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エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』から


 

 

人生は廻る輪のように (角川文庫)

人生は廻る輪のように (角川文庫)

 

 

                     


本書はキューブラー・ロスが71歳のときに出版した、初の自伝である。
本書を読むと、ロスの人生に2つの重要な要素が感じられる。
(1)時代背景としての20世紀現代史
一つは彼女の生きた生涯全体が20世紀の欧米の現代史そのものであると感じられる点である。
ロスは第二次世界大戦の戦前期のスイスに生まれ、大戦の難民の看護を経験し大戦後は国際平和義勇軍としてポーランドなどの大戦の傷跡を自らの足と眼で見て廻る。その後スイスの医学校に入学し、スイス人のC・G・ユングから大きな影響を受ける。その後、大戦後の繁栄を享受する現代物質文明の中心、アメリカ合衆国に渡りマンハッタンで勤務、精神科医として『死の瞬間』を執筆、終末期医療に大きな問題提起を投げかける。その後次第にチャネリング、宇宙意識体験など、ニューエイジ(?)的な神秘体験を経て、晩年はエイズ患者の支援施設を設立する。
 20世紀の臨床心理学、精神医学が、フロイトユングから始まり、第二次大戦のショアーをどう思想的に受け止めるか格闘し、現代物質文明の一面性に対する批判として提起され、またアメリカ的プラグマティズムの中で実証的に構築されてきた歴史を振り返るとき、彼女はそのほとんどを渦中に身を置き実際に体験してきたのだといえる。本書を通して、彼女の生涯と思想のネガとして20世紀の現代史が見えてくるといえるだろう。

(2)ロスの個人的な生育環境
二つ目はロス個人の成育環境も見逃せない。三つ子として生まれ、「子ども時代のすべての時間が「自分はだれか」を素人する試みに費やされ」「わたしはいつも、人の10倍の努力をして人より10倍も価値が・・・なにかの価値・・・生きる価値があることを示さなければ、と感じていた」幼年期。生き方を押し付けようとしてくる家父長的な父に自分の生き方を認めさせようとした青年期。女性が医師になることへの偏見と闘った医学校時代。そして外国人医師としてアメリカで働く医師時代、さらに死への偏見と恐怖を抱く医師達に死の準備教育の意味を認めさせようとした時代。さらにエイズ患者の治療施設をめぐっての地域住民の偏見との戦い。
 彼女の人生は一貫して「戦い」としての人生だったように思える。本書を読んでいると、一人の女性がよくぞこれだけ戦い通したものだと畏怖の念すら湧いてくる。一体何が、そこまで戦い通した彼女を生涯支えたのだろうか。

(3)蝶の謎
 その答えはロス自身が10章で「蝶の謎」として、アウシュビッツ絶滅工場の一つマイダネックを訪ねたときのことを記述している。ロスはこの章の冒頭こう記している。「人に愛と慈悲を語るわたしがいのちの意味にかんして最大の教訓を学んだのは、人間性にたいする最悪の暴虐がおこなわれたある場所をおとずれたときのことだった。」
 ロスはそこで、絶滅収容所を生き残ったゴルダという若い女性と出会い、サンドイッチを分け合い会話を交わす。ロスはそのときの気持ちを「議論する気はなかった、ただ理解したかった。」と書き、なぜあれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだのかと聞いた。ゴダルは答えた。
「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人をアイと慈悲に生きる人に変えることができたら、わたしも生き残った甲斐があるというものよ」
 その言葉を聞いてロスは書いている。「わたしは了解し、別人になってマイダネックをあとにした。人生を最初から生きなおすような気分だった。」

 ロスは、ゴダルを始め、人生で何度か「死」をごく間近に経験した人、「死」と日々向き合っている人々と出会い対話をおこなっている。そしてそこから大きな力を得ている。
 ロスを生涯支えたものはそれなのではないかと思える。

(4)キリスト教教育と関連して
では本書を通して、私達はキリスト教教育と関連して何を学ぶことができるのか。その生涯はあまりに波乱に富んでおり、戦いに貫かれており、とても平凡な生涯を送る私達にまねができるものではない。しかし、そこから確かに学ぶことはあるように思える。キューブラー・ロスという人物の生涯から学ぶべきことは、まず第一に、その「死の五段階説」だろう。死につつある人々の内面を理解するために、彼女の段階説は今でも有益であると思える。
 しかし、本書を読み終えたとき、学ぶべきものとして私は特に以下の2点を挙げたい。
① 死につつある人々と向き合うとき、全てのリソースを使い全面的に奉仕するという姿勢
②共同体的アプローチ、相互の信頼
③人は死の瞬間まで成長し続けることができる。そのための援助を行なうという姿勢

