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「静かなる細き声」  ~山本七平の信仰~

 

山本七平の思想と著書はいまだに古びてはいない、ように思われる。さすがに彼のユダヤ人論は、このボーダーレスの時代には古臭い気がしないでもないが、「日本人は空気と安全はただ、だと思っている」彼の言葉が崩壊したのが、まさに2011年だったのだといえる。そして、「空気の研究」は戦争や官僚、今回の震災でも何度も引用されている。その議論については、何度も様々な人が様々なところで論じているので、立ち入ることは省略する。しかし、この本は多分、日本がある限り引用され続けると思う。

ところで私は個人的に、彼の言論よりも、なぜ彼があの時代に、あそこまで突き放した目で日本の社会を見て、時代を超えて説得力を持つ日本人論を構築することができたのかに興味を持っている。

その原点は、彼が「生まれながらのキリスト教徒」にあるように思えてならない。そして、その原点がこの本に書かれている。

本書は、最晩年「信徒の友」に連載されたエッセイをまとめたもの。あの冷たいまでに冷静な山本のほかの本とは違い、彼が自身の生い立ちや信仰について、とても静かで美しい文章が綴られている。。

 

山本は、両親はキリスト教、生まれながらのクリスチャンだった。子供のころ、新聞を読むなら聖書を読めという家庭で育ち、雑誌やラジオも聞いたことがない。まあ、当時でも、超浮世離れした青年は、そんな環境の中、穏やかで幸せな少年時代をすごす。しかし、太平洋戦争が始まり、彼は、青山学院の学生時代、学徒動員で、いきなり軍隊に放り込まれることになる。

山本は、入営の少し前、軍隊経験のある恩師の下に挨拶にいったとき、こんな言葉を送られたという。

軍隊にいくと、いわゆるインテリというものが、いかに少数・例外者かが、本当によくわかります。山本君のような家庭に育った人は、統計や理屈ではそれがわかっても、それがどういうことなのか、本当はよくわかっていないものです。まして、そのインテリの中のクリスチャンが、どれほどの少数者・例外者かを身をもって実感できるのが軍隊です。これは得がたい経験ですから、その実態をできる限り正確にみていらっしゃい」

そして、それは山本にとって、想像を絶する経験だった。それは会話すら成立しない世界、コミュニケーションの隔絶した世界だった、と彼は書いている。

「しばしば不思議がられることだが、私にはいわゆる「戦友」はいない。(中略)同じ釜の飯を食おうと、「生死を共に」しようと、周囲の人はす べて別世界の住人だった。(中略)部下や周囲の人にできる限りの親切はしたかもしれない。人の命を助けこともあったのかもしれない。しかし、誰に対して も、完全に心を許したことはなかった。どこかで絶えず、何かを用心し、相手との間に、常に一線を画していた」

ちなみに、山本は平穏な軍隊生活をすごしたわけではない。稲垣武著(元読売新聞記者)の「怒りをおさえし者 「評伝 山本七平」」によると、彼は、フィリピンレイテの激戦地に送り込まれ、部隊が全滅し、ただ数人生き残るという文字通り屍大河を成す激戦地を生き延びる経験をしている。いわば太平洋戦争中におけるもっとも過酷な戦場を生き延びている。

多くの元兵士が、それこそ90代になっても、戦友会の集まりで、「戦友」としてのアイデンティティーに強い誇りと記憶を

持っている中で、この山本の感覚は、非常に興味深い。

戦中を生き延びた山本は、復員し、戦後は、キリスト教関係の出版業に関わりながら、”沈黙の20年”と自ら語る時代をすごす。そこで、彼が興味を持ったのは、なぜ日本が「現人神」という思想によって染め上げられたかということだった。

そこで、彼は徳川時代尊王思想家の、石田梅岩、鈴木正三などの研究に、ただ一人没頭していった。

敗戦で、時代はアメリカ民主主義礼賛の時代に、そんな本を読んでいるのは頭がおかしいのか、右翼なのかと、人に首を傾げられた、と山本は書いている。

そして次のように続けている。

「これは私にとっては、別に新規なことではなかった。戦争中に聖書学の本を読んでいれば、みな少将頭 がおかしいと思われrのが普通だったからである。それはいつしか私に、黙って、自分に関心のあることだけに関心を持つという習性をつけてくれた。世の中の ことはどうでもよい。世間にどんな思想が流行していようと、それは関係がない。私が関心を持っていることに、世の中もともに関心を持ってほしいとも思わな い。まして私がやっていることを認めてくれとか、評価してくれとかいった気持ちはまったくない。(中略)すべては用いられる時が来れば用いられるのだろ う。人は黙ってその準備をしていればよいのであろう。」

20年の時を経て、山本は「日本人とユダヤ人」で世に出る。そして、以来論壇のスターとなった。しかし、日本を恐ろしく突き放して、その視点から見えてくるものを論じる彼の原点は、すべてここに現れているように私は思える。それが、本書のタイトルである「静かなる細き声」なのだろう。

なお、本書には、山本の子息、良樹氏のあとがきがおさめられている。

 十代の終わり頃、父に尋ねた事がある。

「父上、戦場に『神』はいたかい」

「いた」とのみ、父は答えた。

日本にとってキリスト教徒は1%未満。実際にはおそらく0.3、4%なのだろう。

少数者であり、キリスト教徒として生きることは、社会的に何のメリットも(一方で今はデメリットもない)その日本において、キリスト教徒として生きることは何がしかの自覚なり、ものの見方、生き方を問われるということだ、と佐藤優氏は語っているし、私も同意する。

おそらく、そのような自覚が、時に時代を経て、山本氏や佐藤氏のような存在を生み出しているように私には思える。

どうも、日本で「個」としてものを考えるというのは、それぐらい困難で、マレなことなのではないだろうか?

この本は、山本七平を語る人も、キリスト教を信じる人にもそれほど読まれてはいない気がして、それが少々残念なので、もう少し内容を紹介してみたい。