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学部日本宗教:史不受不施派の特異性とキリスト教(キリシタン)との接点 85点

 

忘れられた殉教者―日蓮宗不受不施派の挑戦 (小学館ライブラリー)

忘れられた殉教者―日蓮宗不受不施派の挑戦 (小学館ライブラリー)

 

 

 

日本宗教史における不受不施派の特異性とキリスト教(キリシタン)との接点

 

1、日蓮宗不受不施派の特異性

不受不施派とは日蓮宗の一派にあたり、法華信者以外からの布施を受けず、他宗の僧侶に一切布施を行わないとする不受不施を教義とする信仰共同体である。江戸幕府によってキリシタンと共に禁止され、明治の解禁まで約200年間の間、地に潜って秘かに受け継がれてきた信仰である。

 禁令となったこと、それを生き延びたという点以外にも、その独特の日本仏教においても珍しいほどの極端な信仰の内面化、弾圧や露見することを覚悟で統治者への諫言(諫暁)を繰り返すこと、世襲ではなく常に信徒の中から僧侶が生み出されてきたことなど、日本仏教の中でも非常に特異な性格を持っている。

そして、同じ禁令下にあったキリシタンとも不思議な接点をもっていた点も興味深い。

 私は、以前仕事で長崎県の浦上地区に住んでいた当時、潜伏キリシタンの末裔の方が集う浦上天主堂のミサで、その先祖伝来と繰り返す弾圧の中生き延びてきた信仰に強い感銘を受けたことがあるが、不受不施派について、書物を通しても同じような底知れぬ重みと力強さのようなものを感じる。

 不受不施派については、研究書や著作も非常に限られているが、これらを通して、特徴をキリスト教とも比較することで、日本仏教史における特異な意義を検討してみたい。

 

2、不受不施派の歴史

今泉淑夫編集『日本仏教史辞典』(1999)吉川弘文館の「不受不施派」の記述がまとまっている。

(以下引用)

「 日蓮宗の一派。派祖は教徒妙覚寺仏性院日奥。法華未信・謗法の布施=経済的支援を拒否して受けずとするのが不受、他宗謗法の僧に布施を行わずとするのが不施である。日蓮以来、中世日蓮教団では、不受を全面的に貫徹する立場と、王侯=公武権力者の布施は格別として受ける立場(王侯除外の不受不施といわれる)との二つがあった。後者が受不施の立場である。これらの立場の選択が、布施をめぐる日蓮宗僧侶のあり方や教団存続への想いと重なり合って教団内の対立を明確にした最初は、文禄四年(1595)豊臣秀吉による京都方広寺千僧供養への百人の僧の出仕命令をめぐる京都日蓮宗僧侶の動きであった。妙覚寺日奥は全面不受の立場をくずさず不出仕を主張して妙覚寺を退去した。一方、本満寺日重・日乾らは王侯除外の不受の立場をとって千僧供養に出仕し、諸僧もこの立場を選択した。慶長四年(1599)、徳川家康は大阪しろにおいて日奥と受派の妙顕寺日紹らを対論させ、ここでもなお不受を主張する日奥を対馬流刑と採決した。この採決が以後の不受僧処断の先例となる。(中略)

 寛文五年(1665)江戸幕府は寺領朱印交付にあたり、日蓮宗寺院に対し、寺領を供養とし、飲水・行路なども布施供養であるとする手形の提出を迫った。日講・日述らはこれを拒否して流刑に処される。同九年四月幕府は不受不施を遵守する寺院の寺請けを禁じた。ここにおいて全面的不受不施を守ろうとする僧・俗は地下に潜行して、禁制宗門不受不施派が成立する。不受派の信徒の中には、うわべは受派寺院に属した内信・内信者と、無宿となて内信を指導した法立(ほうりゅう)との二者があった。法立は法中(出寺して内信。法立を指導した僧=清僧)と内信の間を連絡した。この法中-法立-内信の非合法組織は明治期まで存続した。この間、法中とよばれた僧のなかから不受不施が日蓮宗の正統的立場であることを示し、国家への警告=諫暁のため潜行生活から浮上して訴えでて流罪に処せられていくが、そのマンネリ化はおおいがたい。また、同派はキリシタン、隠れ念仏とともに地下に潜行したが、その間、日尭・日了を指導者とする日指派と日講が指導した津寺派に分裂した。前者は明治九年(1876)四月不受不施派、後者は同十五年三月不受不施派講門派として明治政府により公認された。昭和十六年(1941)両派合同して本化正宗を名のり、同二十一年両者分離、前者は妙法華宗を名のり、二十七年には不受不施派と改称した。」