①については、ロスの生き方自身がそれを示している。当初、現場の看護から始まり医師となり精神科医となり、「死の五段階説」、さらに神秘主義を経て、エイズ支援を始める。
ロスは本書において何度も「神」について語っている。しかしそれはいわゆるキリスト教の教義的神学とはほど遠いものである。また本書後半においては、チャネリング、宇宙意識体験、臨死体験などいわゆる“神秘体験”についての記述が多く書かれている。正直、私はそこにはついていけないとまではいかずとも、記述の論旨を理解することが困難だったし、どう受け取っていいのかよくわからなかった。特に後年のロスにとって大事な存在だった“守護霊”に関する記述は、あまりに個人的な事柄ゆえ、記その思いは強かった。自伝において個人的な神秘体験を詳細に記述することの「リスク」をロスは当然承知していたはずだ。精神医学の立場から見れば、それはもはや転向や逸脱であり、すでに科学的合理主義を踏み越えた神秘主義者と批判されてしまうだろう。
 しかしロス自身はその歩みを偶然ではなく必然であり必要なものであると確信している。死にゆく人々とかかわる中で、彼女の認識とアプローチは常に変化していく。ロスは自身が変化すること、医師として受けた職業教育や理論を越えていく(批判者からすれば逸脱していく)ことへの躊躇や恐れがない。
 キリスト教の職業的宗教者として、「死」を間近にした人と向き合うとき、「五段階説」を知識として学ぶことはできるとしても、徹底的に「相手」優位で、そのために逸脱を恐れない、という姿勢は、果して普通の人間に担保できるのだろうか。ともすれば職業的宗教者として、自身が教育を受けその中で生きてきた「ドグマ的神学」の範囲の中で、患者を理解し、接し、向き合おうとしてしまうことはないだろうか。しかし、こと「死」に援助者として向き合うとき、必要なのは、実は最も重要なのは、援助者自身が変化をすることを恐れずに全面的に奉仕するという姿勢なのではないか。ロスの生涯を貫いているのはその姿勢であり、もし学ぶことができるとしたら、その姿勢そのものにあるように思える。

② ロスの生涯を辿るとき、そこには精神医学、「死の5段階説」神秘主義とアプローチは変えながら、
そこには共同体的アプローチが常にあることが感じられる。例えば患者を主役として、医療者、宗教者と共に行なうワークショップ。エイズ患者と共に生活を行なうヒーリングセンター。
それは現代において死とは、病院の面会謝絶の部屋の中で一人で肉体的、心理的に孤立した中で迎える末期患者たちを多く見てきたロスの抗議であるように思える。
 またそこには、カウンセリングルームの中で、援助者と被援助者が1対1で向き合うという形式によって行なわれてきた(若き日にロス自身が大きな影響を受けたと語っている)精神分析的なアプローチへの限界も関係していたのかもしれない。
 そのような孤立した中での死を迎える風潮への抗議と、また次に述べる、「人間は死ぬ瞬間まで成長し続ける、何かの役に立つことができる」ということを追及した結果がこの共同体的なアプローチであるように思える。
 本来、キリスト教の教会、あるいは宗教施設(寺)などは、年齢を超えた人々が定期的に集い出生(幼少洗礼、名づけ)、から死まで全てをつかさどる場所であり共同体だった。その中で若い人間は老いや死に触れる場所でもあった。しかし教会の外と代わらず、今や死は病院にある。葬儀ぐらいしか行なわれない。
日本で上智大学が死生学、ブリーフケアの研究の先鞭をつけて依頼、近年は死生学、スピリチュアリティをテーマにした講座は時々見かけるようになった。しかし、多くの場合、そこに招かれるのは著名は精神科医、医師、宗教者達だ。偉い先生の講演が行なわれ、聴衆は熱心にそれに耳を傾け、ノートをとり、質問を行なう。でもそれだけだ。それ自体に意味がないとは言わない。そしてロスのような当事者を向かえ、その声を聴くというスタイルをすぐにできないのかもしれない。しかし、ロス自身が願ったのは、一般社会から見捨てられた「死に行く者」当事者自身の体験に意味があり、そこから私達は学ばされるものがありその機会をつくる、ということだった。そしてそのためには、参加者の親密で信頼できる関係性が必要であると考え、時を重ねるにつれコミュニティ、場をつくることに力を注ぐようになっていったのではないかと推測される。
 教会の共同体性をいかに取り戻すか。生と共に死をも共有できてこそ真の共同体性があるといえる。
それをどのように構築するか、すぐには答えは見つからないが、ロス自身の生涯は確かにそれを問いかけているように思えて成らない。

