二点からさらに説明した。
一点目は、「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。
二点目は「神学論争は積み重ねられない」という神学の性質についてである。
また京都学派の田邉元についての記述。
(マP208)
藤代泰三神学部教授(註:キリスト教史)
「(前略)この田邉さんが戦争が始まる直前に『歴史的現実』という本をだします。個々人の生命は有限だが、悠久の大義に殉ずるならば、個々人の生命は永遠に生きることになると説きました。見事な弁証法の適用です。戦時中の大ベストセラーになりました。」
私が「要するに国家のために死ね」ということですねと茶々を入れた。
「そうそう。佐藤君の言うとおりです。そして、学徒出陣で出征した兵士たちは『歴史的現実』をポケットに入れて、何度も読み返し、死に備えたのです。この田邉さんは、戦後、『よく考えてみたら、私は間違っていた。日本には懺悔という素晴らしい伝統がある』といって、今度は『懺悔道としての哲学』という本を書いて、これも大ベストセラーになりました。田邉元は弁証法を実に巧みに使いました。しかし、物事はそう簡単に総合されないものです。カントの『純粋理性批判』をきちんと読んだ後にヘーゲルと取り組むことを進めます。カントを抜きにしたヘーゲルは危険です」
(マP266)渡邉雅司との会話
「佐藤君、前から聞いておきたいことがあったんだけどいいかい」
「なんでしょうか」
「結局、一人ひとりが、自らの足場を掘り下げていくしかないと思うんだ。学問にしても、人生にしても。究極的なところでは群れたらだめだ」
「それはちょっとさびしい気がしますね」
「淋しいけれど、そうなんだと思う。しかし、問題はその先だ。一人ひとりが足場を掘り下げた地下には、この鴨川のような地下水脈が流れているのだろうか」
〈中略〉
「佐藤君はクリスチャンだろう。クリスチャンならば救済を信じているはずだ。それならば、神学を掘り下げていくならば、そこには地下水脈があるということになる。そうじゃないだろうか」
意外な質問に私は途惑った。
「よくわかりません。しかし、僕は地下水脈はあると信じています。ただ、それは相当深いところにあり、岩盤をいくつも突き抜けていかなくてはなりません。たぶん、僕はその水脈まで至らないと思います。地下ではなく、僕は上を指向します。地下水脈はいわば実存なのでしょう。僕は実存ではなく、脱実存を、要するに神という超越性による連帯が唯一の方法のように思えます」
(P272)
「僕にとっては絶対の真理です。しかしそれが渡邉先生にとっては、絶対の真理とはいえmせん。それから僕が信じているキリスト教と他の人が信じているキリスト教が同一であるという根拠もどこにもありません。それでも僕にとってキリスト教は絶対の真理です。どうしてかと言うと、僕はキリスト教信じることで救済されたと思うからです。これは思い込みで、実は何の根拠もないのかもしれない。でも、結局、信仰とはそういうものなのでしょう」
(P311)
私はフローマトカの言説のどこに惹かれたのだろうか。それは神学が大学の研究室における学問でもなければ、教会の存在を正当化するための道具でもなく、この世で生きていく人間のためのものであることを強調したところにある。神学者が活躍する舞台はこの世界(此岸)なのである。
(P340)
「神学部を保全することだ。神学部という器があれば、そこで学生たちが自由に考えることができるトポス(場所)が残る。平均的で、一様なスペース(空間)であなく、知的密度の濃いトポスとして神学部を残したい。神学部なくしてキリスト教主義大学は存立しえない。神学部(神学科)が廃止されてしまった青山学院大学、明治学院、関東学院は僕に言わせれば、キリスト教主義大学ではなく、『キリスト教の抜け殻』を利用したミッションスクールにすぎない。
(P344)
同志社大学神学館のチャペルには十字架がない。その代わり、茨冠が説教壇の上にぶら下がっている。前にも述べたがイエスはローマの兵士から侮辱され、被された茨冠こそがキリスト教にふさわしいと同志社の神学者たちが考えたからだ。
神学部で学ぶ中で、佐藤が出会ったのが、チェコスロバキアの神学者、ヨゼフ・フローマトカであった。佐藤が始めて出した本は、フローマトカの自伝『なぜ私は生きているか』(新教出版)であり、多くの著書で繰り返しその名前をだしている。