 

3、教義的な特殊性

以下、奈良本・高野「忘れられた殉教者 日蓮宗不受不施派の挑戦」(1993)の記述を元に、その教義の特徴をあげる。

 

①     禁制と弾圧を生き抜いた特殊性

200年間禁制となった不受不施派が、其の間どのように受け継がれてきたか、それは僧侶がどの

ように供給され続けてきたかの歴史でもある。不受不施派においては、秘かに受け継がれた信徒集団の中から、常に提供され続けてきた。

奈良本・高野(1993)のP110以下で、不受不施派の信仰共同体の構造が説明されている。

これは、法中-施主(法立)-内信といういわば三部構造であった。「まず、僧のうち、あくまで不受不施の立場を貫いたものは出寺して流浪の僧となるが、これを「清派の僧」また「法中」と呼ぶ。」これに対し、「表面上は他宗寺院の檀家となり、しかし内心において不受不施信仰を固く守っているもののことを「内信」として明確に規定することがはじめられた。

 しかし不受不施派の教義の根本をかんがえたとき問題が生じるのである。「たとえ表面上のこととはいえ、内信の社会的存在の姿は謗法者にほかならないのである。」(P115)

 現実的には、流罪僧である訪中の生活が成り立つための物資を供給しうる人間は、内信しか存在しない。「とはいっても、外面は謗法者である内信の供養をうけるとなれば、不受不施主義の立場は根底から崩れてしまうではないか。ここで出てくるのが「施主を立てる」という考え方であった。」という。

 「施主とは、外面の謗法者である内信が法中に対して行う供養の仲介をする役割にあたるもので、近世初期のころは、法中のほか、いまだに謗法を犯していないという意味で児童が形式的な施主となることもあったようである。しかし、次第に、「施主を立てる」と言えば法立のことだけを指すようになっていくのである。」

 そしてここで規定されたのが、信徒の中で寺請けを拒否し、無宿・帳外れとなって訪中に従うものとして「法中」である。

 不受不施派は、禁制という外部に対してはカモフラージュをしながら、内面での信仰を守りる信徒(内信)が、僧侶(法中)を金銭的に支え、その仲介者かつ次代の僧の養成源としての法立という三部構造によって200年間進行を守り続けたのだという。

 この三部構造と、「内面での信仰」というものが不受不施派の最大の特徴であろう。奈良本・高野は「信仰の領域-と言う言葉を仮りに使えるとして-をこれほど明確に指示された宗教者が日本の宗教史にあったろうかと思う」(P122)と述べている。

 私もこれに同意する。日本の宗教史において、禁制下にあるがゆえに、外的には他の宗教の信仰をもつようにふるまいながら、内面のみにおいて自らの信仰を守り続ける。それは、おそらく不受不施派のほかには隠れキリシタンにしかみられない現象だと見られる。しかし不受不施派はさらにこれを厳しく追求した。

 

②内面の信仰

 不受不施派元禄二年(1689年)に二派に分裂している。それが現在の日蓮宗不受不施派(祖山岡山県御津郡御津町妙覚寺)と、日蓮宗不受不施派講門派(祖山岡山県御津群鹿瀬本覚寺)に至っている。(P134)からの記述によると、この論争の焦点は、要するに「清と濁との混乱」にあったという。

「つまりは清者(法中と法立)と濁法(内信)との接触に於いて、清者の不受不施が守られる限界はどこに引かれるべきか」と巡っての論争であった。弾圧化において存続すら危うい少数派の中で、教義の純化をここまで追求したというのも特異な点であると言えるだろう。

 

③諫暁という行為

日蓮宗は、僧侶が国主に対して諫暁(諫言)を実際に行うことが教義の中に息づいている。

法華宗の僧が行う国主諫暁とはこれは世間が乱れているのは国主が法華経を信ぜず、謗法宗である他宗に帰依している故のことであるから、一日も早く他宗を捨てて法華宗に帰依しなければならぬと批判要求するものである。」(P38)

しかしながらこれは当然、国家に受け入れられるものではない。

日蓮以来、その弟子の僧が敢行した国主諫暁は数え切れないほどある。そしてこれはあたりまえのこととしてしまえばそれまでだが、一度も成功した例がない」(P38)