③ロスは本書において繰り返し「人は死の瞬間まで成長することができる」「全ては必然である」と協調している。
その原体験は、若き日にマイダネックを尋ねたときの疑問にあるように思える。
ロスは絶滅収容所の壁に、蝶がいくつも描かれているのを発見する。そして「なぜ蝶なの?」という疑問をもつ。ロスはそれから25年間、その問いを問い続けたと書いている。
終章近くになり、ロスはその意味を理解し、はっきりと書いている。
 「学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じ込めている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり・・・美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく・・・そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす」

 マイダネックに描かれた「蝶」は、過酷な肉体状況の中で死を前にし、肉体から解き放たれることへの希望と予感を直感した収容者たちによって描かれたものだったと、ロスは気付く。
 なぜロスにとって「さなぎ」「蝶」はそれほどまでに重要なイメージなのか。それは、蝶が生体として飛び立つとき、それが一つの完成であるということだろう。幼虫、さなぎ、閉じ込められた状態はそのための準備にすぎない。そしてもう一つは、完成した蝶が自由に、美しく飛ぶイメージ。そこへの憧れ、希望というものもこめられているに違いない。
 死が「蝶」として完成した状態ならば、そこに何を恐れることがあろうか?そうロスは言いたかったのかもしれない。

 死を間近にした人への対人援助において、決定的に重要なのは、患者自身にいかに自己有用感を抱かせるか、にあるように思える。個人的な体験だが、昨年夏ある病院で臨床実習を一週間受ける中で、ホスピスの患者さんと連日対面した。4日間の最後、私とその人はとても充足し何かを成し遂げたような気持ちで分かれることができた。(と私は思っている。その人にとってもそうであったと願っている)
 もし、その面接がうまくいったとすれば、それは私自身がとにかく必死だったからだと思う。知識や神学や教義は伝わらなくても、必死さだけは人に伝わる。なんだかよくわからないキリスト教を勉強している若い学生が、毎日ここに来ている。牧師になるらしい。(違うと何度もいったのだが)。だとしたら自分が話をすること、経験を伝えること、こうして合うことも、「キリスト教教育」とやらの何かの役に立つかもしれない。このようわからない若者のこれからの人生に、何か意味をもつかもしれない。
 おそらくその人は、そうして連日接してくれていたのだと思う。もはや、死を待つだけの自分という存在が、ただ私がいるだけで「若者に何かを学ばせる教師」となったのだ。
 今思い出すとその4日間、なにか具体的な知識や経験を教えられた覚えはまったくない。しかしそれは確かに教育だったと思う。そして、それがわずか4日とはいえ、私とその人の間で成し遂げられたからこそ、私達は最後、とても満ち足りた気持ちで分かれることができたのだと、今でも思う。

 繰り返すが、人が自らの生きる意味を感じるのは、「自己有用感」である。自分はまだ何かの役に立つ。誰かに何かを与えられる。誰かの役に立つ。それが人に最後のモチベーションを与える。
 ならば、いかにして、そのような場をつくるか、しかけるか、設定するかの設営が対人援助者にとっての課題となるだろう。
 振り返るとき、ロスの生涯はそのような「しかけ」「場」「設定」をいかに社会に理解させ認知させるかのために戦った人生のようにも思える。そしてそれを成し遂げるためには①でのべた全面的な奉仕、と②共同体性、信頼がベースとなるのだろう。

(5)ロスの最期とまとめ
 本書では記述されていないが、この後ロスは病状が悪化する中で、さらに著作を続けている。そして死期にある自身の様子を録画し公開したという。そこでは、看護師と戦い、死とも戦い続け、死に脅える様子があからさまに現れており、多くの人に衝撃を与えたという。(私自身はそれを未見であるが)
 死の五段階説を提唱し、現代医学において誰よりも多く死を看取ってきたロスの最期がそうであることがショックだったのかもしれない。
 しかし、私はそれこそが「死」の当人にとっての独自性・一回性を表しているように思えて成らない。自身の死を体験するとき、ロスは初めて援助者ではなく、自ら死に行く者となることができたのだ。
ロス自身が、死に行く者に対するとき、そこには全面的な奉仕という姿勢が貫かれている。つまり、死に行く者には無条件で、そうするべき意味があるという確信である。
 だとすると、自身が死を迎えたとき、ロスは自分が無条件で尊重されるべき意味があると、改めて確信したに違いない。しかし、ロスのように死に行く者に全面的な奉仕をできる人物はめったに存在しない。それがロスの死をそのように、ショッキングなものに見せたのかもしれない。
 ともあれ、繰り返すがロスは、生涯闘い、変化を恐れない人物だった。その死においてすら、それは貫かれており、それがロス自身の完成だったのかもしれない。