フローマトカ(1889~1969)は、チェコの神学者である。WW2では、カール・バルトの盟友としてナチスに抵抗し、戦後はアメリカの神学校で教えたが、共産化したチェコに戻り、マルクス主義者との対話を行った。
(履 P46)
フローマトカは神学の機能はこの世に奉仕することであると考えた。「Pole je tento svet(フィールドはこの世界である)」というのがフローマトカの座右の銘であった。フローマトカは「象牙の塔」の中で過度にアカデミックな純化を遂げた神学は、信者や神学的訓練をあまり受けていない牧師にとどく言葉を失ってしまうと危惧する。同時に「解放の神学」のように神学を実践運動に解消してしまうことにも反対する。それでは、神学はどのように社会に関与するのであろうか。
個々の神学者が特定の国家に所属する市民として、あるいは特定の民族に所属する一人の人間として、現時の問題に関与することを通じて自らの信仰を証しするほかに術はないというのが、フローマトカが最終的に至った結論だった。
(履 P50)
特に改革派系のマルクス主義者と「人間とは何か」というテーマで対話を続けた。その結果マルクス主義者の側に変化が生じた。チェコスロバキア共産党内部からスターリン主義を克服し、「人間の顔をした社会主義」をつくろうとする運動が起きてくるのである。そしてそれは1968年の「プラハの春」と呼ばれた民主化運動に結実する。しかし、その運動は同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約5カ国軍の侵攻によって叩きつぶされてしまう。
* ***
なぜフローマトカに佐藤がこれほど入れ込んだのか?私はよくわからなかったが、最近少し理解できるようになってきた。それは以下の2点においてである。
① フローマトカは神を否定した共産主義者と「人間とは何か」について対話した。近年、日本の国家は急速に格差が拡大している。その中で、避け難く共産主義的なものへの支持は再び強まっていくように思われる。その中で、教会が、社会とどう関わるか?という点において、将来的に、教会と社会運動というものの対話、協力は必須のものとなっていくと思う。しかし、日本のプロテスタントにおいては「解放の神学」の視座(釜が崎)以外で、それがなされているとはあまり思えない。フローマトカの神学にそのヒントがあるかもしれない。
② 昨年、WCC(世界教会協議会)の窓口となり韓国・中国のキリスト教と深くかかわってこられた教授とお話していて「韓国のプロテスタント教会は今、とても熱心に賀川豊彦を研究している。向うでもトップクラスの神学者が多数、賀川を研究している」と伺った。その理由がよくわからなかったのでさらに聞くと、
「賀川は産業化が進展した戦前の日本で、キリスト教的友愛の元貧民活動に実践的に関わった。その中で、必然的に共産主義者や在日朝鮮人とも関わり対話したキリスト者。韓国は、遠いか近いかはわからないが北朝鮮といつか統一することになる。しかし韓国内には根強い反共イデオロギーがある。同時にキリスト教も非常に強い。だから、将来統一の際には、共産主義とキリスト教というイデオロギーが大きな問題になる。だから、それをした賀川の生き方と神学に、韓国キリスト教界は非常に興味を持っているようです」と。
それを聞いて初めて理由がわかると同時に、将来を見据え、国家の中のキリスト教の社会的役割を認識している韓国キリスト教界の歴史意識に凄みを感じた。そしてその問題意識は、上記のフローマトカと通ずるところがあるように私には思えたのだ。
しかしいずれにしろ、上記の問題をこれ以上発展させて論じる能力も知識もないので、この点はこれまでとさせていただき、佐藤優の話にもどる。
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修士論文でフローマトカを扱った佐藤は、さらに研究のためチェコスロバキア留学を考える。しかし1980年代において、東側のしかも神学研究目的のために日本人が入国することは不可能だった。そこで、佐藤が知ったのが外務省専門職である。外務省専門職として入省し、チェコに赴任すれば、仕事の傍ら研究も可能ではないか?そう考え佐藤は外務省を受験し、入省するのである。(しかしソ連配属となり、その目的は果たされなかったわけだが。もしそうなれば、異能のソ連畑外交官佐藤優は誕生しなかったし、逮捕されることもなかったかもしれない)
以下 その2に続く