 いわば、無謀な行為である。しかしこの日蓮の教えを徹底したのが不受不施派であった。禁制となり、僧侶が地下に潜伏してからも、200年間の間、繰り返し地下から這い出して諫暁をおこなっている。

そして存在が露見することで、捉えられ獄死、遠島への流罪者を生み出し続けてきた。

(P180)研究者の「殉教者名簿」によると、

「周到な計画と準備の末に決行された諫暁は十二人を数える。これは実際に流罪にされた者のなかの数であり」さらに流罪された島から「再度の諫暁を行った例も少なくない。これに自訴という諫暁をふくめれば、禁制200年間になされた諫暁行為はおびただしい数にのぼるのである」

 

 果たして何が不受不施派にこれだけの犠牲を強いながら、諫暁を続けさせたのであろうか。それは法華宗の主流派が戦国以降、勢力を広げ、国家にとって安全な教派となったのに比べ、著しい対比をしめしている。そしてそこには、他の仏教あるいは日本宗教史の中で、他に見られない特徴があると言える。

 むしろ旧約の中の預言者達と類似している思想が見られるといえるのではないだろうか。そしてそのような教義を200年間墨守し実行し続けてきたと言う点においては、キリスト教宗教改革期における教義への純化という熱狂的な姿との類似性を想像することもできよう。

 

 

4、キリシタンとの関わりから

奈良本・高野(1993)によると、不受不施派は、その歴史において節目節目でキリスト教(きりしたん)の接点、類似点があることが記述されている。

①     宗門改帳(P155)

島原の乱以降、江戸幕府キリスト教禁制をすすめ、寺請制度を確立化していく。このための宗門改帳において、キリシタン宗徒でないことと並んで、日蓮宗不受不施派でないことの誓文が必ず書かねばならないとされてきた。江戸期において、厳しく禁じられたという点ではこの二つの教派だけなのである。(厳密には、薩摩藩治世下の浄土真宗系の隠れ念仏、秘事法門・三業安心派なども禁止されていた)

 

②     また(P207)の記述によると、享和二年(1802年)備中惣爪法難と呼ばれる弾圧が行われた記述がある。露見のきっかけとなった密告の内容は「惣爪にキリシタンがいる」というものであったという。「なぜそのような手の込んだ密告をしたかといえば、惣爪の不受不施信仰はまるで許されているかのように半ば公然たるものであったからだ。そのような空気のなかに倉敷代官所もまきこまれていると予想される以上、「不受不施派がいる」といってやるのはかえって危険でさえある、「そんなはずはない。現に、おまえどもの寺には村民すべてが檀家となって寺請しているではないか。それともあの寺請証文には偽りがあるのか」とやられてはひどいことになる」

備中藩に責任が及ぶ事を避けるために、より危険と思われていたキリシタンがだしに名前を使われたわけで、このような事例はおそらく江戸期において他にはないと思われる。

最も検挙後の尋問で、これが不受不施派であることが露見し、代官所には「申し込みとは大きに相違して、御代官もはなはだ迷惑いたされ候由」という記述が残されている、という。

 これはいわば、江戸幕府における禁制の歴史の皮肉な一挿話といえるだろう。

 

③     最も興味深いのは、明治三年(1870年)に流罪された法難の事例である。(P248)この際に、岡山県津島区の坂本真楽という人物が捕縛され、岡山県の日生島の鶴島に流罪となる。この鶴島には、同時に117人に及ぶ長崎県浦上のキリシタン宗徒が流されてきていたという。

江戸幕府によって厳禁されてきた二つの宗派の徒が同じ流刑小屋で苦しく辛い日々を送ったのはこの鶴島だけだろう。「同宿はみな長崎の者にて、所作も言葉も過半夷人に似たり」と真楽は書いている。真楽と浦上のキリシタン宗徒が意志を通じ合い、その記録でも残っていたらさぞ貴重なものになっていたはずだが、「過半は夷人に似たり」という状態ではどうにもならなかった。」(P249)

 鶴島で、キリシタンとともに坂本は週一度神官の説教に出席させられ改宗を強要されたが、キリシタンのほとんども、真楽も改宗することはなかった、という。

 これはまさに江戸期の過酷な宗教禁制における象徴的なエピソードと言えるであろう。

 

5、現在の不受不施派

 現代において不受不施派がどのような形で存在しているかについての資料は乏しい。関西学院大学図書館で所蔵を確認できたものとして、1968年に岡山大学教育学部社会科研究室が行った地域研究史『在町の近代化 -不受不施派岡山県御津町-』があり、当時の時点での現状報告があるので、以下要点を紹介する。

①信徒数

 禁制後明治35年から大正初期にかけては、岡山を中心に東京、京都、大阪、愛知、兵庫、長崎などに計約26000人の信徒がいたという表が掲載され、昭和40年の時点の資料(官庁宛報告)によると、約34000人(岡山28000人、千葉2400人、東京1200人、大阪800人、長崎530人など)しかし、昭和35年(36000人)から比較して5年の間に2000人が減少しており、後継者がいないことが今後の大きな問題だとされている。(P428)

おそらくこの傾向は現在では加速していると思われ、半減以下の数になっているのではないかと推測される。

 

②     現在の入道制

P475には現在の入道制度についての記述があり、現在の不受不施信仰のあり方の一端を垣間見ることができる。

「入道制は再興後にできたのだが、在家であっても寺から袈裟をもらう、1つの在家仏教の形をとる。

入道会はこの入道得徳者によって組織される。入道となるには、お題目を1000部(1部はお題目を1万辺)唱えなくてはならない。入道・強信な人々の参加による入道研修会を毎年数回開催する」という。

 

③     信条

不受不施派信仰の信条としては7か条が上げられている。特に注目すべきは

・     折伏逆化、不受謗施、国家諌暁が「不受不施の三大鉄則」である。

・     日の如く明朗に、蓮の如く清らかな国家社会を建設するため、何時にても身命を捨てる覚悟が「不惜身命」の信心である。

・     この世において、この身このまま仏の道を成き行うことが「即身成仏」である。(P476)

 

などである。不受不施信仰においては、現在も「不受不施」と「国家への諫暁」が明記されており、またそのために命をもかけることも命じられているのである。そして、それらは、不受不施の信仰が、この余からの遁世ではなく、まさにこの世、この社会の中において行うということがすべての原則として挙げられている。これが不受不施派を200年間の弾圧の中生き延びさせたエネルギーなのであろうか。

 

 

④     生活規則

 

・強信な信者の家では、毎朝御宝前におともし、お線香、お茶とうを供え、お題目を唱えることが行われる、お題目は一息で腹の底から低くおさえつけて長くうなるように唱える。これは、内信時代に役人の目をはばかり隠れて行法したことから自然にこのような唱え方になったのであろう。

・謗法者から施しを受けてはならぬということから、おさい銭にも講社番号と使命を書いて供えるようになっている。

・     他宗の者と交際も何もしないわけではなく、世間上の布施(非田・恩田)は一向かまわない、とされる。

・     婚姻において、現在では“信者である”という枠には大して関係なく行われる。

・     法中の生活で最大の規制は、肉食妻帯を禁じられていることである。不受不施派においては僧は常に信徒の家から供給されてきたが、他宗の世襲制とちがってそのためにいい僧侶を得ることが出来たと理解されている。

・     しかし現代では肉食妻帯を断つ古い固い規律を守って僧侶になりたいとのぞむ人がいるだろうか。

・     「信者間でも、戒律を保つ清僧を法灯の第一義とし、そのために肉食妻帯を捨てて信仰の先達となってもらいたいとする意図、たとえ法中が尽きる時代が来ようとも尊い御曼荼羅を奉持し不受不施精神の貫徹を願う人等、“肉食妻帯”に関してはいろいろ意見がかわされている。何はともあれ、法灯をつぐ僧侶のいない事は、当宗門発展のためにかいけつされなければならない大きな問題点である」(P478)

 

⑤     解禁から再建、拡大まで 

解禁後同派は、寺院建立を行った。当時信徒は口をそろえていったという「それは公許を得た喜びで、信徒からの寄附はどんどん集まり、又実際に労働力を提供した芯とも数知れない」つまり、今の妙覚寺の建物はすべて信徒自らの手で造られたものなのである」

(P464)

その後明治9年に東京麻布に仮事務所を設け、以後教会所が次々に出され、明治15,16年頃には全国100箇所以上にもなったという。

 

現在(1968年)日蓮宗不受不施派の教会は全国に17(15寺院2教会)ある。岡山(祖山妙覚寺他9)、東京1、千葉4、大阪1、長崎1。これらの各寺院は同じ宗義のもとに寺院規則を作成し、住職および責任役員をもうけ、独立して個々に経営を行っている。(P478)

 

(まとめ)

 以上の1968年の報告からは、不受不施派は江戸期200年間の弾圧を潜り抜けた後、明治期には全国に教会所を設け、最盛期には信徒数は数万人を数えるまでになったと思われる。しかし、その後、1968年の時点では減少に転じている。特に最大の悩みは、肉食妻帯を禁じられた僧侶になる者がいなくなっていることだとある。厳しい弾圧を生き延びながらも、逆に平和と豊かさが社会にもたらされるにつれ、その信仰の存続が揺らぎ存続が危うくなっていることが伺える。

 

6、結論と筆者の興味、今後の研究の可能性

 以上日蓮宗不受不施派の歴史と特徴、現状などを概観してきた。筆者が不受不施派に強く興味をもつのは、キリシタンと同様になぜ不受不施派が200年間の弾圧の中生き延びてきたのか?ということにある。さらにその弾圧化にあっても、無謀ともみえる諫言と、内部での教義の純化をすすめていったことは隠れキリシタンの中にも見られない、日本宗教史におけるほとんど唯一の特異な点であると言えるであろう。そこにはある種異様さを感じるほどのラディカルな性質を感じるのである。

 本論で、論拠して多くを引用した『忘れられた殉教者』の著者高野は、あとがきで、不受不施派の研究に入ったのは、彼がライフワークとしていた日本アナキズム史の中で知ったのがきっかけだと述べているが、確かにそこにはある種のアナキズムすら想起させる。しかしここにおけるアナキズムはむしろ精神におけるアナキズム自由主義であるように思える。例えば同じく禁制となったキリシタンが、島原の乱という日本史上最大の農民反乱を起こしたこと、あるいは島津藩において弾圧された隠れ念仏豊臣秀吉の九州征時に、島津に反抗し豊臣軍に協力したことなど、具体的な軍事行動として当時の幕藩制度に対抗した事件があったのに対し、不受不施派は一度もそのような行動を起こしていないのである。

 にも関わらず幕府、藩がこれほどまでに過酷な弾圧禁制を行ったのは、「不受不施」という教義と思想の中に、現実の国家体制を崩壊させるほどの危うさを嗅ぎ取ったからだといえるのではないだろうか?そこには、イエスが繰り返し語った、「神の国」思想に通じる力強さと確信すら感じるのである。

 ともあれ、筆者が、今後不受不施派の研究課題としては以下の点を興味としてあげることができる。

 

・     禁制下にあって、僧侶(法中)が諫暁を行い次々と流罪になる中で、次代の僧侶の教育、養成、献身はどのように成されていたのか?教義的な継承はどのようにされてきたのかについて。

・     禁制下における諫暁、教義の純化、弾圧の中、信徒と僧侶の内面はどのようなものによって支えられていたのか?

・     あるいは上記の点に関して、旧約の預言者や宗教改革期の神学者の思想と、宗教思想として重なるものはないのかという比較宗教史的視座からの検討

・     1870年の鶴島の流罪において、同じ流刑小屋で暮らした浦上キリシタンとの会話や交流を示す資料は残されていないのか?奈良本・高野の著書ではこれを否定しているが、長崎県のキリシタン郷土資料の中にこれを明らかにするものはないか?

・     現在の不受不施派の信徒集団と信仰の実体はどのようなものか?あるいは不受不施、国家への諫暁という中心教義は、現在どのように受け継がれているか?

 

などである。不受不施派の研究はまだ少なく、特に比較宗教的な研究はまだ皆無といえる。しかし、同化や消化力が強いのが特徴である日本の文化や宗教史の中で、きわめて特異な性格をもつ不受不施派の研究は、むしろ現代だからこそ研究する意義を増しつつあるといえるのではないだろうか?

                                        (以上)

 

(追記)本年(2014年)バチカンに所蔵されている、約1万点以上にのぼる「きりしたん資料」が研究資料として公開されたというニュースを見た。今後のきりしたん資料の研究の中で、隠れきりしたんと不受不施派の接点を示す資料が現れる可能性もあり、興味と期待を持って、研究の進展を待ちたい。

 

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140129/art14012911390004-n1.htm

 

 

 

 

参考文献

奈良本辰也・高野澄『忘れられた殉教者 日蓮宗不受不施派の挑戦』(1993)小学館ライブラリー

今泉淑夫 編集『日本仏教史辞典』(1999)吉川弘文館

岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会 地域研究第11集

『在町の近代化 -不受不施派岡山県御津町-』(1968)